【乱寂】欠ける高潔

Hasmi/ 2月 5, 2019/ 小説

 僕は昔から人間という脆弱ないきものを疎んでいたのだけれど、いつしかひとりのおとこに惹かれている自分に気づいてしまった。いや、惹かれ合っているといえばいいのだろうか、どちらにせよそのおとこは凡そ人間らしくないやつで僕に説教ばかりしてくるのにどうしてか憎みきれないでいる。だけれども、きっと別離というものが僕らを待ち受けてるのだ。これは不安がっているのではなく、僕が為すべきことの結果論にしかすぎない――。
「なにかかんがえごとかな、」ときいてくるおとこは目の前でおだやかな笑みを浮かべながら、エアコンが効いて適度にすずしくなっている診察室内で、患者用のくるくる回るちいさな黒と銀色の椅子に座っている僕をみていた。かんがえごとらしいものは特にしていなかったのだけれど含みをもたせて「べつに、」と返すと興味をひかれたのか、こちらを心配そうにみつめて「私でよかったら話してごらん」という。お節介、そんな余計なひとことを飲み込んで「なんでもないって、それよりもここって次の患者さんいないの」そうきいてやると、午后の診療は僕の番で最後なのだという(それを見越してきたのだから当たり前といえば当たり前なのだけれど、本当に最後だった)。診療なんていっても僕には病気とか怪我は特になにもなくて、ただ、あいにきた口実だけなのだけれどそういうことになっているのだからしかたない。午后八時の窓の外にはぽっかりとクリーム色のおおきな満月が浮かんでいた。たしか今夜は月蝕だったはずだとおもいながら話題を振ると、ここの病院の看護師達もおなじようなことをいっていたのだと告げられる。SNS上では数日前から今年二度目の皆既月蝕が起こるのだと話題だった、もちろん目の前のおとこもそれをみただろうに仕事に忙殺されて忘れてしまったのかもしれない。ただでさえ神秘的な月が欠けたり満ちたりするのだ、天体好きでなくともその自然のみせるショーに夢中になるひとは多いのだろう。再度おしえられて気になったのか、寂雷が僕の視線につられるように目を窓に向ける。「何時からか分かるかな、」「たしか八時半からだけど」「ではそろそろ始まってしまうね、もし飴村くんさえよければ今夜はここで一緒にみようか」「え、いいの?」「きみがいいならいいよ、ちょうど私は当直だしね」すこし楽しそうにふふっと笑いながらいうのがきこえて、僕はにわかに機嫌がよくなる。ここは当直といっても病院の規模の割に同じ区域内に救急センターがあるらしく、夜間の受付はほとんどそっちへいってしまうのだとおしえてくれたので僕もほとんど気兼ねなしにその言葉を受け取った。八時半頃までTDDとしての今後の展望を語ったりしつつのんびりと過ごした。病院内はしんと静まり返っていて、エタノールとひとの独特なにおいがしている――正確にいえば、人間の生死のにおいが色濃く立ち込めているのだ。このおとこはよくこんなところにジッとしていられるなあとおもいつつ、病院というこの場所から人間が死んでゆくことに思考がシフトしてゆくのを感じた。人間は死ぬと星になるのだという言い伝えがあるけれどそれならばここは星を生成している場所なのだろうかとか、まあ寂雷はそれをつかさどる神様だっていわれたらそれっぽいもんなあとか、くだらないことをいろいろかんがえてしまう。以前から神様という存在/概念はきらいだけれど、このおとこがそうなのだといわれたら納得せざるを得ない雰囲気がある。そんな寂雷がすこしソワソワとしながら窓をみて、「飴村くん、始まったみたいだよ」と楽しげにいった。意識を切り替えて夜空をみれば月蝕が起き始めており、斜め上から徐々に欠けていってるのがあきらかに分かった。寂雷が背もたれのあるおおきめの椅子に座っているので、立ちあがってその膝の上に乗ってやるとすこしおどろいたような顔をしたものの、すぐ慣れたのか僕を背後から抱きしめながら月を眺める。膝から太腿の上をずるずると滑って背中を腹につけるように座りなおすと、「体温がたかいね、こどものようだ」というのでわざときこえるように舌打ちを一度してやる。寂雷の太腿はおとこなのだから当たり前なのだけれど、筋張っていて硬く座り心地がいいとはいいがたいものだ。勝手に座っておいてなんだけれど、それにすこし腹が立ったもので腕につかまりながら上半身をひねって、「ねえ、キスして」といってやる。寂雷は一瞬怯んだような顔をみせたものの、すぐに元の顔に戻ってそっと顔を斜め下に下げて口唇を擦り合わせてくれた。何度か啄むようなキスをした後に、上下のくちびるのあいだに舌を捩じ込んでやるとあきらかに動揺する様子をみせる。それがおもしろくて僕は何度も何度も舌を絡めたり歯で甘噛みしたりを繰り返す。いつもは月のみたいに空に浮いているようなおとこでも、その身体には性欲というものが渦巻いていて、一度でも地に墜ちてしまえば僕とおなじ人間だということをおもいしればいい。そのためには何度でも僕はおまえにキスでもセックスでもくれてやる。煙草もクスリもなにしらないその身体が性というものに毒されてゆくのをみているのは楽しい、寂雷は僕がくちを離すと頬を上気させながら荒く息を吐いて「あめむらくん、」と困ったといわんばかりにこちらを見遣って名前を呼ぶのだ。いい気味だとおもってしまう、かわいそうな寂雷、かわいい寂雷――。ポケットからロリポップを取り出してくちに含む、次にみせつけるように上半身を捻ったまま舌を出して舐めてやった。寂雷が唾液を飲み込んだのか、喉仏が上下するのが確認出来た。「どうしたの、僕に舐めてほしいの?」ときいてやるとうつむいてしまったので、「俺がおまえの役立たずなちんぽなんて舐めるわけねえだろ、分かれよ、なあ寂雷」とせせら笑ってやる。「ねえねえ、それともしゃぶってみる?」「……いいよ、」「は、」「もう私は駄目なんだ、このあいだきみに抱かれてから飴村くんのことばかりをかんがえてしまっているし、どうにも後戻りが出来そうにもない」溜息を吐きながら絶望にまみれた顔でいうのを、ざまあないなとおもいながら奥歯でロリポップを噛み砕いて細かくして飲み込む。手に残された白いプラスティック棒はいちおうダストボックスに放り投げた。月蝕はちょうど月が半分以上隠れたところだった、もうそんなものをみているのももどかしいとばかりに僕は寂雷の髪を引っ張って、死んでしまえといいたげに噛み付くようなキスをしてやった。分からないよ寂雷、なんでおまえがこんなにも僕に惹かれるのか、そしてまたその逆も分からない。僕らは惹かれ合っていて、だけれどもそれはそれぞれ決定的に違う部分に対しての執着のようにみにくいものなのだろう。執着とか、嫉妬とか、そんな汚い感情と関係がかなしいことに僕らには似合ってしまう――それは僕が純粋めいた感情をもった存在ではないからだろう。すきなんだとおもう、とやや正確さに欠けた物言いでいわれた瞬間のことをいまでもまざまざとおもいだせる。それは先月の第二土曜日の夜で、「それは僕とセックスしたいってこととイコール?」と遠慮なくきいてやると「たぶん……そう、だね」などと臆しながら答えられた。いいよおまえが欲しいだけ与えてあげる、と僕がいうと目を潤ませてこちらをみつめて泣き出しそうになっていたのが印象的だった。僕とおまえのセックスの相性はよくて、というかオネーさん達と較べものにならないくらい最高だった。今日はあれから二度目の性的接触になる。膝の上から下り、申し訳程度にドアのいりぐちにカーテンを引いてから診察室の隅にある患者用のベッドの端に座って、ベルトを緩めてファスナーを下げてから扱いて完全に勃たせる。そしてコンドームをパーカーのポケットからひとつ出して着けたのち、興奮しながらも戸惑っている寂雷に「ゴムするからそのあと舐めてから咥えて」そう指示してやる。おとなしく頷くのがみえて面白くなってしまった。「しゃぶってくれるんでしょ、」そういいながら下着をみせる、それは先日寂雷とセックスをしたときに穿いていた下着の色違いで、そのときのことをおもいだしたのか赤面しながら「だから、いいよ」とややうつむき加減になりながらいうのだった。ベッドの端に座りながら下着をずらして性器を露出してやると、寂雷がそこに釘付けになっているのが視線から分かっておもしろかった。「そこ、座ったらちょうどいいんじゃない」指を指してやると、寂雷はいわれるがままに床にぺたんと座り込んで僕の命令を待つ大型犬のような姿勢になった。「ほら、いいよ」と性器を完全に出してやると、そっと両手で触れながら先端に舌を這わせた。ラテックス越しでも舌はおかしいほどに熱くて、はあはあと荒い吐息が吹きかかる。寂雷は飲み込みが早いのか、僕がどういうふうに舐められるといいのか教えるとスムーズにおぼえた。裏筋を舐め上げる感触は悪くないし、なんならオネーさんの舌よりも分厚くてやわらかな気がする。そしてすくなくとも当分のあいだ、やわらかいそれがオネーさんに使われることがないのだという事実を認識すると、僕のなかに真っ黒い優越感が湧いて止まらなくなっていった。だってこのおとこは僕に夢中なのだから誰にも見向きをしないのだろう、それが男女問わず惹きつけてしまう僕によって齎されたものであることをしっているのだろうか。なあ神宮寺寂雷――おまえもおもいしればいい、人間の性欲というものの業の深さを。勃起した僕の性器を舐め回しながら寂雷は居心地が悪そうに腰を揺らしている、いますぐにでもブチ込んでやりたくなってしまう。「興奮してんの?」ときいてやると、くちを離して「とても、」とみじかく答える。そういう正直なところも普段よくする顰め面とアンバランスでいいとおもう、しかたない、こっちも両手を上に挙げてやろう、落とす前に完全に落とされそうだなとおもってしまった(この俺ともあろうおとこが、だ)。月蝕がピークになって来たのか、月光が消えてきてしまっている。診察室のなかは月蝕をみるために照明をすべて落としていたので、僕らは暗闇で触れ合う。外はシンジュクのネオンが光っているとはいえ、完全に照明を切った部屋はさすがに暗い。「月、全部消えちゃったね」そういって教えてやると、上目遣いでこちらをみつめるのが暗いなか分かった。白目が、寂雷の陰鬱な雰囲気に不釣り合いなほどギラギラと殺人的に光る白目部分がみえたからだ。それはもはや青っぽくみえて、僕を射抜いている。寂雷のくせに、とおもったけれどその視線のつよさは尋常ではなかった。欲というものは、いや、性欲という業はここまで人間の本質を剥き出しにしてしまうのだろうか。僕はそれを利用してひとを動かすことが多々あるけれど(おもにオネーさんだったり仕事の取り引きだったりする)ここまでガラッとひとが変わる男にはいままであったことがなかった。前回、僕が教えてしまったセックスという行為に夢中になっていた寂雷はまるで動物のメスのようだったし、実際そうなのだろうとおもわせるようなところが随所にあった。おもわずふふっと笑ってから「寂雷、オネーさんみたいだね」と当てつけのようにいうと、眉をひそめながら唾液にまみれたくちを手の甲で拭って「私は女性ではなくておとこだよ、」といった。そんなことは分かりきっている、厭がらせのひとつにしか過ぎないというのにこのおとこは単純に反応してしまうのか。いいからつづけてしゃぶれよ、というと「あ、」とくちをおおきく開けて亀頭部分をぱくりと口腔内に含んだ。うねうねと蠢く分厚い舌と、やわらかく熱い口腔粘膜が性器をつつみこむ。こんなのまるでオネーさんたちと一緒じゃないか、まあ教えたての寂雷の方がきもちいいんだけど、などとおもいながら僕はそのつたないフェラを上から眺めていた。グレーがかったくすんだ紫色の長い髪を、つ、と一束手にとって引っ張ってみせる。軽く引っ張っただけなので痛いともなんともいわれずに、僕はそれをよしとしてもう一束手にした。たぶん、ブリーチやカラーで一度も傷んだことのないきれいな髪だ。出会った頃から伸ばしつづけているそれは、普通ならばコンディションを維持するのが大変なほどになっている。手を離すとさらりと寂雷の髪の束に戻っていったそれは、僕が握っていたことなんてなかったかのようだった。今度はパーカーではなくパンツのポケットからジッポライターと煙草を取り出して、おもむろに火を点けると寂雷が「飴村くん、」とくちを離して咎めるような声を出した。「大丈夫大丈夫、携帯用灰皿ちゃーんともってきてるから、偉い? それよりもしゃぶれっていってんの分かんないの」そういうと寂雷は灰を落とさないようにねといいながらも、ふたたび性器をくちに含んで蕩けたような顔をするのだった。崇高な、潔癖な、高潔な神宮寺寂雷センセーはこうして自分とおなじおとこのちんぽをしゃぶりながら、我慢出来ないとでもいわんばかりにトロ顔で腰をゆらゆらと揺らしているのだ。急患でもはいってこれが見つかってしまえばいいのに、とおもいながらフゥッと煙を吐き出して太腿のあいだにうずくまっている姿を見下ろす。診療室が一気に煙草の煙で満ちる。僕はそれがこのおとこの聖域を穢してやったようで、なんとなく、そうなんとなく胸がすくおもいだった。照明を落として暗くなっている診療室で、白衣を纏ったおとこが僕の脚のあいだで性器を咥え込んでいる。フェラという行為自体にも嫌悪感はないのだろうかとおもいながら、煙草をふかしつつ窓の外を見た。月蝕はまだピークのままで、月のほぼすべてが隠れてしまっている。あんなに明るい満月だったというのに、不思議な現象もあったものだなとおもいながら「月蝕どころじゃなくなっちゃったね」と揶揄ってやると頬を上気させながら「う、ぅ」とだけいうのがきこえた。それがそうだねという意味なのか、はたまた違う意味をあらわしているのかは分からない。「もっと深く咥えて、寂雷のしてくれるのすっごくきもちいいから」とおもいきり甘ったるい声でいってやると、これ以上ないというほどに喜色をあらわにしながらずるりと喉の奥まで性器を飲み込むのだった。おしえたわけでもないのにディープスロートまで出来るんだなあとか、これだけデカいおとこだから食道も広いのかもとかおもいながら、僕は脚のあいだで上下している寂雷のあたまを片手でつかんで乱雑に動かした。さすがに苦しいのかゴホッと噎せるような音とともに唾液がダラダラと垂らされたけれど、僕は気にすることもなくそのままあたまを押さえつけつづけた。簡単なんだ、おまえが僕から逃げることなんて――だけれども、決して逃げようとはせずに真正面からこちらを見据えてくる。いいよ、神宮寺寂雷。おまえのそういうところが気にいった。煙草を咥えて、空いた手で携帯灰皿を取り出してからそこへまだ火の点いている煙草を押しつけて揉み消す。灰は一切落とさなかった。月蝕はピークが過ぎ去ったのか、徐々に明るさを取り戻してきていた。「裏筋にもっと舌這わせて」というとおとなしい大型犬のようなおとこは、はあはあと尚も荒く呼吸をしながら喉奥まで咥え込んでいた性器をくちから一度出して、「こう、かな、」と怖ず怖ずと分厚い舌でべろりと舐め上げる。やわらかで温かな生肉の感触だ。「うん、いいよ」といってやると寂雷は安堵したのか、何度も根本から上へと舌をつかう。おなじおとこだからとかそういったものではなくて、これはもう天性の勘のようなものなのだろう。性器は舐められてガチガチに硬くなっており、血管が浮いているのがグロテスクでいいとおもった――かわいらしい僕の性器がこんなにグロいというギャップが、寂雷もたまらないとおもっているのだろうきっとそうだ。「んっ、寂雷、もういきそ、」といってやると先程おぼえたように亀頭を咥えてあたまを前後に揺する。その温かで湿潤とでもいうべき肉につつまれて、僕はラテックスのなかへおもいきり吐精した。疑似といえど寂雷の口腔内に出してやったようで、ひどく嗜虐心にまみれて満足するしかなかった。いつまでも墜ちないとおもっていたおとこは、こうも容易に陥落してしまった。神宮寺寂雷――なんてきれいな文字列だろうか、まるで天上の神様の名前みたいで厭になるほどだ。くぱっ、とくちを開けて僕がコンドーム内に吐精したことを確認するようにそこをジッとみつめると「いけたようでよかった、」と額にうっすら汗を掻きながらいった。オネーさんたちの膣よりもおまえのくちや尻の方がきもちいいだなんて、死んでもいってやるものかとおもいながら「僕もよかったよ、」と答えることしか出来ずにいた。おまえは禁忌を犯してしまったことに気づいているのだろうか、医師という職業にプライドも何もかもをかけていそうなおとこが職場でフェラチオをして頬を染めているのだ、これが禁忌でなくてなんだというのだろう。大罪を犯し、プライドは地に墜ちてしまえばいいのに、目の前のおとこはいつだって凛としている。唾液でベタベタになった自分のくちもとを、手の甲でぐっと拭いながら「……その、まだ私以外のひととセックスをしているのかい」ときいてくるので「ううん、みんな別れてもらったよ」などと大嘘をつく。そんなの嘘に決まっているだろう、ならよかった、だなんて納得してよろこんだように笑みを浮かべてこっちを見るな。だって僕はみんなのアイドルで、偶像で、イデアで、そして――。どうでもいいような、そんなことをかんがえながらコンドームを外してクルクルッと縛って精液がこぼれないようにする。「ちょっと、寂雷、ティッシュかなんかないの」「ああ、ごめんね気づかなくて」寂雷がティッシュを箱ごと寄越したので、僕は何枚か束でつかんで股間を拭った。下着とファスナーを上げて、ティッシュの束と精液溜まりに白濁の詰まったコンドームをダストボックスへ捨てる。ここを掃除する看護師にみつかってしまえと願いながら、僕はそんなことをするのだ。
「月蝕、見ようよ。っていっても終わりかけだけど」ベッドから下りて、ふたたび背もたれのあるおおきな椅子に座っている寂雷の太腿に乗った。そんなことをしつつも、寂雷は抜いていないのでスラックスのなかで硬くなっている性器が当たるのだけれどそんなものは無視して僕は月を眺めた。やがてあきらめたのか、ふう、と深い溜め息がきこえて僕の前に手を回してくる。そのおおきな手の甲に、自分の手をかさねるとサイズの違いがよく分かる。「――きみ、は、私を食べてどうするつもりなんだい、飴村くん」「食べるってなに、」「きみに会えない日は世界が暗いんだ、まるで最大時の月蝕のようにきみに私という存在が蝕まれてる」「じゃーくらいっ、それは恋とか愛とかいうやつ? まあ僕はどっちもしらないんだけどねっ」あはっと笑ってからいってやると、前に回された手がギュッとつよく締められて溜め息と同時に頭の上に顎が乗せられる。「そんなことをいわれたら私は、」「ああ、ごめんね、寂雷はすきだよ? でも恋愛ってむずかしすぎてよく分かんないなーっておもって」「飴村くん、きみは即物的過ぎる」「でも嫌いになれないくせに、すきでしょ、僕のこと」ほらさっさと好きだっていえよ――これはおまえにかける呪いだ、いつか来る別離をまえに怯えながら僕を忘れられなくなればいい。「たぶん、私たちは出会ってしまったのだとおもう……すきなんだ、飴村くん」そっと耳に吹き込まれるそれは寂雷の断末魔のようだった、地に墜ちたおまえは神様からただの人間に成り下がってやがて寿命で死ぬのだろう。墜落したおとこは尚も起き上がって僕をもとめる。月はもうほとんど元に戻っており、ふたたびやさしく明るい光で街を照らしている。天体ショーは終わったのだ。おまえが神様としての終わりを告げられるように、月はまた満ちてゆく。身を捩って寂雷の顔を見てやると、得も言われぬひどい顔をしていた。「なんで、すきっていってくれるのにそんな顔してんの」といいながら両頬を手でつつんでムニムニと引っ張ったりつぶしたりすると、「私の一方向だから、」などと絶望したかのような表情でいうのだ。「そうだとおもってんの?」「……おもってるよ」「僕、オネーさんしかしらなかったんだけどなー」暗におとこはおまえしかいないのだといってみせると、うつむきながら「そう、」といった。うつむくとサイドの髪で表情が見えなくなるのでやめてほしいとおもいながら、「あ、しんじてくれないの?」ときくとさらに下を向いてしまう。しんじられないならすきだとかなんだとかぐちゃぐちゃいうんじゃねえよとおもいながら、「ねえ寂雷、僕もすきだからしんじて」そうすこし媚びるようにいいはなつ。寂雷の太腿から下りて、すぐ横に立った僕の片手をつかんでうつむきながら「飴村くん、私たちの関係はいったいなんだろう」と地を這うような声できくのだ。「なにって恋人でしょ、このまえ付き合うって決めたんだから」なんのてらいもなくいってやると、安堵したかのような声音で「そうか、それならいいんだ」そういって納得したらしい。寂雷、おまえは分かっているのだろうか、僕がすべての脆弱な人間を憎んでいることをしっているのだろうか。きみだけは僕の期待を裏切らないでほしい、たったひとりの存在になってほしいといったらどんな顔をするのだろうね。椅子に座ったままの寂雷に、「またキスしてもいい、」とねだると椅子をキッと音を立てて回して、こちらを向いてさあとでもいわんばかりに目を閉じた。そして僕はおまえにキスをする――それは胸の内側がひりつくほどに切実で、現実というものを突きつけてくるものだ。何度か甘噛みしたり食んだりしていると苦しそうになったので、そっとくちを離してやると「しつこいよ、飴村くん」とじゃれるように苦笑混じりにいわれた。僕がしつこいほど欲しがるのなんて、神宮寺寂雷というおとこくらいだよ、なあ、それをおもいしって。すべては月蝕の日の暗闇のなかでおこなわれていたのだけれど、僕らにとってそれはひかりに満ちていたのだとその頃はおもっていたんだ。どうかおまえもそうだったといって、寂雷。

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