【シェオブ】フリゴ -frigo-

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

目の前で、ベッドに腰掛けたサーフがアイスクリームを掬う。
白いバニラアイスの上へ、カッターナイフで刻んだチョコレートをふりかけた代物だ。
銀色に反射したスプーンが、さくり、と小さな雪山に刺さった。ゆっくりそのままスプーンはおしすすめられ、途中で力を加えたのか、アイスクリームの一部が不自然にゆがんだ。
内部から押され、くり抜かれる。
握った手の体温が移ったのか、それともこの気温のせいか白い山はゆるやかに溶け出し、スプーンをつたって手首を汚した。
サーフはそのまま汚れた手首を器用そうに舐めると、スプーンをヒートの方へ向けて
「自分の、食べないの」と意地が悪そうに笑った。
いつもの笑みだ。
──銀色。乳白色。茶色。金文字。六月の蒸し暑さ。
見てるだけで口の中が甘くなるような、溶けかけのチョコレートが、てらてらと光る。
「言わないから気付かなかったよ。こっちも食べたいなら言えばいいのに」
やさしい声で差し出されるアイスクリームは甘そうで、甘そうで、甘そうで、めまいがした。

名門大学の寮とはいえ、さすがに個室に冷蔵庫はないのか、六月に入ってからサーフは小型の冷蔵庫を部屋に買った。
ベッドの横に、高さ六十センチほどのそれを置いている。
目の覚めるような色合いの、オペラピンクの長方体。赤とビビッドピンクの中間色は、六十センチという小型サイズにもかかわらず存在感は十分に見えた。
色は奇抜だったが上段はかたちばかりの狭い冷凍庫、下段は普通の冷蔵庫だった。いつも入っているものは大体、ミネラルウォーターのボトルばかり。それと、たまにヒートがバイト先で余ったサイドメニューのドリンクを入れていく。
暑いのが苦手なのか、サーフはときどき冷蔵庫のドアを開けっぱなしにして涼んでいた。
小さな子供のようにぺたんと床に座り、冷気のあふれるドアを開け放つ。そんなときは決まって、放心したような虚ろな目つきで、整然と並ぶミネラルウォーターを見ているのだった。
──その時だけは、拒絶するような、凛としたいつもの雰囲気が薄れるように見える。
暑いのならばラフなものを着ればいいのに、なぜかこの季節でもかっちりとしたシャツを第一ボタンまで閉めてばかりいた。半袖の開襟シャツに、濃紺のタイが映える。それによってサーフは、サーフ・シェフィールドである、ということを他人にいつ見られてもいいように自身を拘束しているように思えた。

バイトが早く終わったあと、サーフの部屋のドアを開けるといつものように冷蔵庫に向かっている彼がいた。
いつもと違うのは、冷蔵庫のドアにピンナップらしきものを貼り付けている姿だ。
床には切り抜いたあとの雑誌が山と積まれている。なにか記事を探したのか、雑誌はうず高く積まれ雪崩をおこしかけていた。
そのすぐ横に投げられた青いカッターナイフが、西日に当たって光っている。
べたべたとサーフが貼り付けている記事を後ろから覗き込むと、それは見事に統一性に欠けていた。

  廃棄されて引きずり出されたVHSビデオテープ、青空に飛ぶカラス、アルミポット、
  ファーのロングコート、銀杏並木、ベルリンの壁、その他いろいろな写真。
  まさに、“雑多”という言葉がぴったりだった。

それらを丹念にテープで貼り付けていく。
一部の隙間もないよう、ぴったりとジグソーパズルのピースを合わせているみたいだった。
黒髪の少年がただ黙々と写真を貼りつづける光景は、どこか儀式めいていた。小さな神が、世界を構築しているような、そんな印象を彼に抱く。
ヒートは声をかけるのを躊躇い、なるべく音を立てないように後ろ手にドアを閉めた。
静かに閉めたつもりでも、かちゃり、と真鍮製のノブが鳴った。
サーフはその音に手を止め、振り返り「なんだ、君か」とつぶやいた。
片手には貼りかけの写真と、テープ。邪魔をしたと機嫌が悪くなるかと思ったが、ヒートの想像に反して顔色を変えずけろりと言う。
「アイス買ったよ、来ると思って」
機嫌は──良いようだった。
「今日も暑くて嫌になる、」そう言って、ストライプの半袖シャツの裾を持ち上げてぱたぱたと煽ると、日に焼けていない脇腹がほんの少しのぞいた。
綺麗な肌を陶磁器のような、などと表現するがサーフのそれは生きているものの青白さで、強いて例えるならばしなやかなラテックスゴムようだった。中になにが入っていても分からないラバー製の人形だ。そしてそれは、陶磁器よりも生々しい感触を持つ。人間により近い、だけど近いだけで中身は異質な存在。
時々、ヒートは目の前の少年が怖くなる。
本当の中身はなにが入っているのか、半年以上の付き合いでもいまだ判然としない。何を考え、感じているのかほとんど知らないと言ってもよいくらいだった。
広くはない個室の中央で、テーブルと一対の椅子の片方へ座り、持ってきたペリエ二本をサーフに渡す。特にペリエが好きでもないくせに、二人は瓶が緑色で綺麗だからという理由でことあるごとによく飲んだ。濃い緑色の瓶から、発泡する透明な液体をグラスに注ぐ。
「なんだってこんなに温いんだい、」一口含み、困りきったような顔でサーフが言うので、思わず苦笑すると睨まれた。
「ここまで持ってきたんだから当たり前だろ、冷蔵庫あるなら冷やせよ」
大人びているようで、たまに見せる子供らしい顔を見るのがヒートは好きだった。
そんなサーフがさっきまでなにをしていたのか、ふと気になった。
ベッドの上に積まれた雑誌に眼を向けていると、自嘲気味に笑いながらサーフが答える。
「あぁ、あれ? あれはいままでの僕を探していたんだ。ここは寮だし、壁に貼るわけにもいかないだろ。だから冷蔵庫のドアに貼ってたのさ」
それは七歳の僕、あっちは十歳の僕、その上に貼ってあるのが十二歳で、一番大きい切り抜きが十五歳の僕だよ。
そう言って、次々と貼られた写真を指差す。
が、──どの写真にも、サーフ・シェフィールドは写っていなかった。
十五歳の、と言われたものはディープブルーに染まったイチゴが写っている。上から細い指が伸び、イチゴはその手に摘まれ、下に待ち受けるボウルにいま落とされようとしているシーンらしい。ヒートは写真のことはよく分からなかったが、涼しげな感触のつたわる上手い作品だと思った。
真っ青なイチゴは表面に水滴を浮かせている。
そして摘んでいる指は病的に細く、関節と血管が透けて見えていた。
余りにも白い肌に、網目状の赤紫と緑色の血管が浮いている。華奢な女の指。
「お前が撮ったのか?」
「まさか、僕にこんな写真を撮る技術はないよ」
「だっていま、“いままでの僕”を探してたって言ってただろ」
「そうだよ、ここにいるのはどれも“僕”だ」上段の冷凍庫を開け、数種類のアイスクリームを取り出すとサーフはかすかにほほえんだ。冷凍庫とアイスクリームの容器がまとう冷気が流れ出し、蒸し暑い中を歩いてきたヒートにはそれが無性に心地よかった。
「君は音楽を聴いていて、まるで自分のことを歌っているようだと思ったことはないかい。もしくは、読書や絵画でも」
形は違うが、鏡のような何かを。
他人のなかに自分が映りこんでいることがある。君はそれらを見たことがないかと、暗に聞かれているのだと気づいた。
「分かったならそれでいいんだ、」

冷凍庫を閉め、キャビネットの二番目の引き出しから銀色のスプーンを二本取り出す。セルロイドの白いカップも二つ取り出す。
テーブルの上には、テイクアウト用アイスクリームがもやを出しながら幾つか置かれた。
そのうち、ひとつは最近ヒートが好んで食べている『コールドストーン・クリーマリー』のものだった。クリーマリーはやたらとトッピングが派手で晴れやかな気分になれるので、今月に入ってもう五回も足を運んでいる。歩いていけるところに支店が出来たので、ついバイト帰りに寄ってしまうのだ。
「好きだろ、これ」
サーフがそう言って蓋を開けた。
「よく知ってたな、」
「いつだったか、君が歩きながら食べてるのを見かけてね。気を利かせてやったんだ」
一パイント分の容器にはいっていたのは、確かにいつも食べているものだった。
「いっぱいあって迷ったよ。ベリィ・グッド、だっけ?」
「ベリィ・ベリィ・ベリィ・グッドだ。ストロベリーとラズベリー、ブルーベリーが入ってる」
「それでそんな名前なのか。君も大概好きだな、こういった子供っぽいものが」
呆れたような声を出しながら、ベリーがぎっしり詰まったアイスを数種類掬ってカップによそる。バニラベースに赤や紫の破片がちりばめられていて、それは小さなころ絵本で見た宝箱に似ていた。宝石や金貨の詰まった宝の箱だ。
ヒートの前に、斜めからスプーンが突き刺さったアイスクリームが置かれる。
残った分は冷凍庫にしまいなおされた。
少し焦りながら、サーフを呼び止めて「お前の分は、」と聞くと含み笑いを返された。
その顔のまま、冷凍庫からコンビニでよく見かけるバニラアイスを取り出す。サーフらしくない、いたって普通の安物だった。
「せっかくオレの好物買ってもらったのに、一人で食うなんて悪いからお前も食えよ」
「生憎、僕のはこっちなんだ。悪いね」
そう言ってさらに冷蔵庫から出したのは『Mazet』と書かれた箱だった。
「メイゼット?」
「君は本当に──……いや、なんでもない。マゼ、だよ」
綺麗な箱だった。
そしてその蓋を開けるのは綺麗な指だった。
金文字の書かれた臙脂色の箱を開ける。
その中には、多分、丁寧に型に流して生成されたチョコレートであったろうものの残骸が入っていた。と言うのも、そこにあったのは細かく砕かれて、粒状になったチョコレートばかりだったからだ。
切り口はやたら滑らかだ。几帳面に砕かれたのが分かる。
はっと思い出し、床に積まれた雑誌の上に置かれたカッターナイフを見る。出しっぱなしにされた刃先は、ねっとりとした茶色が付着していた。
サーフが自分の前に置いたカップへ、安物のバニラアイスをよそる。
躾のいい家庭に育ったのか、それとも意識しているのかサーフの仕種はいつも細やかだ。ゆっくりと必要な分だけがカップへ移されていく。
たまに行儀の悪いまねをして見せても、それは一種のパフォーマンスのようなもので彼の地の部分ではない。
以前、「頼まれても俳優にだけはなりたくないな」と呟いていた。私生活でサーフ・シェフィールドを演じているのに、これ以上なにかを演じたくないと言いたかったのだろう。それを聞いた頃、ヒートはまだ彼と知り合ったばかりで深い意味には捉えていなかった。あの台詞をもう一度言ってくれたら、いまなら前よりましな切り返しが出来るのに、と思う。
自分の分を食べながら、サーフがバニラアイスの上に砕いたチョコレートを振り掛けるのをじっと見ていた。入っていた箱といい、上品なロゴといい、いかにも高級ですと言いたげなパッケージだった。それを何の感慨もなく切り刻み、コンビニで売っている二ドルのアイスクリームへ雑に振り掛ける。
雑誌から写真を切り抜いたカッターと、同じカッターでチョコレートを刻んだ彼を思う。
想像の中の彼は、苦痛に耐えるような無表情で淡々と手を動かす。苦痛などなんでもないと皮肉った笑いを浮かべる余裕の顔で、彼は機械的に刻む。カッターで刻む。チョコレートなど、口に入れば値段など一緒だと吐き捨てるのだろう。
その視線に気づいたのか、ヒートの方を向いて口を開いた。
「君の分はあげただろ。それともこっちも食べたい?」
苦笑混じりの声だった。
「いや、いいから遠慮しないで食ってろよ」
ついさっきまで、空想の中にいた無表情のサーフが離れない。
無理をして笑うな、と言いたかった。そして、ヒートはそんな身勝手なことすら遠慮なく言えない自分を憎んだ。
二人の関係は密着している──まさに、手術用のラテックス手袋のような薄さの壁をまといながら、それでも密着し続けるのだ。壁があるかぎり、直に触れ合えないことを知らないように寄り添う。

余ったアイスクリームとチョコレートを冷凍庫にしまい直すと、サーフはベッドの上へ座ってスプーンを握った。小さな白い雪山に、銀色のスプーンが差し込まれる。
口に運ぶ。食べる。飲み込む。脂肪分と砂糖が身体に染み渡る。
一連の動作はその容姿のせいか、人形に似ていた。
まだエアコンも入れていない室温で早くも溶け始めたらしく、傾けたスプーンをつたってサーフの手首に白い一筋が出来た。とろりとしたアイスは、蝋燭が溶けるごとく重力に忠実に垂れた。
慣れたように手首を口のそばまで持ち上げると、舌で舐めとる。青白い肌とは対照的に、舌は異様に赤かった。やけに扇情的な色の舌が、ヒートの網膜に焼きつく。
「自分の、食べないの」スプーンをヒートの方へ向けながら問う。
手元にあるベリィだらけのアイスクリームは、既に半分どろどろした液状になっていた。
やけに部屋は暑く、ヒートは額にじっとりと汗を浮かべていた。
あぁ、とサーフは一人納得するような顔をすると「言わないから気付かなかったよ。こっちも食べたいなら言えばいいのに」と差し出した。
溶けかけて表面が滑らかになったチョコレートとバニラアイスが誘う。

──エデンにて、蛇がイヴへ林檎を見せてうそぶくようだった。
爬虫類に似た狡猾な眼差しがヒートを貫く。
美味しいよ、だからこっちもお食べ。食べてはいけないものなんてないんだ、神が、世間が、常識がそれを阻むだけ。その味を知ったらもっと賢くなれる。君だって聡明になりたいはずだ。ただ、神も常識も、君がそれを知ってしまったらコントロールしにくくなるから止めるだけ。食べてもすぐには死なない、追放が怖いと言うなら一生、大人しい羊でいればいい。せいぜい飼われ、繋がれているがいいさ。蛇がちろりと舌を出して言う。
立ち上がり、ベッドに座っているサーフの前へ歩むと差し出されたスプーンを口に含んだ。金属質と、とろけたクリームが舌の上に乗る。
イヴは、いま、陥落した。
楽園を追放されるのを薄っすらと承知した上で誘惑に負け、そしてその誘いを躊躇いながら受け入れた。
ヒートはいままで数え切れないほど神を憎んだ。そして、この時も憎み呪った。
なぜ楽園などを作る。心地よい場所を知らなければ良かった。

冷たく、キンとした氷菓独特の頭痛が襲う。
だが、痛みは心地よく甘やかだった。口の中にチョコレートの苦味が残る。
差し出されたスプーンを口から離すと、ふいに手首を強く引かれ、ヒートはサーフの上へ倒れこんだ。その拍子に、銀色のスプーンとアイスクリームの入ったカップがベッドに投げ出される。皺ひとつ付いていなかった白黒のストライプシャツに、べったりと茶色い染みが出来た。
下敷きになったサーフが口の端で笑う。
ヒートの手首は思ったより強く掴まれていて、そこから血が止まる感触がした。
さらに力いっぱい握りしめられると、圧迫されて手首の関節が痛んだ。細腕に見えて、握力はあるらしい。
下から見上げる、生意気そうな視線が刺さる。
あまりにも強い視線に怯み、少しずらすとサーフが几帳面に冷蔵庫に貼った切り抜きが目に入った。そして気づいたのだ。どの写真にも“人間”が写っていないことに。
十五歳のサーフだと言った写真は、悲しくなるような色合いの青だった。いまは十六歳。イェールに入るまでの彼に、何があったのかヒートはまだ知らない。画面の構成と技術で綺麗な写真だとしか思わなかったが、それは悲しみにあふれた色だった。
すべてを押し殺してサーフ・シェフィールドを演じなければならなかった。信じられるのは自分だけだった。周りの人間は“ただの生き物”としか認識していなかった────
そんな感情が流れ込んでくるようで、手を振りほどいて覆い被さるように抱きしめると、その体温と鼓動が伝わってきた。折れるんじゃないかと思うくらい強く抱くと、腕の中のサーフが顔をしかめる。
「君はお人よし過ぎてそのうち死ぬな、」
馬鹿にした声だった。
馬鹿にすればいいと思った。
「いつも見ててイライラするんだ。成績はいいのに、頭が悪すぎる」
抱きしめた姿勢のまま、耳の横で悪態が聞こえる。
だが、吐き捨てるように言う彼の声はすこし楽しそうだった。
「悪い、そこまで嫌われてるなんて知らなくて」
「そこが頭が悪いと言っているんだ、僕は」
ヒートの長い髪に頭をすり寄せて、サーフはそっと目を閉じた。
「別に君が嫌いだなんて言ってないだろ、ただ愚かなだけだ」
ヒートの背中に回された華奢な腕が、写真に写っていた病的な手と重なる。そのままTシャツの裾から手は潜り込み、骨格を確認するように背骨をなぞられた。
背骨をなぞる両手は、体格差こそあれ、成長途中の男の手だった。
いつからこいつを意識したのだろうと、ヒートは記憶を探る。初めて会った時ではなかった気がする。あれはただの出会いという切欠だ。
ではいつから? 
いつから二人の間に意味のこめられた接触があったのか。頬へキスをした頃は、友愛の意を込めてだった。家族へするように、親友への愛情を込めたつもりだった。それが、いまは明らかに変化している。
頬ではなく唇へ──そして存在するのは友愛ではなくなってしまった。
友情と恋情が混じりあい、サーフはさらに欲情というものをプラスさせた。
背中を撫でていた手が脇腹へ滑り、肋骨を確かめるように押す。押された部分がへこみ、サーフの指がくいこむ。ずぶずぶと心を刺すように、指はヒートの肋骨を探る。生きているのを確かめるような、輪郭をなぞることによって相手がそこにいるという存在を確かめるような手つきだった。
友人でいたいのか、それともそれ以上の関係をサーフに求めていいのか分からず、ヒートは思わず困惑した顔をした。きっとサーフは好い暇つぶしが出来るくらいに思っているのだろう。だから、期待はしたくなかったし友情を壊すつもりもなかった。都合よくからかえる友人同士でいいじゃないか、きっとこいつもそれを望んでいるのだなどと思う。

そんなことをぼんやり考えていたから、唐突に首筋に噛み付かれても抵抗できなかった。抱き合うような形でいたので、サーフの顔の前にはヒートの首筋があった。
だから噛んだ。
そして噛まれた。
「やめろ、」と叫びかけたヒートはその言葉を飲み込む。
十六歳の少年だ、きっとこの大学生活が寂しいのだろうと自分へ思い込ませる。寂しいから、過度のスキンシップを図りたがるのだと苦しい言い訳がヒートの頭を掠める。
相手は十六歳で、まだ肌の温もりが恋しい子供なのだ。だから、こうするだけで深い意味はない。幼児が保育士にじゃれるようなものだと言い聞かせる──だが、そんな努力は無用だった。
噛まれた瞬間、離して欲しくないと願ってしまったからだ。
襟首を強く掴まれたまま、首筋を噛み、舐め上げられてそれは疼きに変わった。
思わず頬が赤くなる純情さと、ダイレクトに下半身が反応する性欲が相反しつつもイコールで結ばれかけている。
「いッ、」
嫌だ、なのかそれとも、いい、のかヒート自身にも分からない呻き声が上がる。意識していない声は熱っぽく、涙が滲んだ。
舌先が首筋をなぞった。
生温かく湿った肉が、汗ばんだヒートの肌を舐め取る。
さっきまで食べていたアイスクリームの匂いが微かに鼻を掠め、砂糖とバニラの匂いをヒートのなかに充満させた。肺を侵し、脳を犯し、心臓を壊す甘い香りだ。
お互い、真横に顔があるので表情は見えない。ただ、密着している分、上昇する体温だけは正直に熱をつたえていた。
ふたたび噛み付かれ、そのまま強く吸い付かれる。
もう隠せない。親友に欲情しているということ、二つ年下の少年に熱と肉欲を感じているということを隠すのは限界だった。
「この姿勢だから当たるんだけど、」
下敷きになっているサーフが、皮肉混じりに笑いながら言った。
背中に回されていた腕が下りてきて、張り詰めたジーンズの上を撫でる。思わず息を飲んだ。
フリーズする、目を見開く、そしてもっと触って欲しいと思う。
「したいの? ねぇヒート、僕が欲しい? 欲しいなら惨めに乞えよ。ヒート・オブライエンは親友に欲情して勃たせてる男ですって言ってみせろヒート。」
「──誰もそんなこと……う、ぁ」
「いい? へぇ、この前は泣いて嫌がったのにね。年下に泣かされて感じてるって認めろよ」
「泣いてるのは、お前だろっ」
「僕? 何を言っているんだい、泣いていたのは君じゃないか。大体、僕は六歳から泣いた記憶がない」
六歳から泣いてないのではなく、お前は泣くことを自ら封印したのだと言いたかった。サーフ・シェフィールドという立場に置かれ、泣くという感情表現を殺して生きてきたのだろう、だから涙を流す代わりにこうして他者を泣かせるんじゃないかと突きつけてやりたかった。
サーフの代わりに涙を流す。ヒートの涙はサーフが流すべきものの代替だ。
爪の先で、ジーンズの生地を引っ掻く音が部屋に響く。
ざりっという音とデニムの感触。
直に性器へ触れられていないもどかしさと、親友へ対しての葛藤。いけないという理性と身体の火照りは矛盾し、せめてこんな顔を見られないようにと、艶やかな黒髪をしたサーフの襟足に顔を押し付けた。
はっ、と満足そうに鼻で笑われる。そんな嘲笑に近い笑いにさえ、興奮を覚え、反応する身体に吐き気がした。そして、この体勢であることに少しだけ感謝した。顔を見てしまったら罪悪感で押し潰されるだろうから、これでいい。
ファスナーが下げられ、下着が擦られる。
グレーのボクサーパンツは濡れ、先端に当たる部分の色が滲んでいた。
与えられる刺激は脳に達し、呼吸の乱れを隠すことに耐え切れず、犬のように舌を出して空気を取り込んだ。口を開けっ放しなので、舌が乾いて気分が悪い。だが、そうしていないと呼吸さえままならない格好は痴態と呼べるものだった。両目が情欲に潤みきっていることをヒートは自分で気づいていない。サーフを抱きしめていた腕に力が入り、シャツの背中に爪を立てた。シャツとシーツに皺が寄る。
「こんなに濡らして染みになるんじゃない、これ」
「なるか、よ……」
ファスナーの間から下着をずらし、直に握られるとヒートは声を殺して盛大に喘いだ。
雫を滴らせている鈴口を広げられ、爪を入れられる。もっと、もっと壊して欲しいと思った。邪魔な理性を壊し、いままでの友情を壊し、すべてを消し飛ばしてくれと懇願する。
「声、出したかったら出していいよ」
優しく諭す声と裏腹に、加えられる刺激は強くなる。
爪だけでなく、指先を捩じ込むように鈴口を責められると震えが止まらなくなった。敏感な変化を察したのか、執拗にいじられる。そして、握りこんでから上下に激しく動かされた。サーフの細い指が、痛いほど張り詰めた性器に絡まって音を立てる。腹の下で白い手が一往復する度、ぐちゃりという粘着質な淫音が響く。

──ふと、怖くなった。こんなことが許されるのか。親友だった男を相手に、オレはいったい何をしているんだという恐怖に支配される。
絶望と誘惑の化身が囁いた。
「大人しくしてたほうがいい。君も素直にイキたいだろ、」
男同士だ、通常ならどのくらいで限界がくるかお互い分かっている。
逆に言えば、イカせる寸前で止められる可能性もある。そのことをサーフは言っているのだろう。
強弱を付けられ、一定のリズムで扱かれると呼吸困難で頭が真っ白になった。苦しい。苦しい。苦しいはずなのに、それを快感に変換させているのはなぜだ。喘ぐ。喘ぐ。喘ぐ。酸素が足りないのか、真っ白になっていく頭を必死に回転させながら何度でも喘ぐ。
「ヒート、僕は君のなんだか分かるかい、」
たった一人の“親友”だと言おうとして口を開いても、出てくるのは荒い呼吸と、快感に引き攣った声でしかない。意味をなさない母音の羅列。何でもいい。親友でなくとも、あろうとも、これを解放してくれるならもうそれでいい。手を止めないでくれと泣いて縋りたくなる。
「分かってる? 親友だってこと。恋人じゃない、僕らは親友同士だ」
「なんで──……」
なんでここまでしておいて、親友だと強調するのか分からなかった。
「僕は君が憎い。君が神を憎むのと同じさ」
「だから…き、らいなら……始めから言えよ、」
普段、声を上げて笑わないサーフが肩を震わせて笑った。
「別に嫌いじゃないんだ、ただ、憎んでる」
そして思い出したように付け加える。
「だけど好きだよ、」
聞きなれた言葉が、耳元で囁かれる。好きだと何回言われただろう。そして言われるたびにあしらって来た。
瞬間的に、少年期の少し高い声が低音の囁きに変わる。
声に犯されるということがあるのだと知った瞬間、サーフの手の中へ射精していた。
ガクガクと腰が震え、生温かい精液が吐き出される。声を上げるものかと、皮膚が破れそうなくらい唇を噛んだ。目を閉じて、自分の歯が唇に突き刺さる痛みをトレースする。痛みを探せば探すほど、身体にこもった熱が思い起こされる。そうだ、こんなものは排泄と同じ行為で、きっとサーフも同じ考えだろう。
だから「好きだ、」などという言葉は戯言だ。嘘だ。まやかしだ。
その戯言で射精したのは誰だと言うように、サーフが下着の中に入れていた片手をおもむろに引き抜いた。
「そろそろ重いんだけど、どいてくれないかな」
ついさっきの低音ではなく、いつものからかうような口調だった。
ヒートを押しのけ、ティッシュを何枚かまとめて引き出しながら手を拭う。「ほら、君も使うだろ、」同じようにごっそり引き出したティッシュの束をよこす。
呆然とするヒートの横で、溶けきったバニラアイスがシーツに飛び散っていた。
座り込み、下を向いたままベッドから動かないヒートの顔をサーフが覗き込む。
額にかかった黒い前髪が揺れていた。
「嫌なら抵抗すればよかったじゃないか。君のほうが体力も腕力も上だろ」
「──それは……無理だった」
「そう言うと思ったよ。親友を失いたくなかったから抵抗しなかった? 君が得意とする逃げと言い訳だ。明らかに君は欲しがった、そして僕は手助けをしてやった。その手助けを受け取っただけさ」
「お前は親友なのに、こんなことさせて悪いと思ってる。だから……すまない、許してくれ。すまない、すまない、どうか許してくれサーフ」
明らかに侮蔑した表情がヒートに向けられる。
覚えの悪い子供を前にしたように、サーフがゆっくりと言葉を発した。
「そこが憎らしいんだよ。この際言わせてもらうなら、気持ちが悪い」
シーツにこぼれたバニラアイスを指で掬い、その指をヒートの唇になすりつけた。甘い味がする。そういえば以前、サーフに指を舐めろと言われたことがあったと思い出し、反射的にその指を口にふくんだ。ほんの数分前までヒートの性器を擦り上げていた指は、バニラアイスの味しかしなかった。
「ほら、これだ。これが気持ち悪いと言っているんだよ。君は嫌だという顔をしながら、進んで僕の指を舐めるようになったじゃないか。僕は君の理性の出てくる瞬間が憎い。
ヒート・オブライエンの理性というものが人格化したら、そいつを殺したいくらいだ。
僕は君を好ましく思っている、ただ、君の理性だけは受け入れられない。だからこうして時々壊すのさ」
理性を含めてオレだと言いかけたヒートは、なぜか言葉に詰まった。理性、常識、道徳心。いつからそれは備わり、欠け始めたのか。代わりに与えられたものを受け入れたのは、まごうことなき自分ではないのか。思考が回り続け、次第に回転数が落ちた。

シーツにこぼれたバニラアイスを眺めながら、幼い頃を思い出す。
おやつに買ってもらったアイスをうっかり放置して溶かしてしまったのだ。泣く泣く、溶けたアイスを冷凍庫で再び固めることにした。
数時間後、冷凍庫のなかにアイスはなかった。
いや、あるにはあった。ただ、アイスクリームというものは一度溶けてしまったら分離し、冷凍庫に入れただけでは元通りの味にはならない。ボソボソとした砂糖と脂肪分の塊になってしまったのが、いつまで経っても諦められず、悔しさと自分に対する苛立ちでその日は泣き通した。

──溶けてしまった。
冷凍庫に入れても元通りにはならなくなってしまった。
シーツの上で溶けているアイスを見ながら、サーフの指を根元まで舐める。甘い。甘い。甘い。なんて甘いのだろう。
指を外し、舌を絡めあう。
互いに食べていたアイスの味がひとつに融ける。
チラリと見えたサーフの舌は、すぐ横にあるオペラピンクの冷蔵庫の色に似ていた。

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