【シェオブ】インプリンティングの行方

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

「ヒート、僕の左手の中でどの指が好き?」
何でもない昼下がり、寮の僕の部屋へヒートを招き入れて紅茶を淹れながらさり気無く聞く。
彼は少しいぶかしんでテーブルの上へ組んでいた手を広げて、自分の手をまじまじと見ながら答えに詰まっているようだった。開いては閉じて、開いては閉じて。端正な骨格を持った彼は、己の両手を見ている。
「指? 別に、どれでも……。」
「相変わらず愚かだなぁ、君は。そんなことをしてるとすぐ死ぬぜ、この世界では。さあ、好きな指を答えるだけでいいんだ。そのくらい、子どもにだって出来るだろう。答えてくれないか。」
彼の逡巡と戸惑いを笑い飛ばしながら、僕は言葉を発する。それに反応して、彼はふたたび己の両手を見つめはじめ、そして紅茶を淹れ終わった僕の指を見た。それは純粋な問いかけの眼。彼はたまに世の中を知らない子ども染みた目をする、いや、現に今もしている。その目で見られることを、僕は厭う。何故か分からないが不可解な不愉快さが恐ろしいほどの圧力をかけて僕を押し潰そうとする。それに抗うようにして、ぐっと見遣るとヒートが前を向いて口を開いた。
「――お前の指で綺麗なのは全部じゃねえか。その……なんだ、桜貝みたいなの。大体、そのうちのどれかを選べなんて言われても困んだよ。」
「あぁ、もうじれったいな。いい、僕が決める。“小指”でいいかい?」
「待て、何の話だよ、それ。いつもお前が勝手に話進めて訳分かんねぇよ。」
うんざりするようにして、紅茶を一気に飲み干した彼が言う。
勿体無い、せっかく僕が丁寧に淹れた紅茶なのにゆっくり味合わないなんて。君と僕のあいだにある見えない溝が、紅茶で満たされる。
それにしても、桜貝だって? この僕の爪の色が桜貝、笑わせるね。そんな少女趣味な喩えをするだなんて、君の頭の中を覗いてみたい。きっと、そこには淡い薄桃色をした、触れば罅割れて砕け散る桜貝が敷き詰められているのだろう。僕は敢えて、それを踏みしめるよ。そして、ありとあらゆるところを踏み砕いた挙句、笑ってやるのさ。
「今月が誕生日だろ、君の誕生日。いつも餓えた犬みたいに僕の指を見てるから、あげようと思って聞いただけだよ。指一本、ホルマリン漬けにして、綺麗に仕立ててプレゼントにしてあげるだけさ。」
「なっ、んだよそれ。悪趣味過ぎるにも程があんだろ、お前。」
そうかな、と疑問に思った。別に悪趣味でも何でもないことだ。
あげたいから、あげる。差し出されたものは、表面的な笑みを浮かべながらも受け取るべきだ。それが、重く苦い悪意を含んだものであれ、淡く散りそうな恋情を含んだものであれ受け取れ。
僕は自分の席を引いて座り、顔を引き攣らせている彼の前へ手を差し伸べた。この小指を受け取ればいい、切断してまだ切り口も生々しい肉と骨と血液を受け取ればいいじゃないか。
「悪趣味だって? 昔々の日本の話をしよう。花魁――分かるだろ、高級娼婦だ。それらが本当に慕った男へ捧げたのが“小指”だと言うんだよ。面白い発想だと思わないかい、小指を失くしたら否が応でも力が入らなくなる。中国の纏足と似たようなものなんじゃないかな、逃げないように愛を誓うためのもの。だから、僕の小指を君へ捧げよう。受け取るんだ、そしてハッピィバースディ、ヒート。」
「要らねぇって、そんなの。第一、」
「第一、なんだい?」
僕はたまに、君の発する言葉が分からなくなるんだ。喩えばこういったとき。僕が差し出しているものを、拒否して性善説を肯定して体現しようとするようなとき、そして僕は偽悪的にそれを蔑む。だって、君が欲しているものはもっとドロドロしていて汚らしいものだろう。そうだろ、そうだと言えばいい。それこそ、自分の穢れを認めて項垂れるべきだ。
ヒートが彷徨わせていた視線をこちらへ向け、怖ず怖ずと言った。
「オレが欲しいのはそんな即物的なものじゃなくて――」
「即物的じゃないなら、なんだというんだい。万物は即物的じゃないか。僕は精神的な繋がりのみのプラトニックな関係なんて信じていない。だからあげるよ、僕からのプレゼントをやるよ。」
ギリッと奥歯を噛むのが分かるようだった。君はもっと僕を憎めばいい、そして、憎みながらも離れられないという業深い関係性であるべきなんだ。僕は現に、それを受け入れている。
突如、ぱたたっと窓ガラスを叩く音がした。
窓を見遣れば、雨粒が付いている。どうやら雨が降り始めたようだった。雨は好きだ――すべてを流してくれる気がして、僕は傘を差しながらあちらこちらを散歩するときがあった。
雨は好きで、嫌い。
傘が鬱陶しいけれど、差さないと濡れ鼠になる。傘というシェルターの中へ避難する。そんな時、雨という現象に負けた気分になるから雨は嫌いなのだ。暗雲が立ち込め、雲が低くなっているのが窓から見ても分かった。
「雨、降ってきたよ。まぁ、僕からしたら君が小指を受け取ってくれることの方がいまは重要なんだけど。」
振り返ると、飲み終わった紅茶のカップが少し寂しそうにテーブルの上に残されていた。
彼はというと、冷蔵庫からジンジャーエールのペットボトルを取り出して空けるところだった。プシュッと炭酸の抜ける音がして、行儀悪くそのまま飲む彼の姿が目に入る。
僕はその炭酸のようでもあった。詰まっていたのに、開栓された時点で腑抜けてしまう。
「聞いてるのかい? あげるって言ってるんだ。」
「要らねぇ、そんなもん貰って喜ぶと思ってんのかよ!」
「なに怒ってるのさ、たかが小指一本失くすだけな上、君が痛い訳でもあるまいし。」
「痛ぇよ。お前がそんなことするなら、オレは受け取らない。」
この男は馬鹿なんじゃなかろうかと、僕は改めて思った。何を言っているのだろう。君の専攻を疑ってしまうよ。
「僕らの痛覚が繋がっていることなんて無いのは常識上、解かっているだろ。僕と君は別の個体だ。痛覚を共有するなんてことは、まず無い。少々、切断するのに力がいるだけ、それだけじゃないか。」
僕は正しい。僕が言ったことに間違いはないはずだ。パーフェクトな答えなのに、彼は急に俯きオーバーアクションで頭を抱え込む。ヒートはたまに賢く、たまに愚かだ。僕は彼の思考が分からない時がある。それはこういった、自己欠損などの話題のときであり、そしてそれに対して彼が過敏に反応するのが不可解でしょうがない。
あのな、と彼が呆れる声を出して言った。
「お前、一人で自己満足してんなよ。他人のことも考えろ。考えたことねぇだろ、きっと。」
何を言うかと思ったら、笑わせてくれる。自己満足? それがなんだって? 僕らは分かり合えないまま平行線に進んでゆき、そして交わろうとしても絶対的なレールの上を走るようにして互いの思想を疑い合うのだ。
大体、今になってそんなことを言われても僕には理解出来ない。
どこへ向かえと言うんだ、考えたことなんてないさ、当たり前だろ。他人のことを考えろ、だなんて馬鹿馬鹿しい。他人は自分以外の有機物であるだけで、それが何を考えていようが関係ない。ただ、思考を探れば操るのに楽なだけ。それだけだ。
窓ガラスを叩く雨粒はどんどん強くなり、低くなった雲が立ち込めていた。紅茶はとっくに冷めて温くなってしまい、二杯目をそろそろ淹れないと、などと僕は外を見ながら考えた。
ジンジャーエールを飲み捨て、テーブルに戻った彼が苛ついたようにして人差し指でトントンと叩く。僕の返事を要する合図なのだろう。そして、僕はそれに答える。
「自己満足だって? 結構さ。僕は快楽主義者でいい、痛みを伴うものだとしてもそれが僕の快楽になるのならば、指くらい捨ててみせる。だから、貰ってくれないかい。」
そう言った瞬間、彼がテーブルに突っ伏して深い溜息を吐いた。
「――何でオレ、お前の親友なんてやってんだろうな。」
後悔の言葉の中に、優しさがみえる。
僕はその優しさというやわらかいクッション染みたものを、スライスするかのようにしてにして僕はそこへ付けこむ。元々、僕と言う人間は卑怯で正確なのだと自尊している。卑怯と言うのは、僕にとって褒め言葉だ。狡猾で、何が悪いというんだろう。
「サーフ、紅茶。」
突っ伏した彼から、とっくに一気に飲み干していたカップを差し出されて僕は席を立つ。そして湯を沸かしながら次に淹れる茶葉を探して言う。
「僕らが親友だなんていうのは、偶然の重なり合いさ。僕は盗聴器を仕掛けた、君は教授を殺したと誤認された、それだけだろ。それ以外の何があるのさ。」
僕は少しばかり嘘を吐いた――。
偶然の重なり合いなんてものじゃない。この大学に入り、彼を目にしたときから接触する機会をうかがっていた。彼という人間は、ただのそこらを歩いている有機物とは違っていた。
何と言えばいいのか分からないが、華があった。そして誰とも接しない、彼の人間関係を知ったとき僕は狂喜した。それでいい、君はそれでいいんだと噛み締めた。
彼の聖性のなかに、僕が穢すに相応しい純潔を見た気がした。
二杯目はとびきりのアッサム。
買ってから開封していなかったそれを開けて、茶を淹れる。砂時計の落ちる数分――僕らは黙りこくっていた。何か言ってしまったら、すべてが毀れるようなそんな気がして黙っていたのだ。
淹れ終わると彼の前へカップを置き、そしてそのついでとも言わんばかりにしてシャツの中へ手を差し込む。彼の肌はサラッとしていてすべらかで、ひんやりとしている。
首筋から肩にかけて撫で回す。僕らの間には皮膚と言うものが存在していて、僕らを隔てる。肉の塊として癒着してしまえばいいのに、と思いながらその首筋へ口付けをする。彼がビクッと怯えるかのように肩を竦めた。何も言えないんだろう、ヒート。そう分かっていながら、僕はエスカレートしてゆく。
耳朶を噛んでみる。
耳朶を噛み、首筋を舐め上げる。抵抗すればやめてやるのに、彼はそれを止めようとしない。じっと、耐えているだけだ。堪えるようにして、拳を握り締めるのが見えた。
「止めろって抵抗してみろよ、ヒート。止めてくれって乞えばいい。」
「――何でお前はそうなんだよッ。」
「何が?」
そう言っている間にも、僕は彼の髪を手櫛で梳き、首筋を舐め上げては噛み付く。動物染みている、と自分で思った。
「そう、やって……人のこと弄んで自己完結すんな。癪に障る。」
「へぇ、君にも“癪に障る”なんて反抗が出来たのかい。」
「サーフ、話を逸らすな。オレは――」
「何? 話を逸らすのが何だって?」
話を聞く振りをしつつ、彼の横から覆いかぶさるようにしてジーンズへ手を伸ばす。そこは勃ち上がっている性器の形を見せており、僕が遊ぶにとって相応しいものだった。擦るようにして、彼の性器をジーンズの上から撫でる。彼は、一瞬呆気にとられた顔をしたものの、すぐに陥落した。諦める瞬間の表情、それは非常にうつくしい。そう、彼はうつくしいんだ。
「ちょっと……待、て、お前ふざけてんなよ。」
「ふざけてるだって? ああ、そうさ。ふざけていて何が悪いんだい。こんなに面白いことは久しぶりだね。君だって、別に彼女も作らないで溜まってるんじゃないかい。」
下から上へ、上から下へ。僕の片手は一連の動きを以ってして、彼の性器を包み込んでいる。釦を外し、ジッパーを開けて下着の間から、そそり立つ性器を外気へ触れさせる。それは先から透明な先走り液を溢れるようにして垂れ流しており、卑しいほどに僕の手の動きと連動してぐちゃぐちゃと音を立てた。ああ、このような聖性の塊みたいな男でも僕の指と手のひらによって欲情し、当たり前のように勃起するのだと思っては感動した。
「――嫌だッ、止めろ。サーフ!」
「止めてもいいけど君がきついだろ、これじゃ、」
指差して笑った先には、勃ち上がった性器が見える。それは怒張しており、先走り液が涎を垂らすごとくダラダラと流れている。
ヒートはと言うものの、見たくないとでも言うようにして両腕で顔を覆っていた。
つまらない。
君が直視しないでどうするんだ、と思い、空いている片手でヒートの腕を引き剥がした。十八歳と十六歳、体格の差も有るが、このくらいの動作ならば簡単だった。
「見ろよヒート、少ししごいただけでこれかい? はッ、アイスマンの名が笑わせる。こんなに熱くて脈打ってるんだぜ、ここ。どこが冷めてるんだか、僕にはさっぱり分からないね。」
そう言って、指先で弾いてやる。それだけで敏感に反応するヒートが可愛らしくてしょうがない。
先端に親指を沿え、溢れ出てくる透明なその液を絡め取るかのようにしてぐちゃぐちゃと鳴らした。嫌だと顔を振り続けるヒートが、少しずつ変化していくのが僕の腕の中で分かった。
上気する頬、僕の二の腕に縋る手、潤む瞳、それらは欲情で以ってしてヒートを支配する。僕はしきりに笑いたくなり、咽喉の奥で声を堪えた。面白い、彼を手の中で転がすことが面白くて仕方ないのだ。
「サーフ、嫌、だ。――嫌、なんだ。」
縋りついて欲情にまみれながら、苛つくことを言わせるなよ、と思った。
「何を言ってるのさ、いって見せればいいじゃないか。いけよ、ヒート。僕の手で無様に射精してみせろ。」
「ッ、サーフッ……」
耳元で囁くように命令した直後に彼は射精し、僕のシャツと手を汚した。白い飛沫が僕を汚す。それは望んだことであったので、別に嫌ではない。嫌なのは、それを認めない彼の態度だ。
手についた精液を、見せ付けながら拭うように舐めてやった。
苦く独特の味と匂いがする間にも、彼は否定的に顔を振る。広いとも狭いとも言えない僕の私室には、精液の匂いが充満した。
顔を振り続ける哀れな彼にティッシュを箱ごと渡してやり、始末をしろと示唆する。
彼は最後まで、己の欲情を認めなかった。

「二杯目の紅茶淹れたんだけど冷めちゃったね。」
「――ああ。」
どこか濁として遠くを見続ける彼に、明瞭とすべし材料を与える。それはなんだ、僕らの関係か、それとも他の何かなのか。
向かいの席に座りながら、手を伸ばして彼の手を取った。僕は、この少し分厚い手のひらと端正な骨格をした関節が好きだ。何度もそれをなぞり、たどる。
「嫌だったんだろ? ははっ、これで親友ごっこは解消かい。」
「“親友ごっこ”じゃない、俺達はこれからも親友だ。」
「笑わせるな、君も。女も作らず、親友だという男の手で射精しておいて“これからも親友だ”だって? 何かを得るには、何かを切り捨てないといけないんだよ。いい加減、社会の仕組みを理解しろ。そして僕を受け入れるんだ。」
僕はどこかで焦っていたのだろう。焦るばかりに饒舌になり、彼を手の内に入れることに必死だったのだ。
向かいから彼の手を取って言う。
「ところで、僕の小指は受け取ってくれる気になったかな。それとも他のものがいいなら言えよ、」
睨むようにして彼が僕を見遣り、そして手を包みなおした。
僕の好きな、少し分厚いその両手は温かかった。
「お前がいれば、他にいらねぇよ。」
「なんだいそれ、薄気味の悪いプロポーズでもあるまいし。」
「茶化すな、サーフ。お前がいれば十分なんだよ、お前じゃなくちゃ駄目なんだ。」
刷り込み――インプリンティングの最終地点はここなのかと僕は内心笑んだ。
僕がいれば十分だなんて、何てセリフなんだろうと馬鹿馬鹿しくて笑うしかないじゃないか。
「何か、そうだな何か祝ってやるさ。君の望む形であろうとなかろうとね。」
僕らは何にも換えられない絆で以って結ばれていて、この頃の僕達の関係はうつくしかった。
そう、比類ないほどにうつくしかったのだ。
あの頃が懐かしいと思えるいま、この関係は何と言えばいいんだろうねと思い、僕はヒートを犯しながら白衣を汚さないようにそっと除けた。僕の下で喘ぐ彼は、二十四歳になっており、かつてとはまた違った艶っぽさを持っていた。しかし、彼は――彼だけはうつくしいままだ。僕はそれが憎らしく、そしていとおしく思いながら犯し続けた。
聖性を穢すことは出来なくても、彼を汚すことは出来る。何度か射精した後の、精液の匂いが保護室にこもっていた。
この研究施設に入りここ数年、何度この保護室のベッドで彼を犯しただろうと数えては止めてみる。回数なんかじゃない、何者にも違えない関係がある、それだけが事実。
事実であって、虚実なのが――むなしい。むなしいよ、ヒート。

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