【乱寂】テセウスの船は沈みゆく

Hasmi/ 2月 6, 2024/ 小説

「――ああ、いた! 乱数くん、待ち合わせに遅くなってしまってごめんね、南口はふだんあまりつかわないから、」
「もーっ、寂雷おっそ! 遅すぎるから連れて行かれちゃったんだからねっ!」
「連れて行かれた、というのは?」
「寂雷が待ち合わせに遅れたから、僕が連れて行かれちゃったって意味だよんっ!」
「? きみはここにいるし、それはなにかで流行っている言い回しか何かかい」
「んー、やっぱまだぜんっぜん分かんないかあ。ま、それならべつにいーんじゃない、分かんないならそのまんまでいなよ。知らなくても済むことや、知らないほうがいいことばっかりで世界は回転し続けてるんだから。でも、いつか教えたげるね。いつか、のはなしだけど」
「乱数くんは秘密めいていることがおおくて、私には理解できないときがあるよ」
「秘密なら寂雷もいーっぱい持ってるじゃん、とっておきの言えないやつばっかり。あははっ、眉間に皺寄せると癖になっちゃうからやめなよ。僕も寂雷も、それぞれ秘密だらけでいいんじゃないの、その立ち位置からよけいに踏み込めないテリトリーを事前に明らかにしておく、ね、それって重要でしょ?」
 俺たちはそれぞれの精神を擦り合わせ、ラップを抜きにしても関係を深めてゆくべく、今夜シンジュク駅南口で待ち合わせをしていた。
 熱風が渦巻く週末夜のシンジュク駅の混雑はひどいもので、待ち合わせ場所として指定した売店付近もおなじようにだれかを待つにんげんで溢れかえっていた。気を抜いたら倒れそうなほど不快な気温と湿度に蒸されながらも、待ち合わせ相手と合流したやつらは甲高い声ではしゃぎながら去っていく。それをうるさいとおもいながら寂雷を待っていたものの、いざ自分がその立場になった途端、おなじような行動を取ってしまうのだから、これはにんげんらしい行動と言えるのだろうか(らしい、と付くのが忌まわしいけれど、そういうことなのだろう。きっと、そうにちがいない。一生かけてもにんげんにはなれないので、知る由もないのだけれど)。

 事前にどこかの店を予約したりはしていなかったものの、たがいにどういった会話が飛び出すか分からない懸念があるため、駅ビル内にあった『個室カフェ』と書かれたいかがわしささえ感じるカフェレストランに入った。駅ビルに入っているのだからおかしな店ではないだろうとおもったが、案内された席は俺たちにつごうよく居酒屋のように半個室に区切られていたので、『個室カフェ』という表記にいつわりはなかった。こんなところが見つかるなんて運がいいのかもしれない。ふだん、運なんてそんなもの持ち合わせていないというのに。なんだかこうして狭苦しく薄暗い半個室の席についていると、なにかしらの共犯みたいにおもえてくるから不思議だ。密会、そんな下卑たスクープ記事じみた単語があたまをよぎる。繁華街方面から流れてきた客なのか、パーティションで区切られた両隣からじゃれるような笑い声が聞こえていた。そういえばそんな話題はまったく出ないけれど寂雷も性欲というものを持ち合わせているのだろうか、さまざまなパターンを一瞬のうちに巡らせてから、「アルコール、駄目なんだっけ?」と笑みを浮かべて聞いてやる。笑み、は、苦手ではない。くちと目を連動させて、楽しそうにすればいい。声はふだんよりも少し高めで弾むように発する。まず、『楽しそうにする』というそれらはかなり抽象的かつ難度の高いものだけれど、最近そこそこうまく出来るようになってきた。あたらしい表情や感情表現の習得というのは、我ながらなかなかいい手段を得られたんじゃないかとおもう。そうこうしながらメニュー表をテーブルの上にひろげて悩んだ挙げ句、自家製ナポリタンとオレンジジュースをふたつ、なんていう純喫茶めいたオーダーをした。すこし混雑してきたため、調理にやや時間がかかると店員が申し訳なさそうにあたまを下げたものの、この後の予定はいくら押しても構わないので待つことにした。

「寂雷はさあ、ひとつだけ願いが叶う、ってなったら何にする?」料理が運ばれてくるのを待つあいだのたわむれとして、ねがいについておまえと論じようとした。ほんのわずかな自己開示をしてみせることで、それなりの信用というものを得られるなら易いとおもったからだ。信用や親しみを抱かせるために他愛もないねがいを言葉にするなんて、ひどく愚かしい。くだらなさすぎて笑えてくるけれど、俺のほんとうのねがいは誰にも言えないしこうして生きる限りくちに出してはいけないものだ。

『乱数くんは、ひとつだけ願いが叶うことになったら何にする?』
 もし、もしも、俺がそう聞かれたらどう答えるだろう。
 いや、その設問に対する回答は決まっていて、それもひとつしかないものだ。言え。言ってしまえ。おまえの口から、言ってしまえ、飴村乱数。目の前のおとこは、神宮寺寂雷は俺をほぼ全面的に信頼しているのがいままでの態度から透けて見える、こいつは飴村乱数の協力者足り得る者かもしれない。くちを開きかけ、閉じ、開きかけ、閉じ、それを数回繰り返した。緊張からか、くちのなかは舌が張り付くくらい乾いていた。言う。言えるか。言ってしまいたい。俺に関するすべての事実をぶちまけたいし、俺は救われたい。いや、それは違う。救われたいなんて他人に依存しきったものではなく、もっと原始的なねがいに縛られつづけている。
「――生きたい、」
 聞こえるか聞こえないかギリギリのちいさな声で必死に発した、それは抵抗のあらわれだ。言ってしまったと意識した瞬間、ものすごい勢いで全身から汗が噴き出す。四文字の切実なるねがいは、俺の声帯によりこの世に放たれ、あっけなく消えた。雲散霧消という言葉をあらわすかのように、なにもかもなくなってしまった。俺の声に重なるようにビールグラスがぶつかる軽やかな音がそこかしこから響いて、寂雷の耳に《俺の願いはおんなどもにつごうよく届かなかった》ようで、それがわかった瞬間、たとえようもない安堵に酷似した諦念が一気に押し寄せては足元を浚っていった。

 純喫茶やファミレスのメニューにありがちだという知識は持っていたもののナポリタン自体は初めて食べたので、くちのまわりをケチャップまみれにして寂雷に拭いてもらったし、オレンジジュースは店で絞ったフレッシュジュースだったことにおどろいた。オレンジジュースをくちいっぱいに含んでから飲む、ぷつぷつとした粒が残っているのが面白くてつい頬の内側のカーブを舌でなぞっていると、寂雷にまじまじと見つめられてしまった(これは行儀が悪かったとじぶんでも反省した)。世界は未知でできている。そして、それらを緩々と紐解くように俺の身体は情報と体験を吸収していくのだろう。
 カフェレストランもビル全体もおそろしいほど空調が効きすぎているというのに、ナポリタンを食べた俺たちふたりのくちは染められたようにオレンジ色がかっていて、とっくに沈んだ夕焼けがふたりのくちびるのうえで燃えているかのようだった。紙ナプキンで拭っても薄っすらと色が残り、俺はケチャップによるこの炎めいた色がずっと消えなければいいのにと願う。これも、ひとつのねがいだ、そうだろう。おまえが、神宮寺寂雷が神なんかじゃないことは理解している――だからいつか寂雷が神になれたときでいい、複数の飴村乱数のうちのひとりとして存在した、明日の朝には移植用の臓器/生体パーツになっているであろう俺の叫び出したいほどのねがいをかたちにしてくれ。
「生きたい、」という飴村乱数であった俺のねがいを、夢を、叶えてくれないだろうか。

 ――じゃあ、また明後日会おうね、明後日の次もその次もまたその次も、僕たちずーっとどこまでもふたりきりで遊んでいようね!

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