【イザシズ】うつくしい人の名前

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 短くなった煙草を口唇から離す、そしてその吸殻を銀色に光る空き缶の中へ落とす。
 あの男が飲んだビールが少し残っていたのか、ジュッと言う湿った煙草の断末魔を聞かせながらほのかに灯る先端の火は消えていった。
 静雄は次の煙草をパッケージから出して喫いながら、床に散乱した一万円札を何の感動もなく眺める。あのおぞましさを覚えるほど憎い男が、静雄とセックスをするたびにばら撒く金だ。なぜ、そんな男に身体を開くのかと問われれば静雄は口を噤むだろう。分かりたい、分かりたくない――金が欲しい訳じゃない。だが、あの男と静雄のあいだに金というものがないとその意味が曖昧になるから搾取出来るならばそれを口実に身体を繋ぐ。金は静雄が男を憎むための理由でありツールだ。
 微かに空き缶の底に残っていたビールと、煙草の火が接触した匂いが、部屋に充満した。静雄の部屋は万年床ではないが、男が来る日はタイミング悪く布団が敷いてあることが多い。
 あの男――折原臨也は意地が悪い。
 性根が捩子曲がっているといえば正しいのか、それとも性悪説というものが具現化したとでも表現すればいいのかわからないが、何かプラスのことをしたかと思えば裏で手を引いてマイナス要素をもたらしてくる。特に静雄を憎んでいることを公言してはばからないのだから、臨也と静雄を知っている者ならば二人がこの狭い部屋で先程までセックスなどという密な行為をしていたとは思うまい。
「ノミ蟲のせいでやり過ぎて死ぬ」腰を押さえながら、思わず声が漏れるのを悔しく思いながら静雄は放り投げ出しておいた下着を拾って穿き直し、それから所在なさげに点々と散らばっているジャージとシャツを着た。静雄は初めて臨也と寝たとき、酒の勢いもあったがいつもの殺し合いをするときほど抵抗しなかった。半裸になった臨也の肩や二の腕を引っ掻いた際に流血したぐらいだ。その時、静雄は「こいつ、男ともやり慣れてるんだな」とぼんやり思った。それほど臨也の抱き方は不自然さというものを内包しながらも隠しており、そして静雄は無理に挿入されなかったことに情けないながらも安堵を覚えていた。男同士でセックスをする場合、必ずしも挿入行為が必須ではないと知ってから、少しは気がほぐれたのか度々静雄は臨也に抱かれる。それでも二人の持つ憎悪の火が消えることはなく、昼間は仕事の合間に自販機をぶつけようと必死に追いまわしたり、見つければ額に血管が浮いたりナイフでバーテン服を切り裂かれたりしている。まさか、先程まで静雄が座位になって性器を擦り上げられ、声を上げるのを堪えて下唇を噛み切りかけたなど想像はつかないだろう。
 いまとなっては理由は忘れたが、いつものことで自室にて臨也と派手な喧嘩をしたことがある。安普請のアパートであるからか、二三度怒鳴ったところで隣人が荒々しく壁を蹴ってきた。――つまり、二人のセックスはどちらかが声を上げれば簡単に筒抜けになるということだ。それ以来、声を上げさせようとする臨也の性格の悪さと、恥じらいというものが常識的にある静雄は拮抗している。
 ――シズちゃんって、全身弱いよねえ。女の子みたい。ああ、自分で女の子抱く前に来神で俺に抱かれたから分からない? すぐに肌が上気するところとか、声上げたいのに我慢しちゃうところとか、爪先まで性感帯なところとか可愛くて嫌いだなあ。可愛いから嫌い、綺麗だから殺したい、ハハッ、君にこの心理分かる?
 数十分前、喘ぎ声を噛み殺しながらも小さく熱っぽいうわ言のようにその憎い男の名前を呼ぶ静雄の性器を上下に扱きながら、臨也はそんな冷めた声を投げ掛けていた。密かな声で「臨也」とその名前を呼べば、少し下から見上げて無言で射るような視線で刺される。なぜこんなにも脳髄を引っ掻きまわされるのか分からないほどの苦しさと切なさで、涙は出ないものの、いまにも泣きそうなひりついた声で静雄は「臨也」と繰り返し呼ぶ。その声を静雄は自分で聞きながら、臨也は女とセックスするのと自分とこうしてセックスまがいの行為をするのは、どちらが好きなのだろうと思うのだ。女のように挿入すべき膣は無いし、突っ込めと言いたくてもいざ肛門に挿れろというにはまだ勇気が足りない。戯れに静雄を抱くには丁寧に時間を掛けている臨也が、内心は飽きているのではないかという疑念が湧く。飽きられたらそれまでで、いままで通りの殺伐とした触れようとすれば皮膚一枚が即座に切れるような空気の関係に戻ればいい、と静雄は思っている。元々、酒の勢いで始まった関係だ、いつ終わりを告げられても不思議ではない。
 赤い目をした男の冷ややかな手が徐々に熱くなって性器を擦り上げ、射精してからぐったりとしている静雄を余所に、当の臨也は着衣を正して財布から万札を分厚いほど引き抜くと「このくらいでいい?」と言いながら布団の上にばら撒くのだ。静雄に拒否権はない。酷く一方的に叩きつけられる。ただ、それらを返すのも癪な上にこれは金を搾取しているのだという強気な意思があるので、静雄は毎回その金を受け取る。
 今夜も臨也はほぼ同時に吐精したあとの静雄の上へ、一万円札を引っ掴んでばら撒いて帰った。
 静雄は髪を掻きあげながら起き上がり、臨也の撒いた金を拾い集めた。何の意味があって、臨也が金を払うのかは分からない。ただ、静雄は毎回胸のなかにぽっかりと残る虚しさを上書きするように金を拾っては、丁寧に手でプレスする。今日は全部で十四枚散らばっていた。それらの金は生活費になることもあるが、大半は無造作に茶封筒に突っ込まれたまま、箪笥の一番底にしまわれていた。
 いままで受け取った金を全て返してしまおうかと思い、静雄はテーブルの上に置かれた携帯を取り上げると、臨也へ発信しようかと躊躇した。
 金があるから、搾取しているから、だから上位に立てる。静雄は別段金が欲しい訳ではない、ただ、それらを受け取っているあいだは臨也に“金を払わせる存在”でいられるのだ。金額は関係ない。抱かれる静雄の身体に価値があり、そしてその価値を臨也が決め、決められた金額を受け取る。その殺し合い以外で、臨也よりも上位に立てるツールを手放すことは正しいのかと迷った。迷った挙げ句、静雄は発信しかけた通話ボタンを急いで切った。
 しばらく携帯を握りしめて見つめていたが、突然、手の内の携帯がけたたましく鳴り響いた。
 ディスプレイを見ると『折原臨也』の四文字が整列している。多分、静雄がさっき発信した際に着信履歴が残ったのだろう。それを見て掛け直してきたに違いない――だが、その存在は呪縛だ。
 それは来神時代からいまに至るまで、静雄の脳髄を引っ掻きまわしている忌まわしい男の名前。ナイフを巧みに扱い、パルクールで跳躍しながらビルを渡り、にたりと笑いながら赤い目を細めて嗤う、平和島静雄を振りまわす唯一無二のこの上なくとてもうつくしい男の名前――。

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