【シェオブ】アクアリウムパラドクス

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

僕に不純物が混ざる瞬間、それはいつなのだろうとぼんやりと日待ちにしていた。
純粋な=スターリング。
イメージの中で混ざるのは決まって赤で、まるでモノクロ映画の中に一人紛れ込んでしまったかのような感覚を僕は生まれたときから持っているのだ。
誰も入り込めないここに、壁を打ち破って色をマーブルに染める誰かをずっとずっと待っている。僕は日を追うごとに腐っていき、腐臭を漂わせる。
それはゆっくりと見た目だけでは分からない変化で、実の僕自身も腐っていく速度は分からない。ただ、腐るという事実があるだけだ。確実に訪れる死と同じように、それは進行し、真っ白な綿毛のようにふわふわとしたカビを浮かばせて腐敗する。
カビは赤いものもあり、青いものもある。ただ色と少しの物質が違うだけだ、現象は同じく醜くそして美しい。
僕は腐るんだ。
ふっ、と掠めたその思いは徐々に思考の片隅から中央まで浸透し、やがて思考の大部分を覆い尽すと進行を止めた。不純物が混ざれば、腐敗の速度も加速する。

スターリングな僕にそれを混ぜるのは、
ヒート・オブライエン。
その名前しか出てこない。

彼の侵食は止まない。僕の領域を侵し、視界に映りこみ、そして感情さえも少なからずゆがませる。今までどんな人間さえも歪ませることのなかったこの僕を、彼はじわじわと締め付けるように侵略し、そしてそれを無意識に行う彼を僕は嫌いになりきれないでいる。
好き?
彼を?
この僕が?
好きなのかさえ分からないこの感情を、僕は「好きだよ」という言葉でいつも誤魔化す。
彼をではなく、自分を。

ひんやりとした、肌に吸い付くガラスの感触で覚醒しながら、僕はヒートの顔を思い出そうとした。
天井まである分厚いガラスの中では、色とりどりの魚たちが見世物として乱舞している。舞うというよりは落下にあらがっているような、その一生懸命でけなげな泳ぎに魅せられて、そっと手を触れるとまた体温を奪うような硬質な感触が手を伝った。
我儘をいって無理矢理ヒートにつれて来させた水族館は平日だからか人もまばらで静まり返り、まるで水に飲みこまれた後のような静寂を保っている。
僕は、混じりけのないようで本当は汚れにまみれている。
────蹴落としてきた人々、多くの踏み台。
それを洗い流すような大量の水が欲しくて、飲み込まれるような水流が欲しくて水族館に行こう、と誘った。
僕の外見が君だったらよかったのにね、とふと思ってしまい、やっぱり違うね、ヒートの外見でヒートの中身だから僕は好きだと錯覚できるんだと思った。
アイスマンやスチールな彼なんて見たことがない。彼はいつでも暖かく、降ったばかりの淡雪を容赦なく溶かす陽の光みたいだ。あぁ、なんで彼は純粋なまでに残酷なんだろう。そしてなんで僕は彼に惹かれるのだろう。
「好き。」
違う、ちょっとした数ミリの違いでそれは「好き」じゃなくて「惹かれる」になる。
この水槽の中で魚たちが流れに抗うように、僕は自分自身の気持ちに抗うがそれは摂理だとでもいうかのように、自然に僕を慣らしてゆく。
この間、彼を自分のものにしたくて、キスをするように仕向けてみた。そして彼はその罠に気づかず、そっと溶けるような口付けをした。本当にそっと、まるで触れ合うだけで壊れてしまうんじゃないかと気づかってるような、そのくらい優しい口付けだった。

毛足の長い絨毯がフロアに敷き詰めてあるので、いくら移動しても足音が立たず、僕は静寂と水槽の水の圧迫感に酔ったまま一つの標本の前で足を止めた。
それはこちらをじっと見つめていた魚だった。
白く、長く、そして異世界から招かれたような外見が異様で美しい。
『リュウグウノツカイ』という深海魚は長い間ホルマリンに漬かっていたからか、写真と違って薄ピンクの色素が抜けて真っ白にふやけていた。
そっとガラス越しに手を触れ、「お前も僕も一緒だね」と自嘲するように笑うとその顔がガラスに映って、向こう側のサーフ・シェフィールドも笑う。最近、ヒートの熱に当てられてふやけてきた気がする。前はこんなじゃなかったはずだ、彼と知り合うまでは。
ぐるぐると回る思考は目眩を起こし、水とともに僕を責め立てる。
リュウグウノツカイの溶けかかった穴のような黒目が、こちらをじっとただ無感情に見つめてくるのは気のせいだろうか。
「サーフ、お前はぐれてんなよ」
彼だ。
なんで何処にいても見つけるのだろう、あぁムカつく。中途半端に見つけるのならいっそ放っておけばいいものを。
「お前小さいからさ、見つけるのに苦労したんだぜ」
「子供サイズじゃあるまいし、君の目は大丈夫かい」
大げさに肩を竦めて見せると、彼の眉間に皺が寄るのが見えた。
怒ればいいさ、そうしても見捨てることは君には出来ないんだろうから精々怒るだけ怒れよ。
「なに見てたんだよ、魚なんて種類がありすぎてなに見ても同じに見えやがる」
うんざりした顔で彼がぼやく。
「これだよ、標本さ」
「面白いかこんなの?」
「面白くなければ見ないよ」
「まぁお前が面白いんならいいんだけど……」
また勝手に照れて勝手に自己完結するんだ、この男は。
先日キスをしてからというもの、何を言っても何をしても、少しつついただけで赤くなる。まさか誰とも付き合った経験がないという訳ではあるまいし。
「ヒート、手。」
短く言うと意味が伝わったのか、左手を出され、それをゆっくり噛みしめるような気持ちで握りかえす。
ふっと視界に入った手の甲は、男の手だと思い起こさせる血管が浮いていてそれを中指でなぞると「やめろよ」と言われた。
なんで腐るのは僕だけなんだろう、ヒートも一緒に腐り落ちてしまえばいいのに。
「死ぬときはさ、ヒートと二人でこういう水槽の中に落ちられたらいいね」
「水槽?」
「そう、魚なんかいなくて、暖かい水だけある水槽。きっと羊水のなかにいる胎児みたいで僕たちは元に戻れるよ」
「なに言ってんだよ」
「死ぬときの話」
死ぬとか言うなよ、とぎりっと爪が手に食い込んだ。
いま、ヒートが怒る理由は分からない、僕自身が自分が死ぬ話をして何が悪い。
「死ぬはなしとかするんじゃねえよ、お前無責任なんだよ」
「ヒートだって責任の在り処なんか分からないくせに」
「俺は……俺もどうしたらいいかよく分かんねぇけど。無責任にならないようにちゃんと責任取っから。お前のことずっと見ててやるから死ぬとかなんとか言うのやめろよ。お前がいないと駄目なこと知ってわざと言ってんだろ」
遠慮がちだった手が、いまは強く握られて痛い。
それは彼自身の気持ちがストレート過ぎて痛いのと同じで、捻じ曲がってしまった僕は時々その矯正加減についていけなくなるのだ。
「でも僕は腐るんだ、これからもずっと腐り続けてしまうよ」
「どうなっても見ててやるから、ほら、閉館すんぞ」
閉館のアナウンスと共に、無人になった水槽の前でヒートの声だけが響いた。
どんなに痛めつけても、彼は大きな犬のように尻尾を振って僕を好きだといい続けるのだろうか。それともこれは建前なのだろうか。いや、建前ではないだろう、だって僕のすることに一ミリ足りとも狂いがあるはずはないのだから。
「ヒート、ここで。ここでキスをしてよ」
躊躇う視線。
交錯する笑み。
堕ちる瞬間。
彼も一緒に腐る道を選んだ刹那、ゆっくりゆっくりと首は角度を変え始め、斜めになったところで僕の唇にぶつかった。決して上手いとはいえない、そのぎこちない口付けは満足を打ち寄せ、そして笑みをこぼれさせる。
舌を差し込むと、初めてでもないのに驚いた顔を見せ、そしておずおずとぎこちなく熱い舌を絡め返してきた。これが精一杯の彼の返礼なのだろう。
キスをしている時に、ぶつかったふりをして彼の足の付け根に触れたことがある。それは質量を持ち、熱を孕んでいたというのに彼はキス以上のことを求めてはこなかった。
僕から求めてもいい、だが、彼が欲しがることに意味があるのだ。彼が僕を熱望し、欲情することに。
キスをしたまま、ぴったりと身体を寄せると更に顔を赤らめて押し返された。
いきなり突き放された口唇は、冷え切った水族館の温度だ。
顔が赤く、息苦しそうに乱れた呼吸が耳に入る。
「このくらいで感じてるの、年上のくせに」
わざと挑発するように言った言葉は、彼にクリーンヒットを放ち、口元を押さえたまま後ずらせた。全くもって彼は分かりやすい。

何もかも見据えたような顔をして、黒髪の少年は微笑んだ。呼吸が不規則になる。彼のせいで呼吸は乱れ、そして一定のリズムを崩して意気揚々と彼はこの世界に足を踏み込んでくる。
キスだけでは足りないんだろうか、それ以上を求められている?
いや、それは同じ男として理解できる。
ただ────ただ、俺は何を迷うんだ。
ヒート、と幼い甘さを残した声が呼びかけて、後ろを向くとシャツの裾を引っ張るようにして少年は上目遣いで名前をつぶやいた。
いつもこの声が残響するのだ。
頬が赤くなっているのが自分でも分かり、そして、その事実にさらに赤面する。きっと彼は何も気づいていないようなふりをして、ずっとずっと、そのまたずっと先を見越しているような気がする。毎回するのだが、そんなこと本人には言えないのでヒートは彼が帰った後、いつも一人煩悶していたのだ。
「ヒート、どうしたんだい。もしかして僕の言ったことがあたってた?」
くすりと笑ったサーフが嘲笑するように目をのぞきこむ。

見るな。

一瞬考えたあと、まるでその行為で目を伏せさせることが当たり前だと言うようにヒートはもう一度緩やかな曲線を描きながら柔らかな口付けをした。
「ほら、閉じろよ、目」
ってお前が初めてキスしたときに言ったんだろ、と思いながら口唇を割って歯列をなぞる舌を絡めかえしながら後頭部を手のひらでつつみこむと更にぬめるものを深くさしこみかえされた。
それは人体の内部である湿った粘膜同士が擦れあう感触で、いつまで経っても慣れないがこれは嫌いではない。いや、むしろ舌をさしこまれて吸われるのは好きだ。自分が食べ物にでもなったようにサーフに吸収されゆくようで。
溶かされて胃液の沼にかきまぜられてしまうように、サーフの一部になって溶けて一緒のものになってしまえばいいのに。
相手に食われてしまいたいと思うのはいけないことなのだろうか。相手に溶かされて殺されて体内に取り込まれて栄養分として彼を生かしてみたいと思うことは異常なのだろうか。
きっとサーフの細胞の中で俺は幸せを噛みしめるだろう、とヒートは思った。
一つ一つの分子レヴェルになってしまっても、意思をもって彼を慕い続けるだろうと思う。ただ、これは友人間の慕情ではなくて、恋情なのかまだ判別つかないだけなのだ。
サーフが本気なのか戯言なのかも分からないし、自分だけが本気になってしまっておもちゃに飽きた子供のようにぽいと捨てられるのも怖い、のだろう。多分。いや、多分ではなくそれを恐れている。
そして何で自分を選んだのか理由がないと信じられない。
ヒート、ともう一度呼ばれた声は無人の水族館に響きわたり、厚いガラスの水槽を振動させ自身の体内の血液さえも振動させたような気がして止まなかった。

ふふっと生意気そうな鼻にかかった笑いをして、足が割られた。
両足の間にサーフの膝があるのは何故だろう、と思う間もなく蹴り上げるように膝を上に上げられ、洋服越しに刺激を与えられる。
あぁお前はこれが欲しいのかと納得するが、理性が押しとどめ、呻き声をあげた。
「な、にしてんだよ」
「揶揄ってるだけだけど、それが?」
「人が来んだろ、やめろってそういうの。俺がお前に反抗出来ないと思ってやってんのかよ」
「そうだけど」
さも当たり前だという返答と止められない膝の動き。
やだって、何すんだよ俺がお前のこと嫌いになれないの知ってるくせに。お前がいないともう駄目になってるって知ってんのにまだ念を押すのかよ。我侭だ。お前は我侭すぎる、自分が欲しいものだけ貪って俺には何も与えようとしないで、自分の押し付けたいものだけを与えようとして、狡いんだよ。ずるい。俺が欲しいのはお前の存在だけなのに、過不足とか何もいらないのに何で与えようとするんだよ。欲しくなるじゃねぇかよそっちまで全部欲しくなっちまうじゃねぇかよ責任取れよ。
「嫌じゃないって反応してるよヒート、何だ結局いいんじゃないか」
「ちがっ」
「違わない、だろ親友」
さもおかしそうに笑う彼は綺麗で、完璧な笑みを浮かべた。
五指でなぞられるように、そっと膝を前後に動かされると身体中の力が行けてゆくようなおかしな感覚に侵されてく。
「嫌、だ、って言ってんのに止めろよ」
開こうとする口唇を自分の前歯が差し止め、食い込んで痛い。痛いがこうしていないと露もない声が漏れてしまいそうでぎりぎり口唇をかみ続けた。
「閉館のアナウンスが流れてから五分、僕たちのいる標本室までエントランスから見回りの巡回がくるまで軽く二十分、時間はあるけど?」
「あるけど、じゃねえよバカ」
足の力が抜けて、ヒートはもたれかかるように冷たい標本のガラスケースに寄りかかった。
何でお前のこと大事にしたいっての分かってくれないんだよ。これだけ大切で好きで初めて信用できる人間に出会えたってのになんでわかんねぇんだよお前。
首筋に咬みつかれ、膝では相変わらず刺激を与えられ、もう声を抑えるのが限界になってきたところで視線があってしまった。
それは肉食動物の眼をしているのに、どこか一人ぼっちで生きてきた幼い子供の眼。欲しいよ、それが欲しいよ。どうしても手元においておかないと僕をみんな裏切るからその前に僕が裏切るんだとその眼は言って笑った。
裏切る前に裏切ってしまえば傷つかないで済むから。だから誰でも切り捨てられるんだ。
「……んッ、サーフやめろって本当に止めろって。お前のこと好きだから、今度ちゃんとはっきりさせるからこんなとこでこんな形ですんなよ、好きだよお前が。情けないくらい好きだ」
嗚咽が混じった声とぐしゃぐしゃの顔を見られたくなくて、腕で顔を覆うとそれを剥がされて「顔、見せてよヒート」と甘く言われる。
「驚いた? ごめんね、全部嘘だよ、この僕がそんなことするわけないじゃないか」
嘘だよ。全部これまでのは嘘。お遊び。だから忘れてよ。
閉館のアナウンスが繰り返し流されているのが耳に入り、二人は急速に水族館に引き戻された。陸から、海へ、そして胎内へ。
「帰ろうかヒート、もう閉まっちゃうぜ」
肩で息をつきつつも頷く。
一度立ち上がってしまった性器が元に戻らなくて、ばつの悪い顔をしたまま寄りかかっていた水槽から腰をあげた。
「僕もヒートが好きだよ、どういったらいいのか分からないけれど、好きだよとしか
いいようがないくらい好きなんだよ」
「分かってる、そんくらい」
「もう一回、最後にキスしていいかな」
水族館の温度をしたサーフの唇は冷たく、死体と口付けをしているかのように冷え切っていたが温度が唇越しに伝わって温まっていくのが分かる。
それは冷たい氷を口の中で転がして溶かしていくような、そんな感覚。
「また来ようね、今度はちゃんと二人一緒に巡って魚を見ようね」
そんな声が優しく聞こえたのに、一度火がついてしまった性欲にヒートは罪悪感を覚えながら「また来ような、」と返事をした。

火を付けなければ、留められたのに。
発火してしまったそれは飛び火して手を繋いで帰るあいだもくるしめた。
大罪の一つは恋だ、とヒートは確信しながら手を繋ぎ返した。

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