【イザシズ】緩慢なるその変化

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 血潮が滾るというのは、こんなときなのかも知れないと静雄は思った。
 それは、宿敵である折原臨也に池袋の裏路地で口付けをされているときで、何でこんなことになったのだろうとか、なぜこいつが性懲りもなくまたここにいるんだとか、そういったことを考える。
 そして、この男を殺してしまいたいと思うと血は滾り、体温が上昇してぐつぐつと煮える。
 臨也の口唇は、乾燥のためか少し乾いているが静雄のそれに合わせると、やわらかな温度を運んできた。そうだ、もうこの関係には慣れきっていてこの程度の口付けでは何も揺るがない。ただ――ただ少し、ほんの少し、哀切が混じる。自分はこの男にとって何なのかと考える、しかし毎回答えは出ない。恋人でも、セフレでも、何でもなく――外敵。目の前の男にとって、自分はいつでも社会的に消せる存在だというのに、それをしないことに長年疑問を抱いていた。そして、静雄は男にとって外敵の一人程度のものなのにもかかわらず、殺してしまいたいと考えては止まない。
 口付けをしている最中、黒いのに透き通るような艶のあるような髪が、静雄の頬をくすぐった。やわらかいのにコシと張りのある髪質で、一度も脱色したことなどないのかもしれないと思えるほどその髪は純粋な黒だった。鴉の濡れ羽色というが、現にそれは緑がかっている黒髪であり、真っ直ぐ下に下ろしている髪型は男に似合っていた。
 ぬらり、と舌が静雄がかたくなに閉じていた上下の歯を割って入って来た。
 男は――臨也はここが池袋の大通りから一本入った路地で、今が昼間だということを分かっているのだろうかと静雄は考える。だが、考えても考えても何も答えなんていうものは出ない。
 遠くでサイモンがビラを配っている声や、雑踏のざわめきがしていた。ああ、今日はハンズ近くのマツキヨが安売りなのか、などと口付けをしながらムードも何もないことを思う。だって、そうだろう。臨也と静雄のあいだにはもう甘ったるいムードなんてものはなく、単なる習慣としての行為がこの結果なのだろうから。
 曇天の空が池袋のすべてを見下ろしている。
 上下の歯を開け、目の前の男の舌が好き勝手にするのを見ていたが、舌の触れ合うことがこんなにも快楽を運んでくるだなんて静雄はこの男に出会うまで知らなかった。
 無知なのではなく、体験する機会がなかった。ただ、それだけだ。
「――んッ」と上顎の裏を舐められて静雄がくぐもった声を上げると、臨也はにんまりと目で嗤う。おもちゃが自分の好きなように動いて楽しい、といった顔だ。静雄の力を以ってすれば、臨也などは簡単に吹き飛ぶだろう。そして、パルクールだか何だか知らないが、まるで猫がきれいに着地するように地に足を付け「酷いなあ、シズちゃん」と嗤うに決まっている。それに抵抗するのも体力がいるのだと、静雄は知っている。だからという訳でもないが、余程のことがない限り最近の静雄は臨也の戯れに付き合う。
 静雄が抵抗しないのをいいことに、臨也はバーテン服の蝶ネクタイを外し、シャツのボタンを上から外し始めた。さすがにそこまではやばいと思っている理性と、どうせこの道は誰も通らないから流れに任せようとする惰性が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになる。思考のなかは、絵の具をチューブから出して掻き混ぜたような、そんな汚らしい色になる。
 臨也の赤い目が、先日、仕事帰りに眺めた皆既月食の月みたいで、静雄はそれを素直にきれいだなと思い出しながら舌を絡められるがままにされていた。
 皆既月食の、満月が徐々に欠けてゆくさまは見ものだったが、どこか不気味だった。そう、幼いころに幽とも見たが、まるで世界が浸食されて消えてゆくようなそんな不安感と焦燥に駆られる。月食とは静雄にとってそんなものだ。
 その忌避したいものに、臨也の双眸は似ている。暗褐色のそれは、光が当たると真っ赤に見える。
 口唇を離してシャツのなかに手を入れながら、臨也が「黙っちゃって、シズちゃんらしくないね」と嗤った。別に黙っているのは手前と喋ることなんかねえからだ――そんなことを言いたいのだが、静雄は言葉を失ったように口を噤んでしまい、臨也はニタニタと笑みを張り付かせていた。
 ――赤い月のような丸い瞳が静雄を射る。臨也が静雄のシャツのなかに手を入れて胸をまさぐるのも、口付けをするのも、何もかも恋情から湧いて出るものではなく、ただ駒やおもちゃとして使いたいからなのに決まっている。少なくとも、静雄はそう思っている。女相手なら通用すんじゃねえかなとか、静雄は色々考えるのだが男相手にするのも慣れているようなので、節操ねえ奴だな。と思った。
 それが、茨の棘のように静雄の心臓にちくりと刺さる。
 その棘は毒を含んでいて、心臓から柘榴色の血液が循環されるたびに『折原臨也』という不純物を全身に巡らせるのだ。だが、それが循環するのは不快ではない。いや、最初出会ったときは不快この上なかったのだが、年々歳を重ねるたびに慣れてしまった。
 ナイフが、トラックが、標識が、自販機が、ガードレールが、ゴミ箱が、ポストが二人の諍いを長年見ていたが、こんな形に落ち着いたのは奇跡に近いに違いない。
 そんなことを考えながら臨也が静雄の胸元にキスマークを付けた時、静雄は低い喘ぎ声をあげながらマツキヨでクリスマスセールをやっているという店員のがなり声を聞いていた。
 どうやら本日はクリスマス特別セールと言っているらしい――クリスマス? そうだ、今日は二十四日、クリスマスイヴだ。
 首筋を噛まれ、消え入るような声で「臨也」と呼ぶ。サービスしてやろう、静雄は不意にそう思った。キリスト教徒でもないが、冬の行事のひとつとして定着したクリスマスだ、祭りのように浮かれるこの日には少し、ほんの少しのサービスくらいしてやってもいいだろう。「臨也」いとおしさを込めて、そう名前を呼ぶのは初めてではないかというくらい、それはおだやかな声だった。
 何度も心のなかで呼ぶ。
 臨也、臨也、臨也――殺してぇ。
 気付けば、曇天からははらはらと粉雪が舞い降りてきていた。二人の髪や肩に降り積もるのだが、それも体温でやがて融けてゆく。その様がひとつの絵画のように、ひたすら折原臨也という男を飾り立てていたので、静雄は見つめながら立っていた。
 雪に気付いた臨也が、静雄のシャツから手を引き抜いて「シズちゃん、今日休みだよねえ。渋谷のホテル押さえてあるからさあ、そこで食事でもしない」と何でもないかのように言ったあと、「クリスマスイヴ、俺と過ごしてくれる?」と控えめな声で聞いた。
 臨也のそれは確信的であるのに、静雄はいつも墜ちてしまう。
 だが、たまには自分から進んで墜ちるのもいいかも知れないと思いながら頷いた。
 普段よりも街中騒がしい池袋を出て、山手線で渋谷へ移動する際、臨也がそっと静雄の右手を取って手をつなぐ。普段だったのならば振りほどいて殴りつけようとするところだが、今日だけは――許してやろう。静雄はそう思いながら臨也の左手の体温を感じ取っていた。
 冷たく細い端麗な指と、それよりは少し関節のしっかりした指が絡まり合い、別に幸せなんてないのだけれどこうして雪降るなかのイヴを過ごすのは悪いものじゃない、と二人はそれぞれの思いを秘めながら渋谷駅で降車した。

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