【シェオブ】巻かれる発条

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

季節の変わり目は体調をくずしやすい。
気温の変化、重ね着を減らすタイミング。朝方が暖かかったからといって、薄着で出かけると、いとも簡単に風邪をひくのだ。
春の陽気に誘われて、Tシャツ一枚でバイトをしていたら見事に翌日には寒気がしていた。
時給は深夜になればなるほど上がる。だが、人数が少なくて済む分、トラブルが起こると大事になることも事実だ。
深夜レギュラーのシフトをほとんど毎日入れていた学生が、なにやら煮え切らない理由で急に辞めてから、それを切り盛りすることに小さなデリバリーピザは大変だった。
もちろんヒートにもそのしわ寄せはやってきて、午後九時までだった週四日のシフトのうち、二日は十一時まで延びた。
スケジュールを確かめて余裕があったので、つい迂闊に引き受けたのが悪かった、とヒートは枕に顔を埋めてうめいた。
一昨日から頭が痛い──。割れるように痛いなどよく言うが、割れて済むものなら早く割ってくれと叫びたいほど痛みが頭を突き刺している。
確か、一日目はインフルエンザの時期はとっくに過ぎているので、単なる風邪だろうと思ってそのまま講義に出た。
二日目は起き上がれなかった。文字通り起き上がれなかったので、枕元にあった携帯まで手を伸ばし、バイト先とボランティアグループへその旨を伝えた。
どちらも滅多に休まないヒートの容態を心配し、快諾してくれたのが救いに思え、ありがたかった。
大きな羽毛の枕に顔をうずめると少し楽になった気がして、痛みを押しつぶすように更に抱き寄せながらしばらく耐える。枕がつぶれるくらい強く抱くと、どこか安心する自分がいた。

どれくらい、その姿勢でいたのだろうか。
春の日差しがカーテン越しに暖かく、シーツとブランケットに陰をつくっていた。
部屋の広さはそこそこあるが、無駄なものを置くのが嫌いな性分なので冷蔵庫とベッド、それに小さなソファとテレビくらいしかない。
必要最低限しかなくていいと思った。
過ぎたものを買うとすぐに邪魔になるから、本当に必要なものだけをここに置こうと思ったのだ。
色がゴチャゴチャとあるのが嫌いなので、家具を買うときは全部白いものと決めていた。
デザインはすっきりしていて、とりあえず白い家具。それで見積もりを、と家具屋に頼んだだけなのでヒートの決めたものではないが一年以上も過ごしていると体に馴染む。バイト、大学、ボランティア、それらを終えて帰ってくる場所はここしかない。戻れないから進むしかない。帰る場所はここしかないのだ。
だから、「モデルルームか病室みたいだね」なんてあの顔でニヤニヤと笑いながら言われるまで何も思わなかった。
家具屋任せで、モデルルームみたいに実用的じゃないって言いたいんだろうな。一応こっちは毎日ここで生活してんだけど────嫌味ったらしく言ったサーフを思い出しながら、
のそりとベッドから這い出す。
凶悪な風邪は立ち上がろうとするヒートの頭の中で両手を振り回して暴れ、叫び、眩暈を呼び起こした。
ゆがんだ視界に足がもつれ、裸足のまま床にしゃがみこむ。
床はひんやりと、ひえて、ひどくつめたかった。
窓から見える庭は雑草が芽吹き、青々としているのに、手足に触れるそこだけが硬くつめたくて思わず膝を抱いたまま座り込んだ。
そのまま視線を下ろすと、綺麗なままのカーペットが視界の隅に入る。
入居するときに、大家と二三人の引越し業者が立ち会っただけで、ヒート以外にこの部屋のカーペットを踏む人間はほとんどいない。
──取り巻く世界と、自分の温度差。
ボランティアで仲間と子供たちに囲まれて笑うヒート・オブライエンと、人を寄せ付けず用件のあるときしか喋らずに構内で学ぶヒート・オブライエン。
子供たちはこのカーペットが真っ白なままなのを不思議に思い、学生たちは当たり前だという顔をするだろう。いままで、この部屋に入ったことがあるのは誰だったかと思い、黒髪の少年が頭を掠める。
「……なんだ、サーフくらいか」
「なにがだい?」
勢いよく玄関のドアを閉める音と、面白いものを見たといった顔をしたサーフがいた。
講義がない日や、暇なときは勝手に上がりこむようになってしばらく経つ。野良猫を飼っている気分だった。気まぐれで、わがままで、好き勝手する野良猫を。
「珍しいね、君が裸足でいるなんて」
「熱、出て、」
切れ切れに言いながら見上げると、はちきれんばかりに膨れ上がったビニール袋が見えた。
いびつに膨れてることからして、袋の中身は果物や野菜が入っているのだろう。
つかつかとリヴィングに上がりこみ、冷蔵庫に袋の中身を移しながらヒートに向かって背中越しに喋る声がする。
勝手に人の家に上がるなと文句のひとつも言いたかったが、気力もなにもない上に眩暈が治まらなく黙っていた。
「昨日、いかにもこれから寝込みますって顔してたから来てみたけど、どうやら当たりだったみたいだね」
ゲームで勝った時のように嬉しそうな声だった。
ごとんごとん、と野菜庫に何かを放り込む音がする。
「足の爪、綺麗な形でいいな。ヒートの裸足は初めて見た」
こつん、こつん。何かが規則的に並べられている。
今度は何の音だろう、小さくて軽く硬いものを置くような。
──ああ、これは卵を一個ずつ置く音か。
白い卵。外殻と膜に守られた液体状の黄身と白身。
どれも白い、部屋も卵も、白くて真っ白で、すべてを失ってしまったあの日に降り積もっていた雪にそっくりだ。
白は苦しい色。全部を塗りつぶす黒さえも修正して上書きしてしまう色。
そうか、この部屋はアイルランドの雪の色に似ているからいつも苦しいのか。
「あとで足の爪見せてよ、スクエアに整えたみたいで綺麗だったから」
サーフの声が優しく聞こえるのはなぜだろう。いつも周囲を見下すような冷めた視線をした少年が、なぜこんなに穏やかな声を出せるのだ。分からない。どんなに勉強しても分からない。参考書を山積み読んで、レポートをいくつ仕上げたら分かるようになるのだろう。
ひとしきり冷蔵庫に詰め終わったのか、ビニール袋を慣れた手つきで丸めてゴミ箱に投げ捨てる後ろ姿が見えた。
細身に紺色のニットベストが、外の気温を知らせる。
暖かくなってきたとはいえ、迂闊にTシャツ一枚で夜を過ごす時期ではなかったのだ。
「──お前、いつも勝手に上がってんなよ」
普段と同じことを言ってみても、覇気が無いのを悟ってサーフが鼻で笑った。
「親友を心配して来たら、たまたま鍵がかかってなかっただけさ」
「ご丁寧に色々買い込んで、か」
「君には出来すぎた親友だろ」いつもの皮肉った顔が今日だけはありがたかった。

「ねぇ、そろそろベッドに戻ったらどうかな」
バタバタと備え付けの戸棚を開け、鍋を探しながらサーフが聞いた。
あまりのダルさから床にしゃがみこんで、ずっと蹲ったままだったのだ。
床に視線を落としていると靴音が近づいてきた。それは無遠慮に目の前で止まり、膝を抱えて座り込んでいるヒートの二の腕を掴む。
見上げた先にいた彼が、いつもより大きく見えたのは気のせいだったか。
「一人で立てる?」やけにやわらかい声に、思わず頷いた。
「さすがに風邪ひいてるとおとなしいんだね、ちょっと気持ち悪いけど」
「悪ぃ、しばらく寝てる」
「そうしてたほうがいいと思うよ、お互いのためにも」
お互いになんだと思ったが、それを聞く前に目線の高さに気づいて聞く機会を失った。
「おい。お前、なんか背伸びてないか」
「初めてあったときに比べたら伸びるさ、まだ十六歳なんだし。でも二センチくらいなのによく気づいたね」
確かに、初めてあった頃は少年というよりも“子供”だと意識していた。
──傲岸不遜な子供。
それが第一印象だったから、あのときはこんなに長い付き合いになるとは思ってもいなかった。気まぐれか裏があるのか知らないが助けてくれた、ただ、付き合いはそこまでで「はい、さようなら」と終わる予定だったのだ。
まさか男を相手に、もどかしい、それこそ焦げ付くような恋情に似たものを感じるようになるなんて、あの頃は思ってもみなかった。それが目の前の少年で、風力最大時の台風のように相手を強引に振りまわし、空に散り消えゆく台風のように儚げな表情をみせる性格だなど、あの頃はまったく知らなかった……恋愛など、忌避するものだと信じていたから。
腕を引きずられるようにしてベッドに運ばれると、瞬く間に睡魔がやってきた。
睡魔がサーフにそっくりの声で「おやすみ」と甘やかすように言い、仕方なく眠りについた。
そう、仕方なく。嫌々。しぶしぶ眠りについたのだ。
けっしてその声に安心してまどろんだのではなく。

「ずいぶん寝てたけどマシになった?」
起きると陽が傾いていて、閉めきった室内は西日でほんのりと暖かかった。
ソファに寝そべったサーフがだらしなく足を投げ出しながらこちらを向いた。
コンロの上には、数えるほどしか使ってない新品同様の鍋が湯気を出していた。
いつもは大学のカフェで済ませたり、ピザのサイドメニューの残りをもらったりするので料理をする機会はほとんどない。朝と夜はろくに食べず、昼だけきっちり取る食生活だった。課題をこなしながら、倒れない程度に口になにか入れていればいいだろう、くらいに思っていたから、一人暮らしをしてから料理など数えるほどしかしていなかったのだ。
──ジージージージージー……
サーフの手の中から、ゼンマイの巻く音が聞こえる。
確か、テレビの横あたりに、手のひら大のプラスティックの黒猫が置いてあったはずだ。
数週間前だったか、サーフが買ってきて置いたものだった。
極端にデフォルメされた目の大きい黒猫の前には、小さなネズミがくっついている。スイッチを入れ、一定時間が経過するとネズミは逃げるが、すぐさま猫の前脚が動いてそれを捕らえる単純な構造のオモチャ。
これを買ってきたとき、ジージーと音を立てるネズミを指差しながら「ほら、こんなオモチャだってちゃんと食事するんだから、君も規則正しく食べなよ」そんな本気とも冗談ともつかない口調で説教をした。
黒猫を手にとって、ソファの上で一人遊ぶサーフがこちらを見た。
「起きてるなら食べたほうがいいと思うよ、ただでさえヒートの食事は偏ってそうだし」
手の中で、猫とネズミはいまもジージーと機械の声を上げる。
「なに作ったんだよ」
「リゾット。とは言っても僕は缶を開けて鍋に水を入れただけ」
──ジージージージージー……
スイッチが入ってる限り、猫はネズミを機械的に捕らえ続ける。
「君は具合の悪いとき、チーズリゾットならおとなしく食べるんだったかな」
「なんで知ってるんだ、お前」
──ジージージージージー……
「それはまぁ、日々の観察の賜物ってわけさ。で、食べるのかい」
「さすがに腹も減ってるし……食べる」
それを聞いて、サーフは満足げな顔をし、両手でいじりまわしていたネズミをテーブルに置いてから、温めなおすためもう一度コンロに火をつけた。
テーブルに置かれたネズミはスイッチが切られていなかったのか、相変わらずジージーと音を立てながら逃げ出しては、プラスティックの猫に捕まっている。
電池が切れるまで、アレはあのままなのだろうかと思い、延々と続くその不毛な逃亡劇を見ながら、ヒートはリゾットが運ばれるのを待った。
もし、電池が切れる瞬間があるなら、そのときは猫がネズミを捕まえているのだろうか。
それとも、するりと猫の爪を逃れているのだろうか。
あの日降っていた雪のように真っ白な部屋のなか、黒猫のオモチャと黒髪の少年だけが嬉しそうに手を動かしていた。

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