【シェオブ】盲目ゆえ、腐敗

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

すべてを塞いでしまおうか。
すべてを消し去ってしまおうか。
ほら、それは簡単なこと。目を閉じて、一秒もしないうちにシャットダウン。
何も見えない何も感じない何も苦しめられない世界に行けば、いままでの罪業を無かったことに出来るかもしれないと思い、僕は片目を閉じた──。

「サーフ、目ぇどうしたんだよ」
講義帰りに会ったヒートは、真っ先にそう聞いてきた。
眩しいほどに真っ白で清潔な眼帯が、僕の左目を覆っていたからだ。眼帯のしたでぱちぱちと瞬きをすると、睫毛とガーゼが擦れて妙な感触が伝わる。それは柔らかい痛みであり、守られているという安心感だ。
「ちょっとね、」
「怪我でもしたのか」
心配そうに少しかがみ、覗き込んでくる目はあまりにも純粋で、なんだか目眩がした。ヒートは犬のような目をしている、本人は冷たいと思っているようだが実は温かくどこかほっと出来るような、隠れた温かさを懐に忍ばせているのだ。
「いいじゃないか、このくらい」
「よくないだろ、医者行っとけよ」
別に医者は関係ないんだけどね、と内心呟きつつ、はいはいとあしらっておく。ヒートをあしらうのが、この頃は随分と上手くなったと自分でも思う。前は単純すぎてよく分からない部分もあったのだが、今となっては本音も建前もすべて分かる。この手の中で、ヒートを操っている。そんな感覚。
眼帯は左目を覆ったままで、そのままサングラスをすることは困難に思えたから、かけないで下校した。下校と言っても、行くのはヒートの部屋か寮の自室しかないのだが行く場所があるだけましだ。
ちょっと考えた末、ヒートの携帯にかけるとすぐに出た。
──三回のコールで出る、従順な大型犬。
いつからこんなにも依存しあう関係になったのだろうと思い、これは依存ではないと打ち消す。依存ではなく、共存の形をした主従関係なのだと思うと少し楽になった。依存と共存は違いすぎて、目の前がめぐるましくチカチカと点灯させる──それは危険だというシグナルだ。
「どうせバイトなくて暇なんだろ、行ってもいいかい」
「了解しなくても、来る気じゃねぇか」電話の向こう側の彼は笑っていた。柔らかいクッションが何もかも吸い込むような声で、構わないと告げたあと、どこか名残惜しそうに通話ボタンをもう一度押して切る。

こんなにも彼は優しいというのに。
こんなにも彼はすべてを赦してくれているのに、僕は世界を赦せない。

いつもの道を少し遠回りして、ヒートのアパートに着く。
アパートの近くに着くと、純白の木香薔薇がアーチのように咲いていて遠目からでも分かる。この季節、ヒートのアパートは植物園のようになっていてちょっとした見物だった。木香薔薇の微かな香りが、辺りにふわりと漂っている。僕はそれの近くに寄り、まじまじと見つめてみた。小さな白い薔薇が蔓をたわんで、生命の限りを尽くして咲き誇っている。
生命が息吹を上げ、本当ならば皮膚も歓喜する季節、それが五月のはずだった。それが今となってはサングラス着用、出来れば長袖を羽織ってとのことになってしまった。喜ぶのは植物に昆虫、人間はその自然の恩寵を受けられなくなっている。
しかし、僕はそれは不公平だとは思わない。因果が巡ってそうなっただけだ、それを思うと微かな興奮が湧き上がってくるのが分かる。なるべくしてなったこの世界に、不満と不平をぶちまけてしまうリミットを僕は待っている。この薄汚い世界、汚れきってそして母胎のように優しい。
リミットはまだだ、いつか。いつかを待ち焦がれ、それが来る日を今か今かと待ち望んでいる。
──相変わらず、眼帯は左目を覆っていた。
右目のみで見る世界、それはどこか安全で安堵を与えてくれる。
少し不便なことを除けば、眼帯というものはとても便利なアイテムだと気付いたのだ。見たくないものも、見たいものもすべて半分にしてくれる。だから彼は、ヒートは右目を前髪で隠しているのかもしれない。
飛び石のようになっているレンガを踏みしめると、ジャリッと足の下で音がした。そんな音でさえも半分になったように聞こえる。あぁ、なんて優しく慈悲深いアイテム。
僕は、自身の欠けている部分をもっと欠けさせたい。

「医者行ったのか?」
部屋に入り、僕がソファに座るなりヒートはそう聞いてきた。
ヒートの部屋はどこか閉ざされた雰囲気がしていて、どこか安心する。部屋というのは、部屋の持ち主にそっくりだと僕はいつも思いながらソファを占拠する。大きな猫のように窮屈に足を折りたたみ、両腕で膝をかかえて横になる。
何時も通り、ヒートの部屋のシンクは綺麗に磨かれていて、どこか攻撃的な雰囲気さえしていた。鋭角、銀色、水滴の一滴も垂れない蛇口。それらは攻撃的でありながら、普遍を保ちかけている雰囲気が好きだ。勿論、ヒートがいなくなればそれは寂れるだろう、空き家になれば銀色のシンクも鈍色に変わるだろう。だが、いまヒートがそこにいてそれらを管理しているという事実と、この現状が僕は好きでたまらない。
(僕がソファを占拠しているので)ベッドに座ったヒートが再度問う。
「医者に行っておけよ、目は傷付いたりしたら大変だからな」
たかが遊びの一つだとも言い出しにくいほど、深刻な顔をしていう彼にどこか同情を覚える。
──遊びなんだよ、すべてが遊びなんだ。
「怪我でもなんでもないさ、ヒートの右目になりたかったんだ」
嘘が口をついてでた。
「君はいつも隠してるだろ、綺麗なのに勿体無い。だから左目を隠してみたんだ」
ヒートは何を言っていいのか分からないといった顔をして、困惑を顔一杯に張り付かせたまま何となしに頷いた。君は分かっていたのかな、嘘と──嘘とせめぎあっていた事実に。
「分からないのかい、君の右目になりたいと言っているんだよ。その、隠している片目にね」
「これは髪が伸びてるだけで……」
「嘘だね、僕は眼帯をして気付いた。心地いいんだよ、この片目の世界は。見たくないものは半分しか見なくていい、見たいものは眼帯を外して見ればいい、実に都合よく出来ている。君はそれを前髪でしているだけだろ、そうなんだろヒート」
一方的に責められるように言われ、ヒートは一瞬むっとすると前髪を掻きあげた。
普段は見せない、両目が夕日で金色に反射している。
金色の、球体がこちらを見る。冷たく、そして冷ややかな中に寂しげな温かさのある目がこちらを見ていた。それはとても愚かで、感情を溢れそうに満たした二つの完璧な球体。
慈悲深く、愚かで人間くさい彼が好きだと今もどこかで思っている。これからの計画に邪魔になるとも分かっていても、もう離れられないのだ。
そう、離れられない。
僕はヒートの右目であり、ヒートは僕の左目であるのだから。遊びで始めた事が、本気になるなんてと苦笑してみたが、それはいつまでたっても止まなくて、僕はソファの上で丸まったまま一人くつくつと笑っていた。

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