【シェオブ】終わる日、終わらない日

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 甘い甘い、煮詰めたジャムより甘い毒を吐いたことがある。
 それはヒート・オブライエンを地べたへ這いつくばらせ、雁字搦めにした両手へ鎖をかけ何周もさせるような、それでいてその鎖はいつでもヒートが外そうと思えば外せるくらいの軟い拘束力のある言葉だった。
 つまりは、彼は逃げ出そうとすれば逃げ出せるのだ。僕の吐き出す、甘い毒にまみれたチョコレートやコンフィズリーなどと一緒に、鎖を廃棄してしまえばいい。どんどん僕の口からは甘い菓子が出てくる。それはどれも一口含んだら致死量に至るようなものであり、そして見目はいい。
 ──だから早く、こんな僕と離れてしまえばいいのに。
 しかし、ヒートはそうしない。
 あくまでもサーフ・シェフィールドの側にいようとする姿は忠犬であり、番犬であり、猟犬でもあった。そんな彼が氷を溶かして初めて接した人間が僕だったのだろう。
 アイスマンの異名を取る彼を、手懐けるのに時間はかからなかった。アイスならば、溶かしてしまえばいい。どろどろと氷解してゆく最後に待っていたのは、純粋無垢な中身であり、その表面はいくらか和らいだ顔をしていた。
 氷に埋まった金属片は、触れば皮膚を切り裂きかねなかったが、僕は敢えてそれを手にした。
 その金属片により、床に落ちたであろう血液の赤いヴィジョンが脳内に浮かんでは消えて点滅する。いや、チカチカと明滅しているのだ。明滅は緊急を表すLEDランプのようにせわしなく瞬いていた。
 僕はそのLEDランプの明滅により、トリップする。
 違う。
 僕がトリップしているのは、ヒート・オブライエンという存在の脆さと甘さだ。彼はいけない。何がいけないのか分からないが、とっくに消えていたであろう本能の残滓が告げる。
 ──あいつは駄目だ、あいつに関わるなと脳髄の奥底が告げている。
 ハッ、笑わせる。本能だって? そんなもの、とっくに僕の中から抜け落ちている。三大欲求のうち、最低限の食欲と睡眠欲さえ満たされていればいいのだ。性欲などは機械的な処理で済む。スピーディーにオートマティックに五指を使い、それらを吐き出せば済むことだ。
(だがしかし、僕はいつしか射精する瞬間、ヒートの顔を脳裏に浮かべるようになっていた)
 ヒート・オブライエンが女と付き合っているときに出会ったことはない。否、女と付き合ったこともないのかも知れないと思うと、僕の内面は昂ぶり、その仮説にぞくぞくと身を震わせた。
 僕にとって、女は暇つぶしでしかなかったし、特に実際のセックスをしたら何だということもなかった。
 探究心めいたものは満たされたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。何人かと寝たが、別段面白みもなく興奮というものに餓えながらセックスをしていた。僕が求めているのはこんな安っぽい女たちとの安いセックスではないと気づいてしまったときは、来客があると言って女を追いやったこともある。
 来客なんてなかった。
 誰も来ない。
 ただ、誰にも会いたくなくなった。
 それはバスタブの栓を抜いた後の水面に出来る渦のようでいて、ぐるぐると回っては周りを引き込み、そして排水溝へ潮が引くように何もかも吸い込まれていく現象にどこか似ていた。そうだ、『オズの魔法使い』に出てくる竜巻に酷似しているといったら想像しやすいかもしれない。無遠慮に、何もかもを巻き上げて吸い込んで跡形もなく消し去ってしまう竜巻の渦。その渦に巻き込まれた僕は回る思考のなかで、一人の青年をターゲットに決めた。ターゲットという呼び名では、ない。
「生贄だ、ヒート。君は、僕と言う名の神の生贄なんだ」
 素晴らしいと思った。
 神の存在を軽視する僕と、神を信仰していた過去がありながら憎んだ君がこの世界にいると言うこと、まったくもって素晴らしい。パーフェクトじゃないか。
 それはしとしとと雨の降っている日で、この世に“サーフ・シェフィールド”という一人の神が生まれようとしており、そしてその神の下に一人の生贄が捧げられることに決まった三百六十五日のなかの平凡な一日であった。そう、平凡な一日が引鉄となり、すべての世界は狂ってゆくのだ。人間は、いつだって“平凡な一日”なんていうものを過ごしたことがないのを、ほとんどの人が気づかない。

 
 僕はリアルファーのロングコートを着て、ヒートのアパートメントへ向かった。別段寒くない、ただ、少し風が吹いているだけ。逆にわずかばかりの暑さに額へうっすらと汗を浮かべながら、これからのことを考えて僕はほくそ笑む。
 いつもの少し錆びたヒートのアパートメントのドアを目の前にし、インターフォンを鳴らす。バタバタと音がすると、昨日会った時と幾分も変わらないヒートの顔が目の前にあらわれる。
「サーフ、どうしたんだよ」
「──うん、ちょっと面白いことを思いついてね」
「面白いことって、また碌でもないことなんだろ、」
「まあ、それは君の協力次第かな」
 後ろ手にドアノブとロックを閉めながら言い、僕は完全に外の世界から孤立したこの空間に歓喜する。
 逃げないで、逃げないで。
 ヒート、お願いだから君だけは逃げないで。
 カルマから僕らは逃れられないのだけれども、それでも僕を見捨てないで。君が僕を見捨てるときは──死ぬときだ。
 そんなことを考えているとは露知らず、ヒートは暢気にコーヒーを淹れている。ぽたぽたと落ちるコーヒーメーカーの音が、室内に響く。響くということは、僕らのあいだに会話がないということだ。僕らはソファに座り、対峙するかのように掛けていた。
 僕とヒートは表裏一体といってもいいくらい、依存に近い関係性を持っていた。
 過去も未来もない。ただ在るのは現在という時間の流れ。
 そして僕と彼のあいだにあるのは、爛熟しきった関係性。爛れきった、醜悪な、そんな感情や情念が僕らにはある。それは目を逸らしても無駄なほど、はっきりと、存在しているのだ。
「サーフ、暑いだろそれ。貸せよ、ハンガーに掛けるから」
「ああ、いいんだこれで」
 僕はリアルファーのコートに埋もれる。
 リアルファーの、柔らかな毛の感触が肌を伝って、やさしい気分にさせる。いつだったろう、この毛皮の感触をしった年頃というのは。そしていつだったろう、この感触に触れると穏やかな気分になれることに気づいたのは。
 ヒートの淹れたコーヒーが、カタン、と音を立てて目の前のテーブルに置かれた。湯気を立てており、室内の空気がひんやりとしているのを体現している。
 少し冷まして啜ると、砂糖もミルクも入れない純粋なコーヒーの味がした。苦いこれが僕らに似ているような気がするのは気のせいだろうか。一気に脳内に伝達されたカフェインの作用か何か知らないが、僕は高揚して、一気に喋った。
「ヒート、地獄というものはあると思うかい? そして、そこまで僕についてくる覚悟は出来ているのか聞かせてくれないか」
「なに言ってんだよ、いきなり」
 同じくコーヒーカップを置いたヒートが、訝しげに眉根を寄せて言った。夕暮れとも言えない、穏やかな冬の日差しがやさしかった。それはもう、泣き出したくなるくらいやさしかったのだ。
 コーヒーの馨りと、ヒートから漂う日光のやわらかな匂いが混ざり合って、攪拌されて、そして遠心分離機にかけるようにしてまた分離する。それらはひとつでいて、そしてふたつなのだ。僕とヒートもまた然り、ひとつでいてふたつ、ふたつでいてひとつなのだと思い知る。
「いいから、聞かせてくれ。答えようによっては──君を殺す」
「物騒な話だな。ついていくに決まってるだろ、」
 僕は安堵した。
 いや、安堵したと言うには少々おかしいのかも知れない――僕はヒートがそう言うであろうことを分かっていて聞いたのだ、そして、答えはその通りだった。
 僕らは世界を創り、世界を壊す存在になるだろう。
 その片棒を担うのがヒートだと、僕は確信していた。確信していたからこそ聞いたのか、それとも不安感から聞いたのかは分からない。ただ、その問いは必要だったのだ。
「何だよ、馬鹿馬鹿しい、」
 君はそう言ったね。だけど、この痴愚めいたやり取りは必要な儀式のひとつであり、必要不可欠なことだったんだ。
「じゃあ、もっと馬鹿になれることに興味はないかい」
「――無い」
 暗喩していることを悟ったのか、そんなことを言って固まるヒートの手に、僕は手を重ねて「嘘吐き」と囁く。
「離せよ、」
「厭だね」
 そのまま、ヒートの方を向いて斜め上へ口唇を寄せる。
 口唇を寄せた意味に気づいてか、ヒートが急に立ち上がって顔を背ける。そうだ。君はそれでいい。気高い犬のままでいればいいのだ、僕の傍にいながらもいつか裏切るであろう君が、いとおしくてたまらない。
 立ち上がってくれたので手間が省けたと言わんばかりに、ヒートをベッドに押し倒した。
 僕の体格から言うと、押し倒したというよりは縺れ込んだと言ったほうが正しいのかもしれないが。ともかくヒートは僕の下敷きになり、ヒートの上へ馬乗りになった。上位に立ったと言うことは、日常では変わりないが、身体的に上位に立つことは少ない。むしろ、今まで無かったのかもしれない。僕は沸き立つ興奮と共に、ヒートを見遣るとひどく顔を顰めている君が目に入った。
「何でそんな顔をするんだい、押し倒されることなんて今までにもあったじゃないか」
 でも、未遂に終わったけどね、と付け加えると彼は顰めた顔を更にゆがめて僕を見た。
 まるで下衆なものでも見るような、そんな顔をして僕を見る。ああ、君はその顔がいいね。その顔をずっと見ていたくて、僕は君の前でだけ、世界中の穢れを集めたもののような存在になる。きっと、僕を穢れの一部として見ているのと共に、畏怖しているのだろう――なあ、ヒート、そうなんだろう?
 さすがに室内は暑く、リアルファーのコートを脱ぐ。
 狐を寄せ集めたコートが脱ぎ捨てられ、ヒートにばさりと被せられる。
 乱雑にボタンを外し、シャツを脱いだ。
 シャツを脱ぐ際、タイを外す衣擦れの音が部屋に響いた。彼が怪訝な顔をして、毛皮のコートの下で僕を見ているのが分かる。それでも押しのけて逃げないのが調教の結果だ。彼と僕は、調教師と犬といった関係でもって結ばれている。まあ、犬とはいっても固い意志の持ち主だから、簡単には伏せられないのだけれど、そこが面白い。いとも簡単に陥落する犬など、面白みがない。だからこそ僕は気高く意思の強いヒートに固執する。
「ヒート、君、女と付き合ったことがないだろ」
 喉の奥で笑うのが自分でも分かった。
 上半身裸になり、毛皮のコートを羽織りなおしてヒートを押さえつける。皮膚に吸い付くように、毛皮がしっくりと馴染む。ざわり、とする感触が全身を駆け巡る。そうだと言え、そうだと言ってくれ、ヒート。君は僕のもので、僕は君のものじゃなくて、そしてすべてが僕の思いのままになるような、そんな関係だと君の口から発して欲しいんだ。
 かすかに身じろぎしたヒートが横を向いて言う。
「勉強漬けで、それどころじゃない」やはり君は女なんかと付き合ったこともセックスしたこともなかったと言うんだ。そして、僕のような人間を信用しては人間の汚さと崇高さに絶望してゆくんだね。
「君はそれで正しいんだよ、女なんか下らない存在だ。愛だ恋だと騒いでは、喚き倒す存在でしかない。僕がいる、それでいいじゃないか」
「お前がいるって、お前は女じゃないだろ」
 組み敷かれたまま、ヒートが至極まともなことを言う。そうだ、この胸には乳房もなにもない、ただ平坦な胸があるだけだ。それを確かめさせるため、彼の手を掴んで胸へ当てさせる。生温かい、生きているものの感触が体温とともにつたってくる。リアルファーのコートと、ヒートの手のひらの温かみ、それらが僕の胸に当てられ、そして僕は何とも言えない感覚に陥ってゆく。
 しっとりとした手のひらが、おずおずと僕の胸に当てられる。先ほど、シャツを脱いだので僕の上半身は裸にコートを羽織っただけで、薄っぺらい胸がのぞいている。ヒートの胸に比べたら、それはそれは薄いものだ。「離せって、」と声がした。が、それは嫌がっている声なのに、僕には欲情をそそる声でしかなかった。
 ──嫌がる。拒否する。拒絶する。
 それらは僕にとって、強力な興奮剤のようなものだ。
「ヒート、女の代わりに僕の胸を触っている感想は?」
「何の冗談だ、離せと言ってるのが聞こえないのかサーフ」 
「冗談? 離したら君は逃げるだろ?」
「逃げない、」
 これは計算外だった。ヒートは僕から逃げるものだと思い込んでいたので、思わず半笑いを浮かべながら「何だって、」と聞き返していた。
「だから、お前から逃げたら……一人になるだろ、だから何があっても俺は逃げない」
「ハッ、ふざけるのもいい加減にしてくれないか。僕が? 一人になる? 有り得ないことを言ってくれる、」
 ヒートは泣きそうになりながら、押し倒されたままの姿勢で僕に手を伸ばし、何度も慈しむように髪を梳いてきた。止めてくれ、と叫びそうになる。君のボランティア先の子供じゃあるまいし、僕は何もかもを与えられて育ってきたんだ。今更そんな顔をしてもらいたくて、君に関わった訳じゃない。
 叫びだす代わりに、気付けば喰いつくようにキスをしていた。
 少し汗の浮いた皮膚、リアルファー、かさついた口唇とぬめる舌、僅かばかりの抵抗、それらが全て混ぜられ僕は何もかもを許される。
 切ったばかりの肉の塊みたいな、そんな感触と色を持つ舌が絡まり合い、そして快感を運ぶ。いつだってこんな行為は誰が相手でも躊躇ったことなどないのに、ヒートだと思うだけで肌が粟立ってゆくのが分かる。わざとぐちゃぐちゃと音を立てて口腔内を荒らすと、ヒートが涙目になった目を瞑った。涙が睫毛の先に付着して、それが小刻みに震えているのが印象的だった。それを見て、ああ、この男は本当に人と触れ合うことに慣れていないのだと実感する。
「――サーフ、お前は一人じゃなくなったんだ、少なくとも俺の親友はサーフ・シェフィールドしかいないっていい加減に気付けよ」
 身体の下から、呆れ返るような声がした。口唇を離して見ると、完璧な二つの球体がこちらを見つめていた。
「嘘吐き、」
 そう言うと、深いため息とともに子供をあやすかのように心地の良いリズムで背中を叩かれた。一定のテンポで訪れるそれは、穏やかな漣のようだった。
 ヒートの胸元に寝そべり、体温を介して僕は許されたことを知る。
 ――何もかもを許された。それは屈辱だと最初こそ感じたが、やがて全てを包括するようなやわらかな感覚に変わってゆき、最終的にはヒートの慈愛というものに覆いつくされた。ああ、この感情が疎ましい。こんなものがなければいいのに、なければ僕はもっと高みを目指せる。
「俺が今更嘘なんて吐くか?」
 やんわりと、沈み込むような低い声音でヒートが言う。クッションに顔を押し付けらて窒息するのにとても似た、そんな感覚。きっとヒートは嘘なんて言わないだろう、だがしかし僕はいつまで経っても疑うことを止めない。
 悲しいまでに、僕らは平行線を辿る。
「地獄の底までついてくる覚悟があるのに、何でこのくらいを拒むのか、もう僕には訳が分からないんだ」
 若干の計算で、子供がぐずるような、そんな言い方でヒートに縋る振りをする。
 ヒートは困ったと言ったような表情をしたまま固まってしまいった。許されなくても良かったのに、僕は受け入れられてしまった。やさしいヒート、愚かなヒート、君が好きだと言えれば簡単なのだろうけど――生憎、僕が君に向けるのは、そんな感情じゃないのだろう。
 そう、僕にはもう訳が分からない。
 君に近づき始めた頃、持っていた感情とか、出会ったときに感じた高鳴りとか、もう全部思考の渦に巻き込まれて汚らしい色をしている。
「大丈夫だ、サーフ、大丈夫だから」
 混乱する僕に向かって、君はそう言うんだ。
 ヒートの胸に寝そべったまま固まっている僕を溶かすように、穏やかで落ち着いた声音で、背中を撫でながら大丈夫だからと繰り返す。何の解決にもならないくせに、無責任に言うのは止めてくれとヒステリックに喚いたならば何か変わっただろうか、それとも何も変わらないことが定められていたのだろうか。僕にはいつまで経っても、答えを見つけられないでいる。
 リアルファーのコートが肌に寄せる感触と、背中を撫でるヒートの手のひらの感触が、やたら鮮明に脳髄へと刻み込まれた。
 少し厚い手のひら、ファーコート、冬の西日、そして君の上に蹲る僕。それらは君という母体の中から、今まさに生まれ落ちようとしている姿にも見えたかも知れない。
 僕は何度も死に、生き返り、そして君に会うのだろう。そんな予感を感じさせた冬の一日が、終わりに向かって傾く――。

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