【シェオブ】デタント2/二者間緊張緩和

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

「好きだよ、」
その言葉は唐突に耳に入った。
下校時刻を過ぎても尚、図書室に残るヒートのすぐ後ろでそれは聞こえ、他にも誰かいたのかと振り向いてしまったのだ。
顔を上げると、「やぁ、」と彼は言った。さっき言ったことは単なる挨拶だとでも言うように、ごく普通に交わされる挨拶。冬の日は落ちて、彼の顔がよく見えなくて、眼をこらすといつもの人懐こい笑みを浮かべているのが見えた。この笑みが絶えることは殆ど目にしたことがない、彼は常に穏やかで少し寂しそうな顔をして佇んでいる。
「まだ残ってたんだね、寒いから気をつけた方がいいよ」
あぁ、と答えるとじっと目を合わせられて、それを無意識的に逸らそうとした自分が悔しくて、それに背くように視線を彼に合わせた。
目先に見える司書室は無人で、図書室自体もヒートと黒髪の少年を残してがらんとしている。まるで一陣の突風になぎ払われたかのように潔く、人の気配がないのだ。
鼻腔の奥まで入る、書物の匂いが胃の辺りで重くのしかかり、そしてその負荷が嫌いではないことに満足する。折にふれ感じる痛み、それが時々、必要になる理由は分からないがこんなにも必要だ感じるということはそれがなければ生きられないということだ。
もしくは、無いと非常につまらない生だということ。
まだ後ろにいるのかと思うと、「隣に座ってもいいかい、君がいいのならだけど」とあの声が聞こえて悪いとも言えない、そのイエスを強要された問いかけに頷くしかなかった。
彼はときどき、そういった問いをするのだからやはり頭が良いのだと思う。それは持て余してるものをもらってもいいかと聞くときだったり、今のように席を問うときだったりする訳だが、はい・いいえのどちらかと聞かれたら「はい」としか答えようのない問いかけばかりする。

「今日は何時まで?」
「あー、分かんねぇよ九時くらいで見回り来て文句言われるからそんくらいまで。」
ふぅん、と言って心理学辞典やノートなどを鞄から取り出すと、同じく横で広げ始めた。
彼のペンは強く軽い。ペンの音が聞こえるのだが、跳ねるようにさっと聞こえる音の連なりでその文字たちは書かれる。半刻ほどして、課題が済んでしまったのか椅子を後ろに倒して遊ぶ姿があった。
バランス感覚がいいのか、彼はぎりぎりまで傾けても倒れない。
「ヒート、暇だからキスしようか。この前みたいのじゃなくてちゃんと口にするやつ」

論文を書いていた頭は真っ白になり、思わず周りを見回してから赤くなった。平然と言うが、彼が何を言っているのか分からない、もしかしたら数年の隔たりがあるだけでキスの感覚は全く違うのだろうかと疑いたくなった。
「っなんで暇だからって、お前とキスしなくちゃいけねぇんだよ!」
「あぁごめんね、暇だからは余計だった。したいからキスしよう、ならいい?」
「そう言うことじゃねぇだろ! だから、なんで!」
「したいから、ヒートと」
余りにも普通に答えるものだから、拍子抜けしてしまった。
当然のように渋ると、拗ねるように眉根を寄せて顔をしかめた。しかめたいのはこっちだ、と言いたいのを押さえ、無視してノートに戻る。文字は落ち着きをくれるから、文字と自分だけの世界に没頭してしまえばいい。
「ねぇ、ヒート。キスしようって」
「黙れ、」
「黙ったらしてくれるのかい、君は」
「なんでそうなんだよ、」
「したいから、」
「だから、なんで俺なんだよ。他にいんだろ、」
「僕は君じゃないと嫌だって言ってるんだよ、とか言わないと分かんないのかな」
「だから、なんで!」
好きだから、と言われるのは嬉しいけれど嬉しくない。その一言で済まされた感じがして、どうも素直に受け取れないのだ。彼は、何を返してくるだろうと考えながらも自分にもなぜだと問いかけた。なぜ、好きだと言われるのが怖いのだろう。
一瞬、考え込むような素振りをしたあと、彼は口許を上げて無邪気に言った。

「してくれないと目の前からいなくなっちゃうけど、君はそれでもいいの」

────困る。それだけは困るのだ。情けないことに、というべきか彼が生活に介入してからというもの、彼無しではいられなくなってしまった。これは恋愛感情などではなく「依存」の一言に限るだろう。いないと、崩壊してしまうものがここにある。
「し、したらいなくなんねぇか」
一回だけだかんな、と付け加えると真正面から彼の顔を見た。なぜ、好きだとしつこく付きまとうのだろう。他にも女子も男子もいるだろうし、彼の顔ならばちょっと声を掛ければ済む話なのに。だから一回だけだぞ、おずおずと言うと彼はいつもの顔で言うのだ。「嘘だよ、」と寂しそうに一言だけ。
〔最初に言ったとおり暇だからからかってみたんだ、君がどんな顔するかってね。でも君がOKするなんて思わなかったよ、案外ヒートって頭が柔らかかったんだ、見直したよ。僕?僕はまだ若いからもちろん頭は固くないつもりだよ。〕
嘘だといったあと、堰を切ったように、そして何かを誤魔化すように一人で滔々と話す彼はどこか痛々しく見ているのが辛かった。この少年のプライドが崩れるのはどんな時なんだろう。
それを覗いてみたくて、話し続ける彼の頭を抱き寄せてそっと口付けをした。
男の口唇というのは、もっとガサついているものかと思っていたが彼のそれは見たとおり柔らかく、そして融けるように吸いあったので驚いた。体温、というのを口から感じるのは慣れない感触で、こういった場合は目を閉じるものだろうか、と戸惑っていると口を離され、「閉じてよ、」と言った彼がもう一度口付けるのだった。
目を閉じる瞬間、彼の口許は嬉しそうに上がっていた。欲しいものを手に入れたよ、と笑う子供のそれにそっくりの口許が、閉じた目蓋の裏側に焼きついてしばらく離れなかった。
「好きだよ、ヒートのことが」互いの唾液が口に残るのを拭い、なにもなかったかのように辞書を鞄に詰めなおすと彼は言った。
「暇だからだろ?」
「それは語弊だった、僕は君が君だから好きだよ。正しく言うなら、傷を負ってる君が好きだ。平然としていてもどこかに痛みを抱えていて、それごと愛してくれる人を探してる君がね」
あぁ、彼は見抜いていたのだ。傷を、痛みを、それらを含めて好きだと言ってくれる存在が必要だということを。それは慈愛といってもいいくらいのもので、言い換えれば飼育係りのような唯一無二の庇護者。そう、それが必要だったことに彼は気づいてしまった。荷物をまとめて、ヒートが論文を終えるのを待っているのか、片肘をついて横の席に座っている。もう論文など頭に入らないというのに、彼は意地悪く待っているのだ。
「おい、帰るぞ」
「一緒に帰っても?」
覗き込んだ彼が聞く。
「嫌味かよ。いいからまとめろ、あと、どうせ寮なんて暇なんだからうちで飯食え」
了解、とじゃれるように腕を組んだ彼は嬉しそうに鞄を肩に掛けて、それからヒートに向き直って思い切り背伸びをすると、もう一度だけ口唇を重ねた。
「ヒートが好きなのは、君の痛みが好きだからだよ」といった声が、その夜は離れなくていつまでも渦を巻くように脳内を回っていた。

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