【乱寂】ナイフ・オブ・ワーズ

Hasmi/ 6月 5, 2018/ 小説

※五年前設定の蜜月期乱寂です、ご注意下さい。

 午後七時半ジャスト、玄関から鍵を回す音とオートロックが解除されるそれがきこえた。合鍵を渡している人間はひとりしかいないので、僕はベッドに寝そべりながら読んでいたファッション雑誌を閉じて廊下に通じているドアをジッとみつめる。やがて玄関ドアのあく音がした。それにビニール袋がガサガサ擦れ合うものがつづく。今夜来るなどとは連絡もなにもしないのがお互いの定例だ。だから僕もただその来訪を待ち受けている。廊下とこのリヴィングを隔てているドアがあいて、低くやわらかな声で「飴村くん、いるかな」という声がきこえた。それは僕たちの関係を端的にあらわしているやさしいものだ。「寂雷、また来たの」と言葉を投げかけると、ベッドの上にいるのを視認してから「来たよ、」とみじかく告げられた。それはどこか諦念混じりのものだ、お前がどうしてもここへ来てしまうという事実へのあきらめ、穏やかな低い声はそれをつよくあらわしている。「今日はなに、おもしろいことでもあった?」と問いかけると、すこし困ったように眉を下げながら「きみは忙しくなると食べないだろうから、おせっかいかもしれないけれど夕食を買ってきたよ」といわれる。たしかに夕食はまだ摂っていなかったし、仕事の繁忙期に食がほそくなることはブランドを立ち上げてからのくせだ。閉じたファッション雑誌を本棚に差してから、ベッドの縁にすわってビニール袋を提げている寂雷をみつめる。長身とビニール袋のおおきさの比率がおかしくて、本当にこの男は無駄に身長が高いなとおもった。「買ってきたこれ、テーブルに広げてもいいかい」ときかれたので了承する。真っ白いローテーブルの上に、寂雷がもってきたビニール袋からつぎつぎと惣菜が並び出てきた。まだ惣菜はパックをあけられていないというのに、部屋のなかには食欲をそそられるたべもののにおいが一気に満ちた。「どこで買ったの、」「新宿の伊勢丹だよ、あそこは広いデパ地下があるから。あとここに来る途中にベーカリーがあったからパンも買ってきたけど食べるかな」「じゃくらーい、スイーツは?」「ちゃんとあるよ、」「ありがと」ひどく甘やかされていると感じる。十一歳の年の差は、時折こうしてまざまざと感じられることがあった。それは悔しいとおもうときもあれば、ここちよく感じられるときもある。ちなみにいまは後者だ。ミントグリーンのカーペットが敷かれた床に膝をついて、寂雷はビニール袋から惣菜を出していたようだったが、スイーツを残して全部出し終わったのかこどもを諭すような言い方で「食べよう、飴村くん。ああ、パンを並べるのに皿がいるね」といわれた。それはゾクゾクするほど甘やかな声だ。ベッドの縁に座って脚をブラブラさせていたのをやめて立ち上がり、ローテーブルにちかづくとそこには何種類もの美味しそうな惣菜が並んでいた。帆立とブロッコリーと水菜のサラダ、イカと野菜のフリット、マグロとアボカドの和え物、ベーコンの巻かれたロールキャベツ、ポタージュ、ヴィシソワーズ、ローストビーフ、チーズと生ハム盛り合わせ――それだけでもかなりあるのだが、まだパンとスイーツを買ってきたという。それでも僕らはかなり食べる方にはいるので、たぶんこれもすぐ胃に消えてゆくのだろう。皿がいるといわれたので、僕は食器棚から一枚のおおきめな皿を出して寂雷に渡した。テーブルの上へ置かれたそれへ、端正な細い指がパンを並べてゆく。惣菜だけでもかなりあるというのに、あきれるほどパンも出てきた。カンパーニュにフォカッチャ、ベーコンエピ、フーガス、これがふたりぶんあるのだからすこしおかしくて笑ってしまう。ローテーブルの向かいに座り、惣菜を買ったときに添えられていたであろうプラスティックのスプーンとフォークの包装を破る。「もう食べていいんだよね、いっただきまーす」というと、寂雷もそれにつづいていただきますといいながらプラスティックカトラリーを手にとった。ベーコンがきれいにぐるりと巻かれたロールキャベツはとろりとしたホワイトソースがかかっている、くたくたにやわらかく煮られたそれを崩しながらくちへはこんだ。「あ、これ美味しい」と素直にいうと、寂雷が嬉しそうにそれはよかったと薄くほほえみながら言葉を返した。普段、オネーさん達とご飯を食べにいく機会はしょっちゅうあるし店のチェックも怠らないもののそこまで食に執着したことがないので、こうして店で売られている惣菜というものを食べることはとてもすくない。一応、自炊は出来るのだけれど面倒で偏ったコンビニ食で簡単に済ませることが多いのもある。フーガスを手にとってちぎると、バジルとドライトマトが練り込んである断面がみえた。噛みしめるとかなり歯ごたえがあり、ひとくちごとに香ばしく焼かれたパンの味と香りが口腔内に満ちた。寂雷はローストビーフとカンパーニュを食べていて、この人並み外れてうつくしい男でもいきるために食事というものを摂るのだという事実が何度みても面白かった。寂雷がパンを食べていると、どうしてもキリスト教でいわれる最後の晩餐のようだとおもってしまう。パンとワイン、ここにワインはないし面倒だから飲ませたくないけれど、目の前の男にはそんな言葉が似合う。聖餐という言葉が一番合うかもしれない。神のような男が食事をしている。プラスティックカトラリーで惣菜を食べながら、「飴村くん、もういいのかい」ときいてくる。僕はその甘くやわらかな低い声をきくだけで胸が苦しくなる。世間からしたら神にも等しい男が、僕の前ではただの人間になりさがることは快感でしかないだろう。好きなのだと、付き合ってほしいのだと、数ヶ月前の夜に苦しそうな声音で告白された。そのときの寂雷はおもいつめたような顔をして、まるで肺の空気をすべて吐ききってしまうかのようないいかただった。住所を教えていたからといって、話があるといわれていきなり来たのでなにかとおもえばそんな話だったので、正直なところ僕は拍子抜けしてしまった。だってそうだろう、この男が僕に寄せる好意なんてあからさまに見え透いたものだったからだ。告白されるのを待っていたといってもいい、むしろ僕も同じことをおもってはいたものの自分から告白するだなんていうことは絶対に厭だという意地があった。そこに至るまで、意識させようとわざと触れるたびにすこし怯むのがみえて面白かった。そんなことをおもいだしていると、寂雷がなにを勘違いしたのか「ああ、せっかく飴村くんとの食事なのに飲み物を買って来なかったのはまずかったね」といった。いまとなってはそんな鈍いところも厭ではない。「たしか冷蔵庫にアップルジュースがあるからいい、」というと、それならよかったといって仄かに笑った。おまえはどうしてそんなに無防備に笑むのだろう。僕のことが好きだからだろうか。そんな僕と一緒にいるからだろうか。恋愛とはどんな人間をも痴愚にしてしまうという事実を目の当たりにして恐ろしくなる。その恐怖を打ち消すかのように、サラダのブロッコリーと水菜に埋もれていた帆立にフォークを突き立てた。それはぷつりと刺さり、そういえばしばらく帆立なんて食べていなかったなとおもった。くちへ運ぶとかすかな甘みが感じられる。咀嚼するたびに口腔内に薄っすらとした甘さが満ちた。寂雷がフォッカッチャをちぎりながらこちらをみつめている。「なに、そんなに僕の顔好きなの」ときくと、「そうだよ」と恥ずかしげもなくこたえられる。よく億面もなくいえるなと、さまざまな意味で感心してしまう。「僕も寂雷の顔好き、」と揶揄うようにいうと、恥ずかしかったのかなんなのかうつむいて「……それなら、よかった」と答えた。この男はいったいなんなのだろう、僕からの好意以上に重たいそれをもっている。到底返しきれないほどの感情を秘めているのだろう。うつむいた寂雷は長い髪のせいでよく表情がうかがえない。そんなちいさなことにすこし苛立ちながら、「ねえ、顔きれいだよね」と追撃をして楽しむ。それは本心でもあるけれど、反応がすこし面白いからだ。隣に座っていたら顔をのぞきこんで髪に触れられるのにとおもいながら、僕は自分のクッションの上にジッとしていた。「じゃくらーい、まだいっぱいあるけど食べないの、お腹いっぱいになっちゃった?」「食べるよ、」みじかく答えた言葉には恋愛の熱がこもっている。それは色にしたら生々しく真っ赤なものなのだろう。きっと脈打つ心臓の色だ。一定のテンポを刻み、身体に血液を巡らせて僕たちを生かす唯一の臓器。そんなものを取り出したかのような色合いにちがいない。寂雷、おまえの胸を開いて心臓をこの手に乗せてみたい。そのいのちの重さを、儚さを、崇高さを感じてみたいんだ。そんなことをかんがえながら、テーブルの上に残っていたポタージュのプラスティック蓋を開けてスプーンで掬う。冷めたポタージュを掻き回すと、容器の底に沈んでいた細かく刻まれたきのことジャガイモが浮き上がってくる。複雑な味付けのことはよく分からないけれど、これは塩気がすこし強めでパンに合うなとおもいながらひとくちひとくち掬って飲んだ。室内には食材のにおいが多種混じり合っているが、それは混ざっていてもどこか心地よいものだ。人間は食事を摂らなければいきてゆけないけれど、こんなふうに僕にたべものを与える男にははじめて出会った。すこしかんがえてから、「はい、」といってポタージュを掬ったスプーンをこぼさないように向かい側に差し出す。戸惑ったように「飴村くん?」というのをきいて、「そっち側に残ってるのはヴィシソワーズでしょ、これ美味しかったからすこしあげる」そう返した。寂雷がまるで犬のように、控えめにくちを開けて舌を出した。その奥へそっとスプーンを差し入れて、ポタージュを流し込む。とろりとしたそれは寂雷の喉を下りてゆくのだろう、嚥下するときの喉仏の動きをみながら僕は一方的に満足した。「冷えたジュースあったから出すね、」といって立ち上がり、冷蔵庫からアップルジュースを出した。それは紙パックのものではなく、おおきめのガラス瓶にはいっている海外輸入のものだ。先日たまたまはいったカフェのレジ横で売っていたので、瓶がかわいくておもわず買ってしまった。鋭い銀色をした金属製の蓋をひねると、チキチキッと音を立ててから開いた。英語だらけのシールが側面に貼られているそれは、グラスに注いで飲んでみるとやや濃い味がした。僕たちはこれからのTheDirtyDawgについて話し合うでもなく、ましてや恋について話すこともせず、ただただテーブルの上に並べられたたべものを胃に詰め込みつづける。「やっぱり最近忙しいのかな?」「そんなの分かりきったことでしょ、寂雷は暇なの」「私も暇ではないよ、ただあまり根を詰め過ぎると効率が悪くなることは覚えておいた方がいいかもしれないね」「はいはーい、アリガトー」そんなくだらない会話を交わしながら、僕たちはテーブルの上に並んでいたたべものを空にしてゆく。寂雷のことを食べてしまいたいな、とすこしだけおもった。こんなにべったり依存し合うのが心地いいだなんて、僕はいままでしらなかった。だからいつか恋が終わるとき、おまえを食べてしまおう。その痩せた体躯も骨も内蔵もなにもかも、飲み込んで噛み砕いてひとつになってしまいたい。「そういえば雑誌で寂雷のインタビューみたよ、」「それは光栄だね」「写真映りがよかったから、そこの本棚にいれておいた。僕、寂雷の写真持ってないし」すこし拗ねたようにいってみせると、困ったように眉を下げられた。いつだってそんな顔をしてみせる。まるで僕だけが我儘をいっているかのような、そんな錯覚に陥ってしまうのだ。あらかた食べ終わってから、「ねえ、スイーツは? 買ってきたっていってたよね、なに買ったの」「サヴァランだよ、以前飴村くんが食べていたのをみたから」「サヴァラン、シロップとお酒が染みてて好き」「それならよかった、ああ、フォークは付けてもらったよ」そういって寂雷が白くちいさなケーキ箱からサヴァランとストロベリータルトを取り出す。そして僕はケーキ皿を出してテーブルに並べる。ケーキ屋が付けてくれたフォークはおもちゃのようにちっぽけだったが、ケーキを食べるにはこのくらいでいい。目の前に置かれたそれをみて、サヴァランに突き刺さっている洋酒入りのスポイトをおもいきり押し潰した。スポイト内にはいっていた飴色の液体がすべて出きったのを確認してからそれを抜く。「寂雷はタルトなの、」「そこまで洋酒がはいったものはケーキといえどどうかとおもってね」「ああそう、たしかにこれで面倒なことになるのは僕も厭だからそれでいいんじゃない」フォークをサヴァランに刺して、ひたひたになったスポンジ生地をひとくちぶん切り取る。それをそのままくちへ運んで食べると紅茶風味のシロップと洋酒の味が一気に広がって口腔内を満たした。味わってから噛み砕いて飲み込み、「これも美味しい、」とさっきとおなじ言葉を繰り返すと寂雷がホッとしたかのような顔つきで「そう、」とみじかくいった。ねえ、僕がおまえのもってきたものを食べる意味が果たして分かっているのだろうか。くちに出してはいわないけれど、こうして咀嚼して嚥下して、やがて胃の中で溶けて吸収されゆくものたちを拒まないことの重大さをいつかおもいしればいい。そう、それはいつかであり未来の話だ。いまの僕はそれが来ないことを願うくらい、この密接な関係に浸っている。寂雷が向かいでストロベリータルトをすこしずつ食べている、その仕草はいつだってうつくしいものだ。真っ赤に熟れたいちごがくちのなかへはいってゆくのをみて、まるで僕たちのセックスみたいだとなんとなくおもった。きれいに形の整ったものが、上下の歯によって押し潰されて原型を留めないほどになるなんてまさにセックスの暗喩でしかない。「なんで寂雷の食べ方、いつもいやらしいの」とおもったままを言葉にすると、よく分からないといいたげな表情でこちらをみつめた。「私の食べ方はどこかおかしかったかな」そういって真顔でかんがえこみながら、もうすでに半分ほどの面積になったタルトと僕を交互にみている。悔しいけれど、不覚にもかわいいなとおもってしまった。いままで誰とも(それは男女含めてだ)付き合ったことがなかったもので、こうして特定の相手を自分のこころのテリトリーにいれるということがスムーズに出来ない。ただそれでも寂雷の甘く低い声は心地いいものだし、告白された数ヶ月前よりは僕も素直に感情を揺り動かされているのだとおもう。そもそも恋というものがよくわからないし、愛なんていわれたらさらにわけがわからない。だってそんなものはしらない。オネーさんたちとは不自由なく適当に遊んでいたものの、一晩だけの関係がほとんどだ。そんな僕の常識を塗り替えるようにして、神宮寺寂雷という男は僕のこころを緩やかに融かしてゆく。こんなものは初めての経験で、自分が変わってゆくようなある種恐ろしささえ覚えていた。なにもかもが塗り変えられてゆく。まるで新世界の夜明けだ。「ねえ、寂雷、後でえっちしよ」サヴァランをすこしずつ食べながら楽しげにそういってみせると、ちょうどおなじようにタルトを食べていた寂雷が固まった。甘く媚びてみせるような声と表情で「駄目?」ときくと、「……だめではないよ、」そんな言葉が返ってくる。おまえも僕も、恋人という名のこの関係に縛られている。べつに僕たちがセックスをするのは今夜が初めてではないし、さいわい寂雷も僕も男を相手にした経験はすでにあったのでなにも遮るものはなかった。「乗り気じゃないならいいよべつに今度でも」すこしわざとらしく頬を膨らませていうと、沈鬱そうなかおつきで「そんなことをしたら飴村くんは他の相手のところへいくだろう、」と吐き出される。「なにそれ、僕とやるの厭なの」「いや、そうじゃないんだ」「ふーん、じゃあなんなの、前回も前々回もその前もきもちよかったっていってたくせにさあ」追い詰めるようにそういってみせると、困ったといいたげな表情でうつむく。その姿がやけに艶かしいことにこの男自身はきづいているのだろうか。陰のあるそれはまるで鋭利な美の暴力だ。しばらくうつむいて目線を外していた寂雷が、本当はいいたくなかったとでもいうかのように重々しくくちを開く。「……ここまで誰かに執着するのは初めてのことで、正直なところ飴村くんとのセックスは相性がよすぎて怖くなる。きみといるとすこしずつおかしくなっているという自覚はあるけれど、それに抗えない自分が厭なんだ」そこまで一気に吐ききるようにいった寂雷の顔は、どこかおもいつめているようでそれは僕からしたらすこし愉快なものだった。すべてを白状したかのようなくちぶりに、ふはっと軽く笑ってみせると湿っぽい目つきで射るように睨めつけてきた。まるで梅雨の夜のような性質の男だとおもった、だが僕は梅雨が嫌いではないしむしろ夜は遊んでいられるから好きなほうだ。雨が降るなら傘を差せばいいし、夜眠れなければ朝まで楽しく起きていればいい。つまりはそういうことだ。「寂雷、それ自分だけだとおもってるの。たとえば不安感とか未来とか恋とか愛とか、よく分かんないそれらを引っくるめて僕たち付き合ってるんじゃないかなあ。抗えないんだったらおもいきって一度流されてみたら?」僕をみつめている目が驚いたようとでもいわんばかりに見開かれるのを正面からみてしまった。べつに正しい答えをおまえに与えてやることは出来ないけれど、ここまでさまざまな言葉を使えるのは人間の特権なのだからそれは使わないと損だろう。感情というものを交換し合うのならば、言葉というものを交わし合うのも当然だと僕はおもっている。しばらくして、はあ、とおおきく息を衝くのがきこえた。「どしたの、」「いや、きみにはかなわないなとおもって」「あっそ、それならいますぐえっちしよ。僕、ほとんど食べ終わったし食欲の次に満たされるべきは性欲じゃない? 怖いんでしょ、それなら僕がそれを上書きして身体に教え込んであげる」たぶんいま僕の目は獣のように爛々と光っているにちがいない。眼前にうつくしい標的がいて、それを食べていいのだと了承されているからだ。ペーパーナプキンで端から端まで丁寧にくちを拭う。おまえを食べるよと笑いながらいいたくなってしまう。「ねえ、いや?」と駄目押しのようにきくと、淡々としたいつもの声で「厭ではないよ、」と返ってくる。だからおまえはどうしたいのとか、そんな無粋なことをきいている暇はない。獲物がディナー皿に載っているあいだに食べてしまわないと。「じゃあしよ、はやくしよ」といって、立ち上がって寂雷の腕を引いた。寂雷はすこしよろめきながら立ちあがって、観念したとでもいいたげに仄かにほほえんだ。それはいつも僕にみせる困ったときにみせるもので、まるで自分ひとりが我儘をいっているかのような錯覚にとらわれてしまう。この男はそういったところがずるい。すこしいらつきながら自棄になって寂雷の腕をおもいきり引っ張り、そのままベッドへと突き飛ばした。痛いとでもおもえばいえばいいのに、そんなことも漏らさずに寂雷はただただ僕を受け容れようとする。そこが精神的優位に立たれているようでむかつくのだが、それでもいいのかもしれないと最近はおもいなおしはじめた。蒸し暑い梅雨だからだろう、寂雷の私服は七分袖の黒いサマーニットで、リブ編みのそれは触れるとさらっとしていた。僕もつづいてベッドの上へあがり、着ていたパーカーとシャツをわざとらしく脱いだ。「脱がないの、」ときくと初めてセックスをするわけでもないのにくちごもっていたので、「じゃあ脱がせてあげるね」といいながらクッションに凭れている寂雷の服を、裾から捲ってサマーニットを剥がそうとした。そう、それはまだ未遂だった。裾から手をいれて、脇腹に触れるとビクッと怯えるかのように震えたので「寂雷、どーしたの」ときくと、「……なんでもないよ、」と平静を装った声で答えられる。そのままあちこちをペタペタと触っていると、おかしいほど反応するのでこらえきれずに笑ってしまった。「あっは、ねえねえ本当に怖いの? 処女みたーい」まあ処女っていうか三十路の非処女な男だけど、とおもいながらも触れる手は止まらなかった。正面から背中に手をまわして引っ掻いてみせたり、脇腹にやさしく爪を立ててやる。その度に寂雷は身体を震わせていた。「もう何度もしてるのにまだ慣れない? プロのオネーさん何人か紹介しよっか?」「……飴村くん以外とはしないよ、」「あっそ、それならいいんだけど前回や前々回よりもガード堅くなってるとやりづらいんだよね」そんなふうに揶揄いながら、ニット生地の下で乳首を抓った。それは確かに硬くなっており、この男が僕に欲情してることのサインのようで面白かった。「キスして、」とねだると、顔を下に向けて四十センチの差を埋めるかのように距離を縮められた。すこし乾燥した口唇がぶつかる。それはひどく上品な形をしていて、クッと横に引かれている。やさしく受け容れてくれるのに、そうするのが怖いとでもいいたげな口唇をやわく噛んだ。そっと甘噛みしていくとほんのすこしずつだが緊張が溶けてゆくのだろう、食いしばったようなくちが緩んでくる。しつこいほどに口唇を甘噛みしつづけた。根気よくそんなことを繰り返したのちに舌を差し入れると、驚いたような顔をしたので目を瞑ればいいのにとおもいながら口腔内を蹂躙した。それは確かに暴力的な蹂躙で、暴き、荒したといっても過言ではないだろう。わざと舌と唾液でぐちゃぐちゃと音を立ててやると、それが厭なのか何なのか肩を押される。それでも逃すまいと、寂雷の太腿の上に乗りながら背伸びをして続行した。逃れようとするのを阻止するために、服のなかへいれていた手を後頭部へまわしておさえつける。苦しそうに「ふ、」と息が漏れるのがきこえた。しばらくすると僕の肩を押していた手のちからが緩んで、ほぼ無抵抗になってゆくのを感じる。笑いたい、おもいきり笑ってやりたい。寂雷、おまえはどう足掻いても僕のところへ落ちてくるのだとしっているだろうか。聖人然としたそのうつくしい顔が欲情する瞬間を、僕はもう何度もみてしまっている。いまだってほら、僕しかみえていない。そうだろう、だって僕らはもう恋人なのだから。くちを離して解放してやると、「飴村くん」と名前を呼ばれた。機嫌でも損ねたのかとおもいながら「なーに、」と頸を傾げてきいてやると「このままだと、きみのことを好きになりすぎてしまう」などといまどき中学生でもいわないんじゃないだろうかとおもうようなことを真剣な表情でいわれた。いままで割り切った関係は多々あれど、純粋な恋愛関係というものの経験値が低すぎるので「……僕も、」としかいうことが出来なかった。正しいとか間違っているとか、後々になってかんがえることはあるのかもしれないが、現在の僕たちはただの甘ったるい恋人なのだからこれでいいのではないだろうか。このファンシーポップな色合いの部屋に似合うような、そんな関係をゆっくり築いてゆく。「手、上げてばんざいして」というと寂雷が手を上げたので、そのままサマーニットを下からするりと脱がせる。いつだって白い蛇のような肌はなまめかしくなめらかで、そして冷ややかだ。ぴったりとした黒いスラックスの上から性器を撫でると、かわいそうなほどに張り詰めているのが分かった。「苦しい?」ときいても頸を横に振られる。僕はそれが嘘であるということをしっている。この男がいかにセックスという行為に弱いかを知り尽くしているからだ。寂雷の太腿に座ったまま、上半身裸になった身体にそっと触れてゆく。痩せているとはいえ、僕にはないような筋肉が薄っすら乗っているさまはみていて楽しい。ふたりとも上半身の服を脱ぎ去っているので、そのまま身体をぺったりとくっつけてみる。「飴村くん?」となにをしているのかとききたげにいわれたので、「心臓、互い違いにくっつけてみたかったの」と答えてやる。座高にしても差がありすぎるので、あいにく僕の心臓の位置は寂雷の胸に当たっていないが、それでもこれは単なる自己満足なのでいいだろう。そのまま寂雷に屈んでもらって頸許を噛むようにキスをする。「痕がみえるのは、」「えー、駄目なの、ケチ」そんなことを何度かやりとりしてから、「これならいいよね、」といって鎖骨の上に歯を立てた。この男といつか別れることがあっても、僕がこの鎖骨へ歯型を残したことは未来永劫の事実であれと願う。皮膚を噛む度に淡く喘ぐのがきこえたので、この男はやっぱりマゾヒスティックな部分があるなあとおもいながらも、僕はそれが厭ではないしむしろ好ましいとおもっている。しつこく甘噛みしていると、徐々に息が上がるのがきこえた。その喉笛に喰らいついてしまいたい。いまなら誰も邪魔をしない、そんなことを企てながら僕は冷静になろうと必死につとめた。そんな思考を見透かしたかのように「飴村くん、みえるところはいけないよ」とやさしい声で諭される。それはロリポップよりも甘いものだ。なんでとかどうしてとかそんな言葉はすべてなぎ倒されて、いけないという事実だけが僕のなかに残響する。おとなしく引き下がると「いいこだね、」とほほえまれた。誰かもうこの顔をみたやつはいるのだろうか、こんなにも神に等しいおだやかな笑みを浮かべる男が性欲というものに引きずり降ろされてセックスするのだと世界中にしらしめてやりたい。「乳首勃ってる、」と揶揄うようにいうと恥ずかしそうにうつむくのがみえた。長い髪がバサッと影をつくるので、僕はそれを左右に分けて「はずかしいの?」と正面からきくしかなかった。乳首を指先でつまんだり押し潰したりすると寂雷が薄く喘ぐのがきこえる。わざと爪を立ててやると、それがいいのか「う、」と声を漏らした。やっぱりこの男は被虐趣味でもあるんじゃないかとおもいたくなるほど、嗜虐心を引き出す仕草が上手い。「色薄いね、ここ」と囁いてみせると、更にうつむくのでもう表情が読めなくなってしまった。それを暴くかのように「顔ちゃんとみせて、僕のこともみて」そういいながら寂雷の頬を片手でつつんでやる。すこしずつ顔をもたげた寂雷は、べつに初めてセックスをするというわけでもないというのに恥じらっている。仄かに勃っている乳首にギリギリと爪を食い込ませて遊ぶと、「は、ぁ、」とおおきく呼吸をするように喘ぐのがきこえた。「ねえ、好き?」わざとらしく甘い声でそうきくと、なにかを諦めたかのように肺腑のすべてを吐き出すかのごとく「……好きだよ、」としばし沈黙ののちに返された。そう、僕も好き。あたまがおかしくなってるほどおまえのことが好き。そんなことを内心つぶやきながら乳首に噛み付く。唾液を絡めてジュッと吸うと寂雷が声も立てずに喘ぐのが分かった。もっと無様になってほしい、全部全部曝け出してくれればいいのにと願ってしまうのは罪深いのだろうか。これは罪か。それならば、神のような見目のおまえが罰してくれればいいのに、それでちょうどバランスが取れるだろうから。何度も音を立てて乳首を吸いながら、「きもちいい?」と洗脳するかのような声音できいてやると「きもちいい、」と答えられる。そうだ、これは洗脳。なにもかもを僕に委ねて、そしてぐずぐずに溶けていってほしい。おまえの意思は融解しきって外殻が残るのだろうか、それともしぶとく自我を保ちつづけるのだろうか。どっちにせよ僕はおまえが、寂雷がいとおしい。これを誰かがただの自己満足だと罵るなら甘んじて受けよう、だけれども僕は揺るがない、これは僕が寂雷に対してもっているつよい感情なのだから。乳首を吸ったり甘噛みしたりしていると、寂雷が横についていた手にちからをいれてシーツを掴むのがみえた。シーツに放射状の皺が縒る。ピンッと尖った乳首は、僕が散々舐め回したせいで唾液によりテラテラと光っている。元々が淡い色をしているからか、何度も噛んだので周囲がじんわりと赤くなっているのが分かった。一部分は甘噛みとはいえ歯型が薄っすらと残っている。「下、キツそうだから脱いでいいよ」といいながら寂雷の太腿から下りて、ベッドの端に座る。ベッドの周りには星型やうさぎ型、ユニコーン型のファンシーな色合いをしたクッションが多々転がっている。僕がいった言葉をきいて、寂雷がゆっくりとした動作でスラックスと下着を脱いだ。それを奪って床に放り投げる。この男が私服さえもハイブランドのものを身に着けていることは一目瞭然だったが、それでも皺になることを恐れるよりも僕は目の前に釣るされた餌に夢中だった。ミントグリーンのカーペットの上には、幾重にも放り投げられた僕と寂雷の服が層をなしている。それはまるで今日のセックスに至るまでの歴史の一部のようだった。工事中によくみつかる地層みたいな、そんなものだ。もしかするとミルフィーユにもみえるかもしれない。脚を抱えてベッドの上に座る寂雷をみながら、「ねえねえ、寂雷勃ちすぎてキツくないの?」ときくと「つらいよ、」と返ってくる。だからどうしてほしいなどとはいえない性質なのだろう、いままでのセックスだって導入に時間がかかったり本番にたどりつくまでに僕らはグズグズとしていた。僕はいつだって饒舌で、寂雷はそれに較べてしまうと口数はそこまで多くなく、その辺りの加減がひどくむずかしい。「これ触っていい、駄目ならいってよ、べつの日にするから」「いや……飴村くんに、触ってほしいんだ」「僕、正直な寂雷のことだーいすき! やっぱり人間は正直であるべきだよねえ、そうおもわない?」「――きみがいうなら、そうなんだろうね」諦念というものを滲ませた声でいわれて、僕はゾクゾクとしながら寂雷の両膝に手をかける。寂雷は膝にちからをいれて閉じているのかとおもいきや、呆気なくそれは開いて中心にある性器が外気に曝されているのがみえた。どこもかしこも色素が薄いからだろう、性器さえも生白くてすこしおかしくなってしまう。寂雷が必然的にM字に脚を開いているのを笑ってみながら、両脚のあいだに蹲って性器を間近で眺めた。緩々と勃ち上がっているそれは先端から透明なカウパー腺液が溢れ出ている。ときおりぴくりと動くのがおかしくて、僕はそっと息を吹きかける。そうすると怯えるかのように何度も小刻みに性器が揺れた。悪戯を仕掛けるように指の先端でつつくと、深く息を吐くのが上の方からきこえた。「焦らしてほしい? それとも扱いてもらいたい?」「はっ、ぁ……飴村くん、あまり焦らされるのは、無理だよ」「あっそ、それなら扱いてあげるね」そういって、両脚のあいだに蹲った姿勢のままそっと握って根本からゆっくりと手を動かした。僕が丁寧に扱いているあいだ、寂雷は大型犬のような、いや、おおかみのような荒い吐息を漏らしていた。この物静かな男のどこにそんなほとばしらせる激情めいた性欲があるのだろうとおもったが、誰にだって隠している顔はあるのだろうし深く追求することはやめておいた。寂雷はクッションに腰と背を沈めて凭れかかった姿勢で、ややうつむきながら僕にすべてをあずけている。指先で尿道口をいじると、滲み出たカウパーで手がズルッと滑る感触がした。「……あめむら、くん」とすっかり脳髄の奥まで快楽に掻き乱されたみっともない声で僕を呼ぶ。正直なところ、僕はそれが嫌いではない。むしろ好ましいとさえおもっている。セックスなんて行為はどこか別世界の話だとでもいいたげにしている普段の高潔めいた神宮寺寂雷という男が、ただ性器を扱かれただけでこんなにもすべてを崩れ落としてしまうのだ。男好きなのだろうかとかんがえたが、経験はあると語っていたものの特に誰かに執着しているようなくちぶりではなかったので興味本位で試しただけだったのかもしれない。この男は興味を惹かれたことや、そんなものにひどく弱く、すぐに首を突っ込む癖をどうにかした方がいいと傍からみていてもおもってしまう。それが原因で火傷を負う前にやめればいいのに、とおもいながらも上手くいえずにいる。そんなことをかんがえながら、目の前で屹立している性器を下から上へと扱いた。初めて寂雷とセックスをしたときからおもっていたが、カウパーの量がおおいので必然的に手がベタベタになり、擦っている性器との摩擦は限りなくすくなくなってゆく。ズルッと下から扱くと、カリ首の張り出したところへ何度も当たって余計に快感が増すのだろう。寂雷を観察しながら手を動かしていると、脚を震わせて爪先をギュッと丸めるのがみえた。オネーさん達がセックスでいくときみたい、とおもいながら「寂雷、もういく?」ときいてやる。厭だとでもいうように頸を横に振られたので、僕は自棄になって追い詰めてゆくようにすこしつよめに扱いた。手と性器が擦れる粘着質な音が立っていた。僕の住んでいるマンションは渋谷区のなかでも神泉に近いラブホ街と住宅街のあいだなので、渋谷駅まで歩いていける距離といえども夜のあいだはやたらしんと静まり返っている。そんな夜に、いやらしい匂い立つような音が部屋に満ちている。寂雷を一度いかせようとどこかムキになっていると、あたまのてっぺんにそっとなにかを押し付けられた。なにごとかとおもって上を向くと、頭頂部に当たったそれが寂雷のくちびるだったことが分かった。「なに?」「一生懸命でかわいらしいから、ついね、」「は? っていうか寂雷今回いくの遅くない? 先月よりも歳食ったからじゃないの」「三十と十九だけどそうかな、」「そう、絶対そう!」そんなことを僕が大声で騒いでいると、「飴村くんが挿れてくれたらすぐいけるから」とのたまった。強欲な男なのだと、いまはおもっている。だがしかし恋人同士なんてそんなものだろう。互いに強欲であればいい。「バックでするからうつぶせになって枕でも抱いてて」そういいながらベッド脇のチェストのなかにはいっているローションボトルとコンドームをいくつか取り出す。ローションは無色のものがなんとなく厭で、ペールピンクのものを通販でみつけたから買っておいた。女の子ウケがいいようになのかなんなのか、ボトルがかわいらしいウサギの形をしている。長い両耳がひとつに束ねてあって、そこにボトルの蓋が付いているという悪趣味なのか乙女趣味なのか訳の分からないものだ。コンドームは原宿の専門店で買ったもので、ロリポップ型のパッケージにスマイルマークが印刷されている。ベッドの上に座った寂雷に「ねえねえ、どの色がいいかなあ。ローションと合わせてピンクもいいんだけど、イエローもかわいいよねえ」ときいてみたものの、どうしたものかといわんばかりの顔でこちらをみつめられた。本物のロリポップのように白い棒がついているので、それを持ってピンク・ブルー・イエローの三色を寂雷の目の前で振ってみせた。「やっぱりピンク? あ、ちなみにこれフレーバー付きみたいだから、今度しゃぶってみせてよ」そんなことを捲し立てながら、寂雷をうつぶせに押し倒す。スプリングがきいていてやわらかなベッドの上で、百九十五センチの体躯はやはりおおきいながらも歳下の僕のいいなりになってしまう。その白い尻にローションをおもいきり垂らす。粘度のあるそれはツーッとボトルから出て、寂雷の身体に落ちる。それがつめたかったのだろう、身体がすこし驚いたようにビクッとするのがわかった。垂らしたローションは蛍光色に近いペールピンクで、それは人工的な匂いを発していた。「肌、白いからローションの色がよくみえるね」と揶揄うようにいうと、早くほしいといわんばかりに羽根枕を抱きかかえて呻くのがきこえた。ベタベタになった皮膚の上で僕の手が滑る。ロリポップのようなパッケージをしたコンドームを歯で噛み切り、正方形のそれから取り出すと指にかぶせた。ローションまみれになっている尻を撫で回し、コンドームをかぶせた指で肛門を探る。べつに僕は慣らさずに突っ込んでもいいのだけれど、こうやって丁寧にあつかうのが恋人っぽいからという理由だけでじっくりとほぐしてゆく。つぷっ、と差し入れた指がラテックス越しに体内の温かさを伝えてくる。生温かいそれはいきているものだけの特権だ。指を更に奥へといれると、深く溜め息のようなものを吐くのがきこえた。「直腸ってぐにゅぐにゅしてて温かいよね、」と感心したようにいうと、「私もいきている、から、」とだけ答えられた。この男でも当たり前のことをいうのかと、変なことに感銘を受けながら指を抜き差しした。寂雷は微かにきこえる程度の喘ぎ声を上げている。「指、増やしていい?」ときくと切実そうな声で増やしてくれといわれたので、一度指を抜いてコンドームのなかに人差し指と中指をまとめていれた。そして、それをふたたび挿入すると「あ、」と短い悲鳴じみたものがきこえた。寂雷の低い喘ぎ声は萎えるどころか僕を興奮させてやまない。肉壁を掻き分けるかのようにしながら指を奥へと侵入させてゆく、寂雷の喘ぎ声はまだ控えめでどこかで自分にストッパーをかけているのが分かるようなものだ。「まだ僕とするの怖いの、」ときいても答えは返ってこない。代わりに低く甘ったるい喘ぎ声が室内に響いている。いかにも恋人同士だといわんばかりの行為に当てられて、僕は指を差し入れながら目眩がするのを感じていた。オネーさん達とセックスをするときとはまったく違う、何も条件の発生しないセックスなんてこの男に出会うまでしらなかった。逆説的にいえば、この男に出会ってしってしまったといえばいいのかもしれない。指を奥までいれて曲げるとそれがちょうど前立腺に当たるのだろう、「ひっ、ぁ、」と声を上げながら身体を震わせた。「あめむらくんっ、そこは、」「んー? 寂雷、ここ弱いんだ。あっは、おっかしいの」膝を畳んでうつぶせになっている寂雷の格好が、ひどく嗜虐心をそそることに本人はきづいていないのだろうか。執拗に前立腺をいじると、寂雷は面白いほど甘い声を漏らした。散々いじめるように刺激すると、「もう、挿れて、ほしい」と懇願するかのような台詞を吐いた。いつも高潔であれと佇んでいるような男が、そんなことをいうものだから僕は感情がこみ上げるのをひた隠しにしながら「じゃあ挿れるね、ちょっと腰の高さ合わせて」といって、指を抜いてからベッドの上にばら撒いておいたコンドームを開けてガチガチに勃っている自分の性器に着けた。そしてそれを肛門にあてがって徐々に侵入させていく。「は、あ……あめむらくんのおおきいっ、」「寂雷、おっきいの好きでしょ?」そんなことをききながら、亀頭部分をズブズブと押し込む。前後左右から肉のかたまりにつつまれているという感覚がたまらなくきもちいい。これはやっぱりオネーさん達よりもはまりそうだなあ、とおもいながら「じゃくらい、」と名前を呼んでみた。それは確実に自分のくちから出た声なのに、誰の名前を呼んだものよりも甘ったるい。僕はこんな声をしていたのだろうかと不思議におもったくらいだ。根本までぎっちり埋め込むと、寂雷が深く長く喘いだ。両手で腰をつかんで揺するように出し入れする。「あ、ああっ……飴村くん、それいいっ、」「まだ怖いならやめるけど、どーする?」「やめないで、きもちいい、から」そんなことを十一歳も上のうつくしい男が愚図るようにいう。僕はその倒錯めいた構図にあたまがおかしくなりそうだった。いや、もうとっくにおかしくなっているのかもしれない。目の前で喘ぐ男はひとを狂わせる。僕もそのひとりというわけなのだろう。その声で名前を呼ばれる度に、僕は崩壊を感じる。精神でも肉体でもなく世界の崩壊だ。世界とは僕の常識のことでもある。「前、自分でいじっていいよ」というと寂雷がみずから下半身に手を伸ばす。「前も後ろもきもちいいの、」「……すごく、いいよ」「ねえ、僕とのえっちすき?」そうきいてすこし間をおいて、観念しかたかのように「ちゃんとすきだよ、」と答えられる。それは初めて告白されたときのようで、僕はなんとなくきもちが高揚した。そのあいだも寂雷は自分で扱いていたし、僕は内壁を抉るように腰を振っていた。動物だ、とおもう。僕らは結局のところ動物で、快楽をともなうセックスという行為が好きでやめられないでいる。けだもののように貪り合って、身体を擦り合わせて、そして僕とおまえは生きている。しかし、ちゃんとすきだといわれるだなんていうことが、いままであっただろうか。僕は所詮立場が優位なオネーさん達の慰みものでしかなくて、アイドル的な意味合いに置かれてもそれは虚無でしかない。そんなことをかんがえているあいだも寂雷が自分で扱く音がニチニチときこえて、僕はいま目の前の男を犯しているというのに気が狂いそうだった。「もうちょっと腰上げて、」といって腰を引くと、根本まではいっている性器が更に奥まで侵入してゆき、この男に食われるのではないかという錯覚に陥る。「あっ、あめむらくん……あまり奥までは、」「いやなの?」「……いや、ではないけれど、よすぎるから」甘い。甘ったるい。これはどんなロリポップよりも毒々しい色をしている恋というものだ、そしてそれに付随するセックスは毒そのものだった。よすぎるといわれてやめられるかとおもいながら、おもいきり奥まで突き上げる。寂雷は初めこそほぼ喘がなかったが、途中から声を出すようになった。「は、ぁっ、あめむらくんっ、あめむら、くんっ……」「なーに、」「私、きみとの、セックスが……くせになってしまう」切実な訴えをききながら、いっそ中毒にでもなれよ、とおもった。もっと依存してほしい、もっと融け合ってしまいたい。どこにも行き場のない感情をぶつけるかのように、僕は寂雷に性器を捩じ込んで声を上げさせる。そして寂雷はそれに身体でこたえるのだ。僕らの身体はあつらえたかのようにぴったりとしていて、徐々になにもかもを麻痺させてゆく。左馬刻も一郎も、僕とこの男がセックスに興じているだなんて想像もつかないんだろうなとおもったらおかしくて、おもわずふふっと笑ってしまった。「ねえ、寂雷、もっと好きっていってみせて」そういいながら腰を揺する。僕だけが毒に冒されるのではなく、おまえもおなじく染まってしまえばいい。「すき、だよ……あめむらくん」「でもさあ、それって僕のことがっていうよりも、僕とのえっちが好きなんでしょ?」「ちが、う、きみが、私は本当にあめむらくんがすきで、」バックで犯しているから顔が、表情がまったくみえないのが惜しいなとおもいながら舌打ちをした。そのあいだも、寂雷の声は泣き出しそうにずっと細かく震えている。それを無視するかのように、奥までぎっちりと性器を埋め込んだ。僕は挿れられたことはないから分からないけれど、羞恥心や異物感はどうなっているのだろうとここまでしておきながら不思議におもう。そして自尊心、プライドだ。この男は高潔であれという見目をしているくせに、こんなインスタントな快楽によわい。寂雷は途中までなにかいっていたものの、性器を捩じ込んで激しく抜き差しするとただ母音をくちから垂れ流すだけになっていった。この男がセックスで変わってゆくのはひどくこのましいとおもう。誰も彼もをみくだすような冷静な目線と高い身長が、いまはただ犯されて無様に喘いでいる。かわいい、とおもった。みっともなく喘ぐ寂雷はたまらなくかわいくて、僕はとてつもない高揚感にさらわれる。「んっ、あ、ああっ、」長く滑らかなツートンカラーの髪を引っ張る。おもいきり引っ張ったので、寂雷が喘ぎながら斜め上を向いた。痛いといわれることもなかったので、片手で腰をおさえながらもう片手で髪を掴んで遊んだ。「あっは、なんだか乗馬みたいだねじゃくらい、あれかなあ色的にユニコーン? ファンシーでかっわいー!」茶化すようにそんなことをいっていると、自分で扱いていた寂雷が前も後ろも限界なのか「あめむらくん、私はもう、いきそうだから」と切羽詰まった声でいうのがきこえた。「えー、終わりなの? もう終わりにする?」わざと分からないとでもいいたげに意地悪くいってやると、「無理、だから、もう無理」と寂雷が低い声で答える。寂雷が自分で扱いている粘着質な音と、僕が突っ込んで肌同士がぶつかり合う音が厭というほどきこえている。「ねえ、僕まだだけど、いく? 寂雷いける?」とわざらしくきいてしばらくしてから、低くくぐもるような声で「……あめむらくんっ、いく、」とだけいってガクガクと身体が震えるのがつたわってきた。次の瞬間、僕のファンシーポップな部屋に寂雷の精液のにおいが漂う。はあはあと荒く息を吐くのがきこえてきて、まだ吐精していない僕は笑いながら「ねえ、自分だけいっちゃうのずるくない? 僕まだだっていったよね」といって弛緩したがっている寂雷の身体におもいきり挿しいれた。一度いったばかりで敏感になっているのか、ちからなく羽根枕を抱きしめて腰をこちらに向けている寂雷がふたたび喘ぐ。「ひ、ああっ、おおきい、あめむらくんの、おおきくてきもちいいっ、すき、」「僕も寂雷のなか、締まってきもちいいからすき」そんな睦言を繰り返す。僕らは果たして好きだという言葉の真意を分かっているのだろうかとおもうほど、互いにそれを浴びせつづけた。オネーさん達につかう好きと、寂雷につかう好きは明らかに違うのだけれどどこがどう違うのかと突き詰めてゆけばよく分からなくなる。ただ、僕らは相互意思表示としてその言葉をつかった。一度射精した後の寂雷の身体をバックで揺さぶりながら、僕はその長い髪をふたたび掴んで引っ張った。寂雷は痛くないのか、それとも痛くされても気にしないのか、ただひたすらに熱い息を吐きつづけていた。散々そんなことをしてから、僕は射精感が高まっていざいくというときに「ねえ、すき」と声に出してしまった。その言葉とともにコンドーム内には精液が排出されて溜まってゆく。これはまるで諦念だ。いや、そもそもちゃんとした恋愛なのだろうか。セックスなんて数えるのが馬鹿らしいほどしたけれど、恋愛経験なんていっさいもっていないから分からない。
――寂雷、おしえてよ。僕に恋というものと、愛というものをおしえてよ。痛いほどこの身におもいしらせてほしい。

「そういえば、サヴァランまだすこし残ってた」そんなことをいいながら、事後の空気を掻き乱すかのように僕は下着一枚にシャツを羽織った姿でベッドをそろりと下りる。ベッドのシーツはさっきふたりで一緒に変えたばかりで、ミントグリーンだったそれはいまはハニーイエローのものが敷かれている。寂雷は散々押し潰していた羽根枕にあたまをのせて、ベッドに寝そべったままこちらを眺めている。「あ、寂雷もタルト残してるー、持っていってあげようか」一枚のケーキ皿に食べかけのサヴァランとストロベリータルトを寄せ集めて乗せ、プラスティック製のちいさなフォークを持ってベッドの端に腰掛ける。「飴村くんが食べさせてくれるのかな、」「寂雷、自分で食べられないの?」そうきくと、ふふっと笑ってから「冗談だよ、」とやわらかな笑みを向けてくる。均整の取れた長身の身体は、僕と同じように下着一枚でもまったく違うものだ。それがうらやましいとはおもわないけれど、おまえのみている世界はどんなものなのかすこし気になってしまう。「そういえばなんで違う種類のケーキにしたの、僕いつも寂雷と出かけると同じメニュー頼むのに」「あまりおなじものを摂っていると、私ときみが同化してしまいそうで」「なんでそれが駄目なの? あ、タルトひとくちちょうだい」そんなことをいいながらフォークをタルトに突き刺して、ひとくちぶんを口許に運ぶ。あ、とくちを開けて頬張ると甘酸っぱいいちごの味と生クリーム、それとややしっとりしたタルト生地が砕かれて口腔内に広がる。「おいしいかい、」ときかれたので食べながら頷くと、寂雷がひどく嬉しそうな(しあわせそうなといえばいいのだろうか)表情をみせた。食べ終えてから皿の上に乗っているタルトの生クリームを指で掬って「ん、」と寂雷の口許に押し付ける。それはスライスされたいちごの色が薄っすらと混じっていて、端の方がほんのりピンクに色づいているものだ。「ほらぁ、さっさとくち開けて」というとやっと意味を理解したのか、あ、と寝そべったままの姿勢でくちを開いた。怠惰だ。怠惰の極みでしかない。あらためてみる寂雷の口腔内は生々しく、特に真っ赤な舌の色が鮮烈に僕の意識に残った。生クリームの付いた人差し指をくちのなかへ差しいれると、寂雷がじゃれるようにして舌を絡めてきた。熱くぬめるそれが人差し指にしつこくまとわりついていて、あまりにもくすぐったいので引き抜こうにも上下の歯と口唇で挟まれている。まるで生クリームをというよりも、僕の指自体を味わっているかのようだった。「なに、寂雷まだ遊び足りないの」というと片眉をわずかに動かしたが、それでも舌は指に這わされているしくちは開かないままだ。「ね、もう一回しよっか、」揶揄うようにそういえば、えげつないリップ音を立てて指が解放された。「飴村くん、歳上を揶揄うものではないよ。それにきみのセックスに一晩何回も付き合えるほど私は体力がないからね」「あーあ、これだからおとなってズルイナー」「飴村くんも来年でそんなおとなのひとりになってしまうよ」分かってる、そこからがスタートラインだと僕はおもっている。十代のうちはこどもで、二十代になったらやっとおとなだ。いまの僕は十九歳で、寂雷は三十歳。その差が縮まることは絶対的にありえないのだけれど、同じようにおとなというフィールドに立つことは出来るだろう。
 タルトの上に残っていた生クリームを残らずこそげ取るようにふたたび指で掬い、それを寝そべったままの寂雷のくちびるになすりつけるように塗った。なにをされているのか分からないといった顔をしているのをいいことに、生クリームが塗られた口唇の端からそっと舌で舐め取る。当たり前だが、こってりとした乳脂肪分と砂糖の甘味を感じる。こんなに甘いものだっただろうかとおもうほど、それは味がくちのなかに残った。あらかた舐め終わると、寂雷があきれるような口調で「いったいきみはなにを――」といった。「寂雷の舌、すごく赤いからいちごみたいだなってさっきおもって、それならくちびるに生クリーム乗せたらおいしいかもっておもったんだけど」おもったままを語ると、そんなものは当たり前だが自分でもわけが分からなかった。「ねえ、おかしいね」といって、ふはっと笑ってみせると寂雷が「飴村くんにはときどきついていけないよ」と釣られてほほえんだ。それは苦笑に近いものだったが、それでもこの人形のような男が笑みを僕に向けているということはもはや人生に於いての勝利だろう。
「ふたりでいるときは飴村くんって呼ばないっていったくせに、」とくちを尖らせてわざと拗ねてみせると、「――乱数くん、」やわらかな声音でそう呼ばれた。それはおまえの言葉、つまり凶器だ。べつにヒプノシスマイクを経由させるでもなく、ただの肉声、ただの生の音声。空気をつたって鼓膜に届く音の波形。だけれども僕の心臓を、肋骨のあいだを掻い潜ってそっと鋭いナイフを刺し込むものに等しい。「寂雷、もっと僕を呼んで」時間は深夜零時近くになり、梅雨だからだろう窓の外からはいつのまにかつよい雨音がきこえてきていた。「乱数くん、」ふたたびやさしい声音で名前を呼ばれる。それは落ち着いたようにきこえるが、その実、ひりついた感情を内側に秘めていることを僕はしっている。その声に答えるように引き寄せられ、覆いかぶさってそっとキスをした。まるで、まじないかなにかのように何度も口唇を擦り合わせる。「まだ甘い味がする、」といって顔を離してから舌で自分のくちびるを舐めると、寂雷もおなじような仕草をした。そしてすこし眉を下げて「たしかに甘いね、」と復唱するようにいった。今夜あったことをおまえは何年覚えているのだろうか――この部屋のベッドの上に十九歳の僕と三十歳のおまえがいて、事後で、生クリームの味がしていて、甘いねとささやきあったことがいつまで経っても消えなければいい。もし消えてしまうことがあるのならば、僕はそのおもいでごとおまえの記憶に沈んでしまいたい。沈殿した記憶の層となり、堆積されてしまいたい。ねえ寂雷、僕はそうおもうよ。

0