【シェオブ】フリークス

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 黒ダリアを一輪買った。
 それは大層、華美な一輪だ。
 不気味で薄暗くて世間の汚らしいところも知っていて、だけどその汚らしい生き方を自ら選んだような花だ。花屋で芍薬と迷ったのだが、黒ダリアの方が生命力にあふれている感じがして、僕はそっちの方を選んだ。芍薬のように触れたら崩れるような弱い個体は嫌いだ、すぐに死んでしまえる人間という存在も嫌いだ、僕は強くうつくしくしたたかに生きてみたい。
 このままヒートの家に行くか? ああ、でもあの家は花瓶になるようなものがなかったっけ、などと思案しながら寮までの道のりを歩む。
 寮に戻ると、部屋の前であの男――ヒートが座り込んでいた。
 いつも通りのイエールのロゴが入ったTシャツに、ジーンズだ。恥ずかしげもなく着ているということからして、彼と僕は相容れないが友人として続いているのも事実だ。
 しかし鍵は預けてあるはずだし、勝手に入ればいいじゃないか――と言っても無駄なのだろう。彼はそういったことにはひどく過敏で、他人のフィールドに入ることに対して、ひどく抵抗があるらしい。
 そっとグラシン紙と包装紙を外側に巻いた黒ダリアを抱きかかえながら、半分睡眠に持っていかれているヒートの爪先を踏み潰す。
「起きろよ、親友。寝てると寮長がくるぜ、」
 追い出されてもいいなら、ずっとそこで眠ってろ、まあ僕が部屋に入れないから結局のところどかすけど――と多少の苛つきを覚えながら、ヒートの爪先を踏んだ足に力を込める。
「……なんだ、サーフか」
 なんだ、じゃない。と僕は思いつつも無理矢理、寝ぼけているヒートに対して仮面のように笑顔を貼り付かせながら「上がるかい?」と聞いた。
 いつからだろう、もう大学生活は終盤に入っていて卒業するのが怖い、と洩らすヒートをカウンセリングでもするかのように話を聞くようになったのは。きっと今日も、愚痴を言う為だけにこの部屋を訪れたに違いない。
 半分寝ぼけているヒートを起こすと、左手にビニール袋を持っているの気付いた。
「またバイト先のサイドメニューか、」
「ああ、残念ながらボルヴィック二本しか持ってきてないけどな」
 まだ頭が正常に回っていないのか、こめかみに手を当てながらヒートは開口一番「頭痛薬あるか、」と聞いた。確かロキソニンと偏頭痛薬のマクサルトがあったはずだ。ドアを開けながら、普通の頭痛なのか偏頭痛なのかを聞くと「……偏頭痛だな、これは」と答えられたので、青いパッケージからマクサルトを渡す。
 いつも二人して座る椅子ではなく、普段僕が寝ているベッドに座るとそのまま上半身を横倒しにした。
 余りの手の焼け具合に苛つきを通り越し、張り付かせた笑顔で見ていると「なんか、悪ぃ」と小さな声がした。
 悪いと思うなら、僕に頼らなければいいのに。
 悪いと思うなら、ここに来なければいいのに。
 長身の身体がベッドに横たわっているのはどこか石膏像のオブジェのようだった。
 僕はそんなことを思いながら、テーブルの上に放置してしまった黒ダリアを包装紙をそっと剥がし、茎の根元に縛ってある吸水した脱脂綿とアルミホイルを丁寧に取ると、花瓶を軽くゆすいで水と栄養剤を何滴か入れた。いつだったか花屋の店員が話していたが、この栄養剤を入れるだけで寿命も延びるし、何よりも色持ちよく長いあいだ咲くらしい。
 黒ダリアは僕にとって果てしないほどうつくしく、そして目を奪われるものがあった。
 そんな花は、栄養剤なんかを入れないでも萎れてゆくさまもうつくしいものだ。ただ、店員に入れろと言われた日から僕は律儀に水に溶かし、花を少しでも長く咲かせるべく、黒ダリアの下僕と化す――。
 どんな花を見ても心の動かされない僕が、唯一、花として許すのはこの黒ダリアだけだ。小さなつぼみも幾つか付けて、あと数日でまっ盛りに咲かんとしているダリア。萎れたらダストボックスに捨てられるダリア――人間そのものだ。
 偏頭痛薬を飲み、しばらくベッドで安静にしていたヒートがゆっくり起き上がる。
そして、僕の意思を無視して「花、きれいだな」とへラッと笑う。その笑みは無垢なものに近く、どれだけ傷つけても結局は僕のところに帰って来てしまうのが憎しいが、ごく稀に愛おしく感じるときもある。
「折角持ってきてくれたんだから薬で胃も荒れるし、ボルヴィック飲むかい」
「何だか本当に悪ぃ、迷惑かけて」
 悪いだって? 僕と君とは親友じゃないか、ひとつの事件で結ばれる前から君の存在は知っていた、ある程度の噂は手に入れていたし教授が殺されたときに盗聴器をはずしにいったのは半分偶然で、半分はヒートに接触を図りたかったからだ。
 そんなことを考えていると背後から「サーフ?」と疑問を含んだ声で彼が呼んだ。
 彼は大型犬のように、すべてのことに嗅覚が利くのを認めざるを得ない。ただ、その察知がちょっとでも遅れると致命傷になることを分かっていない。
 このような時、僕はなるべく無邪気な年相応の笑顔を貼り付けて「なに、」と聞き返すしかない。ヒートが妹を思い出すように、自分よりも若年者に弱いのを知ったのはあの話があってからだ。
 可哀想なヒート、憐れなヒート、過去に縛られているヒート。
 それらはすべて怯えというものを含んでいて、怯えの元凶をたどるとすべては彼の妹のところに到着する。そんな彼に対し、僕はなるべく今更だが警戒心も何もかも解いて(見せている)振りをしながら「どうかしたのかい、ヒート。ああ、待てよボルヴィック出すから」とゆっくり諭すように返事をする。
 起き上がったヒートの横に座ると、僕は自分で持っていたそのペットボトルの蓋を開け、何口か飲んで口に含むとおもむろにヒートの方を向いて口付た。
 僕の口腔内で一旦ぬるくなった水は、強引に口を開かされて僅かに抵抗したヒートの口腔に満たされ、完全に生ぬるくなり、彼はそのまま嚥下せざるをえなくなった。
「お前なあ、いい加減こういうのやめろ」
「やめて欲しくないくせに、」
 口唇を離すと、ヒートは僕を非難する。その非難のなかに、僕には敵わないと言っているのがまざまざと見え隠れするので、僕は思わず笑う。
 ヒートは自分の言ったことを笑われたのが不快なのだろう、開いていた脚を閉じて、再び上半身を僕のベッドの上へ倒した。
 ――何も見たくない、何も聞きたくない、とでも言いたげに両腕でアイマスクをするように両目を覆った。
 無理強いして犯しても、誘導して犯してもよかったのだが、今日の僕は黒ダリアを買えたことでご満悦だったのでそれは次回にしようと思った。
 黒ダリアは部屋のなかで圧倒的な存在と違和感を放ちつつ、薄っすら開いたつぼみという無限の可能性を感じさせるところを僕は気に入っている。それは僕が経過観察のように見ているヒート・オブライエンという男と通ずるところがある。きっと彼はいい研究者にも医師にもなれるのだろう、僕らが大学を出たら二人は離れてしまうかもしれない。こんなにも、こんなにもヒートを手に入れるために策を練っているのを今更邪魔されてたまるか。
 ――彼は、僕の所有物であり親友だ。
 慣れてきた癖に耳まで赤くしてそっぽを向く友人に対し、僕はにたりと笑いが張り付くのを感じながら「ヒート、」と無邪気さを装った声で彼を呼んだ。
 彼は年下であるというだけで、僕を許す。絶対的に、彼は僕を許す。
 たった二年という差しかないのにも関わらず、彼は僕のすることすべてを邪魔しない完璧な存在だ。
「なんだよ、」
「僕は、君が好きだと何回言えば信じてもらえるんだい」
「……信じ、ていいのか怖いんだ」
「何かを疑っている?」
 僕は次の答えを待ちながら、ヒートから離れてテーブルの上に飾ったダリアの花弁をなぞっていた。余り、人間が触れるとそこから傷んでしまうと花屋の店員から聞いたが、これを買ったのは僕だ。触るくらい好きにさせてくれと思う。
 僕の所有物が、いつ傷もうとも腐ろうともそんなことはどうでもいい。
 そして早く答えるんだヒート、僕が君という絶好の玩具から離れていかないうちに面白がらさせてくれ、なあ、親友。
「疑ってなんかない、ただ――怖いんだ」
「怖いって、僕がかい?」
 わざとおどけたようにいうと、静雄が頭を振って「現状と未来が、漠然と怖いんだ――もう帰って来られなくなる気がして」
 馬鹿だな、君は。と笑いたくなった。
 僕らには栄光の席が用意されている、いや、もう数カ月でそこに座ることになるだろう。それが今更怖いだって? 躊躇するのか、ヒート。
 そんな愚かしい彼を横目で見ながら、僕はそっと小声で「大丈夫だよ、」と繰り返し囁いた。
「大丈夫だよ、ヒート。僕は君と一生親友だし、離れないと誓おう。それは真実だし約束するさ」
 サーフの買ってきた黒ダリアが、花瓶に入っているにも関わらず首を振った。
 
 僕はそのとき言ったことなんてすっかり忘れていたが、ヒートは覚えていた。
 EGGに配属になり、学生時代の飢えを取り戻すかのように、互いに充てられた狭くも広くもない部屋のシングルベッドで僕らはセックスを繰り返すようになった。獣染みた行為のくせに、ヒートという男は物扱いするように粗雑に扱い、無理をさせればさせるほど興奮して嬌声を上げる。捲りあげたシャツを白衣の端で、声を噛み殺しているのがとてつもなく可愛らしい生き物に見え、僕は興奮をおさまらせ切れない。
「サーフ、」
 セックスの最中、ヒートが喘ぎ声でもなく明確に名前を呼んだので僕は目を合わせて「なんだい、」と聞いた。
 やがて、細々とした声で彼が――ヒート・オブライエンがアイスマンの異名を覆すように汗だくになりながら、「やっぱり俺は怖いんだ」と言った。
 今更か、と思ったがその時も「大丈夫だよ、」とたしなめた。
 何度、何夜もそんなことを繰り返していると、言葉のルーティンと化して来ていてその本質が掴めなくなっていたことも事実だ。
 お優しい慈悲深いヒート先生には、ちょっと今の仕事は荷が重すぎるかな――と思ったが、ヒートはまた違うことを言いたげだった。
「お前がEGGに来て、変わったことが少しだけ怖いんだ。逃げ場もない、逃げようもない、ただ子供達を実験に使っては狂い死にさせる、そしてその一旦を担って担当するのはお前だ――何もかもが間違っている気がして」
 そこまで言ったのを確認すると、まだ何か言いたげだったが「黙れ、」と言ってヒートの口唇を食むように噛んだ。
 それを振り解き、なあ、と懇願するような目で見られる。
「俺とサーフは一生涯の親友だって言ってたのは、本当にいまでも約束されてるのか?」
 分かっているくせに。
 もう後戻りは出来ないっていうことを、分かっているくせに。
 ヒートを扱い易くするために、僕は呼吸をするように嘘を吐く。
「そうだよ、僕とお前は親友で誰の入る余地もない、たった一組の友人同士じゃないか」

 それを思い出しながら、ヒートは自身を貫いた弾丸の銃創とともに、異形と化したサーフ・シェフィールドを見つめていた。
 もう人の言語が通じないのか、何度か力を振り絞って名前を呼んでみたものの、返事は無かった。返事の代わりに、ヒートはモニタと管制コントロールパネルに押し付けられながら、肩の肉に歯を立てられていた。皮膚が破れ、皮下脂肪と肉、骨に当たるのが分かる。
「ははッ、遠慮……しないで、喰え、よ、親友」
 肩の肉ががばりと剥がれる感触がした、まだ骨は持っていかれていない。しかし、サーフであった存在を避けようという考えは、ヒートにはなかった。皮膚が、肉が剥がれる。ヒートはとっくに痛みという感覚を失っており、失血で壁を背後にしながら崩れ落ちんばかりになっていた。
 ただ、その異形の生き物と化したサーフの血みどろの口に、喰らわれるのを覚悟しながらも口付た。様々な職員や看護師の血にまみれたそれは、酷く生々しい匂いを発していたが構わなかった。
 最期の口付けは血の匂いと味をたっぷりと含んでいた――ヒートは一頻り肩を喰らい、頸動脈を狙い頸筋に歯を立てんとしているサーフの呻きを聞きながら、長い悪夢でも見たかのように笑みを湛えながら意識を失って行った。

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