【シェオブ】捕食者と共犯者

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

この雨が止んだら、傘に護られた二人きりの空間が一瞬で消えてしまうのだな、と少年は思い、それを少しばかり悔しく思う自分に失笑を向けた。

大学からの帰り、新しく出来た本屋へ行きたいと言うサーフの我侭をきくために連れ添って外へ出たものの、その帰りみち二人は雨に降られた。
夏の前は蝉時雨を殺すかのような激しい雨が降ることがある。雨というよりはワイパーで拭っても拭っても前が見えないフロントガラスのような滝に似たもの、それが帰りに降ったのだ。手を突き出しても、それさえも見えなくなって霧と雨に霞むくらいのもの。
ヒートは折り畳み傘を持っていたので、一人分の雨除けは確保出来た。
だが、隣にいるサーフの分はない。
「これだと安い傘を買うか、タクシーで帰るしかないね」
「何でだよ」
既に開いた傘を差し、ヒートはほら、と言ってそれを少年の上へ差し出した。
「お前どうせ寮なんだからノート取りに大学寄るついでに送ってやるって」
サーフは「ごめんね」とも「有難う」とも言わずに無言で傘に入る。
その顔は苦笑とも取れる笑いを含んでいて、そして虚しさを包含していた。まるでヒートの鞄から、傘が出てくるのは当たり前だともいうように、ごく自然にそれで雨を避ける。
急に降り出した土砂降りに、傘の用意がない他の人々は、店の軒先に立ち尽くすか適当なカフェへと足が向いていた。
路上をゆくのは濃紺の傘を差した二人と、水を跳ね飛ばすタクシーの嵐。
そして無言の時間。

青年は傘を畳まないでいたいと願った。
少年はこれは当たり前だと思った。

本当はサーフは知っていたのだ、一人分しかない小さな折り畳み傘に入れるのは丁度自分の分しかないことを。そして、半分ずつ分け合って雨を除けているように見せかけて、横でずぶ濡れになって髪から水滴を滴らせているのも。ノートなんて口実のひとつだと言うことはとっくに知っている。
全部全部、知っていた。
知らないのは幸せそうなヒートばかり。
大学が見えてきた頃、やっと口を開いた。何度か、何かを言おうとたけれど言葉にならなかったのを、やっと掴み取れたようにその名前を呼ぶ。
「ヒート、」
「ん、なんだよ」
「ううん、なんでも」
礼を言うでもなく、かぶりを振った。
「お前は小さいから濡れないですんだな、ほら、寮まで行ってやるよ」
「小さいとは失礼だね君も、僕がまだ十六だってことを忘れてやしないかい」
そう言うと、また沈黙がおとずれた。
ヒートは傘を閉じる瞬間を恐れ、そしてサーフは無言を厭うた。
──無言は嫌だ。
無言のあいだから、好意がいやというほど漂い、伝播してくるから。
押し付けがましく、好きだ、好きだと全身で訴えてくるヒートの無意識が、ここまで伝わってくるから無言の時間は嫌なのだ。無意識というのはたちが悪く、本人が思っているよりも顔に声に空気に出る。だけど横を向いてしまうとずぶ濡れのヒートが視界に入ってしまうので嫌々ながら、正面を見据えてそのまま寮まで歩く。足元がくしゃりと音を立てて、雨でとっくにしおれた桜の葉を踏み潰した。
それは蟻を楽しんで踏み潰すように、軽快にぐしゃりと。
楽しげに、踏み、靴底でなじった。

寮の玄関に着き、濃紺のシェルターが畳まれた時、既にヒートは雨に打たれて髪が頬と額に張り付いているくらいだった。少し、髪の色がほの暗くなって茶色が濃くなっている。
濃紺と、少しくすんだ蜂蜜色の髪と、しっかりとした白い首筋。それらのコントラストが余りにも自分とは相容れないものだと思い、少年は下を向いて笑った。おかしかった。どこかがおかしい、“どこか”とははっきり分からないけれど、この関係は破綻するだろうという確信があった。それでも繋がっていたいと思うサーフは、横を向いてさり気なく言う。
「あんまりな格好してるから、此処のシャワー使えば」
「こんな格好で入って怒られねぇか?」
「それなら僕も同罪さ」
そういったサーフの顔は、全てを悟りきっているようで諦めきっているように見えた。十五の席を手に入れるとき、自分は本当に罪を犯すだろうと考え、そしてそれを考慮した上でヒートをその話へ引き入れたのだ。全部がそこで終わり、そして始まるとどこかで知っていた。それを始めるのが自分だという、天啓にも似た直感でこの大学に入ったことも、すべて予定調和。
「お互いに罪人だね、いつも寮の規則を破ってる、それどころか君の言ったとおり本物の犯罪だって犯している」
くすくすと笑った顔が生意気で、そして十六歳という枠を見せた。時々破れるサーフ・シェフィールドの殻からは、十六歳の顔が見える。外殻は恐ろしく硬く、内殻は芋虫の皮膚のようにやわらかいそれを、知っている人間は少ないだろう。
「心配すんなよ、何があっても俺はサーフの傍にずっと居てやっから」
「そんなことじゃない。ヒート、君も同罪なんだよ。そう、共犯者なんだ、」
傘をたたんでいると、少年は薄っすらと汗を滲ませた顔で言う。少しだけ、場の空気に酔ったような高揚した感じで言った言葉を、ヒートはこの後、何度思い出すのだろうか。
共犯者。苦い言葉だった。
苦く甘く、捕らえられてしまったら抜け出せないような響きの言葉で、ヒートはその言葉自体に捕食されてゆく。捕食者はそのまま、手を伸ばすとヒートの胸を指差した。つっと、心臓の上を人差し指ではじかれ、それは後に青年の心自体を抉った。
抉られた心臓が数年後に少年の血肉となり、異形の者に喰われながらも少年を許すなど、微塵も思いもしない──穏やかで、ゆるやかな時間の流れる雨の日。
はるか昔に思える頃、そんな日もあった。

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