【シェオブ】うそでつながれる犬

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

講義が空いたときはヒートの部屋に行く、というのが最近出来た習慣だった。
いつものカフェでスコーンを二個、キッシュ二個、ブレンドとカフェモカ一杯ずつ。
いい加減、使い慣れてきたキッチンを借りてそれらを袋から取り出して二人分により分ける。真っ白い皿に、少しすこし色がのっていくのは見ていて楽しい。
無難なのを選んだのか、それとも白という色に執着があるのかヒートの部屋は初めて訪れたときから白で統一されていた。され過ぎている、といっても過言ではないくらい色がない。
皿も、ベッドも、椅子も、ありとあらゆるものが清潔そうな白色だった。
「相変わらず似合わない部屋だな、モデルルームか病室みたいだ」
「人んちにケチつけんなよ」
「余りにも君のイメージじゃないというか、何回来ても慣れないものでね」
ソファに座っているヒートの前にコーヒーとキッシュを置き、隣に並んでカフェモカを啜りながらスコーンを齧る。
それなりに部屋が広いとは言っても、一人暮らしにしては広い、というくらいで
ソファは二人掛けしかない。
男二人が座るのにはやや狭いものだ。
ここに座るのは僕とヒートくらいのものだろうから差し支えはないんだろうけど、と思うと優越感を覚えている自分に気づく。
誰もヒートがこんな風に笑うのを見れない、申し訳なさそうにコーヒーを待つ姿も、無防備に昼寝をするのも、やや寝起きが悪いのさえ知れるはずがないという優劣にわけたら優のほうの感情だ。
いまでこそ親しいが、あの冤罪まがいの事件に巻き込まれなければヒートに関わらなかっただろうと思う。
それまで、僕はこの二つ年上の男に興味がなかった。
いや、興味がなかったというのは少し間違いかもしれない。話しかける前に構内で二度三度見かけたおぼえはある。
やけに背が高く目立つ顔立ちのくせに、傍目から分かるほど人を避けていたので逆に目についた。
見かけるときはいつも心持ち斜め下を向いているように見えた。それが、他人と視線を合わせないように、自然とついた癖だということに気づいたのはしばらく経ってからだ。
彼は保健所から出された犬みたいだと思う。
構って欲しいのに人が信じられない、信じたいのに手前までいくと条件反射で足が竦んでしまう。大きくてかわいそうな大型犬、それがヒートだった。
「でも犬って面白いよね、」
不意に言うと、コーヒーを飲む手を止めて訝しげな顔をしながら「そうか? オレは特に、」と答えられた。
「面白くないかい、思ったとおりの反応するところや物覚えがいいのが」
「お前な、面倒見なさそうだから絶対飼うなよ。いいか、絶対だ」
「言われなくても飼わないさ、寮だし」
そうじゃない、と眉間を押さえてヒートが顔をしかめる。
────もう一匹飼ってるからこれ以上いらないしね。
モカを飲み終わってテーブルに置くと、紙コップとテーブルが擦れる音がした。

「そういえば、これヒートに言ったっけ」
「なんだよ、」
地下鉄のシートで寝るようにもたれかかりながら、すぐ隣にいる彼の温度を感じる。身体をひねって柔らかいその頬に触れ、その輪郭をなぞりながらゆっくりと、さりげなく言った。
「実はね、僕は君のことを利用しているだけなんだ」
飲み終わった紙コップがヒートの手の中で音を立ててひしゃげた。
口を閉ざしながら目を見開き、そして少ししてから言葉が消えた。
沈黙のあいだに、外から聞こえるエンジン音や学生のはしゃぎ声が虚しく響く。
「最初は盗聴器を隠すために近づいただけだったのを忘れたのかい、第一、男なんて好きになるわけないだろ」
彼はなにかを言おうとしたが、一度開きかけた唇がふたたび固く結ばれて言葉をはばんだ。
一人きりで過ごしてたあの頃のように、斜め下を向き険しい表情が顔に張りつくのを横目にしながら言葉をつづける。
「もしかして自分が好かれてるとか思った?」
「────だって、お前が、」
「十八にもなって冗談の分からないやつだな、君も。あぁ、もしかしていまのは好きだといわれてその気になりかけてたのに、って落胆かい」
「それはっ……」
「この歳だし、別にキスくらいふざけてするだろ」
オレはしない、と肩を震わせた姿にひどく高揚をおぼえる。
握りつぶされ、ただのゴミになった紙コップがまるでいまのヒートのようで、もっと潰してやりたいと思ってしまった。
徹底的に叩き潰し、踵で踏みにじってどうしようもなくなるくらいになったところに優しく手を差し伸べてやれたらいいのに。そうしたらヒートは僕しか見なくなる。誰が一番怖くてやさしいか知らせてやるんだ。
寄りかかった背中に体重をかけると、ヒートの身体が強張っているのがよく分かった。くすんだモスグリーンのTシャツが、壁に這う蔦のようだった。
そうだ、もっともっと壁を作って囲われてしまえばいい。誰も入り込めないくらい鉄壁をはりめぐらせ、すべてを拒み、そして僕だけにそっと裏口を開けば上出来だ。
「君はしなくても、僕は挨拶のひとつとしてするよ。頼まれれば誰にでも」
誰にでも、のところで唇を噛んだのが見えた。
なにも気づかないふりをしてヒートの膝に頭を乗せた。
彼の内心に関わらず、それはとても落ち着く温度で心地が良かった。
「怒らないんだね」
こんなときに怒れない性格を知っていてそれを指摘してやると、ムッとしたような顔で黙り込む。
膝の上から顔を見上げると、怒るというよりもただひたすら強張って一言も発さずに見下ろしてるのが目に入った。
「挨拶だっていうなら、」
やがて無理やり絞りだすような低い声がした。
「オレにもしろよ。ここはお前の部屋じゃない」
「へぇ、催促なんて出来たんだ」
「────違ぇよ。誰にでも、するんだろ」
頭にのせられた手が微かに震えていた。初めて自分からねだったことが恥ずかしいのか、それ以外のなにかだったのか分からないけど、とくに知りたくなかった。
大きくて節くれだった指が、小刻みに震えながら僕の髪を何度も梳く。
五回ほどその指が髪を撫でるのを数えてから起き上がり、わざとゆっくり首に両手をまわすとヒートが緊張しているのが皮膚から伝わった。
「キスなんていつもしてるじゃないか。ほら、舌、少し出してよ」
言うとおりに少し口を開け、遠慮がちに舌をのぞかせる彼は嗜虐心を煽るのに十分だった。
形よく整列した歯を指の腹でなぞり、出させた舌を押さえつけた。指先には口腔内の粘膜との感覚と、唾液がつたって唇の端から零れる。
「ヒート、このまま僕の指を舐めてみせて」
そう言うと、なにをさせるんだと一瞬、顔をしかめられたがもう一度おなじ言葉を繰り返してみせると指先が柔らかい舌に包まれた。
あぁ、やっぱり君は犬なんだね。
言われたとおり、けなげに舌を絡める姿に愉悦が湧きあがるのを感じる。
君はキスが欲しかったわけじゃない。僕の欲情を自分に向けられたかっただけなんだ、ただ、いまはそれを素直に受け入れられないだけ。
順々に、彼はこの関係に慣れつつある。
指をくわえさせたままだったので、唾液が顎から落ちて胸元に染みをつくった。
友人同士としてキスをする、指を舐める、舌を這わせる────それらが日常となり僕らだけの習慣となればいいのに。
唾液にまみれた指を見せつけながら引き抜き、彼の輪郭をなぞる。そしてそれはカタツムリの這いずった跡のように透明な一筋を残した。
濡れた指をヒートのくちびるに押し当てて言う。
「知ってた? いくら友達同士でもこんな風に指を舐めたりはしないって」
もう少し遊びたかったので挑発するように言うと、あからさまに身体をよじって逃れようとする。
なにをいまさら。
まさに「いまさら。」という言葉の通りじゃないか。最初に与えたのは僕だけど、結果として欲しがってみせたのは君のくせにまだ逃げ道を探している。
友情という名の脆い道は、見つけたときには崩壊しかけていた。帰ろうにも既にその道自体がないことにまだ気づかないふりを続けるつもりなのか。
そんな彼に苛つきを覚え、噛みつくように唇をかさねた。
パズルのピースがはまるようにそれは失っていたものを補い、過不足なく満たす。
ほら見ろ、やっぱり僕らに必要なのはこれじゃないか。君が恐れているものの大半を占めるこのくちづけが必要だと素直に認めればいいのに。僕はそれを与えてやれる、だから答えを出すだけでいいんだ。君の成績ならそんなこと簡単だろう。
食いつきあうように互いの唇を貪る合間、伏せられた睫毛の縁が湿っているのを見てしまった。
「ヒート、もしかしてこれくらいで泣いたの」
ふいに突き飛ばすようにして身体を離され、口許を袖でぬぐいながら睨まれる。
「よく見せてよ、泣いたんだろ」
「そんな訳あるか、」
「あ、隠さないでもいいよ。笑わないからさ」
「ちげぇって、口に指つっこまれたらこうなるだろ!」
「どう見ても泣いた跡なんだけど、違った?」
自分より頭半分も長身の男が、目の前で口をまだ拭いつづける。ふとそんな彼が可愛らしく見えた。可愛らしいという言葉とはかけ離れているのだけれど、なんとなくそう思ってしまったのだから仕方ない。女の子は母性本能なんて陳腐な言葉がつかえるから、こんなときはさぞかし便利なんだろうなと思いながらその姿を眺める。
固く握られた手の甲になんとなく触れてみると無愛想な顔で払いのけられたので、余計に触れてやりたくなった。

「慰めじゃないけど、さっきまでのがぜんぶ嘘だっていったらどうする」

飼い馴らしかけた野犬はその言葉に表情を一変させ、勘を研ぎ澄ます。
そして瞳の奥をのぞくような目をしながら口を開いた。
「いまのが今年のエイプリルフールの嘘だって言うのかよ」
ちょうど今日だしね、とその問いに肯定の頷きを見せても緊張は解かれなかった。
眉間に皺を寄せながら慎重に言葉を選ぶ。
「お前は……本当のことも言ってるけど同じくらい嘘もついてるだろ」
「さすが親友、」
若干おどけながら言ってみせると、眉間の皺はさらに深く刻まれた。
別に悪びれる必要はなかった。嘘をつくことを悪いなんて思ってないのだから。
「じゃあ、どれが本当でどれが嘘かわかったかい。君は優秀だからそれくらい分かると思うんだけどな」
「そんなの分かるわけねぇだろ」
「あぁ、今度は君が騙す番みたいだね。でも先に答えてよ、君には簡単なはずだ」
「さっきから分からないって言ってんだ、それにお前と同じで分かってても言わないからな!」
その返事は彼が答えを持っていることを意味していた。
答えがあるけれど、それが自分にとって好ましいものではないから口に出したくない、ヒートはそういう人間だ。
こみ上げるものを必死に隠すようなその顔を見て、自分のしたことだけれど僕はそれに満足なのかそれとも不足なのか不意に分からなくなってしまった。この、強烈なうねるような不安感は一体なんだ。
ヒートは怒鳴ったっきり、なにも言わずにあらぬ方向を向いている。
狭いソファのすぐ隣、肌が触れるほど近くにいるのにお互いが分からず黙り込んだまま、バッグの中で携帯の着信音が鳴るのを二人して聞いていた。
それは僕の携帯ではなかったので、きっとヒートのバイト先だろうから早く出ればいいのにとか思ってチカチカ光るサブディスプレイとLEDランプを眺めているうちに切れてしまった。
コール十回分の妙に長い沈黙だった。

あのときは結局どうしたんだっけな。
僕が種明かしをしたのか、ヒートが自分で答えにたどり着いたのか今となっては些細な出来事すぎて忘れてしまった。四月一日なんて、何年も一緒にいたからどの年になにがあったかなんて忘れてしまったんだよ。
だけど、あのとき嘘なんてつかなければよかったと思ったことだけはっきり覚えているんだ。
この話を持ち出したらこんな行事があったを忘れている君のことだ、きっと「セラにもエイプリルフールを教えてやる」とか人の気も知らないで言い出すんだろうなと思い、少女を映すモニターをそっと落とした。

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