【シェオブ】やさしい馨り

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

そう、それはもうジャンキーの一歩手前だった。
何のジャンキーって、包帯に決まってるじゃないか。
白く、清潔でいて、腕を首を脚を胸を覆ってくれる──エタノールの馨りがあれば最高だ。ツンときつつ、鼻に残る清潔の塊のようなあの匂い。僕はあれが好きだ。
一時期、あまりにエタノールの匂いが好きで、使い古したタオルにエタノールを染み込ませ、部屋中の床を磨いていた時期がある──、一瞬で寮の僕の部屋が、病室へと変化する。僕はその匂いにもう堪らなくなり、その床へと指を這わせ撫で回し、そして恭しくそっとそっとやさしく口付けをする。
まるで、信仰していない神にキスをするようにね。

「──お前、またかよ」
「なんだい?」
金髪が夕陽を帯び、遠目に写る大学のUVカットされた窓越しに光り、まるでテグス糸が金色に染まったようだった。彼、ヒート・オブライエンの髪質はかすかな透明性を持ち、光りに透けるのを見るのが僕は好きだった。パッケージはボロボロで安い包装のくせに、中身を開けると高級に贅を尽くしたようなその人物性を買っていたこともある──そして、この時の僕たちは、友人以上恋人未満と言う、なんとも有り触れたフレーズの陳腐な関係にあった。
「眼帯の次は包帯って、お前、絡まれたかしたか?」
ヒートが眉根を寄せて僕を見る。
あからさまに心配していますと言った表情を張り付け、その視線は僕の身体の露出した部分を見つめていた。
今日は秋の日と言えども、いまだ蒸し暑かったので、僕は膝が出るくらいのパンツを穿いていた。上半身は気に入っているレジメンタル柄の半袖シャツ。
どちらかというと、トラッドっぽい格好をしている僕は、年齢と共に外見の成長が止まってしまうような得体の知れない不安をいだきつつも、その格好を止めなかった。
サスペンダーで吊っているパンツから、膝が覗く。レジメンタル柄の半袖シャツからは二の腕から先が覗く。首元にはいつもの臙脂のタイ。この残暑に、膝も腕も首も露出されるべき場所は何箇所もあった。
──だが、肌は見せなかった。
いや、見えなかった、と言ったほうが正解だった。
今朝、三十分以上掛けて僕が包帯を巻いたからだ。
肌の色が白い方だと、僕は自分でも思う。しかし、包帯の白さには何者も構うまいと信じている。それこそ、信仰だ。神など信じない、だが、物的存在は信仰しよう──それが、僕だった。
重症の怪我人のように指先まで丁寧に巻いた包帯を見ては、僕は恍惚とし、ヒートが横にいるのを忘れる。勿論、エタノールを含ませたガーゼを敷くのも忘れなかった。下卑た女が香水を撒き散らすより、エタノールの神聖で崇高な病室の馨りを振りまいた方が余程良い。僕は機嫌よく含み笑いをして、ヒートへ言った。
「あぁ、絡まれたよ。それもかなり悪質な奴にね」
「ちょっと待て、誰だよ!」
僕が少し毒を含ませれば、あっという間に君は落ちるでしょう。
僕はヒートを落とすのが堪らなく好きだった。正反対の僕ら、正反対過ぎて同じ位置に立ってしまっている僕らは互いに背中を向け合い、包帯で目隠しをしているのかも知れない──側にいるのに、手探りでしか探しあえない。触れ合えない。エタノールの馨りだけで、嗅覚だけで僕らは探しあう。それはまるで動物のように。
怒り立つヒートをにやにやと笑いながら見て、僕はヒートのこういった部分が気に入っていると再認識する。単純なのが羨ましいのだ。僕はとっくにそんなものを投げ捨ててしまい、どこか諦念と、自分の過去への嫌悪で出来ている。感情を封印した日がいつだったか、詳しくは覚えていないけれど、僕は幼い頃、そう、六歳の頃に感情を一切封じ込めた。自我が芽生えて数年目、僕は僕自身を殺したのだ──感情の自殺。それが幼い頃の僕にあったことだった。
だから目の前のヒートのように、素直に僕の発した一言二言で怒り、居もしない相手に殴りかからんとする感情を持つ人間が少しだけ羨ましい。それはもう、僕には喪失されたものだからだ。
「誰だよ! 言えよ、サーフ!」
此処は大学の入り口で、寮へ家へ帰る人たちも通ると言うのに僕らは突っ立っていた。いや、ヒートは僕の両肩に手を置き、血走るような目で顔を覗き込んできていた。

──ああ、北欧の猟犬か。

彼はいつか雑誌で見た、北欧産の猟犬に似ていると思った。金色に輝き波打つ髪も、普段物静かでいるのに暴発すると止まらなくなるところがまさにそれだった。
「ヒート、君は犬によく似ているな、」
「誤魔化すなよ」
「そんなことしてないさ、」
肩を竦め、お手上げといった格好を取る。それを見てヒートは更に怒りを包帯へ向けるのだった。
僕は誤魔化してなどいない、そんなことをするよりも、目の前の事実に目を向けただけだ。ヒートは猟犬に似ている、それが事実でなくてなんであろう。

「誰なんだよ、お前に絡んだ奴って!」
相も変わらず、ヒートは頬を赤くしてまで怒りを表情へをあらわしている。
僕はそれが愛しくて、そっとその頬へ手を差し伸べ、幼少の頃に無理やり連れて行かれた教会で見た磔の神と、そこに居た人々のようにやさしく頬を撫でた。ヒートの頬は熱くなっており、それを冷ますように僕はひたすらひんやりとした両手で彼の頬を包み込んでいた。
それから、思い出しては吐き捨てるように言ってやる。
「──僕さ。絡んだ奴っていうのは、夢の中の幼い僕、」
口に出すのも忌々しかった。
そう、昨晩、感情を持っていた頃の五歳の僕が夢に出てきた。その僕は笑ったり、泣いたり、叫んだりしていて、とてもとても子供らしかったのだけれど、いまの僕にはそんな感情や衝動めいたものは不必要で、嫌悪感が募るだけだった。
幾らなんでも、子供を殴って大人しくさせるような馬鹿な真似は出来ないと思っていたら、注射器が転がっているのが視界に入った。──ああそうだ、空気注射してしまえば心肺停止するじゃないかと思い、僕はそれを手に取る。感情を捨てた僕は、感情を持つ当時の僕の腕を取る。彼は何が起こるのか分からないで居るのか、きょとんとした目で僕を見ていた。そして、ぷつっという微かな音と共に注射針がやわらかい子供の皮膚に吸い込まれてゆく。
『これ、怖くないよ』確固たる意思を持って、明確な発音で彼はそう言った。
そして息を引き取るまで、僕の露出した腕や膝にぺたぺたと触っていた。それはやわらかく捏ねたパン生地にも似た、押せばへこむような感触で、僕は触れられているあいだ嫌悪感と嘔吐感を耐えた。
──朝起きてから、僕は僕自身を消毒すべきためエタノールで全身を拭き、彼が触ったところ全部へ包帯を巻いたと言うわけだった。まったくもって、忌々しい、二度と見たくない夢だった。

「お前さ、いい加減楽になれよ」と夢の内容も知らないのに、ヒートはそう言った。
楽になるべき者は、妹の亡霊にしがみついている君だろうヒート、と言いたかったが、僕は何も言えずひたすらヒートの頬を包み込んで撫でていただけだった。
体温が──感情をわずかに揺るがす。
失くしたはずの感情、喪失したはずのものが、ヒート・オブライエンによって掘り起こされようとしている。僕は脳内で危険信号を鳴らしながら、頬を撫でることをやめなかった。僕らはやはり似たもの同士で、離れられないと悟ったからだ。
残暑、エタノールの清潔で病的な馨りと、包帯が風になびいた。

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