【シェオブ】君に降る雨 

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

※冒頭部分が、若干『盲目ゆえ、腐敗』とリンクしています。

 講義が終わった後、サーフは携帯を取り出してあの透けるような金髪を脳裏に描きながらヒートへ発信した。丁度、ヒートの方も終わったところらしく聞き慣れた心地よい声が、背後にいるであろう他の学生たちのざわめきと共に携帯という触媒を介して耳に入る。ああ、この声だ、とサーフは思う。サーフとしては確固たる意志を持っているはずなのに、この優しく語りかける声はその基盤を壊そうとしてくる。そして、やわらかに受け止めるそれだ。
「――この後、良かったら僕の部屋に来ないかい」
 有無を言わさぬ物言いで矢継ぎ早に伝えると、何か差し入れでも持って行ってやるよ、と返事があった。彼はいつだってそうだ。あの太陽光に透ける細くて癖のある髪といい、半分意図的に片目を隠していることといい、アイスマンの異名を持っていながら熱い人間だということといい、様々な要因を以ってしてサーフの興味を掻き立ててやまない。隠している片目も左目と同じく綺麗なヘイゼルだというのに、彼はこの世界を直視するのが酷だとでも言いたげに頑として前髪で隠している。いつか、彼に言ったことがある。それはサーフが過去に眼帯をしたときに言った言葉だ。いま思えば、あれは彼の片目になりたくてやった戯れだった。
「僕は眼帯をして気付いた。心地いいんだよ、この片目の世界は。見たくないものは半分しか見なくていい、見たいものは眼帯を外して見ればいい、実に都合よく出来ている。君はそれを前髪でしているだけだろ、そうなんだろヒート」
 過去にそう言った時、彼は困ったような悔しいような表情を見せてから下唇を噛んだ。それはまるで思春期の女学生がするような所作で、サーフは内心こっそりと嗤った。
 そしてサーフは思う。
 ――何故、僕は彼ではないのだろう。また、何故彼は僕ではないのだろう。こんなにも他人と同化したいだなんて、最近の自分は狂ってる。いままで、気付かれないように踏み台にしてきた級友達のように扱えればいいのに。

 寮の自室へ戻り、荷物をデスクの上へ置くと部屋の隅に置いてあるソファにやんわりと沈む。まるで、それは彼の優しさのようでサーフは若干困惑する。だって、いつか彼を駒として捨てる日が来たならばスムーズにいかなくなってしまうじゃないか、と思うのだ。もっと彼がアイスマンの名前の通りに冷徹で、他人を入らせる余地もなく、勿論サーフにも心を開かせるような人間であったならば良かった。そうすればディスポーザブルのメスみたいに廃棄出来る。パッケージを破り、使い、捨てる。それがいまの自分には出来なくなりつつあるのではないかと、サーフは身を震わせる。
 靴を脱いでソファの上で丸くなっていると、いつのまにか部屋の暖房と日差しで心地よくうたた寝をしてしまったのか、目をこすりながら開けると眼前に見慣れた男が立っていた。夕陽の逆光でよく見えないが、男は少し困ったように愛おしさを込めてサーフを見下ろしている。
 寮の自室の鍵は合鍵を作って渡してあるので、彼がいるのもまったく不自然ではないことを思い出しながら「ヒート」と手を伸ばしてそのTシャツの裾を掴んでその名前を呼んだ。
 ――君が十六歳という少年期にある、僕の中の幼さというものと妹を重ねていることは知っている。頭の中でどの角度で見上げ、どのタイミングで裾を掴み、そして少々毒の含まれた甘ったるい声で名前を呼ばれることに弱い彼をサーフ・シェフィールドといった存在そのもので射とめてみせた。堕ちればいいのに、とサーフは思う。僕に落ちて、主人に仕える猟犬になってみせて。
 その作られた媚態を見ないように目を背けた彼が、サーフが裾を掴んだ手を払いのけながら「バイト先に寄って、ピザとペリエにアイスクリーム持ってきたから食えよ、昼飯まともに食わなかったってメールしてただろ」と言った。なおもサーフが手を伸ばすと、彼は手が届かないようにレンジを開けてピザを入れて温め始めた。伸ばした手が空を切って、サーフの右手はだらりとソファの側面に触れる。ああ、この手の触れそうで触れられない距離が彼の精一杯の抵抗なのか――そう思うと底無しの沼にはまるような感情に支配されることをサーフは厭う。
「起きろよ、サーフ」
「いいじゃないか。ピザ、あと七分はレンジの中だろ?」
 そう言うと「そんなこと言ってると、俺が全部食うから文句言うなよ」と戯れるような返事がきたことに、サーフは眩暈がした。彼が素直に笑顔を見せるようになるまで、若干の時間がかかった。窮地を救ったと言っても最初はひどく警戒されていたからだ。それがいまとなっては正反対のニュアンスで喋る間柄になってしまった。これは計算外だった、とサーフは内心思う。
「お前、顔色悪くないか?」
 ヒートがレンジの前からソファに近づき、しゃがみこんでサーフの顔を見る。サーフはただ呆然とヒートを見ながら、綺麗な男だな、と感動さえ覚えるような感情を持つ。
「生憎、熱はないし風邪もひいてないよ」
 額に手を当てようとしてきたヒートの手を払い、「もう七分経ったかな、ピザ食べないのかい」と言うと彼はサーフの前から踵を返して鍋つかみを手にしてレンジを開けた。熱でとろけたチーズとバジルの香りが鼻腔をくすぐる――今日はマルゲリータか、とサーフは香りから推測した。皿が出される音を聞くと、サーフはやっとやわらかなソファに手をついて立ち上がり、彼が慣れた手付きでピザを切り分けるのを背後から眺める。
 彼に任せてテーブルの前に座っていると、大皿に載せられたマルゲリータが用意され、更に冷蔵庫からペリエを取り出してグラスを棚から出す音が聞こえた。グラスのぶつかる音が軽やかに部屋へ響く。
 それらすべてをテーブルに並べ、ペリエの蓋を開けて注ぐと炭酸のはじける微かな音がした。注がれたペリエの炭酸は気泡とともに沈んでは浮き、そして消えてゆく。クリアグリーンの瓶には三分の一程度、残っている。その中からも、パチパチとはじける音が聞こえてくる。
 彼――ヒート・オブライエンがマルゲリータを一ピースつまみ、チーズが垂れないように器用に食べる様をみて、サーフはそのピザが羨ましくなった。食われ、消化され、栄養分となって彼の中で生きるのはどんな感覚なのだろう。いや、逆に彼を食すのも面白い発想だ。彼は筋張っていて食べるところは少なさそうだけれども。
「サーフ、美味いか?」
「ああ、美味いよ。しかしこれ、君が作ったにしては綺麗に出来てるな」
 そう言うと、彼が驚嘆するように「……何で知ってるんだよ、それ」と目を丸くして聞いた。
「簡単さ、君と連絡がついてから僕が寝ていたとは言え、優に三時間は経っている。ピザを作るには十分過ぎる時間だ。それに君の両掌とシャツには落しきれていない生地を作った際の粉がついてるじゃないか、そこから推測しただけさ。――種明かしをしてみせたけど、半分は適当だよ」
 サーフに答えを出され、まじまじと自分の両掌とシャツを見た彼は苦笑いを返してみせた。純粋な子供が困ったような、そんな顔を見せる彼はアイスマンの名前に相応しくなく、またそれを見られるのが自分だけだということにサーフは優越感を覚えて満足した。

 ピザを食べ終わった後、しばらく談笑して講師の噂話や級友の話、食堂のメニューが一新されたことやその味についてなど、他愛もないことを喋っているうちに外は見る見る間に昏くなってきた。
「確か、今夜は雨が降ると予報で言っていたから帰りは傘持って行くといい。それとも、寮長が回ってくることなんて滅多にないから泊まるかい。そうだ、いつも僕がヒートのところに泊まっているんだから逆に泊まって行けよ」
 そっと毒を差し出すようにして、彼に誘惑を持ちかける。さあ、この手の中に籠絡すればいいのに、とでも言いたげにサーフは甘い毒を彼の喉奥に流し込んだ。
 そしてヒートはストイックであるべきであったのに、サーフの言葉に心臓を射ぬかれて堕ちてゆく。
 彼が頷くのを見て、サーフは獲物を仕留めた気分になった。
「ベッド、シングルだけど少し大きめだから一緒でいいだろ」
 お前にはかなわないな、とヒートが困りながらも僅かに笑う。
 そして夜が更けた二時半頃まで話し込んでいた二人のあいだに沈黙が訪れる。度々、二人は会話を途切らせることがあったが、それは不快なものではなく黙っていても心地の良い人間関係のあり方だった。雨音がガラス窓を叩いているのが聞こえた。
「そろそろ寝ようか、夜更かしは明日の講義に響くぜ親友」
「ああ、寝るか」
 十六歳の少年とは言え成長過程のその身体と、十八歳の男の二人が大き目でもシングルベッドに寝るのは狭く、しばらく背中合わせになっていたがサーフがヒートの方を向いてその背中に張り付いた。あたたかい体温を運んでくるこの男がアイスマンだなんて呼ばれる矛盾を知っているのは僕だけでいい――サーフはそう思いながら、三十六度前後の温度を感じていた。
 ヒートはサーフが張り付いているので眠れないのか、偶に爪先を動かしたり身じろぎしていた。
 そっとヒートの背中に耳を当てると、心臓の音が鼓膜に届く。それと共に、窓ガラスを雨が叩くのも聞こえた。徐々に激しくなる雨音が、鼓動をかき消す。
「起きてるんだろ、ヒート」
 問いかけると彼が寝返りをうってサーフの方を向いた。狭いベッドで向かい合わせで寝ているだなんて、恋人でもあるまいしとサーフは自嘲気味に考える。向かい合っても無言で見つめてくる彼の目を、外から入るほのかな街灯の光でみつめた。
「――何で俺はサーフに弱いんだろうな」独白のようにいう言葉に対し、冗談交じりに「僕のことが好きだから、じゃあ君は答えにならないのかな。ははッ、顔を顰めるなよ」と答えながら、顰めっ面をしたヒートに密着して半ば無理矢理に口唇を擦り合わせた。こんなことは何度もしているのに、と思うのだがヒートはいつまで経ってもこの微妙な関係に慣れないようで、サーフが彼の上下に閉ざされた歯列を舌で抉じ開け、わざとぐちゃぐちゃと下品な音を立てながら口腔内を貪るとやっと目蓋を閉じた。街灯の光に照らされたヒートの睫毛は震えており、まるで快感を享受することが自分にとっての罪だとでも言わんばかりに強く目蓋を下ろしている。
「君だって、僕の部屋に泊まればこうなることを期待してただろ」
 口を離して問いかけると、頬を上気させたヒートが「違う、俺は――!」と答えにならない反論をしようとしたのでサーフは再びその口を塞いだ。
 二人分の唾液が口腔内で混じり合い、サーフが彼の舌を絡め取ってもてあそぶとくぐもった喘ぎ声が聞こえた。ヒートは勤勉でひどくストイックだが、その顔が崩れるのを見てみたいとサーフは常々思っている。組み敷いて翻弄し、その身体を犯して蹂躙してしまえば自分のものになる気がして、徐々にこの関係に慣らすように動物染みた口付けを繰り返す。
 窓ガラスを叩く雨が強くなり、ヒートの喘ぎ声さえも遮断してゆくように思えたのでサーフは彼の舌先を軽く齧っては吸い上げ、更に大きな声で喘げばいいのにと自分よりも分厚い胸を引っ掻いた。
 下腹部に手を伸ばそうとした瞬間、狭いベッドの中でヒートがサーフを突き飛ばすように薄い胸を押し返した。口唇は離れたが、情欲にまみれかけたヒートの目が潤んでいるのが夜目にも見えた。
「厭だったら拒めばいいのに」サーフが揶揄い混じりに嗤って言うと、苦渋の色を浮かべながら「拒めたらこんなの許してねえよ」と口の端の唾液を拭いつつ返事があった。それは彼にとっての精一杯の受け入れであり、これ以上深みにはまるのが恐ろしくもあるといったことを暗に示した言い方だった。
 二人が向かい合わせで黙り込むと、雨が世界のすべての音をシャットダウンするように激しく降りだした。
「まあ、謝るよ。ただ、いい加減慣れた方がいいかも知れないね」
「……なぁ、サーフ。俺達は親友同士だよな」
 そうだよ。僕らは親子でも恋人でも知人でもない、出会うべくして出会った親友同士さ――。
 小さな声でサーフが答えたのに、何もかもを消してしまうかのような勢いで降っている雨が二人の関係もその台詞も雨音で消し去ってしまった。
 向かい合ったままの姿勢だったので彼の頬に軽く口付けをし、「寝ようか」と穏やかな声音で言うと金髪が動いて頷くのが見えた。
 その日の雨は激しく台風でも来たかのようで、そんな夜だからかサーフは珍しく明晰夢を見た。その明晰夢の中でサーフは雨の概念そのものであり、地上にいるヒートに降り注いでは蒸発して雲になり、そしてまた雨になり降り注ぐという循環の縮図でも見ているようなものだった。
 そうだ僕は君に降り注ぐ雨になりたい――その色素の薄い髪や肩に降り注ぎ、君自身に浸透する雨になって循環を繰り返してしまいたい。僕と君は融け合って浸み渡ってひとつになってしまえればいいのに。

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