【シェオブ】シャム

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

──ああ、苛々する。
砕いてしまいたくなる。
その覗き込む目玉を抉りたくなる。
君を引き千切りたくなる。
引き千切る──? 
そうだ、僕が千切りたいのは目の前の大判のカードの束じゃないか。ロールシャッハの課題が出ていたので持っていたそのカードたちは、僕の神経を昂ぶらせ、そして崩してゆく。
対になっている模様が、何に見えるかだって? インクの染み以外に何があるというのさ。コピーというものを反対側に作るロールシャッハテスト。こいつが僕を駄目にしていくのか。
僕を駄目にしているのは彼じゃないのか?
いや、彼じゃない、落ち着け。落ち着くんだ。
外は雨が降っている、オーケィ? 僕は僕なりのロールシャッハテストの成果を上げた、それは今日やってくる。

スコールにもなりきらない、それでいて霧雨にもならない雨がしとしとと昨夜から降り続き、気がつけば僕はヒートのベッドに潜り込んだまま授業を放棄していた。真っ白な病室のような部屋に、部屋の持ち主の清潔な馨りと、僕が昨夜床にぶちまけたエタノールの空っぽの容器がオブジェのように転がっていた。その匂いのお蔭で、授業で使ったカードの夢を見るわけだと思った。主のいないベッドは広々としていて、部屋の主はと言うと大柄な体躯を折るようにしてソファで熟睡していた。色素の薄い金髪に、長い前髪が垂れてほぼ顔を隠している。熟睡していると思ったが、それさえも判然としない。
僕はそんな彼を眺めつつ、白い漂白されたシーツを腹這いにして匍匐前進のごとく前へ進んだ。今年も咲いた白薔薇アイスバーグがシンクの上に飾ってあるのを横目に、その薔薇のように水分が欲しい、と思った。シンクは相変わらず銀色に磨き上げられ、生活感などないようにその凶器紛いの鋭さと、人工的な空気を醸し出している。
紫外線に溢れた外界と、室内はまったく別世界だよ救世主様。どこに神が居るって? 
「神とは──作り出すものだろ、親友」
空調がきいており、二十二度に保たれたこの狭くもない部屋の中、僕は気が違ったように声を立てて笑った。それでも彼は起きない。いや、起きているのか。眠る猟犬の振りをしているんだろう? そうだろう、ヒート。君はいつでも寝ている振りを決め込んでいるんだ、卑怯者。
そんな卑怯者に相応しいように、彼のアパートメントの庭には毎年皮肉のように大量の花が咲く。まるで紫外線を避けて生活しなければならなくなってしまったこの時代と僕らをあざけ笑うみたいに、大輪の四季咲きの薔薇から木香薔薇、蔓薔薇、ありとあらゆる植物が恩恵を歓喜し、青々と茂り、白く紅く黄色く藤色に咲き乱れる。僕らはそれを室内から眺めるのが好きで、たまにそれらを見ながら乾杯をした。
ペリエを何本飲んでも酔うはずがないのだけれども、僕らは酔った。空気にアルコール分でも含まれているのではないかと思うほどペリエの瓶の色に酔った。深い緑をしているそれを、僕はたまに玄関のコンクリートに叩きつけて割った。デマントイド・ガーネットの緑色のようなものを、僕はたまに求めていた。幼い頃、鉱物図鑑でデマントイド・ガーネットを見て以来、その色に惹かれて止まなかった。目を引く色だったからではない、ガーネットなのに緑色をしているということが単純に珍しかったからだ。異物というものは、たまに人間を魅了する。そして僕はデマントイド・ガーネットに魅せられた、ただそれだけ。
たまに、割れたペリエの瓶の切り口が相対になることがあった。それは何本も試験のようにためしているから偶発的なことなのだろうけれど、僕にとっては啓示に近かった。
──双子を作ろう、僕のコピーたるものを作って見せよう。

「ああ、そうだ。この部屋に客が来るけど良かったかな」
「客だ?」
「やっと起きた、寝たふりもいい加減にしないとばれるよ、ヒート。君の所作は丸っきりの道化で面白いな」
「起きた途端に厭味かよ、」
苛ついたヒートが呟いてそうこう言ってるあいだに、ピン、とインターフォンが鳴る。僕はベッドから降りて小走りに玄関へ歩み、モニタで確認してからドアを開けた。空気が変わるのが分かる──これは、知っている馨りだ。そして知っている空気だ。愛しい、そして得体の知れないものが入ってくる。
そう、ドアから入ってきたのは『サーフ・シェフィールド』だった。
ヒートの元へ手を引いて連れてゆき、挨拶を促す前に彼は話しはじめた。饒舌な、いつものサーフと寸分違わなかった。
「やあ、君がヒート・オブライエンかい。はじめまして、」
「サー……フ?」
声音、体躯、まとっている空気、垂れ流す言葉、すべてがサーフ・シェフィールドのコピーであり何もかもが正反対だった。
いやらしく翳を隠している僕と違い、こちらのサーフが喋る言葉は慈愛に満ち満ちていた。黒髪が少し短い程度で、僕らに共通していないところを見つけることが難しいくらいだった。
すっと通った鼻梁に、額を隠す黒髪、真っ黒な隕石の燃え落ちたような色の瞳、薄っぺらく折れそうな体躯、それらがサーフ・シェフィールドであるとすれば、彼もまたサーフ・シェフィールド足り得た。翳などなく、やわらかなほほえみを残して、ヒートの手を取ると手の甲へそっと口付けた。
「“僕”がこうしてくれと言うのでね、ごめん」
「そうさ、ヒートはキスの一つで泣くほどだから、手の甲でちょうどいいのさ。はっ、それとも別のことがいいかい」
どちらが喋っているのか、ヒートは混乱してきたのだろう。酷似しているからという理由だけではない、余りにも声までもが似ているのだが、話す内容は全く違うのだ。片方の僕が悪態を吐けば、片方が好きだと囁く。
「サーフ、どこで見つけてきた、」
「スラム街さ、僕は“僕”を一日という約束で“僕”自身を買ったんだ」
「ただし髪は染められたけどね、生憎、僕の元の髪は黒髪じゃない」
「そう、君は綺麗な金髪だったから惜しかったんだけど黒髪にしないと僕にならないからね」
そう言って、これ以上もない笑みで、僕がもう一人の“僕”の顎を掴み引き寄せると、同時に何かを失ったような顔をして丁寧な口付けをした。
サーフ・シェフィールド二人が深い深い口付けを交わす。
そう、僕たちは何かを失っていたのだろう。だけれども、それを誰かに吐露することは出来なく、それを察せなかったことを愚かなヒートは後になって悔やんだのに違いない。
長い長い口付けだった。ぴちゃぴちゃと猫が水を舐めるような音を立てながら深く舌を挿しこみあい、そして絡めあっているのをヒートはソファに座りながら呆然と見ていた。僕らに何も出来ないと分かっていたのだ。真っ赤な舌が二枚、口唇から出ては絡まっている。それは淫靡というよりも聖性のある儀式のようだった。何かを清めるみたいな、そう、マリア像を初めて見たときの衝撃に似ていたのかも知れない。ヒートはただただ怯えに近い神聖さにおののき、そして口付けを交わしている二人を崇めていた。
──二人のサーフ・シェフィールドが、僕らが交わす口付けは苦く甘くそして毒の味がする。同じ形の口唇、舌の色、伏せ気味にされた長い睫毛が触れ合った。
チカチカとサイレンが頭のなかで鳴り響く。
それは終わりの鐘であり、終焉をむかえる儀式の通過地点だった。
眩暈がしていた数十秒後、いや何分たったのかは分からない。もう一人の僕は、完全に“僕”をコピーしてヒートがぐったりと焦燥しきって沈んでいるソファへ向かった。ああ、彼は完璧な役者として役立ってくれている。これは予想外なことで、そして僕にとっては都合のいい遊びのひとつだった。
猫が、蛇が、相手をなぶり殺すようにして、彼はヒートの心を弄び始めた。僕がやっているのと同じような方法でね。いや、彼は僕と同じくらい趣味が悪いのかもしれない。僕は趣味が悪いと自負しているけれども、彼も同じだ。ただ、彼の慈愛という仮面に隠されたものは真っ黒い顔をしていて赤い目をもっているのだろう。血のような真っ赤な赤を。
ヒートが呆れているのか、それとも疲れきっているのかソファに沈んでいるのをいいことに、“僕”はヒートの上へ跨るようにしてソファの空いている場所へ膝立ちになった。
小さく、形のいい尻がヒートの腹の上へおさまる。ヒートの着ているTシャツに皺が寄った。
座って体重をかけた腹はやわらかで、刺せば死にそうに思えた。ざっくり、ぎらりと光るナイフを突き立ててやりたくなった、それはセックスの代償行為であり、僕なりの愛情に思えたのだ。愛してる? いや、愛してなんていないさ、親友。僕たちの間にあるのは、何だろうね。そう、例えるならば戦友じゃなく科学者と被験者だ。被験体である君は逃れようもなくもがくけれども、結局は僕の手によって変わりざるを得ないという、ラットなんだよ。きっとね。
しとしとと、外では雨が降り続いている。葉にはしずくが滴り、上段から下段の葉へと落ちてゆく。降り注ぐあの雨を見て、君はなにを思うんだろうね──僕は、僕は君になりたい。
「君がヒートねぇ。あぁ、僕いま何だか記憶喪失か、出来損ないのセクサロイドにでもなった気分だよ」
「こっちの気分は最悪なんだけどな、」
ぶっきらぼうと言うよりは、汚物を見るような目でサーフを見遣り言葉を吐き捨てた。
そんなヒートの心情も何もかも分かりきったといったしたり顔をして、馬乗りになった“僕”が笑う。いやらしい笑いだった。彼がヒートに初めて見せるいやらしさ。

スラムという立ち寄ることのない場所へ行ってみたくなったとき、彼に出会った。
彼に? 
そう“僕”にね。場所にそぐわないほど透けた色の金髪がさらりと靡いたので、僕は声をかけた。
ついさっきヒートに向かって見せた顔は、「スラム街で何もかも見てきた。金が無いときは売春して過ごした、あとは人を半殺しにしたりね、」と僕に話したときとまったく同じ表情だった──その表情は合図、神聖なるものを穢す合図のひとつ。
汚いオヤジ共に抱かれる売春なんて大したことはないと語っていた、汚らしいことならばもっとある、女の売り買いなんて厭というほど見てきた。臓器/人身売買の多いここに居て、よく十六歳にもなれたもんだよ、と金髪の“僕”と笑いながら話したことを忘れまい。名前を聞こうとしたが、「しーっ、」と口に人差し指をやってそれを阻んだ。
僕らは安いビールを呷りながら鉄屑に座りながら話していた。
白紙に墨を垂らしたような黒髪の僕と、正反対のアルビノに近いんじゃないかと思わせるほど髪の色素が薄い彼がいた。僕は彼ならやってのけると信じ込み、ヒートにちょっとした悪戯を仕組むことを思いついたのだ。
「サーフ・シェフィールドって人間が欲しいんだろ」
「あぁ、出来るだけ完璧な……ね、」
「じゃあ僕の名前はいらないな、僕は今からサーフ・シェフィールドだ」
「口調なんかは分かるかい、」
「コピーになったと思えばいいんだろ、簡単さ。ほら、もう“君”をトレースし始めている」
二人して、まるで少女のような真っ赤な口唇を寄せ合い、ふふっと笑った。
スラム街の鉄屑の上はひんやりとしていて、何とも居心地が良かったのだがそこを離れ、“僕”は僕と手を繋ぐとイェールの寮へ連れて行こうとした。まず、身なりを同じにしたかったからだ。
途中のコンビニエンスストアで黒いヘアカラー剤を買い、夕飯を買った。“僕”はあまりコンビニなどに来ないのか、珍しげに色々な商品を手にとっては楽しそうに笑ってカゴへ放り投げた。
ミルク一リットル
ガムテープ
ファッション雑誌
ガムボール
チュッパチャプス
サンドウィッチ
コーラ三本
「こうやって物が買える日がくるなんて思ってなかったな、」
「いつもは何を食べてるのさ、」
「僕はスラムの住人の最下層だからね、黴もいいところのパンだよ。それしか食べるものがない、あと水」
「それにしては動作がゆるやかなのは何故? 育ちがいい者の仕草だ」
「両親が厳しかったから、それが辛くて、耐えられなくて、どこかでぷつんと糸が切れてしまいそうでスラムに来たんだ。あのままでは両親を殺してた、きっときっと殺していたに違いないんだ、」
「──分かる、分かるよそれは。君は僕であり“僕”は君なんだ」
カゴに放り込んだ商品をレジに通しているとき、ふと“僕”が聞いた。
それは慣れた感じで、厭味もなにも感じさせない至って普通──の声で。
「何をさせるつもりだい、そっくりな顔の僕と買春? 同じ顔でセックスっていうのもおかしいかもね」くすりと笑った彼は汚く、穢れているのにどこか寂しげな表情をのぞかせた。汚れていることが悲しいのではないと思う、彼はもうそんなことは通り越して、悲しみも楽しさも何もかもをどこかへ置き去りにしてしまったのだろう。僕はそれを彼に拾ってやることは出来ない。僕自身の感情さえも分からないいま、不確かで不安定な彼のアイデンティティを取り戻すことなどまったくもって無駄というものだった。
それから、寮の自室へ連れて行ってカラー剤で綺麗な金髪を真っ黒に染め上げた。ちょっと勿体無かったな、などと考えている間に、彼の髪の毛はカラー剤で黒く染まり、寮のシャワーを使って洗い流すと黒い渦が排水溝へ出来た。黒い渦がまるで僕を誘っているように見えた。
髪も、目も、黒い僕が二人。
伸びきっていた髪も少しばかり切った。痛んだ髪の先をちょっと整えて、前髪を垂らして、サイドに分けて、そして襟足を整えたら出来上がり。
髪を切るのは好きだった。自分の前髪を整えるのも、サイドが伸びてきたらちょっと梳くのも、ハサミという凶器で以って自分のかけらを切るのが好きだったというのかもしれない。洗面台と床に散らばる髪の毛。はらはらと落ち行く痛んだ毛先。ほんの数ミリ、それはほんの数ミリなのだけれども、僕はその伸びたということが許せないでいる。この世界を受け入れられないでいる。なぜ伸びる、なぜ成長する、僕に残されたモラトリアムというものが砂時計のようにリミットを刻み始めているのを、髪の毛というもので以って、目で見せられては希死念慮というものが湧いて出てくる。
体躯までほぼ同じだったから洗面台のあとにシャワーを浴びさせて、ジーンズと開襟シャツを貸した。
──立派なサーフ・シェフィールドの出来上がりだった。
内包している翳の部分を僕よりも隠しているところも、好みだった。
雨は降り続いていた。もう一昨日から降っている。しとしと、しとしと。いつになったら止むのだろう、いつになったらヒートは僕への恋情へ気づき、その恋の重力で自滅する星のように破壊されるのだろうか。
そんなことを考えてベッドで寝転んでいると、珍しげに室内を歩き回っていた“僕”が笑いながら言った。
「彼女の写真とか、ないんだね」
「ああ、そんなことか。彼女なんて、そもそもいないからじゃないかな」
気だるげにベッドに肘をついて答える。
普段行かない場所へ行ったり、買い物をしたりと僕にしては少々疲れていたのだ。
部屋を見回した彼が、人形のような動作で肩を竦めながら聞いた。
「……君、もしかして男にしか興味がないとか?」
「さあね、そんなこと自分でも分からないさ。ただ、いまはヒート・オブライエンという男で遊ぶのが面白いだけ」
くるり、と身軽に右足を軸にして回転して僕の方を向き直ると、「やっと分かったよ、」と楽しげに口角を上げた。
「男だろうが女だろうが構わず、君がヒート・オブライエンという人間に興味を持っているとね」
──そう、それが今回の悪戯のアンサーだ。

「ヒート、お願いだからこっちを向いてくれないかな、」
馬乗りになっている“僕”が右手を伸ばし、そっとヒートの頬へ触れながら言う。それは慈愛というものに満ちていながらも、翳を上手く隠していた。なんだ、彼にも翳はあるじゃないかと僕は安堵する。
「好きだよ、ヒート。──好きだよ、好きだよ、好きなんだ」
ソファに沈みながらヒートがそっぽを向いているのをいいことに、その胸にへばりつくようにして“僕”はぴったりと密着した。逃げていた手を伸ばし捕まえ、指という指を絡めあう。
温度は手から伝わり、体温が上昇する。それにともない、室内の温度も上昇した気がした。
ああ、僕が到底言わないであろう言葉を彼はなんなく口にする。なんて残酷、なんてやさしさ。
指と指を絡めて捕まえた手を引き寄せ、もう一人の“僕”はその指をやんわりと口にふくんだ。強く握られていた拳の指を一本一本引き剥がし、そして丁寧に五指を指の根元から指先まで舐める。腹の上へ、まさに腹這いになり、指を舐め回す彼を拒絶することが出来ないヒートを、僕はどこか遠くから見ていた。
ドッペルゲンガーのごとく、瓜二つな僕に五指を舐められて性感帯を刺激されているヒートと、何でもないと言った顔で動物のごとく舐め続ける僕の分身。いや、あれは僕だ。違う、僕は──誰だ。
「好きだよ、好きなんだ。ヒート、君が好き」
「嘘吐けよ、サーフッ! おい、こいつどうにかしやがれ!」
「なんで信じてくれないのかなあ、ヒート、君が好きなんだ。喰べてしまいたいくらい、殺してしまいたいくらい、そしてドロドロに溶かして飲み干してしまいたいくらい君が好き。君は僕の血となり肉となり、そして吸収されて僕の身体中を駆け巡り、心臓という大きなポンプで、だくだくと君は僕の身体を巡るのさ。──好きだよ、」
「気持ち悪ぃ妄想してんじゃねえよ、」
「妄想?」というと、ポケットから小型のナイフを取り出しヒートの左手首を薄っすらと切り込んだ。ナイフの刃はすっと入り、そして平行に引かれると一本の跡が残った。一本の紅い跡は枯れかけた薔薇みたいな黒紅色をしていて、僕がそれに見惚れているあいだに“僕”はそこへ舌を差し込むようにして舐めた。薄い皮膚がめくれるのが見えた、血管は避けているのか、ゆっくりと刃を引いてもそれほどの出血はなかった。
手の甲で口についた血液を拭い、ヒートに笑いかける。
「僕は確かに弱い、だが、武器というものがある。君にはない、どうかなこの状況」
「サーフッ!!」
静かな部屋に、ヒートの怒声が走った。だが、ヒートは弱い。到底、僕たちに敵うはずもないと分かっているのにどうして抵抗するんだろうという疑問ばかりが頭に残る。“僕”がぴったりとはりついているからか、ヒートは額と首元に汗をかいていた。それがなぜかおかしかったのだ、「好きだ」と言われたい僕のコピーに抱きつかれ、それを嫌だと叫び、何を守ろうとしているのか。守るものなんてとっくのとうにないはずなのに。
思わず、くくっと笑いがこぼれた。
「なんだい? 僕に好きだと言って欲しいって顔をして、年中発情したような顔で僕を見ていればこんなことくらい何でもないだろ? それに言っているのは、僕にそっくりもいいところのコピーみたいな少年さ。何か不満でも?」
“僕”が舐めていた手を振り払い、ヒートはソファに沈んだまま両腕で目を覆った。
──ああ、分かるよ。
何も見たくないなんてこと、僕がそばにいるから一番分かるよ。
君がショックを覚えた、それだけで僕は満足なんだ。君を傷つかせずには生きていられない。
妹のこと、教授のこと、学校生活のこと、これからのこと──すべてが夢なら良かったのにね。生憎これは現実なんだ、薄紅の桜が散るのも、雨が降り続くのも、ハリケーンが来るのも、なにもかもが季節が巡りやってくることなんだよ。
もう一人の“僕”は顔を覆ってしまったヒートから腰をどけると、立ち上がって「もう帰るよ、」とにやりと笑いながら小さく言った。報酬の代わりに、ポケットに入っていた紙幣を何枚か渡したのだが「面白かったからいい、」と押し返された。
“僕”はあっという間に消滅してしまった。
この部屋から、この空間から。いなくなってしまったのだ。
さようなら“僕”

しん、とした部屋だけが残った。
僕らは真夏のエアコンディションがきいている部屋で、何をしていたのだろうね。エアコンで部屋は二十二度にいまだ保たれたままで、僕は“僕”を思い出して、そしてガーネットのくせに緑色をしているデマントイド・ガーネットを想起した。
彼はデマントイド・ガーネットのようだった。ペリエの瓶の割れた口みたいだった。僕の双生児にはなりきれない、しかし双生児になりたいと憧れる少年少女のごとく、僕らは遊んだのだ。
真夏の遊びは血の入り混じった残酷な馨りがした。
いまだソファに沈み込んで、横向きに丸まっているヒートを目にして、僕は笑いながらそばへ歩み寄った。機嫌を直してほしいだなんて、ありきたりのことは言わない。僕がしたことは啓示であり、罪であり、そして救済であったからだ。
エアコンの風が直接当たる場所へゆくと、僕の前髪とサイドがさらりと靡いて一瞬目の前が見えなくなった。腕で目を未だに覆っているヒートのそばへ、一歩一歩。
ギシリ、とソファの軋む音がしてヒートが体勢を変えたのが分かった。
「来るな、」
「なんでさ、まだ機嫌を損ねているのかい親友、」
「サーフ、来るな」
やだね、と言って近づくと片手をついて起き上がるのが見えた。相変わらずセンスのない真っ白で大きなシャツを引っ掛けた姿のヒートは泣いているような、困ったような顔をしてこちらを見据えた。普段は下を向いた犬の目をしているくせに、たまにやたらと不可解な表情をするときがある──まさに、いまがそれだった。
ヒートの髪を撫でようと近づくと、起き上がった彼が僕の肩を掴み、そしてそのまま抱きしめた。
抱きしめながら嗚咽を洩らすまいと、咽喉の奥でぐっと堪えているのが分かった。馬鹿なんじゃないのかと思った。まるでそれは痴愚もいいところで、そんなことで堪えていないで泣いてしまえと僕は願った。胸が痛いほど、願った。
「好きなんだ、と思ってる」
「とっくに知ってるさ、言いたいことはそれだけかい」
あまりにきつく抱き締めるもので、僕は若干肋骨が痛くなり苛ついた声で答えた。
ギシギシと肋骨がゆがむ。
ヒートの甘い言葉に視界がゆがみ、眩暈がした。甘い言葉は嫌いだ。砂糖菓子みたいに甘いザリザリしたものを口に詰め込まれるのならば、何も口に入っていない方が気楽でいい。血の味と一緒に、吐き出してしまいたい。
「今日みたいなことをされても、お前はまだこっち側にいる。ただ、いつかどこかへ行っちまいそうで怖いんだよ」
「どこへ?」
「分かんねぇよ、その時になんねえと。あと、お前拾ってきた子供にあんなことさせんな」
「なんでだい? 面白くなかった? 好きだって言われたかったんだろ、好きだって言わせて何が悪いんだい。僕と同じ顔を持った人間がいるだなんてね、神様は偶然がお好きなようで」
それに、子供と言ったら僕も子供さ、と言ってヒートの胸を押しのけると、涙が溢れかけていた目の縁をそっとやさしくやわらかな舌で舐めた。ヒートの金色に近いヘイゼルの眼は赤く染まっており、目の周りもひどいものだった。

「ヒート、君が死ぬときは心中しようか」
「嘘吐けよ、そんな気さらっさらねぇくせに」
ばれたか、と僕が笑うと、ヒートも引き攣った笑いを上げた。そう、引き攣りすぎてそれは嗚咽なのか笑いなのか悲鳴なのか分からない種類のものだったけれど、僕はスラムで拾った“僕”とヒートを思い出して、またベッドの上でまどろむのだった。
寝付く瞬間、昨夜、僕が床にぶちまけたエタノールの容器が転がっているのを再確認して、それを見てなぜか不変というものを感じ、鼻腔に感じる医務室のような清潔な馨りのなか、ゆっくりと睡眠へ落ちていった。最後に見えたのは泣きそうな顔のヒートと、天井の真っ白さだった。

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