【イザシズ】63億人の星

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 どうやら、この星には現在六十三億人の人間がいるらしい。
 ──らしい、というのは臨也がその目で六十三億人という数を数えたことがないからだ。
 そのなかで奇跡的にも平和島静雄という男に出会い、そして更に奇跡的にもその男と渡り合っている関係にあった。即物的に言えば、セックスしてるということなんだけどね、と臨也はほくそ笑む。
 たったいま、幸せか不幸せかと問われたら、「どちらでもない。」と答えるだろう。静雄とセックスしている時間は幸せだ、だが、彼の心をすべて奪えているかと言ったらそうではない。だから、不幸せなのだ。折原臨也の精神構造は、平和島静雄を中心に動いている。それに、少々の金があれば充分だ。それが世間一般に言う、少々ではないにせよ、静雄と金があれば臨也は幸せだった。少なくとも、そう思いながら、ワインとビールとチーズの入った袋を提げて静雄の住むアパートの前にいた。
 わざわざ渋谷にまで寄って、フレーバードワインとギネスビールを買ってきたのには訳がある。フレーバードワイン、チンザノ・ベルモットは蜂蜜の入っている口当たりのよさとまろやかさが好きだったので、静雄が飲むかどうかなんて関係なかったし、彼がビールを好まないことは知っていた。それにギネスビールは、まあ、安い発泡酒ばかり飲むよりはクリーミーな泡の立つビールを飲んだ方がいいだろうとの考えで選んだのだ。
 渋谷の、数年前には丸井だった建物がいつしかワインセラーになっていたことに気付いたのはいつだっただろう。臨也はあまり渋谷には来なかったので、気付くのが遅れたのかもしれないと思った。広めのカフェの隣に、そのワインセラーはあった。チーズも扱っているというので、店員の勧めに愛想笑いを返しながら数種選んで買ってゆく。
 この寒いなか、異常なほど暖められた電車に揺られるのは好みではなかったので、明治通りに出てタクシーを拾う。運転手はやたらと喋る男で、臨也は上の空で相槌を打ちながら「池袋まで、」と言った。ラジオから流れてくる音を適当に聞きながら、窓の縁に肘を立て、頬を乗せながら「あ、この曲知ってる。」と思ったがなかなか曲名が思い出せない。それは、自分の誕生日を忘れてしまっているような、重大なことをいとも簡単に忘却できる感覚に似ていて気持ちが悪い。ハッと思い出したのが、『ブラック・イズ・ザ・カラー』だった。海外の民謡なんてどこで聞いたかなと思いを巡らせれば、高校時代の音楽の授業で習ったことを引きずるように思い出す。
 静雄も、『ブラック・イズ・ザ・カラー』のように、黒は私が心から愛する人の髪の色、だなんて言ってくれれば可愛げのひとつもあるだろうに。そう思いながら、一度もブリーチで痛めたことのない黒髪に手を透かして臨也はにやりと笑った。ビロウドに似たツヤが光るその黒髪は、どこか不吉な黒猫に似ている。

 「で、何で手前が鍵開けてここにいんだ? 臨也くんよぉ。」
 「愛するシズちゃんの為に、合鍵作っておいたんだけど何か悪かった? ほら、今みたいにいざって時があるじゃない。」
 静雄のアパートのドアを開け、靴を脱ぎ、さも自然であると言わんばかりにジャケットを脱ぎながら、片足でざっと雑誌の束を避けてテーブルに荷物を置いたところだった。
 目を擦りながら布団から起き上がった静雄が、臨戦態勢を取りつつ臨也を睨みつけていた。その頬は少し赤らんでおり、目も潤んでいる、息も途切れ途切れであったし、普段の静雄を知る人間が見たら目を疑いそうな様子である。
 そんな静雄を横目に、テーブルに置いた荷物を解きつつ、「こっちはフレーバードワインでー、こっちはギネス、こっちはチーズで、ああ、あと水分補給にポカリね。」などと淡々と確認している臨也がいた。
 「インフルエンザって聞いたから来たんだけど。あー、俺はシズちゃんに伝染されるなら本望かなあ、しっかし本当に高熱出てるっぽいね、何それもしかして力入んないの? あははははッ。俺は毎年ワクチン打ってるから、ご安心を。」
 ぐったりと布団に突っ伏している静雄を見ながら、「へー、結構綺麗にしてるんだ。あ、コップ借りるね。」などと言いながらビールを開け始めると、「ちょっと待て、俺も飲む。」と疲弊した声がした。
 布団から這いずり出てテーブルの前に座った静雄は黒いスウェット姿で、いつものバーテン服とのギャップが激しいが、それがまた臨也の視覚を脳まで伝えてダイレクトに刺激する。簡単に言えば、そそられる、ということだ。
 「シズちゃんはまずポカリで良くない? 俺はギネスとチーズにするけど。」
 「そこにあるワインも水分だろうが、いいから酒よこせ。」
 「それとー、シェーキとポテト買ってきたけどこっちもいる?」
 「あああああ、もう! 何なんだよ手前は! さっさとそれを言いやがれ!」
 病人なんだから大人しくポカリ飲んでおいた方がいいのにな、とか臨也が言っている最中も、ひったくるようにして静雄はファーストフード店の袋を開けていたし、ワインよりもビールよりも冷えたシェーキが良いと思っていた。
 バニラシェーキを両手で抱え、「これ、変なもの入ってねぇよな?」と聞く顔があまりにも可愛かったので、「入れてたらどうするの、」と聞き返すと「殺す。」と答えられた。
 結局、テーブルの上に並んだのは、ポカリスエット一本、ワインボトル一本、ギネスビール二本、チーズ四種類、バニラシェーキ一つ、ポテト一つ、となった。静雄はよほどシェイクが好きなのか、珍しく臨也の前で緩んだ表情を見せたままストローを噛むようにして飲んでいた。
 ストローの中にバニラの生成り色をしたシェーキが上がっていくのが見えて、それが静雄の口唇に消えてゆく過程が見える。臨也はそれで満足だったし、以前、ドラッグを仕込んだようにはしていなかったので、単に静雄の見舞いに来ただけだった。
 「美味しい?」
 「あー? 見て分かんねぇのかよ、美味いに決まってんだろ。」
 この寒い季節にシェーキを啜っている二十四歳が可愛くないだなんて言ったら、それは嘘になる──と、臨也は何度も反芻した。
 口の端に付いたシェーキを指で拭ってやると、びくっと小さくなって怯える静雄がいた。拭った際に、指についたそれを舐めると、確かに甘いな、と思った。甘すぎるほどだ。こんなに甘味料が入っていたものだったかな、などと思いを巡らせる。
 しかし、寒いのか暑いのかどっちなんだと聞きたくなるようなスウェット姿で、ジッパーを下げて胸元まで前を開け寛いでいるのだから、これは据え膳喰わぬが負けだろうと思いながら静雄の顎を上へ向かせると、「ぶっ殺すぞ、ノミ蟲。」と呻くように言われた。
 「はははッ、今のシズちゃんに俺が殺せるでしょうか?」
 「じゃあ、次、触ったら呪い殺す。」
 ──呪う、と言われてもシズちゃんに呪われるなら嬉しいんだけどな、とか思いながら大人しく引き下がれるわけもなく、シェーキを奪って両手を互いに組合わせ、その場に押し倒す。生憎と言うか、運がいいと言うかそこは布団の上で、静雄は一瞬きょとんとしたが状況を理解したのかすぐさまきつい視線を送ってきた。
 「触んなって言ってんだろうが!」
 「何で? 熱で暑いくらいならいいじゃない、シズちゃんが熱を出そうが死に掛けようが、俺はまったくもっての健康だから何も問題はない。」
 と、言うことで──などと言いながら押し倒した静雄と口唇を合わせる。それはいつも感じているように、見かけよりもしっとりとしていたが普段吸っている煙草の匂いがして、うがいをしたくなる。吸えと言われれば吸わないこともないが、煙草は別段、金を出して買うほど好きではない。ただ、それが静雄の匂いとなれば別だ。
 黒いスウェットの肩越しに顔をうずめると、ニコチンの匂いが漂ってくる。静雄の体臭は無臭に近いので、目を閉じたときは煙草が唯一の頼りとなる。
 「ほんっとに力入んないね、今日。何? 全然抵抗出来ませんってやつ? あっは、俺って運良すぎるんですけど。」
 「黙れ、このゴミ、カス、ノミ蟲野郎が! 離せ、」
 「ほら、俺って『離せ』とか『嫌だ』とか言われると燃えるタイプじゃない。だから、続きしてもいいよね。」
 口唇を割って、舌を入れると静雄の舌に絡めるようにして、わざとぐちゃぐちゃと汚らしい音を立てながらキスをした。静雄が逃れようと後ずさりするたび、引き寄せては深く口付けをする。喰らい合うかのように見えるほど、それは切羽詰ったものであったし、二人にとって精神的なデッドラインを超えそうなほどだった。
 人間の舌が絡み合うのは、ナメクジが交尾する光景にどこか似ていると臨也は思いながら、静雄の舌を吸い上げて軽く噛んだ。柔らかい舌の感触と、少しバニラシェーキの甘みがする口腔内はやさしく臨也の舌を待ち受ける。飲みきれないほど、余裕がないのか唾液が口の端から伝って太腿に落ちた。シェーキが入っていたカップは布団の上に転げ落ちる。
 「ふ……ッ、あァッ、だから嫌だって言ってん、あ、ひッ、」
 舌を食み、歯を立てると高い声が上がる。臨也が片手を添えた静雄の性器がスウェットの生地越しに勃ち上がってくるのが分かって、声を殺して笑った。
 「シズちゃんさあ、勉強してよ。俺が『嫌だ』って言うほど興奮するって知っててやってるわけ、本当は誘ってるの?」
 「誰が誘っ……あ、はァッ、やめろって、やめッ、」
 口唇を離し、耳朶を噛む。耳に舌を捩じ込ませ、舐めつくすようにしていると、より一層喘ぎ声混じりの甲高い声が上がった。平和島静雄という体躯のいい男のどこから、こんなにいやらしい声が出るのだろうかと疑問に思えるほどそれは臨也の性欲をそそる。
 高熱で視線が茫洋としている静雄を組み敷いていたが、布団の上に転がっているバニラシェーキが視界に入ったので臨也は面白いことを思いついたとばかりに、にたりと笑んだ。
 「シズちゃん、これ、好きだよね。」
 運良く中身が零れ出ていないそれを掴むと、静雄に見せるようにしてシェーキの中身を掻き混ぜた。混ぜることによって、尚更、濃いバニラの匂いが漂う。煙草とバニラシェーキという体臭をまとった男──静雄は、臨也が何を言いたいのか分からずに頷いた。
 「じゃあさ、これも好きでしょ。」
 そう言うと臨也が自分のジッパーと下着を下ろし、赤黒くグロテスクに勃ち上がった性器を静雄に見せると、そこへバニラシェーキを擦り付けて「舐めてよ、」といった。
 「シズちゃん、舐めて。」
 「だから、何度も言うように俺には『平和島静雄』と言う名前がだな──。」
 シェーキにまみれた性器を前にして静雄が訂正すると、臨也が口の端を上げて笑みを張り付かせながら続けて言った。
 「──静雄、しゃぶれ。シズちゃん、と呼ぶのがいけないならこれで満足かな、教えてよ。」
 何かをぐっと堪えるような顔をした静雄が、「トムさんに言われてるみてぇ、」と小さい声で呟いたのを、臨也が聞き逃すはずがない。そう、いつだって新宿の情報屋はパーフェクトなのだ。
 「何それ、はははッ、シズちゃんって自分の上司とやりたいとか思ってんの? てっきり、弟くん狙いだと思ってたんだけどねえ。」
 「ちっが、んんッ、はァ……ん、ぐぅッ、」
 静雄が布団の上に仰向けに倒され、半身を起こしている状態なのをいいことに、臨也は開いているその口へ性器を捩じ込んだ。普段なら噛み千切られそうな勢いであるものの、高熱が出ているせいでそこまで頭が回らないのか、静雄の口は性器を含んで盛大にむせ返った。それでも止まらない勢いで、臨也が食道まで犯すように静雄の髪を掴み、何度も何度も突き上げると涙目になっている静雄の姿があった。
 臨也が自分の性器に垂らしたバニラシェーキと、溢れ出る先走りの液がぐちゃ混ぜになって、静雄の口周りを汚していたことに、いたく満足すると、立て続けに繰り返し咽喉の奥目掛けて突き立てた。
 高熱が出ていることに対してか、それとも屈辱的な行為に及んでいることに対してなのか、溢れんばかりになっていた涙がとうとう頬を伝うころ、臨也は平和島静雄という男を征服した達成感というものに浸り、満足していた。
 グロテスクな性器が、もう何往復しただろうかというほどぐちゃぐちゃ言わせながら静雄の口腔内を犯す。頬張る静雄の頬は膨れたし、臨也は飽くことなく熱を持ったその中を満ちるほど感じていた。
 静雄の口腔内はやわらかい肉の感触がしていて、それは今まで女も男も苦労したことのない臨也にとってその肉のかたまりが静雄のものであるというだけで勃起出来るものだったので、自分のなかにあった新鮮さを珍しがってみたりした。
 何分、いや、十何分か経った頃、臨也が「そろそろいく、」と言った。
 静雄は自分の口の中に出されるなんてごめんだと思ったし、実際拒否したかったが、臨也が静雄の髪を掴んでいたので逃れられず「ごめん、シズちゃん。」と言うが早いか、激しく何度か口に腰を打ち付けるとその直後にだくだくと精液が流れ込んでくるのが分かった。青臭く、もったりとして苦いそれを口に含んでいるのは許せないと思い、頭痛が止まらずくらくらする中、立ち上がって台所の流しに臨也の放った精液とバニラシェーキの残骸を吐き出した。
 歯ブラシを片手に口をゆすぎ、何回も何回も口の中に溜まった水を吐き出すと少しは青臭さが取れた気がして、口直しに煙草吸いてぇな、と思った。

 ティッシュで後始末をした臨也は横から覗き込み、静雄が吐き出した精液とバニラシェイクと歯磨き粉が全て白かったので、「白いね、」などと訳の分からない感想を述べていたので殴られそうになったが、すんでのところでそれをかわして着衣を正すと、今度は平気で静雄の座っていたテーブルの向かいに座り、ポテトをつまみながらチーズの包装を破きだした。
 「シズちゃーん。食べないの、チーズ結構美味しいよ。」
 人の口の中に射精した挙句、勝手にテーブルの上に食料を広げて「美味しいよ。」は無いだろうと思ったが、冷蔵庫の中身が尽きているのも事実なので大人しく元の位置に胡坐をかいて座る。
 「……なんだ、その、トムさんのことは尊敬してるだけだからな。」
 「しゃぶれって言われて思い出すくらいに尊敬してる、と。はいはい、ねえ、いいからそろそろ俺のこと好きになってよ。」
 臨也が揶揄うように言うと、静雄が「普段だったらぶっ殺してる、つーか俺の部屋に上がった時点でぶっ殺す。ぜってー殺す。」と言い放った。
 しかし、思えば「好きだ。」と静雄に向かって明確に示した人間がこの世にいただろうかと思うと、家族と臨也しかいないことに気付いてしまい、思わず頭を抱え込んだ。
 静雄の常人離れした力のせいで、何人もの友人を失ってきた学生時代を振り返っては暗い気持ちになったが、いまはお互いの相談役としてセルティもいるし、何人かは高校時代から付き合いが続いている。だがしかし、「好きだ。」などと言われたことは数少ない。数少ないそれも、静雄の顔目当ての女だったりしたので、臨也が言う好きという単語についていけないときがある。
 多分、支配欲か征服欲なんだろう──と思いながら冷えたポテトに手を伸ばしつつ、片手で零れたシェーキの後始末をする。シェーキを見ただけで、それを塗りたくった臨也の性器が脳裏をちらついて苛付いたが、当の臨也はチーズの包装剥きばかりをして食べないで遊んでいた。どうやら、包装紙で器用にもボールを組み立てているらしい。
 確か──六十三億人、だったと思う。と包装紙で遊びながら臨也は思った。
 誰が数えたのだか知らないが、この星に存在している人間の数が、六十三億人いるらしい。
 そのなかで静雄と偶然出会って好きになりました、などとは口が裂けても腐っても言わないだろうと臨也は思う。静雄のことが好きなのは確かだ、そしてその感情は歪んでいて殺してしまいたくなる瞬間があるといってもおかしくない。寧ろ、暇があれば殺しあっていたい。ただ、静雄に出会わなかったならば他の対象を見つけていたのだろうと思う──そこまで思案を巡らせて、いや、シズちゃんほどの馬鹿力と馬鹿はそうそういないな、と苦笑した。
 すでに温くなったワインとギネスビールを見ながら、シズちゃんは飲まないだろうし新宿のマンションまで持って帰ろう、開けないでよかったな、などと思っていると静雄が手を伸ばした。
 その手に重ねるようにして、臨也も手を伸ばす。それは二人とも日に焼けていなく、臨也にいたっては青白い血管が浮いてみえたがどちらもしっかりした男の手であることには変わりなかった。
 「ねえシズちゃん──今度来た時、最後までしてもいい?」
 覗き込んで聞いた瞬間、振り払ってくれれば冗談だと引き下がれたのに、と臨也はこの時を後悔することになった。静雄は何かを考えるように手をどかさなかったし、臨也は重ねてしまった手を除けることも出来なく、二人してただじっと時が過ぎるのを待っていた。
 シンクの中では、捨てられたシェーキと精液と歯磨き粉の泡が、濁として混じり合っていたし、それらは二人の行き着く末をあらわしているようだった。

  

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