【イザシズ】1999の年7の月

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 1999年7の月、
 空から恐怖の大王が来るだろう、
 アンゴルモアの大王を蘇らせ、
 マルスの前後に首尾よく支配するために。
 
 このフレーズを当時、何度目にしただろうかと臨也は思い出した。実際は何も起きなかったじゃないかと嘲笑したくなる思いでその記憶を引きずり出し、池袋ジュンク堂の本棚に本を戻しながら口の端を引き攣らせるようにして笑った。
 『アンゴルモア』がアジア特定域をあらわしているだとか、『マルス』はフランスのことだとか、そんな類の噂が跋扈したものだ。──何も、何も起きなかった。そう、責任を取って全世界を大混乱に陥らせたノストラダムスは死ぬべきであると糾弾したくなるほどに平和な七月は過ぎていったし、ただひたすら暑かった思い出だけが残っている。
 新興カルト教団の教祖と信者が集団自殺してみたり、終末テロというものが流行ったりしてみせた。──そう、繰り返そうじゃないか、ノストラダムスは死ぬべきだと。
 ジュンク堂の空調は整っており、この炎天下のなかをまた歩くのかと思うと臨也を多少なりともげんなりさせたが、歩かなければ目的地に着けないことも確かなので、眺めていた本をきっちり本棚に押し込めたのを確認すると一階の正面玄関から出た。
 目的地、と言ったがそれは特定の場所にある訳ではない。
 臨也が目指しているのは、平和島静雄といった男だったからだ。
 静雄はこの炎天下の下も、あのバーテン服をきっちり着込んで取り立ての仕事をしている。ハンズ前のゲーセンの二階から、オペラグラスで眺めた限りはそうだった。西口も東口も行ったり来たりしながら、静雄は取り立ての仕事をする。ただひたすら、与えられたその仕事しかないといった風体で無骨で不器用ながらもこなすのだ。
 注意したいのは普通に出会うと殴りかかられるか、自販機やポスト、はたまたガードレールや標識を投げつけられるので迂闊には出会えない。なので、臨也は静雄の姿を見たくなったときはオペラグラスで眺めることにした。我ながら、レンズ越しに見る彼の姿に興奮するだなんて変態もいいところだと思ったが、それは静雄が悪いのだと頭の中で彼に罪を被せながら一人ごちた。
 真昼間、真夏の池袋は暑い──人が密集しているのとともに、アスファルトが灼けて靴底を熱する。靴底のゴムが焼ける異様な匂いがするようで臨也はオフィスから出るのを好まなかったが、静雄の姿を見るとなったら話は別だった。
 静雄の居場所を探すべく、なるべく目立たぬように移動していたのだが、丁度ハンズの前にたどりつく前でそれは起こった。
 背後から盛大な喚声が上がったかと思うと、想像したとおりの自販機が宙を舞って臨也目掛けて飛んできた。それは放物線を描くなんてことをせず、直線状に投げつけられたもので、周りにいた人々はモーゼの十戒のように避けた。
 「臨也くんよぉ、」
 あ、シズちゃんの声。と確認するまでもなく、吹き飛んできた自販機を避けた直後に恨みがましく発せられた声が聞こえたので臨也はフッと声の方を向いた。
 「池袋には来んなって、何回言ったら手前は聞くんだ? あれか? ノミ蟲の脳味噌なんて、とっくに消え失せてんのか?」
 高校時代から、言ってること変わんないなと思いながら体勢を整えなおし、ナイフを取り出して静雄と対峙する。真昼間の燦々と降り注ぐ太陽の日差しを浴びてナイフの刃がギラリと光る。何度こうやったことだろう、何度こんな感情の渦に巻き込まれかけただろう。臨也は感情と記憶を反芻して、余りの感情の氾濫に泣きそうになる。
 「何で来るかって、シズちゃんに会いたかったって言ったら駄目かなあ。ほら、俺って正直じゃない。──だから、会いたかったよシズちゃん。」
 本音を漏らしたつもりが、「やっぱりおかしい。絶対おかしい。手前の頭んなかが知りてぇくらいおかしい。」と喚かれたらしょうがない。ナイフで身体に刻み付けるしかないと思い、臨也は軽々と静雄の至近距離まで飛ぶように踵を蹴って踏み込み、ナイフを閃かせると静雄の首筋に一線を描いた。それは軽くだが皮膚を破り、まるで、ぷつりと言う音が聞こえんばかりに綺麗に切れた。
 臨也がいきなり懐に飛び込んできたので、静雄は一瞬反応が遅れる。そこを見て、「今度またセックスしようよ。」と小声で囁くと襟首を掴まれて身体が宙に浮いた。
 「いい気になんなよ、」
 「やだなあ、別になってなんてないさ。ただ、俺の気持ちを知って欲しいだけ。」
 「手前の気持ちだ? そんなもん知るか。いちいち俺の前に現れやがって、うぜえんだよ。」
 思ったとおりの反応だな、と思って襟首を掴まれたままの状態で静雄にキスをしようとしたのだが、それを察知したのか気紛れか、臨也は飛んでいった自販機のように投げつけられた。視界がスローモーションになり、ああ、飛び降り自殺してるときってこんなかな。などと臨也は思ったが、生憎にも人ごみの上に落ちたもので傷ひとつ付かずに済んだ。それが良いものか、悪いものかは別として人ごみがクッションとなった。
 静雄が更に歩み寄ってくると群集は避けていったので、臨也だけが路上の一角へ残される形となった。ジュンク堂で読んでいた本の内容を思い出す。

 『1999年7の月、空から恐怖の大王が来るだろう、アンゴルモアの大王を蘇らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために。』

 少なくとも、俺がシズちゃんと出会ってから人生は一変した。と臨也は立ち上がりながら考える。
 アンゴルモアが何なのか、マルスとは何なのかなど知らない。ましてや、その日付にも意味なんてないのだろう。ただ──恐怖の大王の代わりに、空から自販機が降ってくる生活になったことには変わりないのだ。脳内で本に載っていたノストラダムスの肖像画をグシャグシャと塗りつぶす。
 いつの世界にも、『情報』というものは必要不可欠なものだと、いまの仕事をしながら思うのだ。訳の分からない情報を流すから、カルト教団の人間は死んだし、終末テロに遭った人間もいる。馬鹿馬鹿しいなどといった程度ではない──情報に踊らされる人間ほど恐ろしいものはない。
 そんなことを思っている最中も静雄は近づいてくるので、「ああ、俺の終末はいまかな。まあ、シズちゃんに殺されるなら悔しいけど本望ってとこかも知れないし。」などと考える。
 臨也の前に仁王立ちになり、今にも殴りかからんばかりになったところに、「静雄、」と呼ぶ声がした。その瞬間、「トムさん!」と言って、忠実な大型犬のように従順という表情を見せた彼の顔を忘れまい。──そう、これは明らかな嫉妬といった感情だ。いったい誰が、あの平和島静雄に対してあんな顔を見せられていいと許可したんだと臨也は呪いながら思う。
 臨也の持っている簡単な情報によると、田中トムという静雄の上司は温厚で静雄を贔屓にしているということだ。
 ──許せない。
 許せない。許せない。許せない。
 彼は俺を見ていてくれればいいのに、俺に殴りかかってくればいいのに、なのに、あの一言だけで獰猛な彼を忠犬のように手懐けてしまえる男が羨ましかった。
 切れた口の端を拭いながら立ち上がり、静雄の背中を見送る。
 田中トムと並んで歩き出す彼の背中、その真ん中を見ながら、あの背中に思い切りこのナイフを突き立ててしまえればいいのに。と考えながらも、高校時代とは違うそれぞれの立場を思い知らされたようで口惜しかった。いつまで経っても、臨也は『昔』から足を抜け出せないでいる。
 平和島静雄という男に始めてあった時、静雄と初めて対峙した時、静雄の目の前から姿を消した時、静雄と再開した時、初めてキスした時、初めてセックスに持ち込んだ時──何もかもが静雄を中心に回っており、臨也がどれほど執着しているかというのが窺い知れたが、当の本人はそれに気付かずにいた。
 1999年7の月──そんなものは何もなかったのだと思う。暑い記憶と肌に残っているのは、うだる熱風だ。ただ、今年の七月、つまり今月は忘れることはないだろう。静雄が臨也に見せるのとはまったく別の顔を見せたとき、それは世界の終末にも、崩落にも、どれにも似ていて比べ物にならない日にちだった。
  

0