【シェオブ】目蓋のシェルター

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

イェールからの帰り道、ヒートはサーフが壮年の男性と歩いているのを見かけた。親戚か何かと思ったのだが、どうやら雰囲気と視線がおかしいと思い、ヒートは二人を横目で見ながら歩いていた。二人はカフェから出て来て、裏路地へ入っていった。その裏路地は半ばスラムのようになっているような治安の良いとは言いがたい場所であり、ヒートは心配になりつつも後をつけていくことに決めた。親友の身に何かあれば、自責の念に駆られると言うものだ。
燦々と照りつける十月の太陽は眩しかったが、路地に入った途端、じめっとした腐敗した空気と鼠の死体が転がっていた。サングラス越しに見る鼠の死体からは眼球がどろりと溶け出し、黒目と白目が混ざっていた。そんな死体を後にして、サーフと壮年の男性が向かった先を追う。
錆びた非常階段の鉄錆が降り注ぎ、腐った臭いを発する水溜りに足を突っ込む。そんなことをしながらも、ヒートはなぜかある予感がしてサーフの後を追い続けた。
二人が向かい、選び取って入った先はうらぶれたモーテルのひとつだった。
今時、流行らないであろうネオンも何も無い、まさに連れ込むためだけの宿。そこへ壮年の男性の横へ添うようにして、サーフが着いていく。腕こそ組んでいないものの、二人の間には暗黙の了解めいたものがあり、それはヒートにも分かるほどのものだった。
サーフの恋人だとは思えない。ましてや、親戚の伯父などとはそんな場所に入らないだろう。目的ははっきりしていた。そして、それはヒートにも分からないほど苦悩させ、煩悶させ、そしてそれを阻止しなければならないという確固たる目的に変化した。それはその瞬間からヒートにとっての使命であり、絶対的な目的であった。
モーテルの入り口をくぐり「サーフ!」と呼びつけると、フロントで肉に埋もれた眼を丸くした男性と、にやにやと猫のように笑うサーフが居た。そばに走り寄り、サーフの手を取り上げる。
サーフは猫のような笑顔のままヒートの顎を強引に掴み、引き寄せては舌を侵入させてくる口付けをした。それは獲物を捕らえた肉食動物のようであり、もう一方の老いた獲物を捨てた顔であった。年老いた獲物は、腐った肉のように捨てられる。
「悪いけど、こういうことなんだよね」
ふふっと言うと、ヒートの首に手を回し、抱きつくと見せ付けるように耳たぶを噛んだ。そしてヒートの首筋へ舌を這わせると、「さぁ、帰ろうか親友」と普段通りの口調で言う。
そしてついでに「それとも、ここで遊んでくかい?」
フロントを指差し、軽い口調で聞く。
「冗談言うな、帰るぞサーフ」
「冗談じゃないさ、現に君は僕に欲情してるだろう、」
耳元でそう囁かれ、再度耳たぶを噛まれては赤面しては率直な欲求に耐える。親友であるサーフ・シェフィールドに欲情するなど以ての外であり、それ以前に、早くもこのような場所から離れたかった。離れないと、サーフの言ったようにすぐそこにある密室に閉じこもり、親友を蹂躙してしまうかも知れないという危機感から逃れたかったからだ。

裏路地の腐った水溜りで汚してしまった靴を洗いたかったので、ヒートは仕方なく部屋にサーフを呼ぶことにした。いままで何度も呼んでいるものの、こういった場面を目撃したあとでは何となく気まずい。
紅茶を淹れつつ、すっかり我が家のようにソファでくつろぐサーフを横目に、ため息を吐く。それはどこか諦めと憧れと、そしてなってはならないという禁忌を含めたため息だった。
「なんで僕の後をついて来たんだい。しかもご丁寧にカフェの前から、」
サーフが当たり前のことを訊ねた。
「気付いてたのかよ。なんでって……そりゃ、親友がおかしな行動してたら追うだろ」
「親戚かも知れないじゃないか」
しゃあしゃあと言い、催促してはソファの上で猫のように丸くなって紅茶を啜る。
「お前なぁ、あれは親戚と入る場所じゃないだろ!」
「へぇ、君も入る場所じゃないんじゃないかい。僕らは大の親友、だしね」
カタン、とヒートはカップを置き苛つくように向かいのベッドに座り、サーフの目の前にあるビスコッティに手を伸ばして齧る。サーフも同じく齧りながら、「やっぱりビスコッティにはモカの方が合うね」などとのたまった。
なぜサーフを止めたのかは分からない。
なぜサーフが他の男とモーテルに行ったのを、嫉妬に近い気持ちを持って見ていたのかも分からない。イェールの近くは治安が良いようで、大学生を目当てにした犯罪も起こる。数年前には、女学生が売春をしていたのが死体で見つかった事件もあった。
サーフにおいて、それを止めたかったといえば聞こえは良いかもしれない。だが、そうではなかった。ヒートはサーフが他の男に抱かれることに嫌悪感を抱き、嫉妬を抱き、そしてその気持ちを持って止めに入ったのだ。
皿に盛ったビスコッティを取る手を、サーフが上から掴んだ。

「僕はね、『愛情』と言うものが分からない」
「そりゃお前、愛情って言っても親とか友達とか、色々あんだろ」
どういった言葉を答えていいのか分からず、一般的な回答しか出来ない自分にもどかしさを感じながらビスコッティを掴んだ自分の手と、そこへ重ねられたサーフの華奢な手の甲をぼうっと眺めていた。白く、血管が青緑色に透けて見える手の甲は、明らかにヒートとは違うものだ。華奢な少年らしさの残る骨格の指が、ヒートの指を絡め取る。
少年というものは残酷な時期であり、彼はそれを体現しているような存在だった。
「親? 友達? はんッ、何だいそれは。君はそんなものに僕が情を感じるとでも思ってるのか。僕が信じるのは自分だけさ、」
──もっとも、君だけは特別だけどね。
そう付け加えるとサーフは手を引き寄せ、そのままヒートの指を舐めて口へ含むと一旦出し、「ビスコッティの味がするな」と笑みを浮かべた。そのまま再び手を取ると五指を舐め、指の間接を味わうように舌を絡めるとヒートが軽く振り払った。
「止めろよ、」
「何でだい。僕は君の手が汚れているのを拭ってあげただけじゃないか」
それ以上でもそれ以下でもない──そう言いながら、口唇を離し肩を竦めておどけてみせた。
サーフ自身も口唇の端に付いたビスコッティの欠片を指で拭いつつ、ヒートの手を掴み「さて、さっきの続きでもするかい? 親友、」ぐいと片手を引くと、そのまま口唇に口付けた。
何度か味わっているサーフの舌と口唇は柔らかく、そしてどこか子供のようなミルクの甘さがしているようであり、凍てついた氷の冷たさを以ってしてヒートの温かさを奪ってゆく。それは孤独の味だ。何年ものあいだ、独りでいた味だった。
孤独な蜘蛛が、口唇で相手を繋ぐように擦り付けながら口付けをする。ヒートも逆らわず、サーフがするように大人しく口を開けてその舌の侵入を待つ。生温かい舌が絡まりあい、互いの唾液が混ざり合うとそのままサーフが顔を引き、二人の間には銀色の糸のような細い唾液が残った──それはサーフ・シェフィールドという蜘蛛が毒を混ぜた、蜘蛛の糸。
「今日はやけに大人しいじゃないか、いつも抵抗するくせに」
「抵抗したって無駄だろ、」
何が無駄なのか、何に対して無駄なのか、ヒートは自問しながら口を開いていた。
ビスコッティの欠片の付いたヒートの口唇を甘噛みしつつ、そんな様子を眺めながらサーフが嘲笑を浮かべた。
「はっ、さっきのオヤジ、フェラだけで金くれるって言うんだぜ」
「お前、バカかっ!」
ヒートの手を指先で撫で続けるサーフの右手をはたき落とし、すさまじい形相で怒鳴りつける。サーフは一瞬、呆気に取られた様子でヒートを見つめ、にやりと口角を上げると何かを悟ったように「あぁ、もしかして君がして欲しかったのかい」と口を開いた。
「そんなつもりじゃ……そんなじゃないだろ!」
「だから言っているんだよ、僕は。『愛情』なんて感情も、『愛情確認によるセックス』なんて嘘っぽい行為も信じられない。信じているのはさっき言ったとおり、自分自身と物的なものだけ。例えばそう小遣い程度の金なんかが代価と言えば分かりやすくないかい」
彼は簡単な嘘を吐いている──大学のどこであっても、サーフが金銭的に困っているといった話は聞いたことが無い。そう、寧ろ常にさり気なくブランド物を取り入れて厭味無く着こなしているといった風体だ。そんな彼が、たかが小遣い程度でついていくはずが無いとヒートは確信していた。追求する狗の如く、問い詰める。
「──いつも、暇つぶしにさっきみたいなことしてたのかよ」
憮然と聞くヒートに対し、揶揄うようにサーフはその手を取り上げ、恭しく中指を口へ含むと上目遣いで見やった。そして口腔内で指を犯すように舐め上げ、指の腹を軽く噛み、口から離してどこか中空を見る目つきで空笑いを上げた。

それからしばらくはソファの上で丸まったまま乾ききった笑い声を上げ、ヒートをじっと見据えてから、これ以上は何も見たくないというように頭を振ってそっと両眼を閉じた。
眠るような穏やかな表情でいて、すべてを視覚聴覚からシャットダウンした彼の姿を眼に写し、ヒートは絶望と悲嘆に暮れる。
──ああ、この少年は孤独を選んでいるのだと痛感し、そしてそれを救うすべのない自らの無力さを呪った。
カップに注がれたF&Mの紅茶は香ばしい馨りを部屋中に充満させており、普段それは安らぎをもたらすはずのものだったが、いまに限ってはどこか過分な虚しさと、二人の間に流れる無言を物語っていた。
きっと自分は、永遠に彼の孤独を救えないだろうと思い、そして孤独ではなく孤立ならば救えると考え、青白い肌をしている閉じられた目蓋を見つめ続けた。
元来、色素が薄いのかサーフの肌は白いラバーのような質感を連想させる。壊れやすく、脆い陶器の人形なんかではない。ぴったりと密着し、肌に張り付いては皮膚と同化する感触を与えるラテックスのような存在。それは得体の知れない底なし沼に手を差し込む感触に似た、どこまでも沈んでゆくという感覚。彼を知るたびに、そんなものに襲われる。
少年期独特のものだろうか、彼には不気味なほどの艶と色気というものが備わっていた。閉じられた両眼の縁には鴉の羽のような睫毛が密集しており、黒髪とのコントラストで余計に肌の色素が薄く見える。
ヒートは自分の生まれ故郷について話したことはあったが、彼の生まれについて聞いたことがないことに気付いた。黒髪は誰譲りのものなのか、その白い肌はどこの国のものなのか。両親の有無、兄弟、何もかも知らない。いや、かえってその方が都合が良かったといまは思った。彼の情報を手に入れすぎたならば、これ以上深入りをしてしまいそうで怖くなったのだ。
サーフ・シェフィールドという精神と形の持ち主に、魅入られていることはとっくに気付かれているのだろう。しかし、それを表に出すわけにはいかなかった。飽くまでも親友という形を取り、二人の間は適度に空間があるべきなのだ。
ソファの上で丸まり、サイドの黒髪が頬にかかっているのを見ていると、突如パチリと彼が眼を見開いた。眠っていた訳でないのは分かっていた。ただ、すべてをシャットダウンして外界を遮断して、己という名のシェルターに匿られていただけだ。
「ひとつ教えてやろうか、ヒート」
「──なんだよ、」
「僕が今日みたいなことをしたのは、今回が初めてさ。それも未遂に終わったけどね、安心したかい」
そう言うと、再びすべての意思を遮断してシェルターに潜るように両眼を閉じた。また、その黒い睫毛が閉じられる。
ああ、僕らはもう戻れないところにいるというのに、なぜにこんなにも進めないのだろうとサーフ・シェフィールドは不可思議に思い首を内心首を傾げていた。首筋を少し伸びた襟足がくすぐり、それは笑いに変換される。
ふふっ、はははっ、と眼を閉じたまま笑うとヒートが動く気配を感じた。
ヒートはベッドから立ち上がり、ソファに丸まったまま笑い続けるサーフの髪を梳いた。それはゆっくりと、幼子の髪を撫でるようでいて、そして首筋と頬に掛かった髪を除けた。病的に白い肌がそこからは見える。
サングラスも外している室内の中、彼はそれを以ってしていなくても何もかも見ていないようだった。サーフ・シェフィールドにとってのサングラスと言うものは、紫外線を避けるものではない、人間の視線と言う視線を避けるものだ。自分への関心、興味、それらを遠ざけて孤独になるためのものだ。
その気高い孤高さに手が届かないことに耐え切れなくなり、ヒートは閉じられた目蓋へ口付けをした。
そのようなことは何度も彼としていたが、自らから口付けをするのは珍しく、そしてその感情を隠し切れないと言う予感も含めていた。そう、隠し切れない。サーフ・シェフィールドに好意を抱いていることを、そしてそれをどうしようもない胸の苦しさと引き換えに甘美な甘さを感じることさえも。
青白い血管と紫の血管が透き通る目蓋は薄く、噛んでしまえばそれは自分のものになるような気がして、軽く歯を立てるとサーフが身を捩った。
「ふふっ、くすぐったい」
「あ、悪かった」
素直に謝罪すると彼は眼を閉じたまま相変わらず、猫のように白いソファの上で丸まってくすくすと笑ったままだった。まるで痴愚か何かになったように、笑い続けた。笑うことで浄化されるかのように、彼は声を上げることを止めず、ヒートはそれをただ見ていることしか出来なかった──ヒートには結局、学生時代には何も出来なかったのだ。彼を救うことも、彼を変えることも、彼を感情で以って揺さぶりをかけることもできなかった。
目蓋に軽く歯を立てられたサーフがそのまま、何事でもないかのように口を開いた。
「ああ、みんな死んでしまえばいいのにね──全部、全部、僕は終わらせてしまいたいよ」
「何言ってんだよ、」
「全部が本音さ、何もかも無くなってしまえばいい。あの親父も、教授たちも、何もかも」
それから眼を開けると、ソファのアーム部分に腰掛けていたヒートを引き寄せ、首筋に噛み付いた。膝の上に載せていたジャケットが落ち、バサリと音を立てた。それは静寂の満ちた部屋に響き渡った。
頚動脈の上、きつく噛まれると少し意識が飛ぶような感覚がして、ヒートは彼によってこのまま殺されてもおかしくないと思いながら眼を閉じた。
口を離すと、「君さえも、いつか殺してしまうだろうね」虚しさを内包する言い方をしながら、彼は膝を抱えた。いつか──いつか殺されることだろう。それは確信に変わり、確信は絶対的な運命に変わった。
「みんな、消してしまいたいんだよ。綺麗に浄化してしまい、僕は神となって独りで気楽に過ごしたい」
「オレも殺すのか、サーフ」
「悪いけど多分ね。いつになるか分からないから、今のうちに離れた方がいい、それが賢明というものさ」
そんな言葉をサーフに発されてから二人は無言で向き合い、貪り合うように口付けをした。
今生、最期の別れであるような、そんな口付けはビスコッティの味がしていて、サーフからは幼子からするミルクの匂いがしていた。部屋にはF&Mの紅茶の馨りが充満しており、それは幸せと不幸せの予感を十分と言っていいほど含ませていた。
互いの唾液を交換し合うごとく口唇を開き、舌を絡ませるそれは獣が喰い合う姿に酷似している。
彼の、少年の──少女とまごうような紅い口唇と黒い髪を掻きあげて、ヒートはその甘さを感じ取っていた。欲情というものはそこにはなかった。純粋で純然たるどちらかが先に殺すか殺されるかと言う口付けであり、そしてその状況がいつ訪れるものなのか二人は待ち遠しかった。
「お前と離れられないって、分かってんだろ」
「ああ、そうさ親友。どっちかが死ぬまでね」
そうそう、ビスコッティはもっとないのかい、くすりと笑いながらサーフが言う。
それが幸せだと、この瞬間は信じきっていた。いま思えば、目隠しをされて綱渡りをするような生活だった。見つめあい、再び貪り合うような口付けを交わす。何度も何度も、終わりが無いように、軟体動物が交合するような舌の絡め合いから彼らは逃れられなかった。微かに香る、ビスコッティの甘い香りと、サーフのミルクのような少年の体臭と、紅茶の馨りが部屋に満ちて、それが幸せだとその瞬間だけは信じきっていたのだ。

「僕が神になったら、殺してくれるかい?」
その問いに神妙な顔をしてヒートが頷くと、それでいい、とサーフは笑みもせず無表情に戻り、どこか虚しさを湛えた顔で膝を抱えては、ソファの上で眠りに落ちるように目を閉じた。
いつまでも、いつまでも、陽が落ちて夕暮れになるまで、ヒートはソファのアーム部分へ腰掛てサーフの髪を梳き続けていた。
いくらでも、従属しよう。
いくらでも、隷属しよう。
お前がサーフ・シェフィールドである限り、この関係性は持続し、そして何を以ってしても離れがたい感情と、雁字搦めの関係を続けよう。
──神になったら、殺す。
それは現在のサーフの願いであり、ヒートにとっての目標となった。
二人が、サーフが狂ってしまう以前の話。
すべては、サーフ・シェフィールドの歯車が狂ってしまう前の話なのだけれど。

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