【シェオブ】潰れる果肉
「幼い頃から、僕は誰とも分かりあえずに生きて死んでゆくのだと覚悟を決めていた。それは父に対しても、母に対しても、学校の級友たちに対しても変わらなく、僕は世界に絶望していた。絶望した世界が、どんな色をしているか君は知っているか? ああ、無理に答えないでもいいんだ。ただ、それは昏く沈んだ色彩を失ったもので、そして首元まで汚泥に浸かるような圧迫感と、沼の奥底に引きずり殺される感覚があるだけ。ただそれだけさ。──君、もしかして泣いてる? え、僕が辛いのが見えるようだって? ハハッ、馬鹿馬鹿しい。いいかい、良く聞くがいい。僕はそんな昏い世界のなかで、浸透圧をかけられるように押し潰されかけていた時、何が見えたと思う。そう、君だよヒート。君が見えたんだ。ハッ、信じられないって顔してるね、まあ、信じまいが僕はそこに君を見出した。君は構内でちょっとした有名人だったからね、余りにも冷たいアイスマンだっていう話は、僕の耳にも容易に入っていたのさ」
そこまで一気に話して、サーフは深く息を吐き、そして白いブランケットを纏いながら黒猫のようにベッドの上で丸まって、にたりと口の端を上げた。その流線を描くように歪められた口からは、綺麗な発音と少し高い声が転がり出る。十六歳と数カ月──まだ成長途中のその身体からは、完全なる男ではなく少年という成長過程の声がした。
わずかに伸びをしたすべらかな肢体が、シーツに皺を寄せ、真っ白なそれを蹴る踵は綺麗な肌の曲線だった。
健康的なはずなのに、どこか病的な雰囲気の漂うサーフを見てヒートは偶に息を呑む。そう、それは禁忌に触れるかのように人工的なうつくしさだったからだ。いま、ベッドの上で丸くなって寝転がりながら言葉を発していたサーフは別段、畏怖を感じる姿ではないが、それでも拭い隠せない足元から這い寄る暗い翳のような部分がある。
ヒートはベッドの上にいるサーフの姿を見ていることが、どことなく淫靡なものを見ている錯覚に陥り、そっと視線を外すとキッチンへ向かった。
「何か夜食でももてなしてくれるのかい」と軽い声でいうサーフを尻目に、そういえば冷蔵庫に桃があったなと思い出して白いキューブが連結したのような冷蔵庫を開けた。
バイト先で貰った二個の桃が、がらんとした冷蔵庫のなかに鎮座している様はどこか可愛らしい。
パックごと取り出し、そして銀色に光るシンクに置いて水を掛け流して軽く洗い、そっと手のひらに載せた。桃の表面にある産毛が、少しばかりざらついて面白かった。びっしり生えている産毛は、白く淡い。
フルーツナイフを手に取り、不器用ながらも丁寧にその淡桃色をした表皮を淡々と剥いてゆく。
少しばかり果肉も削いでしまうのは、愛嬌とみなしてもらおうとヒートは苦笑した。
やがて、少しのぎこちなさを滲ませた桃の果肉が、白い皿の上に細い銀色のフォークと共に並べられた。振りかえると、時間も時間、深夜二時頃だからだろうか──年相応の僅かな睡眠欲を眼に映したサーフがベッドでブランケットに包まっている。出会った切欠や、普段のパーソナルスペースの取り方が大人以上だと分かっていても、きっと根底の部分ではまだ少年なのだろう。
ヒートが桃の乗った皿をトレイに載せ、トレイごとベッドへ運んでやるとサーフがシーツに肘をついて上体を起こした。
「こんなに柔らかいの、よく潰さないで剥けたね」
「別に、俺でもこのくらいは出来るだろ。バイト先でキッチンに入ることもあるし」
ヒートは笑いながら答えたが、サーフはみずみずしい桃の果肉をじっと見つめていた。
「僕は駄目なんだ、そう、こういったものは全部潰してやりたくなる。だって、ナイフは簡単に刺さるし、指で押せばじくじくとそこから傷みが生じるだろ。苦手なんだよ、弱かったり脆すぎるものって」
そういって、桃の乗ったトレイを差しだしているヒートの腕をギュッとつかんだ。そして薄っぺらく表面だけの笑顔を浮かべると、「ヒートは押しても腐らないね、当然か。でも、刺したらどうかな」と言って咽喉の奥でククッと立てて笑ってみせた。
サーフは偶に、喋りながら高揚しているのが見て取れるときがある。それは今のような状態であり、何を考えているのかいまいち判然としないときだ。
腕をつかんだ手を離し、フォークも取らずにサーフは素手で皿の上に並べられた桃を一切れつまみ取ると、果汁が垂れるのも厭わずに口に近付け、一口齧った。
白く伸びやかな腕が、そこはかとなく綺麗だった。
そして果汁が齧った口元、手、手首を順々に汚してゆき、更に静寂のなかでぽたりぽたりと肘からシーツに垂れた。
果汁が垂れてゆくさまを見て、サーフは悪びれることもなく笑みを浮かべていた。
「ああ、待ってろサーフ。いまシーツを交換するから」
ヒートが真っ白いシーツを剥ごうとした瞬間、その手をサーフの果汁まみれの手が制止した。あたたかく少し厚みのある手に、薄っぺらくまだ成長途中の不完全な蜻蛉のような手が重なる。
「ヒート、僕が欲しいのはそんなものじゃないって分からないのかい? ──ほら、綺麗にしたいなら舐めろよ、親友」
目の前に、つまみ上げた一切れの桃と、桃の果汁したたる手首を出されてヒートは困惑した。舐めろ、と言われてもどうしたらいいのか次のステップが分からない。それは言葉通りのものなのか、それともまた違ったアンサーがあるのだろうか。
再度、果汁にまみれた右手を差し出されたが、不器用ながらも丁寧に切った桃の果肉が、ぐちゃりとサーフの手の中で潰れた。いままで点々と垂れていた果汁が一気に搾られるようにして潰されたので、びしゃっと指の間から飛び出してヒートの顔を汚した。
沸点を超え過ぎてサーフに対して怒るのも面倒になったが、桃の果汁が飛び散ったとき左眼に入り、ベタベタとしたそれはやけに沁みて涙を誘った。
「お前が変なこと言ったりしたりするから、眼に入っただろう」
「ふぅん、僕のせいねえ」
手の中で潰れた桃の残滓を行儀悪く口に運びながらサーフがにたにたと笑ってみせ、そして、「じゃあ、お詫びに君のを舐めてあげようか」と言った。
なにをする気だ、とは聞かせない有無を言わさぬ態度でサーフがヒートの腕を掴み、バランスを崩してベッドに倒れ込んだところを上から押さえつけた。そしてヒートの長く伸びた前髪を除けると、その左眼を狙い、ざらりと舐めた。
何度も何度も、ヒートの目玉をざらりざらりと舌を往復させ、喰いつくさんばかりの勢いで金色と白色の球体を転がすように舐め回す。
ふっと顔を上げたサーフが、「涙でしょっぱいね」と言う。
驚いたヒートがサーフを撥ね退け、後ずさると「そんな顔するなよ、ヒート」と苦笑された。
その苦笑する顔は屈託のない少年のものであり、純粋な昇華されたものに見えた。ただ一方で、それは得体のしれないものとして畏怖の感情が奥底から吐き気とともに競り上がってくる。
この少年は危険だと、近づいたら最後まで融かされてしまうとどこかで声がする。それはヒート自身の声だったが、視界は点滅を繰り返していた。
気が付けば、ヒートは二の腕をしっかりつかまれたままになっていた。
君は──、とサーフが珍しく思い通りの言葉が出てこないといった感じで、もどかしそうに口早に声を出した。生き急ぐかのような声だった。
「君は、僕の昏い絶望にみちた世界を新しく彩るのに、必要不可欠な人材なんだ──だから僕と一緒に生きて、そして死ぬ覚悟を持て、ヒート」
サーフが汚したシーツを取り替え、真っ白いシーツに戻すとどこか安心してヒートは深いため息を吐いた。
押さえつけられて強引に舐められた眼が、しくしくと痛んだ。
新しく替えたシーツの上で、早くもブランケットに包まっているサーフを横目に、ヒートもその隣に潜り込むとエアコンと同じくらいに冷えている肌に触れた。それはとても人形じみていたので、冷えていながらも人間の体温を保っていることに少々驚いたほどだ。何度、サーフの肌に触れてもそれは慣れないのだとヒートは思っている。触れるたび、生きているということに驚き、感謝し、そして畏怖する。
「ヒート、何してるんだよ。早く電気消すなら消して、寝ろ。電気が消えないと、僕が眠れないじゃないか」
まるで自宅のように傲慢にふるまうサーフを、どうしても嫌いになれないことを不思議がりながらヒートは照明を落とした。
僕と一緒に生きて、そして死ぬ覚悟を持て──その言葉はヒートのなかで渦となり、やがて睡眠という濁流に飲み込まれて意識は途切れた。
それは幸せの記憶。幸せだった記憶。
何があろうとも覆せない、サーフ・シェフィールドとヒート・オブライエンの二人のあいだにあった日常。