【シェオブ】木香薔薇と白詰草

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

「いい加減──死にたいんだ。」
 何の前触れもなく、サーフ・シェフィールドの口からそんな言葉が出たのでヒート・オブライエンは一瞬にあいだに鋭いナイフを刺し込まれたようにギョッとした。
 サーフとヒートは、もう何度、木香薔薇の馨りを嗅いだことだろう。独特の高潔な馨りをさせた、黄色い八重に咲くそれらはヒートの住んでいるアパートの周りに張りめぐらされ、優雅な有刺鉄線みたいに見える。
 知り合ってから何年も経ってしまったように思えるが、実際は数か月しか経っていない事実が二人の間に流れている。そんな空気をぶち壊すようにして、サーフが再び口を開いた。
「聞いているのかい、僕は死にたいんだ。」
 もちろん聞いているが、この友人はどういったアンサーが欲しいのだろうかと、ヒートは困惑した。死ねばいい、とも言える訳がないし、死ぬなと軽々しく言える雰囲気でもない。
 そもそも、この姿勢は如何なものなのだろうと、マウントポジションを取られながらヒートは頭を振った。冷たい床の感触が、腰に伝わってくると同時に、馬乗りになっているサーフの体温が腹の上から伝播してくる。
 この傲岸不遜、容姿端麗、頭脳明晰な友人は、たまに狂ってしまうことがあった。それは過去の話を聞こうとしたときであったり、家族について聞こうとしたときであったり、様々だったがネジが外れたように嗤いが止まらなくなったり無口になってみたりした。今回も、そのような類の結果であるのだろうとヒートは認識した。
「死ぬな、とか言って欲しいのかよ。」
「いいや別に。」
 窓を開けてもいないのに、木香薔薇が室内にふわりと微かに馨っていた。部屋は閉め切ってあり、エアコンが入っているので二十三度に設定されている。人体にとって、とても適正な温度と湿度が保たれているここは、何者もの侵入を許さないアイスマンの名前を欲しいがままにしていたヒートの外殻に似ている。
「ただ、生きるのに飽きたんだよ。毎日毎日、同じことの繰り返しだ。例え僕らが卒業して、スカル・アンド・ボーンズに入ったとしても、僕はまたそこで日々の繰り返しを実感しては絶望すると思うね。いや、するに決まっている、と断言しよう。」
「……オレの前で、死ぬとか軽々しく言うな。」
 ヒートがそう言うと、サーフは、さも欧米人がやりそうなオーバーリアクションで肩をすくめ、お手上げだといった感じに両手を上に向けて溜め息を吐いた。
 そんな風に溜め息を吐くぐらいなら、さっさと俺の上から退いて欲しいとヒートは内心毒づきながらも、腐れ縁に近い親友の体重は見た目通り軽すぎるくらいだと思っていた。
 ククッ、と咽喉の奥で嗤うとサーフが何を考えているのか分からないが、良いものでないことだけは確かに感じ取れた。そして、ふと思い出したかのように口を開いた。
「あぁ、悪いね。もしかして、君の記憶を引きずりだしちゃったかな、ほら、妹の──」
「それは言うな! あれはオレが殺したようなもんだ!」
「まだ過去に固執しているな。君はね、妹の幻影に縛られすぎているんだよ。忘れろとか言わないけれど、その顔でこの歳になって女性経験が無いだなんて、信じられないくらいだね。シスコンもいいところで吐き気がするよ。ハハッ、だけど僕に取ったら好都合なんだけどさ。」
 馬乗りになったまま、そう言いながらヒートの赤いシャツのボタンを一つずつゆっくりと時間をかけて外していく様は、猫が鼠をなぶり殺しにする姿にとてもよく似ていた。ぷち、と小さな音がしてその動きを制止しないヒートはされるがままになっていた。女性経験云々のことだが、一応、告白などされたことは何度かあったりしたものの、妹のように女性というものはどこか無菌室のような場所に保護しなければならないといった、意味の分からない妄想じみた強迫観念が染み付いてしまって触れられなくなったのだ。そう自覚して以来、ヒートは自分の殻に閉じこもった──サーフがそれを壊すまで、たった一人で過ごしていた。
 すべての釦を外し終わってから、サーフが鎖骨に舌を這わせるのが見て取れた。通りでくすぐったい、そして何をしているのだとサーフを突き飛ばしそうになりながらもヒートは自制しながら、呆れた声を出した。
「お前は死にたいと言ったり、オレをオモチャのようにしてみたり、一体何がしたいんだ。」
「ああ、誤解させたようで悪いね。死にたいのは何パーセントか本気だし、君は僕の被験者第一号であり親友であることもお忘れなく。でも、死にたいと常々思っていることは、君にしか話してないんだぜ、親友。」
 絶えず、木香薔薇の馨りが漂っていた。シンクに、玄関に、ベッドに、床に、部屋中のありとあらゆる空気をそのかぐわしい匂いで押し潰している木香薔薇は、ある意味、暴力的なまでに思えた。──そこでヒートは気付くのだ、この薔薇の馨りを運んできたのは、サーフ・シェフィールドであるということに。
 毎日のように見ている薄黄色のカナリアみたいな薔薇たちは、人間が浴びるには無理のある紫外線を燦々と照りつけられながらも咲き誇っている。サングラス越しに見るそれらは色褪せて見えるが、夕刻頃、サングラスを外して眺める植物の色というものは生命力を感じさせたし、ヒートはアイルランドにいたときに母が花を好きだったことを思い出しては少ししんみりとした。
「何を考えているんだい、ヒート。」
 黒猫のようにしなやかでノーブルな少年が、ヒートの胸板に噛み付き、鬱血の跡を残しながら聞いた。何度も噛み付いては吸って、濃紫色の跡を点々と残している。
「──別に何も。あぁ、もう、そんな所にキスマーク付けるんじゃねえよ。気色悪い。」
「女には一切興奮しなくて、男の僕相手に勃たせかかってる君のほうが、よっぽど気色悪いと思うんだけどな。ハッ、違うかい。」
 お前じゃなければこんなになんねぇよ、と内心思いながらヒートは返礼のつもりでそっと口唇を近づけた。マウントポジションを取ったままだったので、聡いサーフはその熱を奪い去るようにしてキスをすると、やわらかな舌で歯列をなぞり、歯を抉じ開けると舌を絡めあわせた。ヒートの舌は、もちろんアイスマンの通りに冷たい訳もなく、体温を感じ取れた。
 ぬらぬらとした二枚の舌が絡み合い、蹂躙するように舐めつくすとサーフが口唇を離した。そこに残ったのは、友情とは名ばかりの噎せ返るほどの激情に満ちた関係だ。
「お前は、いつだって狡いんだ。」
「狡いねぇ……そうやって僕のせいにばかりして、自分からキスしようとしたことを認めないヒートの方こそ傲慢で狡猾だと思うけど、どうかな。」
 そこまで言われて、ふと、シンクを見ると何か緑色のものがコップに入っているのが視界の端に止まった。
 よくよく見れば──それはシロツメクサだった。
「ああ、ここに来るときに群生しているのを見つけたのさ。確か、君の出身地の国花だったろう? “シャムロック”と呼ぶんだっけ?」
 ようやく、ヒートの上から退いたサーフがシンクからコップに入ったシャムロックを持ってテーブルの上へ置いた。サーフの身のこなしはいつだって洗練されていて、何かを演じているかのように見える。
 君は──と、サーフが遠慮なくソファに座りながら口を開く。
「まるで、アイルランドの国名どおりだね。ラテン語でハイバーニア、つまり『冬のように』といった言葉が元らしいけれどアイスマンだなんて名前がついたのも、何かの因縁かも知れない。兎角、君は冷たく、クールで、人を寄せ付けないくせに一度溶けてしまったらコアになっている部分はとてもやわらかい。君という人間は、とても卑小で弱い存在なんだよ、ヒート。」
 たしなめるようでいて、ヒートの意思を抑え込む口調でサーフがひとしきり喋ったあと、ソファに沈みながらくつくつと嗤っているのが見えた。
 サーフはいつだって、ヒートを傷つけると満足気に嗤ってみせる。
 シャムロックの入っているコップは中身の重量でグラグラとしていたが、何とか安定は取れていて零れずにテーブルの上に鎮座していた。イェールに初めて来るとき、旅立つ空港の真下にはシャムロックが絨毯のごとく生えていたのを、無性に思い出したがそれを邪魔するようにサーフが声を上げた。
「そうそう、死にたいって件なんだけど──良かったら君が殺してくれないかい。時期はそうだな……いつだって構わないさ、制限時間はとくにない。ただ、君の手で僕を殺せるものなのか実験してみたいんだ。」
 僕を殺すという密約の報酬は──しばらく思案して、サーフが思いついたとばかりに振り向いた。
「前に言ったろう、『世界にたった十五しかない栄光の座席の一つ、お前にやるよ』って。約束しよう、きっと君にくれてやるさ。」

 そう言ったことがあったなと、医療局に向かいながら二十四歳になったヒートは回想した。
 EGGに来て、もう何人もの被験者が死んでゆくのを見てきた。非人道的な実験の下に、幼い少女や少年が狂い死ぬのはもう厭なのだと思いながらも、サーフがいる限りここを離れられないのは痛感していたし、サーフが何があってもこの実験から離れないであろうことも薄々分かっていた。
 いつか、この手は拳銃を握ってサーフに銃口を向けるのだろうかと考えるたび、悲しみとも怒りともつかない感情に支配されるようになる。
 ここ、EGGに来て、サーフは変わった。
 元々の顔を出したのか、変貌したのかは分からない。ただ、被験者が死んだ日は苛々しながらヒートの部屋にやって来て、一頻りヒートを蹂躙するように犯すようになった。ヒートは、まさか自分が女のように扱われると思っていなかったが、サーフに抱かれること自体はそこまで抵抗はなかった。寧ろ、自分は心のどこかでサーフに抱かれることを望んでいたのではないかと思えるほど、裂傷を除いてグロテスクなセックスに及んだ。そして、女の代わりに抱かれ、女よりもいやらしい声を上げることを覚えた。
 エタノールの匂いの染み付いた部屋で寝転んでいると、ドアが三回ノックされる音がした。サーフは決まってリズミカルに三回ノックする。例えそれが、機嫌が悪かろうが良かろうが、同じ音がするのでいつも分かった。
 今夜も抱かれ、甲高く啼く声を押し殺すのかと思うと、ゾクゾクとした恐怖と愉悦が身体中を駆け巡る。
 やあ、と言って笑みを浮かべながら部屋に入って来たサーフを見て、自分はいつ、サーフに銃口を突き付ける日がくるのだろうかと身体に砂でも詰まった気分になった。年下の、頭半分ほど身長の違うこのうつくしい青年が、ヒートを慣れた手つきで抱く。そうだ、それでいい。いまはサーフとのセックスにだけ集中して、恐ろしい妄想は捨ててしまおうと思った。
 サーフがヒートを抱く日、それは被験者が死んだ日だ──誰かの死と引き換えに、ヒートは抱かれる。しなやかで、薄っすらと筋肉がついた端整な四肢をゆだねながら、被験者の死を悼むかのようなセックスを幾夜も繰り返した。業が深い、とはまさにこのことだと思いながらヒートは自分の身体を投げ打った。

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