【シェオブ】硝子の船

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

「冬の海に行きたい、」と君が言ったので、僕ら二人はバスを乗り継いで海岸沿いまで来ることになった。正直、さほど気乗りがしなかったのだが、彼が余りにも翳りを見せながら言ったので思わず頷いてしまった。
 砂浜に足を踏み入れると、靴底に砂の感触がするのが分かった。砂浜というものは、どことなく頼りないくせに密集していると人をも殺しかねないほどの永遠かと思わせる広さを持つ。
 オフシーズンだからか、僕らの他には子供連れの親子が一組しかいなかったが、それもやがて遠くに見える水族館の方へ消えていった。ぽつん、と人間の気配がなくなり僕らはそこへ置き去りにされる。
 しゃりしゃりと、足を進める度に足音がしている。
 たまに薄くなった桜貝が靴の下で割れ、パキッと軽い音を立てた。
 しかし、僕らはかれこれ一時間近くもただひたすらにふらふらと砂浜歩いているだけで、ほとんど会話もなく寄り添い歩くことが目的でしかないようにしている。君はこんなことをする為だけに、冬の海へ行きたいと言ったのかと内心厭味のひとつも言いだしたくなってきた。
 そう思いながら彼の顔を覗き込むと、海風に吹かれて頬と鼻の先が少しだけ赤くなっている。まるで子供みたいな肌だな、と思った。表情は出会った当初の彼みたいに、虚無を抱えた顔をしている。その虚無は、彼の妹と言う元素で構成されているに違いない。
「ヒート、君寒くないの」
「寒い、」
「分かってるならそれ相応の格好を――」
「ああ……悪い」
 短いセンテンスでテンポ悪く返って来た言葉のなかに、何か違和感を覚える。――彼はいま、ここにいてここにいないのではないか、そんな疑惑が胸の中に湧く。
 違和感、それは普段感じないものだ。だって彼は常に素の自分を見せるようになったし、そうなるように僕が仕立てたのだから。
 まるでそのまま入水でもするのではないかと言うくらい思いつめた顔をして、ふと彼が立ち止まった。それは水族館の裏手が見える位置で、丁度出口のゲートから子供たちがはしゃぎ飛び出してきたところだった。こんな時、彼は妹のことを考えずにはいられなく、そしてその自分に苦しんでは過去を後悔しつつ懊悩するのだろう。
 愚かなんだよ、君は――と言われれば、少しは目が覚めるのかもしれない。だが、誰もそんなことを言う資格がないのを僕は知っている。だがしかし、踏みこまれたくはない領域にこそ、ガラス片を突き刺して血を流させたいと思ってしまうのは駄目なのだろうか。
 僕は、彼を、傷つけてしまいたい。
 彼が彼で居続けられる為に、妹というパーツと過去は確かに必要不可欠なものなのだろう。だからこそそれを凶器として使い、君を傷つけたいんだ、ヒート。
 今の彼は、妹のことを口に出す度に粉々に砕いたガラスを飲み込んだ咽喉で喋るかのよう、発する言葉ひとつひとつに血が滲んでいる。僕の役目は、その咽喉からピンセットでそれを取り除くような、そんな仕事だった。
「そうそう、帰ったら部屋に遊びに来ないかい。丁度いい茶葉をもらったところで」
 そこまで話した瞬間、汽笛が海上からここまで届いた。それを受けて、彼方遠くにある灯台がライトを照らす。
 ただそれだけなはずなのに、彼はいきなり青褪めてカタカタと震え立ち止まった。そんな彼を落ち着かせようと、正面から腰に手を回して抱きつく。彼が人肌で落ち着くことを僕は知っている、だって僕らは何度も何度もこうして来たじゃないか。
 俯いているので、長い金髪の前髪が表情を隠してしまう。それを片手で払い除けて、僕は彼の目を直視した。それは怯えが混じっているものだった。
 どうかしたの、とわざと甘えるような声で聞く。彼が僕のこの声音に弱いことを知りながら、だけれどもそれを自分自身が知らないとでも言いたげな声で、そう聞いてやるのだ。
「――妹と、約束、を、したんだ」
 震えながら途切れ途切れに言う彼に、更に密着して「大丈夫だよ、」と囁いて口付ける。襟元を少し引き、僕は上を向いてその口唇がうまい角度でやわらかくぶつかるようにした。僕らのキスは、いつだってぎこちない彼がいて成り立つ。今まで形ばかり付き合って来た女も男も、こんなに長いこと一緒にいるとぎこちなさなんていうものは消えて惰性ばかりが残った。だが、彼は違う。いつまでも戸惑い、躊躇って、後悔し続けながら生きている味の口付けだ。
「約束?」
「元気になりたいと、他の子供達に混じって遊べるくらい元気になりたいと、妹は常々微笑みながら言っていたんだ。だから俺は、元気になったら船に乗せてやるって……広いどこまでも繋がっている海に浮かぶ大きな船に乗せてやる、って……そう話したことがあった」
 ぽつぽつと話す彼の話を要約すると、船旅をする絵本を親に買ってもらったらしく、妹は何度か船に乗りたいとねだったことがあったらしい。彼はそれを思い出し、汽笛の音に後悔という名の怯えを体感したようだった。
「普段はそんなに口数の多くない妹が、その絵本のことになると楽しそうに笑ってた」
 その日の僕には上手く言葉が継げず、だけれども彼は次の言葉や会話を欲している感じはしなかったので僕らは何かに惨敗したかのような気分で砂浜を後にした。そう、惨敗だった。
 彼のトラウマ(と言っても差し支えない過去)は根深く、そして鮮烈に灼きついているようだった。
 彼のすべてを、僕のものにしてしまわないといけないのに――彼の妹という過去は、はっきり言って邪魔な存在だった。

「セラ、今日も上手く太陽とお話し出来たね」
 僕が笑顔を浮かべると、少女が苦しみながらもストレッチャーの上で笑みを返す。
「……先生、今日は頑張ったの」
「分かってるよ、約束は覚えてるから大丈夫」
「本当? セラ、もっとお話しして……サーフ先生とお船に乗るの」
「乗せてあげるから、また頑張れるね」

 学生時代に馬鹿な思いやりからの遣り取りをしたなと思い出しながら、僕はEGGの自室に彼を呼びつけて話していた。
「何故お前は平気で、あの子にそんな無理をさせるんだ!」
「ただの実験動物に過ぎないから、とでも正直に言えば満足かな。僕はヒートにもう一度チャンスをやろうとしてるんだ、ほら、あの子は船に乗りたがっている少女だ。君も協力的になって、あの子の願いを叶える為に太陽と対話時間を延ばしてやりたいと思わないかい? 妹のときをやり直せる、またとない機会だ」
 聞きたくない、とでも言わんばかりに彼は苦い顔をした。そうだ、僕を殴れよヒート。僕はそうやって君の心の中に根を生やし、心臓を締め上げ、視界を覆い尽くして僕以外を感知させなくしてやりたいと思っているんだ。
 僕は君に対しての神になってやりたい、信心深かったであろう少年の頃のヒートがキリストにかしずいていたかのように、神になる。絶対的な存在になるんだ。――例え、これが僕の自己愛的な部分であろうとも、僕自身はその部位を愛してやまない。君を傷つけても許される立場にはなった、だから、次のステップとして僕は君に崇められる存在になるべきなんだ。
 あの海岸でのことを思い出し、僕は靴底で割れた桜貝に思いを馳せながら、白衣と言うものを穢すようにしてその夜は彼を犯した。どんな方法でもいい、僕しか見れなくなればいい。君の水晶体に映るのは、僕だけで十分なんだ。そう思いながらぬめる舌を絡ませ、何度も何度も僕らは身体を重ねる――いや、正確には身体だけ、を。
 呻くような低い喘ぎ声と吐かれる呼吸を聞きながら、僕は彼に依存されることを夢見る。僕無しでは生きていられないほどの、そんな執着を持つ彼を夢見るんだ。

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