【イザシズ/WEB再録】盲目のパライソ、そしてアナナス

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 銀色のシンクに放置されたパイナップルが腐りゆく匂いを発していた。
 それは甘く、酸っぱく、腐敗というよりは成熟するといった方が正しいのかも知れないと静雄は思った。パイナップルが『アナナス』といった別名を持っていること、それがオランダ語であることを教えたのはこの数日を共にした男だっただろうか――少なくとも、男はそれをアナナスと呼んでいた、というところまで考えて思考を無理矢理停止した。
 学生時代から腐れ縁が続いている男、静雄を抱く男、甘い声で静雄を糜爛させる男――それは同一人物だ。
 腐りゆくアナナスの馨りは、その男が普段つけていた香水と同じくらい良い匂いだと静雄は思う。甘すぎず、清涼すぎず、色にしたら鮮やかな青。いまの静雄にはイメージとしてそれが見えた、燃え盛る炎のように真っ青な花束を持つ黒髪黒コートの男の姿が。
 ぼんやりとしていると男が「どうしたの」と静雄に問いかけたので、見えたままのイメージを伝えると「嘘つき、」と一言だけ発せられた。何がとか、誰がとかは何も無く「嘘つき、」とそれだけ言われた。
 静雄はゆっくりソファから立ちあがり、シンクの上に置いてあったアナナスを手にした。腐臭はまだそんなに馨り立っていない、この匂いはこの数日間にべったりと張り付いた記憶だ。濃密なこの数日の、記録者なのだ。
 この腐臭はきっと二人が死ぬ時にも甘く漂うのだろう。葬式に似つかわしくないほどの甘さと夏が近づいてきた朝に似た爽涼さ、それと切なさを孕んでシンクからふたたび流れ出すに違いない。
「いま殺したら、きっと楽になんだろうな」と静雄がつぶやいたのを聞いていたのか、「殺せないくせに、」と高いトーンの笑い声と共に揶揄われた。
 触れ合うだけでは満足しきれなくなった二匹のけだものは、ひたすらに哀れな末路をたどっている。それでも彼らは引き返すつもりもないのだ。
 閉ざされた目蓋の裏側に、この男といた数日間を焼きつけようと静雄は誓う。池袋最強と言われる男にも寿命があるようにそれがいつか崩れるものだとしても、永遠というものがこの世にないことを知りながら誓うのだ。神でも何でもない、手を伸ばしたら触れられる距離にいる男に対して――何度でも、何度でも。ガラス片を飲み込むくらい痛く、吐いた言葉には血が滲むほどであったとしても静雄はこの数日間をいとおしんだ。
 それをじっと、アナナスはシンクから見ていた――この部屋であった鮮烈でありながら淡い恋色めいた数日間を。
 
     ♂♀

 その日、平和島静雄は朝から視界がクリアではないことを不思議に思っていた。いつもならばくっきりと視えるコンビニの自動ドアも、信号も、まだまばらな雑踏の人々も、すべての境界線が曖昧だった。
 視力はいい方だったので眼鏡もコンタクトも不要なはずなのに、その水彩画じみた世界に静雄は戸惑った。煙草を喫って落ち着こうと思ったものの、生憎胸ポケットのアメスピは切れていた。空になったパッケージを握り潰し、何も喫えないことにいらつきはじめる。そう思っている間に、加速するようにして視界は段々と狭まりおぼろげになってきた。自分の視力が落ちるなどとは信じられなかったのでサングラスが曇っていないか見てみたが、外してみて目の前に翳したサングラス自体も輪郭しか静雄の目には映らず、薄いブルーグレーの長方形が二つ並んでいることしか分からなかった。やがて、それが何かは判別できない程度になってしまっていた。
 雑踏に於いて、ぼんやりとした視界のなかでまだ真昼間じゃなくて良かったと思った。昼間の池袋にいたならば、奔流となった人の群れに潰されてしまうことだろう。まだ朝早いのでドラッグストアやテレクラのビラ配りがいないだけマシだ――と考えることにした、いや、そうしないとやっていられないくらい静雄の視界はぶれ始めていた。
 左右上下、どこを見てもぼんやりとした水彩画の世界――まるで薄めたインクの海にいるようだった。すべてが霞がかって何も見えなくなるのも時間の問題なのか。
 昨日の夜、就寝前まではっきりと見えていたものが見えなくなる不自由さ。そんなものを味わいながら静雄はおぼつかない足取りで六十階通りを左に折れた路地に入った。少し時間が経てば治る一過性のものかも知れないと思ったからだ。だがしかし、それは残酷にも三十分経とうとも一時間経とうとも治ることはなかった。静雄は携帯のディスプレイで時間をはかろうとしたが、それさえもぼやけて映ってしまい碌に把握出来ない。田中トムに連絡を入れようとしても、携帯のアドレス帳が読めないといったところまでになっていた。このまま失明する可能性がない訳でもないと思い、その事実にゾッとする。それは力では計り知れない恐ろしさ、恐怖、怯えだった。
 春の朝は底冷えする。それは静雄の心理を表しているように、精神を凍らせて縫いとめてしまう。早朝と言うにははやすぎる時間なのか、凍て星が空に浮いていた。まるで粉々に砕かれたガラス片が光を帯びながら空に縫われているようだったが、生憎、いまの静雄にそれは見えなかった。
 段々と視力が下がり、最早その目には影と光しか薄っすらと見えなくなった――家を出て、路地裏に座りこんでからもう一時間十五分が経過している。
 このままではいけないと思って医者に行こうにも、まずどこに病院があるのかを探すこと自体が困難だった。影と光の世界に置き去りにされた静雄は、小学生の頃に入院ばかりしていたことを思い出していた。隔離された感じが似ていると思った。小学生の時分、入院して世間から隔離されると静雄はどこか安心をおぼえた。それ以上他人を傷つけることも、他人から傷つけられることもなくなるからだ。
 救急でも呼んだ方がいいのかと逡巡していると、聞き覚えが有り過ぎるひどく憎らしい声に「何、座りこんでんの」と問いかけられた。多分、その男は声音からして静雄を侮蔑した感じだったが、ほぼ見えないなか真っ黒い人型の影に向かって睥睨しながら「うぜえ」と言うとカラカラと高らかに笑われた。いつだって、この声の主である男は優美で玲瓏としている宝玉を転がすような声を出す。ましてや、それが天敵である静雄が窮地に追い込まれていると知ったら何を言い出すか分からない。
 男が凛とした声で「そんなに無防備にしてると危なっかしいよねえ、只でさえシズちゃんは恨み買いまくってるんだし」と言う。
 それに対し、静雄は知ったことかと思った。恨みを買う? 借金してまで出会いたいとか思う奴が悪いだろうが。っつーか、自業自得ってやつだ、借金も女に会えねーのも自分が悪ぃのに世間や会社や不況のせいにするな、クズ野郎共が。
「おい、仕事行く前に休んでんだ。邪魔すんな」
 静雄がそう言うと、男は目の前に手をかざして二三度上下に振り、一瞬でサングラスを奪うと「やっぱりね、」と言って嗤った。
「いつから見えないのかなあ、それ」
 奪われたサングラスは、もう静雄のおぼろげな視線を隠してはくれなかった。視線がどこを見ていいのか分からず静雄は思わず俯いたが、それも目の前の男によって無理矢理前髪を掴まれて上を向かされた。この男はよく俺の髪を引っ掴むな、と静雄はどこか悠長に考えながら「あ? 何言ってんだ手前は」と返した。
 内心の動揺をうまく隠しおおせただろうかと思っていると、すべてを見透かすようにして男が嗤いながら「いつも思うけど、素直じゃないよね」と言う。この男は何を見て、何を知ったんだ――と静雄は動揺といらつきを通り越して何か未知の生物に出会った気分になる。
 ビルとビルのあいだに身を隠すようにして座りこんでいた静雄を引きずり出し、その男――折原臨也は視界の定かではない静雄の蝶ネクタイをナイフで切り裂いた。普段ならばそれを避けることも出来ただろうが、いまの静雄にそれは不可能だった。プツッ、と布とナイフが擦れ合いそれが切り裂かれる音がする。臨也の影がぼんやりと見えるが、それは黒髪で黒いコートであるからして判別できるようなものであり、うつくしく端麗な彼の容貌が確認できないいまとなっては何もかもがあやふやだった。
 いつものナイフで静雄のバーテン服のシャツは第一ボタンと第二ボタンを切り取られ、鎖骨を食むようにして噛みつかれる。ボタンが軽い音を立てて飛ぶのが、ほぼ見えない視界のなかで分かった。鎖骨を甘噛みする臨也の髪がふわふわと静雄の頬に当たり、その髪質から普段静雄を翻弄する臨也だと確信した。その当たる髪に鼻を近づけると、嗅ぎ慣れた爽やかなのに記憶に残る香水の匂いがした。
 しかし、この男はいつどこでも発情してるんじゃないかと静雄が吐き捨てたくなるほど、臨也は静雄を手玉に取って獲物を捕った肉食動物のように弄ぶ。現にいまも臨也は盲目に近い静雄を引き摺るようにして静雄が凭れていた空きビルのドアを開け、それをそっと閉めるとポストが並ぶ薄暗いエントランスに静雄を押し倒して「見えるって言うなら抵抗してみなよ、」と嗤った。
 ほとんど見えない視界のなかで揺れる臨也の影を殴ろうと思い切り手を出すと、簡単に関節をひねられて攻守が決まる。そもそも、ぶれて薄暗く影しか見えなくなった静雄に勝機は無かった。それを分かってやっているだろう臨也はアッハハハ、と声を上げて静雄の腕を掴む。押し倒されたままの姿勢で静雄は『このまま殺されるのか――』と思ったが、意に反して臨也は再び静雄の鎖骨を皮膚の上からやんわり噛んだ。噛みつき、皮膚を吸い上げるようにして鬱血させると何ヶ所もキスマークが点々と散った。生白い静雄の皮膚が赤い点だらけになるのを俯瞰しながら、臨也が「本気で抵抗しないんだね。あぁ、その目じゃ出来ないか」と言った。その声は冷淡なようで興奮を孕んでいる。いつの間にか、その声音だけで感情をはかり知れるほどになってしまった二人のあいだに隠し事は何も出来なかった。
「視界を奪われると、性的な興奮具合が違うって言うけどそれ本当だと思う? 見えない分、嗅覚や触角や聴覚に頼ることになるから敏感になるらしいよ、確かに俺も以前女の子にアイマスクしたことあるけど確かにいつもと……」
「黙れ、ノミ蟲。暢気にベラベラ喋ってんじゃねえよ!」
「あ、俺が女の子とセックスしてた話聞くのは耐えられなかった?」
 頭が痛ぇ――と静雄は思う。臨也は頭の回転が速い分、静雄の意図からわざと外れたことばかり喋っては意識を撹乱するからだ。いつだってそうだった、静雄を良いように使うように考えているように見える。別に女とセックスしながらも静雄を抱いていることは知っていたし、耐える耐えないの話ではない、ただほんの少し、塵ほどの僅か――チリチリと内心が焦げるように不快なだけだ。
「女を――」
「何、」
 女を抱いてきた帰りなのか、と問いかけたかったがそれも不毛過ぎるので静雄は口を閉ざした。不毛というか、業が深いというか、二人の関係は新宿や池袋界隈に知られているよりも血の滴る生々しい肉の切り口のようだ。指で押せば真っ赤な血がべったりと付着し、口に運べば生死を賭ける。そんな関係性に於いて、空中に霧散した静雄の問いかけは無駄だった。
 臨也がこうして早朝の池袋にいるのも、馨り立つ香水の匂いがいつもより少しだけ強いのも、女との名残を誤魔化すためのものに思えて静雄は訳の分からないいらつきを覚える。
 そんなことを思いながら押し倒されたままの姿勢でいると、つるりとした感触の冷たい床の上で腰が痛いと訴えたかった。多分、大理石か何かであろう床は春の温度をそのまま届けてくる。そして払い除けたくても、真っ正面にいるはずの臨也に上手く手が伸ばせないもどかしさが厭だった。
 退けと言おうとすると、それは呆気なく臨也の口唇で塞がれた。それはもう何度も惰性で重ねてきた行為だ。ぐちゃり、と口唇と舌が触れ合う音がする。こんなこと、目の前の男は特別視しないで誰とでもするのだろうと思うと、静雄はどこか思考の端が欠けるのを感じる。嫉妬と言うにはまだ足りないそれは徐々に浸透してきて、首を絞めるかのように呼吸を困難にさせた。
 静雄が頑なに口唇と上下の歯を閉ざそうとするので、臨也は呆れたような顔を見せながら親指を口の端に掛けて無理矢理開けた。ここがドア一枚隔てて池袋という土地だとか、朝っぱらから欲情してんじゃねえだとか、言いたいことはボロボロと静雄の口をついて出そうだったがそれを塞ぐようにして臨也の口唇と舌はそれを閉じ込める。舌を絡めあい、上顎と歯列を舐められ、静雄は薄暗い視界のなか手探りで臨也の肩を掴んだ。掴んだ際に短く切ってあるはずの爪が、ぷつりと皮膚を破いて肩に食い込む。それを宥めるようにして臨也が「痛いよ、」と言った。その言い方はまるで子供を諭すようでいて、背徳的なものを感じさせる。先程、臨也が言っていたように盲目という状態は静雄の五感を研ぎ澄ましてゆく。厭でも臨也の唾液がかすかに甘いことだとか、頬に触れる髪の毛がやわらかいこと、そっと耳朶に触れてくる冷たい指先を感じていた。塞がれていた口唇が、耳朶に移ってそれを甘噛みする。
 臨也が厭味な笑いを含ませながら「骨導、外耳、中耳、中耳腔とか生物の時間にやらなかったっけ」と言い、そんなものを習っただろうかと静雄が思案しているあいだに、ふふっ、と嗤った。臨也はあからさまにこの状況を確かに愉しんでいた。静雄が臨也のせいでまともに授業を受けたいのに受けられず、追試ばかりしていた日々を思い起こさせてくるにも関わらずこの体勢は何だと静雄は見えないなかで眩暈がする。
 静雄が思い切り侮蔑を込めて睨んでいるのだが、臨也は一切動じずに耳朶を食みつづけた。やんわりと食まれて静雄は喰われゆく気分を味わう――それは甘美なようでいてどこか倒錯感を含んでいた。舌を捻じ込まれ、息を吹きかけられる。ああ、五感というものはこんなにも視覚を失っただけで他の感覚が敏感になるものなのかと思い、静雄は五感というものをあらためて数えた。
 ――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。
 そこから視覚をマイナスして、いまの状態の静雄がいる。これは四感とでも言えばいいのかと思いながら、このまま失明したら幽の出てる番組もインタビューも見れねぇなと不安を感じた。思わず微かに震えると、臨也が何か勘違いしたのか「ねえ、抵抗しないの。いつものシズちゃんみたいに全力で抵抗してみなよ、ほら」と言った。
「それとも――もうゲームは俺の勝ちなのかなあ?」
 臨也が壊れたように両手を広げて嗤い、再度取り出したナイフで静雄の頬をピッと切り裂いた。次の瞬間、赤い切り傷の線に沿って小さな血液の球が出来、その上をざらりと舐められる。耳朶に続いて頬を何度も舐める臨也の舌の感触が、視界が自由だったいつもより鮮明に感じられるのは気のせいなのだろうかと静雄は押し退けながら思う。
 出血している頬に喰いつくようにして血液を舐める臨也が邪魔だった――ひどく、邪魔だった。見えない世界のなかで、静雄は臨也の戯れを好意と勘違いしてしまうことを否めなく、それを厭んだ。見えている、見えていない、その違いだけなのに静雄は倒錯と嫌悪と憎悪のなかに堕ちながらも焦がれる感情を持つ。
「アッハハハ、特に派手に抵抗出来ないみたいだし、シズちゃんも痛くされたくないよね」
 次に何をするつもりなのかというのは言われないでも暗に分かった。
 臨也という男は意地が悪い。性格が悪いというのではなく、人格自体がどこか破綻しているのだと静雄は思っている。力を制御出来るようになった静雄のように、荒事に巻き込まれなければ一般人でいたいと願う人間ではない。自分が盤の上の駒を操ることをこの上なく望み、そこへ身を投じることを愉しみ、そして裏社会に生きることを常としている。
 いま、止めろと言ったところで臨也は面白がりにたにたと嗤いを張り付かせながら静雄を蹂躙するに違いない。だから、こういったときは黙っているのが一番の選択なのだ。
「本当に何もしてこないとつまんないんだけど、ねえ、いつもみたいに抵抗して見せてよほら」
 出来ないということを知りながら、臨也はそれを強いる。
 普段の静雄ならばとっくにリミットを超えているところだが、いまは何も手足が出せない。もし臨也が何か仕組んでいるとしたら、目の見えなくなった静雄の前に一般人がいるとしよう、そいつを思い切り殴り殺したところで臨也には吉と出て静雄には凶と出る。一つの感覚が無くなるだけで、こんなにも不便なのかと静雄は声にせず嘆いた。
「――いまは、出来ねぇの分かってんだろ」
「あっそう、シズちゃんがこんなだと調子狂うなあ。ま、俺としては君に簡単に死んでもらえそうで嬉しいんだけどね」
 だけどちょっと勿体ないかな、と嘯きながら臨也は押し倒したままの姿勢で静雄の首筋に食らいついた。腰の上に跨って体重をかけないよう臨也なりに気を遣いつつ、頸動脈の上へ食らいついたまま獲物を狩るように静雄のシャツを開けて、ぷつりぷつりとボタンを上から順番に外していった。もっとも、第一ボタンと第二ボタンはついさっき臨也が切り取ってしまったので外したのは第三ボタンからだった。シャツとベストのボタンを外され、自動喧嘩人形とはよく言ったものだというくらい、すべらかな肌が露出する。一頻り首筋を食むと、臨也はその胸に手を押し付けて静雄の鼓動を聞いた。生物の寿命とは、大体の鼓動回数がどれも似通ったものだとどこかで聞いたな、と二人は思い出す。遅ければ長く生きるし、速ければ短くしか生きられない。静雄は折原臨也という男がどれだけの業を重ねて生きていくのか、少しだけ興味が湧いた。だが、その思考を中断するように臨也の片手が乳首を引っ掻いた。
 思わず情欲にまみれた短い声を上げそうになって口唇を噛むと、「そう簡単に落ちないでよ」と言われる。静雄は見えない世界のなかで臨也の輪郭を思い出し、そして無遠慮なのに反して丁寧に触れてくる指先、それと甘く高い声を鮮明に脳裏に焼きつけた。
 そうだ、平和島静雄という存在は折原臨也を楽しませるものでなければならない――いつからか、こんな風に互いの欲情を恋にすり替えるという大人の汚さを身に着けてしまったことに嘆き悲しみ、快楽というものに溺れながら静雄は臨也の存在を何度も何度も反芻するように思う。それこそ紙を重ねて下に透けるそれをトレースするように、感情と意思を上書きしてなぞり描いた。
 静雄はゆるやかに自分の性器が勃起するのが分かったが、臨也の思惑通りになっていることを嫌い、悟られないように腰を引いた。だが、臨也が腰の上に跨っているのでそれは他愛もなく崩れた。
 こっそり囁くようにして「声、出さないで最後まで出来る?」と大人しく諭すように言われると、静雄はそんなことは無理だと言いたげに首を振った。いくら声を殺そうとも臨也はきっと途中で静雄のことなど構いなく好き勝手やるだろうし、それに反応して声を上げてしまいかねない自分を静雄は恥じた。
 ここまで静雄を皮膚に飢えた男にしたのは、臨也以外にいない。憎むべき男の手によって、静雄の身体はこんなにも変わってしまった。その変化を「いっそ人間らしいじゃないか、」と言ってせせら嗤ったのは臨也だ。
 静雄の胸を引っ掻いていた臨也は手を押し付け、心音が聞こえそうだねとフッと笑んだ。「それも止めたくなるほど、健康的なリズムだ」と言われて静雄は思わず舌打ちした。
 ボタンを開けた胸に押し付けられた手は、もう春の終わりなのにひんやりと静雄を冷やした。それがやたらと冷静な思考と、火照る身体のギャップを感じさせて焦れったかった。
「――やるだけならさっさと済ませろ」
「酷いなあ、これでも君の身体を傷つけないように俺はいつだって気をつけてるのに」
 ナイフで斬り付けてきやがるくせにな、と静雄は抗議の声を上げたくなったがそれを飲み込んでうつむいた。下を向いても見えているのはぼんやりとした世界だけだ、視力はほぼなくなってしまった。
 静雄から臨也のことが見えないので、いまは何をするにも必然的に手探りになる。ふと思い浮かんだままに静雄は向かい合っている臨也の胸に手を当て、それから上に移動させて頸、次にその頬にひたひたと触れる。盲目状態ながらも触れていた手を頬からまた頸へ遣り、両手で輪を作ってからそっと絞め上げた。臨也は静雄が首を絞めてくるのは分かっていたし、そのままいつも通りの力を加えられたら一瞬で絞殺されるのも了承していながら、喉の奥で珍しく低く嗤いつつ静雄のするがままに任せた。――臨也には、静雄が自分を殺せないという確信がどこか片隅にあったからだ。
「シズちゃんどうしたのー。これさあ、絞めてるつもり? 抵抗したいんなら、もっと暴れていつもみたいに俺のことちゃんと見てくれないかな」
 そこまで言ってから臨也は静雄の両手が微かに震えていることに気付いてクスクスと笑い声を上げた。
「アッハハハ、シズちゃんがここまで臆病になるとは思わなかったよ」
「――うるせぇ!」
 いいね、化け物から人間に近づくなんて非常にいいよ。と臨也が納得しながら言うと、それを否定するかのように頸に手を掛けたままの静雄が苦々し気な表情で溜め息をついた。それはとても深いものであり、諦めを含んだものだった。
「ねえ、君が人間にとして存在したいなら俺の言いなりになってみせてくれないなかな。ああ、それは勿論、悪魔が契約に純潔を戴くようなものなんだけどね」
 結局のところそれじゃねえか、と静雄は暗にセックスを迫る臨也を罵倒したかった。
 臨也は静雄を思い通りに動かすことに愉悦を感じているので、ここで静雄が断っても何らかの理由をつけて抱くであろうことが分かる。こんなにも見えないのに、手探りで臨也という存在を確かめるしかない上、もう今までと同じ生活が出来ないかもしれないのに目の前にいる臨也は暢気だ。それとも――と静雄は思って話しかけた。
「……これは手前の嫌がらせだろ。畜生、薬とかまた新羅からもらったもんでも打ったのか」
「厭だなあ。たまたま歩いてたらシズちゃんが蹲ってたから、親切にも関わってあげようとしてるとこなんだけど。もしかして、疑われてるのかな」
 面白がっていた声音が、更におかしいと言いたげに話した。
 正直に臨也のことを信じるのは危険だが、いまは取り立てて嘘はついていないのだろうことが分かる。じゃあ何だ、これはどうした、と静雄の頭の中が混乱で埋め尽くされてゆく。腹の上に乗っている臨也の顔も碌に見えない。臨也が顔を覗き込んでくると、薄っすらとした影が視界に入る。今の静雄には、そのくらいの視力しかなくなった。
 両手と腕を伝い、肩も小刻みに震える。
「決めた、やめよう」
 臨也が両手を広げながら、それは楽しそうな声でそう言った。
「今のシズちゃんじゃあ、どう殺しても面白くなさそうだ。ただ、生き残りたいならうち来る?」
 そう言って静雄の腹の上に座っていた腰を上げ、臨也が腕を引きながら着いてくるかと問いかけ目線を寄越したが、いつもとは違って見えないのだと思い、次は口に出して「俺以外が殺すのも悔しいし、おいでよ」と、はっきり言葉に出した。
 しばらく虚ろな目で考え込んでいた静雄だが、立ちあがったまま手を引いている臨也から少しずれた方向を見ながら俯いた。
 生き残るために、普段の天敵の下につくのは何か間違っている気がしないでもない。だが、この状態で放置されることの方が何が起こるか分かったものではない。これが現在における最良の選択肢かは、静雄には分からなかったが差し伸べられたその冷やかな手を取った――。
  
     ♂♀
     
 タクシーの後部座席に乗り込んだ二人は、ほぼ言葉を交わさずに黙ったまま新宿に着いた。
 静雄はいつもより触覚に頼らねばならなかったので、いちいちタクシーに乗る際は臨也が「そこ、段差あるから気をつけて」などと声を掛けていた。視界が不自由だというだけでこんなにも生活が制約されるものだとは知らなかった静雄は、タクシーのシートに埋もれるとどこか安堵を浮かべて臨也が繋いでいる手を積極的に離すでもなく放置していた。
 二人のあいだに言葉はほとんどなかったが、臨也は運転手とよく喋った。今日の天気、季節柄かまだ寒い日があるということ、先日まで神社の境内や新宿御苑で花見が行われていたこと――それは目の見えない静雄にもイメージで伝えられるように、口頭でこまかく描写していた。それとは別に、静雄が黙り込んでいるので気を回して話しかける。
 あ、いま向こうにH&Mが見えた。へぇ、もうスプリングセールやってるんだ。そうそう、道路を挟んで伊勢丹の向かいにある青いビルのやつ。ディスプレイがもう夏っぽかったかな、まだ春なのに気が早いよねえ。ディスプレイ? どんなだったかって? 女の子がセーラーっぽい服着て、三人で手を繋いでるやつだったと思うよ。もう遠いから見えないけど、多分そんなの。んー、マンションまではもうちょっとかな、家に着いたらその埃だらけの格好はどうにかした方がいいと思うよ。最近ワンサイズ上の服揃えたから、取り敢えず帰ったらそれ着てて。
 もうすぐマンションだから、と言ってから数分後、「信号を左入って、で、そこ折れたら右に行ってもらうと見える黒いマンションです。――シズちゃん、マンション着いたから俺の腕に掴まってもらえる? そうしてれば大丈夫だと思うけど、シートから降りるときにまた段差気を付けてね」と言った気遣う声がした。
 静雄は即座に臨也に殺されてもおかしくないと思っていたので、優しげに話しかけられるたび困惑した。
 こんな男だったか――と、煙に巻かれたような気持ちばかりがぐるぐると駆け巡る。
 臨也がタクシーの運賃を払っているのだろう、運転手との会話に笑い声と共に小銭のチャリチャリ言う音が混ざる。
 どの人間にも柔軟に対応するくせに、すべての人間を愛しているという男はいままで静雄を化け物扱いして『人間』としては好まなかった。それが一変したかのように甘く接するこれは一体何だと静雄は意識と触覚を総動員させてみるものの、「シズちゃん、お待たせ」と言われておぼつかない足取りのまま、ふたたび手を取られてマンションのエントランスへと引き摺られて行った。靴の底に伝わる感覚と靴音が一気に変わる。これは多分大理石みたいな、つるりとしている床なのだろうと静雄は思いながらエレベーターのボタンを押した臨也に「最上階の、いつもの部屋か」と問いかけると、「そうだよ、」と短く返ってきた。
 エレベーターのドア、閉めるよ。と言いながら静雄の手を引いた臨也はまぎれもなく普段顔を突き合わせるときよりも落ち付いた笑みを浮かべていたのだが、目の前も見えない静雄に取って何も分からなかった。
 エレベーターに乗り最上階に着くまで、加速するにつれて頭を押さえつけられるようにGが掛かるのが分かる。静雄は小学校の頃に、家族で旅行に行って飛行機に乗った時をかすかに思い出す。
「どうしたの」と臨也が手を握って聞くので、「何でもねぇ」とそっけなく答えた。
 別に教えても良かったのだが、無垢な子供時代と現在の静雄を混ぜてはいけないような気がして、思わず口を噤んでしまったのだ。
 四桁の暗証番号を入れて、ロック解除を解除する。
 ドアノブを押しながら開けると、ほんのり甘酸っぱい馨りがした。それは女でも招いたのかと思えるくらい空気に溶けて滲み出ているかすかな匂い――。ビタミンの溶け出すのが見えるような、そんなものが鼻を擽る。
 女に似た匂いがする、と靴を脱ぎながら言うと「アナナスだよ、」と小さく笑いながら臨也が答えた。
「アナナスっていう名前の女か、」
 静雄がそう聞くと、さっきまで抑え気味に笑っていた声が、もう駄目だとでも言いたげに声を大きくして「アナナスはパイナップルのことだよ。オランダ語でアナナスなんだけどね」と一気に言った。
 靴を脱いで、玄関で立ち止まっていると臨也が手を引いてリビングに案内した。そこは、数日前に静雄が泊まったときに置き忘れたアメスピの匂いがほんのりしている。
「しばらく煙草は喫わない方がいいかもね、普通の動作も見ていて危なっかしい」
 そう言いながら静雄を一旦リビングのソファに座らせて、臨也は奥へ行くと真っ白いバスタオルと共に黒いスポーティーなシャツとカーキのカーゴパンツを持って来た。静雄は急に臨也が離れたので何かあったのかと見えない目で辺りを窺っていたが、「風呂、一緒じゃないと無理そうだから今の内に入ろうか」と言う声がすぐしたので、まるで子供のように安堵して「何か――悪ぃ、」と答えた。
 いいから入ろう、埃だらけでひどいから。と言われたので座っていたソファから立ち上がると、臨也は既にその横に立っていて静雄を脱衣所まで連れて行った。
 
 服くらい自分で脱げる、という静雄を見て臨也は頷いて「何だか大きい子供が出来た気がするよ」と言ってバスルームに押し込んだ。
 ひんやりとしたタイルの感触は、静雄の足裏にぴったり張り付いた。つめてぇ、と静雄が呟くと「まだ春だしね」という答えが返って来た。
 今朝、臨也に会わなかったらどうなっていたのかと思うと、静雄はぞっとして止まなかった。これが最善の策だったのかはまだ判然としないが、少なくとも即死は免れたようだ。
 ――そんなことを考えていると、いきなり湯が降ってきたので静雄は声にならない叫びのようなものを上げた。
「アッハハハ、シズちゃんごめーん。シャワー当てるよって言った方が良かった?」
 臨也は一頻り笑ったところで、手探り状態の静雄をバスチェアの上へ座らせて頭の上から再度シャワーを掛け直した。
 これでは本当に子供扱いではないのかと少々不服に思った静雄だが、いまの時点ではどう動いてもマイナスになると思って黙りこくったまま俯いて座り直した。
「悪いけど、大人しくしてて」
 臨也がシャワージェルか何かを容器から出す音がして、静雄は胸にひやりとした手が押し付けられるのを感じていた。まるで心電図を取るときのような感触だった。
「タイルと同じくらい冷たいな」
「ああ、そうなんだ」シャワーを浴びせながらなので、連続した水音でよく聞き取れないのか臨也が曖昧な答えをした。
 しばらくして、静雄が一向に泡だらけにならない身体をいぶかしむと、その生白い肩口に臨也が歯を立てた。それに対して抵抗しようと振り向くと、「相変わらず甘いよね、シズちゃんは」と嘲笑うような口調で臨也が言い、静雄は呆気なく片手で口を塞がれた。もう片方の手は静雄の乳首を掠り、僅かな快感を与えてくる。臨也の少し伸びた爪で引っ掻かれる度、静雄の乳首は固くなりそれと連動するように性器もゆるやかに勃起するのが分かった。
「さあ、胸に当ててる手に塗られたものは一体何でしょうか?」
 暫くして静雄が答えないでいると、痺れを切らしたのかカウントダウンが始まった。
「……三、二、一、はい制限時間。答えは、いつも君とセックスする時に使うローションでした。アッハ、鈍いから分からなかったみたいだねえ」
 こんなにぬめってるんだから分かりそうなのに。などと揶揄いながら臨也がふたたび容器から手に移し、静雄の乳首を抓むと同時に塗りたくった。
 最初は軽く掠るだけだったので静雄も声を殺していたのだが、そのうち執拗に乳首を抓まれて思わず呻き声を上げた。それは低く小さな声だったが、バスルームということもあってタイルに反響した。バスチェアからずり落ち、静雄はしたたか尻を打った。
「どうする、一度洗い流してからやろうか?」
「……どうするも何も、手前の頭はそれしかねぇのかよ!」
 ひどいなあ、と言った臨也がおかしそうに嗤った。そうだ、こいつはひどい男じゃないかと静雄は頭を整理しながら思う。こんなところへ着いてきたことを後悔しつつ、それを徹底的に拒否出来ない己に厭になりながら静雄は頭を振る。
 頭を振ったところで、臨也が消えるわけでも存在がなくなるわけでも無かったが、癖というものだ。
 拒否の動作を示したところでどうにもならず、ここで逃げようにも目が見ないといった有り様なので静雄はすべてを諦めた。精々、ローションにまみれたダッチワイフの代わりにでもすればいい――と静雄は唾棄しながら思う。そもそも、臨也は静雄を助けるとも何とも言わなかった。ただ引き摺り、タクシーに押し込んでここまで連れてきたようなものだ。それに少しでも救いといったものを求めた自分がおかしいのだと、静雄は自嘲する。間違いだった、自分が間違っていた――静雄の頭の中はその言葉ばかりが連呼された渦となる。
 皮膚と皮膚が密着し、冷たかった臨也の身体は静雄の温度が伝播して温かくなる。
 二人の間には、シャワーの水音と微かな呼吸音が漏れるばかりだった。
「俺がさあ、君のこと嫌いだからこんな風にするんだって思ってる?」
「それしかねえだろ、」
 無愛想な言葉を聞いて臨也はこれ以上ないと言った高笑いをし、「残念だけど外れだよ、」とバスチェアから転げ落ちた静雄の耳元に囁いた。
 そして静雄の乳首を引っ掻いていた手を胸から離すと屈み込んで、両脚を無理矢理開かせては勃ち上がりかけていた性器を掴んだ。
 急に冷やかな手に掴まれ、静雄が反射的に「ひッ……!」と声を漏らすと臨也が楽しそうに怖いのかな、と問いかけた。怖い怖くない以前に、生殺与奪を握られたに等しいものだと思いながら静雄はその手から逃れようとした――だが、その身体をも押し倒され組み敷かれて身動きが取れなくなってしまった。
 その間も、臨也はローションまみれの片手で静雄の性器を付け根から何度も扱き、静雄はその快楽から何とかして逃げようと必死に腰を引いた。それが返って居場所を無くすことになっているとも知らずか、静雄はジリジリと後ずさりしてタイルの壁にペタンと背中をくっ付いた。静雄と臨也の生白い肌はタイルほど白くはないが、滑らかさは同じくらいに見える。人工的な滑らかさだ。最も、今の静雄はその感触しか分からなかったが。
「俺が“嫌いだから”なんていう単純な動機でここまでするはずがないの、分かってるかなあ」
 臨也はそう言いながら、ニタニタとした笑顔で静雄に寄り添う。
 静雄にしてみれば、だって手前は俺が嫌いだろとか、いっつもいっつもナイフを振り回して殺してえってほざいてるのはどの口だとか、言いたいことが多すぎて分からなくなりそうだった。
「まあ、嫌いだけどね。でもシズちゃんの身体のことは嫌いじゃないと思うよ。愛憎入り混じり、といったところかな」
 そう言いながら、臨也が静雄に口唇を寄せた。それは不意打ちだったので、目の見えないいまの静雄にとっては不可避だ。
 舌を捻じ込まれ、その口腔内で混じり合う唾液は同じようなものなのに確実に違う二人分の液体だった。臨也がわざとなのか、ぐちゃぐちゃと下品な音を立てて舌を動かして口唇を擦り付ける。静雄はそれに意識を持っていかれないようにしつつ、結局は強引に奪われて口腔内を蹂躙された。絡み合う舌は静雄が快感というものを引きだされまいとする度に舌先を甘噛みされ、ゆるやかに性器を扱かれながら抵抗出来なくなってきていることを身体で以って知る。
 皮膚が触れ合うことで、互いがこんなにも生身の人間なのだと思い知る。
 薄い皮膚の下に、やわらかな肉がありそして血管が透き通って見える手の甲や腕を見せられて、これは反則じゃないのかと臨也は思う。そんなことを知らない静雄は、いつ臨也が手を出すのかと戦々恐々していた
 臨也が口を離して「――怖い?」と聞くと静雄が微かに頸を横に振った。
 そんなことねえよ、と言いたげに静雄が口を曲げると、臨也が笑む。
 臨也と静雄は恋人という訳ではないが、たまにセックスをするような間柄になって高校時代から何年か経つ。つい数日前にも静雄がこのマンションに泊まり、煙草の匂いを付けていった。臨也はそれを咎めるでも、換気扇の下で喫うように指図するでもなく放置した。
 ただ、静雄は臨也に対して正直な性格ではないのでたまにこうして抵抗する。しても無駄だと分かっていながらも、最後の理性の城だとも言わんばかりに建前だけだと本人は気付いているのかいないのか、そんな無意味なことをするのだ。
 臨也がそれを見て、面白くないとでも言わんばかりに片手で静雄の性器を扱きながら、もう片方の手で乳首を抓り上げた。
 下半身の太腿の内側は既にローションで、無残なほどベタベタになっている。その感触が気持ち悪いのか、それともぬめった皮膚が性感というものを高めるのか静雄の性器は手を添えないでも痛いほど張りつめており、臍に着かんばかりに反りかえっていた。
「何だかんだ言っても、動物染みてるよね」
「――う、るせぇ、黙れノミ蟲……はぁッ」
 静雄が思わず声を上げると、それは浴室内に反響して何倍も淫猥なもののように聞こえた。
 結局は堕ちるんだから大人しく抱かれればいいのに、と臨也は毎回思う。それに反して静雄は、臨也が男も抱き慣れていることに若干の苛立ちと戸惑いを隠せない。
 そして臨也は皮膚が融け合ってしまえばいいと、静雄に触れながら半ば本気で思った。
 この平和島静雄という男は、きっと自分のものにならないだろうと確信を抱いているからこそ、このまま融け合えてしまえたならばチープな幸せというものが待ち受けているだろうと考えたからだ。
 降り注ぐシャワーの水音が耳障りだったので、銀色のコックを捻って止める。それを静雄がぼんやりと眺めていた。それはまるで何かの生贄のようで、静雄はさっきまで水に打たれていたので髪が額に張り付いている。臨也がその様子を見て、静雄の前髪をオールバックにしてやると普段とはまったく違う男のように見えて、ただそれだけなのに笑いが止まらなくなった。
 臨也が扱きながら見つめる度、静雄の性器はひくりひくりと先端から汁を溢れさせながら僅かに動いてみせた。血管を浮かせて動くそれは、痛いほどに努張していた。
 静雄が見えない目を開き、虚ろ気な目線で臨也を見る。実際は見えていないのだが、身体が触れ合っているところから探り当ててそこを向いていた。
「シズちゃんさあ、見えなくなってるのにきれいな目だよね」
「あ? 目がきれいなのは手前だろ、」
 何それ、こんな状態でお世辞? と言って臨也が静雄の性器を握りこみながら揶揄う。臨也は静雄を見つめながら不敵に笑みを浮かべ、握り込んだ性器を下から上へ向けてゆっくり扱いた。静雄にしては、ただ平素思っていることを述べただけで世辞などというものではなかった。血色に近い臨也の目が、とてもきれいなものに思えて目を奪われることがしばしばだったからか、見えなくなったいまも素直に答えたまでだった。
 臨也は薄笑いを浮かべながら根元から先端にかけて扱き、何度か緩急つけながら静雄の変化を見つつ、ぐちぐちと粘着質な音を立てる性器と手を触れ合わせた。臨也の片手は静雄の体液にまみれてぬめって光る――。それはひどく卑猥なのに、二人の関係は身体のように簡単には交われない聖性の証にも見えた。
 臨也が静雄の鈴口へ親指を差し込むようにして先走りの汁でぬめったのを確認すると、更にそれを溢れさせるように執拗に攻め立てた。
 真っ赤に充血した性器が、臨也の手の中で更に固く勃起する。静雄が臨也の手から逃れようとするたび、はち切れんばかりになった性器だけが欲情に忠実にだらだらと先端から汁を垂らす。
 ずるずると後ずさりしていた静雄が退路を断たれたのか、背後から湯船にぶつかって止まった。この狭いバスルームで逃げ切れるわけがないのに浅はかな男だな、と臨也は思う。そして、そんなところが予想出来ないことをもたらすから気に入っているのだとも。
 閉じかけていた太腿を両膝をつかんで強引に開かせ、静雄の屹立している性器を露わにする。それはさっきから触れていないにも関わらず、はち切れそうに勃起していた。
「さ、わんな……」
「触るなって言われてもさあ、これ処理しないでどうするの」
 臨也がいくらニタニタと笑顔を張り付かせても静雄には見えなかったのだが、それでもうつくしいが故の薄気味悪い笑みを浮かべ、静雄の性器にふたたび触れた。
「……っく、」
 声を漏らすまいと口唇を噛みしめている様は意地らしくもあり、臨也はその顔にそそられると思いながら片手で静雄の性器を扱き続けた。
「アッハハハ、声出したら下の住人に聞こえるかもね。いつもどおりの無様な喘ぎ声がさあ」
 そう言って神経を煽りつつ先走りの汁が潤滑油のようになり、ぬめった手が静雄を刺激する。
 階下に音が漏れる訳がない防音完備のマンションだったが、静雄はそんなことに気づいている余裕もないのか、口に手の甲を押しあてながらささやかな抵抗をしていた。
 扱かれるたび、先端の鈴口がはくはくと呼吸をするように開いては閉じる。そして透明な汁が溢れんばかりに垂れ流されては、臨也の手を汚していった。臨也はそれを良しとしたし、静雄が失墜するように自分の許へ堕落するのをよろこんだ。会えば憎らしい言葉を呪詛のように吐き捨てる口が、いまは喘ぎ声を断続的に発している。その事実が普段の静雄と比較して思い起こすと、そのあまりのギャップに笑いが込み上げてくるのを抑えられないようだった。
 臨也がもう片方の手で静雄の陰嚢をくすぐるように揉み、その動きと連動させながら性器を扱く。それに対し、静雄は臨也が手慣れていることに僅かな感情のブレというものを己のなかに見た。
「いざ、や……手前、何人の男を抱いてきたんだ畜生が」
 それを聞いた臨也が、喉の奥を鳴らして「厭だなあ、人のことを節操無いように言って」と、のらりくらり言い逃れた。
 聞かれたくないとでも言いたげに、扱いていた手をすこし強く握り速く上下に動かすと静雄が呻くようにして喘ぐ。
 翻弄される身体を持て余すのか、そんなことをしても無駄だというのに厭だという意思表示らしく俯いたままの頸を左右に振った。普段の力は、盲目のままではどこへ向けたらいいのか分からないようでなりを潜めていた。普段化け物みたいだと思っている静雄が、これではまったく普通の人間だと臨也が嘲笑った。
「そんなことより、いい加減さっさといきたいんじゃない? ねえ、シズちゃん」
 臨也が間延びした言い方で小馬鹿にしながら言うと、その声にさえも犯される感覚が伴っているのか、静雄が爪先を丸めるようにして膝を立てながらタイルの床を引っ掻いた。
「ねえ、気持ち良い?」
「黙れ、」
「へえ、この手を止めてもいいならそうやって悪態吐けばいいんじゃない? それに、いまこの状態で放置されるのはきついと思うんだけどなあ」
 そこまで言って、静雄に「気持ち良い?」とふたたび問いかけるのは厭味な臨也の趣味だ。
 定まらない視線をうろうろとさせながら「いい、に決まってんだろ」と答えた瞬間、静雄は臨也の手のなかに落ちていった。
「いいなら、声出して」
「くッ、はぁ……馬鹿、聞こえる、って言ったのは、」
「生憎ながら嘘だよ。ほら、誰にも聞こえなんてしないから声出して、」
 出さないなら出させるまでだけど、と言いながら静雄の体液でぬめった指を肛門に挿し込んだ。ゆるゆると解しながら挿しいれられたそれは第二関節まで難なく飲み込み、臨也の指をしっかりと銜えた。静雄が僅かに目を潤ませる、そしてギュッと目を瞑り手探りで臨也の肩を掴むと「臨也、無理だ」と低い声で言った。
 そんな声は無視しながら、臨也が「すごい締め付けてる、」と囁く。その言葉はバスルームに充満して、二人の欲情した呼吸で窒息しそうなほどだった。
「シズちゃんのなか締め付けて指折れそうなんだけど、いま二本に増やしたからまだまだいけるよね」
「……んッ、止め……指、」
 静雄が指で掻き混ぜるのを止めろと途切れ途切れに言うと、その様子を見て意地悪い顔をした臨也はあっさりその指を停止させた。
 快感の波により高みに持ちあげられた静雄は、急にその手を離されたような感覚に驚いた。そして何が起こったのか把握した次の瞬間、頬を染めた。
「止めろっていうからご希望通りにしたっていうのに、まだ我儘言う気なのかなあ。ねえ、シズちゃん」
 その言葉を受けて、静雄は薄っすらと頬を赤くしながら下唇を噛みしめる。そのまま「あ、あ……臨也、」と呼びかける声は、哀願のようだった。
「なに?」
 静雄の感情を掻き立てるように、わざと厭味な言い方をする。
「止め、んな、」
「さっきと言ってること違うよね」
 頷く静雄を見ながら、臨也がニタニタと嗤う。自分の思い通りになることを知っていて聞く顔だ。残念なことに、いまの静雄の目にはその顔は映らなかったが十分に声音だけでもそれは伝わった。
「自分だけいきたいとか言うんだったら、ちょーっと不平等だよね」
 それとも、そんなこと考えてる余裕ないのかな。と臨也が不敵に言いながら静雄のなかで止めていた指を思い切り引き抜いた。
「は、あッ……!」
「アッハ、指抜いただけで感じるとか淫乱過ぎない? まあ、そんな身体に仕込んだのは俺なんだけど」
 肩で息を衝く様を見ながら、前触れもなく臨也が静雄の両脚をつかんで正常位の体位を取る。見えない視界の中で、急転した姿勢に驚きを隠せない静雄を見ながら「ほら、自分ばっかりじゃなくて俺のことも楽しませてよ、」と言って臀部に性器を押し宛がった。その瞬間、静雄が息を呑むのが伝わる。
 宛がった性器を遠慮なく静雄の尻へずぶずぶと突き立て、徐々に奥へと押し進めた。
 指を挿し入れるのとは比べ物にならない感覚に、何度しても慣れないのか静雄が思わず息を止める。それを認めながらも、臨也は残酷にも静雄の尻を犯す。そのあいだ静雄は声を立てずに息を止めたまま、見えない目で自分の下半身を見つめていた。その顔は痛みで酷い顰め面になっていた。
 挿入の痛みで萎えかけていた静雄の性器を、臨也が扱きながら腰を使う。そうすることによって、若干痛みと意識が分散されるのか静雄が困ったと言った表情で、声を押し殺し額に汗をかきながら「こっちは痛ぇんだよ」と言った。その言葉のなかに様々な感情を隠しつつ、滲み出るのは目の前にちらつかされた欲情だ。
 それを聞いて臨也が「でも痛いだけじゃないよねえ」と揶揄うように言う。
 確かに、静雄の身体は臨也によって様々なことを知った。どうすれば快感を得られるかを知ったし、それが憎らしいと思っている臨也とのセックスで引き出されるということを刻み込んだからだ。
 静雄が黙っているので、内壁を抉るように腰を打ちつけては皮膚が弾ける音を立てた。臨也は静雄の腰骨が当たって少し痛いと思ったが、女とのセックスでは感じられないほどの遥かな征服感を覚え、ひどく満足しながら突き上げ続ける。
 そのうち結合部は白く細かい泡が立ち、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てた。それを聞きながら、臨也がわざと「音、聞こえる?」と問いかけると静雄が声を上げないように口唇を必死に噛んだまま頷いた――。声を出してもいいと言われていても、どこか気恥ずかしいのかそれを殺そうとしているらしく、臨也の肩に思い切り爪を立てながら頷いたまま俯いてしまった。
 正面で顔を合わせているのに下を向いたままの静雄が気に食わなかったのか、臨也は再度腰を動かし静雄の性器を扱きながら前立腺に当たるように深く突き入れる。
 それは思惑通りに静雄の前立腺を擦り、結合部の音が一層大きくなった気がしたほどだった。
「ひッ……! あ、ああッ、は、」
 理性が崩壊しかかっているのか最早発している言葉が意味をなさない喘ぎばかりになり、静雄の低い声のそれは臨也の脳を激しく刺激する。静雄のなかで、臨也の性器が更に固く勃起してゆくのを二人は身を以って感じていた。
 喘ぎ声は次第に母音の羅列となり――言葉として壊れていく。
 静雄は臨也が見えなかったが、臨也もまた静雄の見ている盲目の世界が感じられないままだった。だが、二人は聴覚と皮膚の触覚によって同じ快感を分け与えられた。
「シズちゃん、先にいっていい?」
「……ッく、はぁ、いけよ臨也、俺もきつ――」
 問いかけた臨也が射精した直後、静雄も反り返るほど勃起していた性器から大量に精液を吐き出した。
 何度か断続的に静雄のなかでどくどくと吐精する感覚を感じてから、臨也が萎えた性器を引きずり出した。引き出す際に中で出した精液も一緒に流れ出て、冷たいタイルに呆然としながら横たわる静雄の尻を白で汚した。
 
 しばらく二人は射精後の脱力感に襲われ、気怠い身体を引き摺りつつも臨也は静雄にシャワーを当てて精液を掻き出し後処理をした。
 静雄は相変わらず見えないので臨也にシャワーを当てられるがままにされ、臨也は苦笑しながらも丁寧に全身を洗い流した。
 一頻りシャワーを浴びせ「本当に大きい子供みたいだね」と言いながらパジャマとして持ってきた服を着せて、手を引いてリビングまで戻る。リビングのソファに座らせたところで、静雄がすんと鼻を鳴らし「アナナス――でいいのか? それの匂いがするな」と言った。シンクの上には昨日切ったばかりのパイナップル――アナナスが放置されたままだ。静雄は臨也がそう呼んでいたことを思い出して、同じように呼んだ。
「まだ青いままだから、食べられないよ」臨也はそう言いながら、シンクの近くに置いてあるポットから湯を注いで紅茶を淹れる。ソファに座っている静雄の横に戻り、紅茶の入ったマグカップを渡すと「紅茶、熱いから注意してゆっくり飲んで」と言った。
「その目なんだけど、完全に見えなくなる確率も無きにしも非ずだよねえ」
 臨也が揶揄い半分に言うと、静雄が憮然たる面持ちをした。
「黙れ、ノミ蟲。――でも、憎たらしい手前の顔を忘れるのは難しいかもな」
 静雄が渡された紅茶を両手で持ち、膝の上に置いたままそう言って固まった。
 この男でも視界を永遠に失うのは怖いのだろうか、と臨也は思った。化け物呼ばわりしてきた男が、ひどく矮小なものに見えて口の端を吊り上げる。
 でもさあ、と臨也が切り出す。
「俺、君の見えてない癖に見透かすような、いまの目も好きだな。何なら、標本にして保存したいくらいだよ」
 そう言いながら臨也は片目を抉り出そうと目の縁に指をかけ、転がり落すように刳り抜こうとしたが、静雄がその手を薙ぎ払って阻んだ。
 勢い余って、紅茶の入っていたマグカップがごとりと音を立てて床に落ちる。
「手前ごときに目玉くれてやる訳ねえだろ……!」
「アッハハハ、本気にしてくれたんだ」
「やりかねねぇからな、」
 臨也が、静雄が零した紅茶をティッシュペーパーの束で拭き取りながら一心に床を見つめて、「シズちゃんがさあ、完全に失明したら俺も同じ世界を見てみたいな」と言った。
「あ?」
「ああそうだ、俺の片目を君の眼窩に埋め込むのとかどうだろう。でも、視神経繋がらないから腐るだけだろうけどね、義眼より一時的だけど綺麗だと思うよ。俺は新羅じゃないから、詳しい腐敗速度とかは分からないけど――」
「相変わらず手前は悪趣味な野郎だな、臨也くんよお」
「まあ、憎悪の裏の愛の賜物とでも言って欲しいかもね。でもシズちゃんが人間らしくなったら俺の恋愛対象になるかと言えば、それはそれで違うんだけどさあ」
 そう言って、臨也が静雄の手の甲へそっと口付た。
 この口付けの意味はなんなのだろう――と静雄が煩悶するなかで、臨也だけが答えを知っていた。化け物と恋愛する趣味はないと再三言っていたが、人間らしくなっても恋愛対象外らしい。つまり臨也と静雄は正しく交差出来ないまま、身体だけを重ね続ける関係にしかなれないということなのだろう、静雄はそう理解する。
「ちょっと寝よう、もうとっくに日が暮れてる」
 臨也がそっと静雄の手を取って立ちあがらせ、転ばないようにゆっくりとベッドまで誘導する。それは普段の臨也の態度からは想像もつかないほど静雄に対してやさしいものだった。
 ベッドサイドには、静雄が先日泊まった際に吸った吸い殻と灰皿が残っている。片付けてもどうせすぐに来るのだから、と臨也が置いておいたものだ。未だ微かに匂う煙草の残り香を嗅ぎ付け、静雄は見えないでもそれらの存在を知る。それは臨也の生活のなかに内包される平和島静雄と言う一人の男だ。
 静雄をベッドまで案内すると臨也が枕をぽんと叩いて音を立て、寝るように示唆した。
 ブランケットの肌触りがとても心地よく、静雄は臨也といるときにもこんなにも落ち着くと時間があるということを初めて知った。
 顔を合わせれば殺し合いの喧嘩をするか、なし崩しにセックスに持ち込むかしていた二人だがここでやっと安息と休憩というものを肌で感じ取った。
 二人してブランケットに包まると、厭でもあちこちが密着するので静雄は臨也のことを意識せざるを得なかったが、臨也としては普段通りの態度のままだった。却ってそれを不思議に思った静雄が手探りで臨也の頬に触れ、「なあ、」と切り出した。
「なんだ、その……今日は一緒に寝ても手ぇ出してこねえんだな」
「急になに? もしかして手、出して欲しかったりする?」
「――死ね、」
 静雄は切り捨てるように即答したが、二人で穏やかに眠ることなど皆無に近かったいままでが積み重なっているので、この環境はどことなくぎこちのないものだった。
「さっきまで散々風呂で犯されたのに、まだ誘ってくるとか貪欲過ぎても嫌われるよ、」
「だから死ね、何ならこの場で手前を縊り殺すぞ」
 そう言われると、心底楽しそうな臨也の笑い声が室内に響いた。
「シズちゃんは、それじゃないと面白くないね」
 どういう意味だと問おうと思案している間に、静雄はバスルームでいいように犯された腰の鈍痛と共に、ずるずると眠りに落ちていった。臨也がその寝顔をじっと見ていたのを、静雄は勿論のように知らないでいる。
 
     ♂♀
     
 静雄が臨也のマンションで世話になってから、五日が経った。
 そのあいだ、臨也は何やら家に仕事を持ってきたり、留守にしても半日以内には帰ってきたりしていたので二人とも互いに不自由は無かった。
 静雄はほとんどベッドの上で過ごし、臨也が言いつけたように火元が危ないので煙草は喫わないことにしていた。
 食事は臨也が当然のように作ったり、身の回りの世話を好き好んで焼いたりしている。
 二人は何も言わないでも、自然とこの生活に慣れてきていた――心地の良いぬるま湯に浸り、抜け出せないようになっていったがそれを了承していながら二人は心中でもするかのように生活を続けた。
 そのあいだ、アナナスはシンクの上から二人の生活を彩るように甘酸っぱい馨りを部屋中にふわりと漂わせていた。たまに、傷んでいないか臨也がその果実の様子を見ていた。緑と黄色のその果実は見た目から酸っぱそうなものだ。
「食わねえのか、この匂いのやつ」と静雄が言う。
「失敗して固いの買っちゃったから、食べるところはほとんどないと思うよ」そう言って臨也が苦笑した。
 殺伐としていた二人の関係は、静雄の目が見えなくなってしまったことにより一変した――。そこにいるのは、牙を抜かれた平和島静雄と折原臨也という生身の男二人だ。甘い睦言を囁くでもないが、殺し合うこともなくなった。こんなのはおかしいと最初は思っていたが、徐々に慣れるにしたがって数日前までの乾燥しきった関係の方がおかしかったのではないかと思えるほど、静雄と臨也は満たされきっていった。
 ――痛いほど互いが必要で、辛いほど互いを思う。
 そんな生活は、六日目に終わりを告げた。
 朝、静雄が起きると既に目覚めていた臨也が食事の支度をしながら見つめていた。普段通りの黒いVネックシャツを着て、スラックスを穿いている。その姿は黒豹やしなやかな肉食獣を想起させる姿だ。
「おはよう」と臨也がそっけない四文字のなかに、どこか思慕に似たものを含ませて言う。
「シズちゃん、相変わらず今日も見えない?」
「あー、見えねえな」
 そんな会話をしながらオニオングラタンスープをテーブルの上に二人分置いたところで、ひたひたと歩いて臨也が静雄の前に立った。
「ねぇ、」
「――んだよ」
「嘘つき、」
 目の前に立った臨也が、するりとポケットからナイフを出して静雄の眼球すれすれのところで固定した。そしてもう一度、「嘘つき、」と吐き捨てるようにして言う。
 その言葉に静雄は何も返さず、ただじっとしながら瞬きをして時が過ぎるのをひたすらに待っていた。
「君って人間は、本ッ当に単純に出来てるよねえ、シズちゃん。その目、見えるよね。っていうか、しっかりと俺のことを目で追っているんだけど、シズちゃん『追視』って言葉知ってる?」
 まるで断罪するかのように言った臨也に対し、静雄はしばらく硬直していたがしっかりとした目線で目の前の臨也を射った。そして、未だはっきりしない調子で口ごもりながら、「手前が……そんな風に触るから、」と言った。
 その言葉に臨也はひどく珍しいものを見るような目をしながら肩を竦め、「ああ、そう」と馬鹿にしたような嗤いを浮かべた。
「何? つまり、俺がやさしいとシズちゃんは甘えたくて盲目の振りをするの?」
「……ん、な、つもりじゃ」
 思わず声を詰まらせながら途切れ途切れに言う静雄を見た臨也は、そんなつもりじゃなかったなら何なの、と冷たく言い放った。
「ねえ、聞いてるなら答えてくれないかな。甘えじゃなかったなら、それは一体何だと言い逃れをするつもりなのか、答えてみせてよ。ああ、しかし俺も上手く騙されたものだよねえ、まさかシズちゃんがこんな風に何日も嘘を吐くだなんて考えてもいなかったから言いくるめられた、っていうか君にしては案外演技上手い――」
 次の瞬間、臨也の頬がぱん、と軽い音を立てて静雄にはたかれていた。
 それを認識すると、意外だとでも言いたげに臨也は頬を擦りながらそのはたいた静雄の手を取り「手加減も嘘も覚えたとはね」と言いながら、白いベッドに沈ませるようにして静雄を引き倒した。――アナナスの馨りが強くなった気がしながら、二人はこの数日間の関係が崩れていくことを怯え、そしてどこか焦りながら性急にセックスに持ち込んだ。
 白いシーツとブランケットを照らすのは残酷なまでの朝陽で、静雄は臨也に押し倒されながら「ああ、終わりだな」とループさせながら思っていた。
 どことなく引き攣った笑顔を浮かべた臨也が、静雄を押し倒した姿勢のまま覆いかぶさって口付た。
 その口唇は男のものだからか、それともまだ肌寒い日がある名残からか少しかさついていて擦り付けるように触れ合うたびに互いにこの男でなければならないのだと思った。業というものがあるとしたら、二人のそれは互いへの執着だ――。
「ねえ、いつから騙してたの。あのとき、偶々通りかかったのが俺じゃなくても着いていったんだろうね」
 臨也がわざと傷つけるように言うのを、静雄は真っ向から受け止めて心臓を切り裂かれるような感覚に陥りつつ、いたく普通の日常というものを過ごしたこの数日を思い返していた。
 だがしかし、そんな感傷に浸っていたのも束の間で静雄は現実に引き戻される。
 臨也が静雄の頸筋に噛みつくようにして、痛いほどのキスマークを何度もつけた。それは獲物を貪るように、丁重にそして荒々しく喰いつく。舌で頸筋をなぞり、歯を立てて食む。何度もその一連の動作は行われ、それがまるで所有欲というものの現れである行為だとでも言いたげにしつこく続けられた。
 静雄が息を呑んで固まっていると、臨也が「舐めて、」と言って口唇を割って上下の歯を抉じ開け、そして口腔内をもてあそぶようにして指を二三本突っ込んだ。やや強引に入れられたそれは歯列をなぞると舌を引っ掻き、そして上顎をくすぐったところで止まった。若干涙が睫毛に着いた目で静雄が見遣ると、臨也が「だから、これ舐めて」と催促する。
 おずおずと静雄が口腔内に挿し入れられた指に舌を絡ませ、不慣れな様子を見せながら舐めると臨也がそれを押さえつけた。押さえつけられた舌と、半開きになった口の端からは唾液が溢れて臨也の手を伝う。
「何でこれくらいが出来ないのかなあ」と、若干の苛立ちを滲ませながら静雄を責めた。口はそのあいだも唾液を垂れ流しており、臨也がそれを絡めつつ好き勝手に舌や歯列に触れると、その触感に耐えられないのか静雄が僅かに劣情混じりの声を上げる。
 その様子を見て「この程度で声上げるほど飢えてる訳、」と臨也が侮蔑するような言い方で静雄を非難した。
「――大嫌いであろう俺のこと揶揄って、この数日楽しかった?」
 臨也が静雄の口腔内から指を引き抜き、唾液まみれのそれを自分で舐め取るようにしながらさもおかしいと自嘲するように言った。
 それを受けて、静雄が何も言わずにじっと黙りこんだのを見て肯定と受け取ったのか、臨也が感情を露わにして「俺はつまらないよ、こんな結末」と忌々しそうに吐き捨てた。
「どうせ最後まで騙せないなら、不器用なんだから嘘なんてつかなければいいのに」
「嘘、だったのは……さっきの一言だけだ」
「ああそう、そんなこと言って誤魔化すんだ」
「あの日の朝、目が見えなかったのは本当だし誤魔化してねえよ。手前もそれは分かってんだろ。それと、昨日の夜までは――」
 もういいよ、分かったから止めよう。と臨也がまるで別れ話でも切り出すように言い切った。その淡々とした物言いに、静雄は恐ろしくなるしかない。取り返しのつかないことをしてしまったという恐怖と後悔だ。
 そんなものが渦巻いているなか、臨也が静雄の服を脱がせにかかった。静雄としては、さっきのような言い方をした直後にセックスに持ち込む臨也の考えがまったく分からなかった――ただひとつ分かるのは、その目が傷つけられたように痛々しいことだ。いつもより赤みを増しているその目が、静雄を射ぬく。
 寝起きのままの静雄のシャツを剥ぎ、臨也がそっと皮膚を食む。
 それはまるでカニバリズムじみている光景のようで、食まれている当の静雄さえもが恍惚とするような場面だったが、臨也だけが険しい表情をしていた。
 鎖骨の上――皮膚に白い歯を立て、ぷつりと破る。
 まるで柘榴の粒のような血液の球が、表面に浮かぶ。
 かまわずにそのまま歯を立て続けると、その粒が滲み、来神高校で初めて静雄が犯された日の夕陽みたいな色になる。噛んでいた口を離し歯形のとおり赤くなっているそれを見て、臨也はくらりと眩暈がするのを止められないでいた。
 歯形を付けた鎖骨の上の皮膚を見て、そしてなだらかなUの字に出血しているそれを舐める。それは小さな傷だが静雄にも痛覚は感じられたらしく、僅かに顔をゆがませて目の前の黒髪を掴んだ。
 前髪を掴まれて、「邪魔、しないでくれる」と臨也が、じろりと睨めつけ刺すようにして静雄を見た。
「ねえ、慣らさないで突っ込まれるのと、慣らしてから甚振られるのってどっちがいい?」
「そんなの、どっちも――」
「いい?」
「厭に決まってんだろ、」
 そう答えられると、臨也がニタニタと笑みを張り付かせながら「シズちゃんのくせに」と言った。
 もうこんなに期待してるのに拒否するとか、俺に対しての新しいプレイ張りだよねえ。臨也がそう言って出血している皮膚の上を拭う。その動きは静寂に満ちていながらにして、俗悪だ。
 静雄がもう一度「ぜってぇ厭だからな」と念を押すように言うと、ククッと喉の奥を鳴らした臨也が静雄のシャツをすべて剥ぎ、丸めてベッドの上に放り投げた。
 人外じみた力が出る身体は、ひとたび服を脱がせてしまうとただの人間のようで、臨也はそれに興奮を隠し得ない。
 曝された生白い肌が、僅かに震えた。
 何か怖いのかと臨也が問うと、静雄が睨み付けて頸を横に振った。そうだ、今更臨也が何度犯そうとも身体自体は壊れないのだし、静雄に怖いことなどないはず――だったからだ。
 だがしかし、静雄は壊れる。臨也が手慣れた雰囲気で静雄の服を脱がせ、肌に触れ、そして余裕を持っているのにどこか焦りを演出しながら口付けるとき、おかしくなってしまう。目の前にいる折原臨也という男が、いままでどのようにして他人とセックスをして、このような触れ方を覚えてきたのだろうかと嫉妬めいたことを覚えるとき、静雄は狂おしいほどの感情に灼かれる。
 それを知っているのにもかかわらず、臨也は「どうかした?」と聞きながらわざと無遠慮に触れてゆくから性質が悪い。
 口付けられた静雄が、逃げるようにして踵でシーツに皺を寄せながら後ずさった。
 それを追うようにして臨也が静雄を抱き寄せ、そして押し倒す。手入れの行きとどいているスプリングのきいたベッドは、成人男子二人分の体重を難なく受け止めてギシッと言うでもなく、ただほんの少し撓み無音で戻った。
 押し倒されたままの姿勢で、臨也が静雄の下半身に片手を添えつつ肩を噛んだ。しつこいほどに舐めさせられた手は、いまだに静雄の唾液で湿っている。しっとりとした感触が下半身に張り付いた。
 そのまま臨也が手を上下に擦るようにして動かすと、低い呻きに近い声が上がった。呻くようなそれは、静雄の喘ぎ声だ。
 喘ぎ声を聞いた瞬間に二人が息を大きく吸い込むと、その間に流れる空気に透明感のある酸味に似た匂いが流れていることに気付く。シンクの上にある、臨也が包丁で真っ二つに割ったアナナスがあった。
 先に気付いた臨也が何だと言いたげに嗤い、そして静雄も釣られて笑いそうになったとき、獲物が仕留められるようにその身体は荒々しく性器を扱かれた。
 その刺激に対して危うく声を上げかけた静雄だが、下唇を噛んで声を殺した。
 あまりにも強く噛んだので、唇は一旦白くなってから真っ赤になる。それは臨也が噛みきった鎖骨の上の皮膚も同様だったが、下唇の赤さはプライドの高さだった。
「シズちゃんさあ、あんまり我慢し過ぎない方がいいんじゃない」
 臨也がさもおかしいといった塩梅で言ったが、静雄は「うぜえ、」と言ったきり黙りこんで目を瞑った。その顔は何か汚らわしいものに耐えているような表情で、臨也は自分が聖職者でも犯しかかっているような気分になる。
「自分だって汚れてるくせに――」
「あ? 何だよ、」
 何でもない、と静雄の言葉を遮って臨也が頭を振る。
 この屈辱にもっと浸ればいいと思いながら、臨也は静雄の性器を扱く。
 呻き声、喘ぎ混じりの声、息を呑む様、その一連の動作はとてもうつくしく、そんな静雄を見ていた臨也は沸々と苛立ちが湧きあがるのを抑えられないでいた。
 そっと上下に添えていた手を、少し強く握って性器の根元から搾り上げるようにして扱いた。それにともない、静雄は瞑っていた目を更に強くぎゅっと閉じると臨也のシャツの端を掴んだ。肩を掴んでしまえば難なくセックスに持ち込まれる気がして、静雄は仕方なくシャツの端という選択肢を取った。
「声、出しなよ」
 そう話しかけても、静雄はおとなしくじっと目を閉じているだけだった。
「声出さないつもり? シズちゃんのくせに、ちょっと生意気じゃないかなあ」と言いながら臨也が肩口をふたたび噛んで密着しながら、しつこいくらい丹念に性器を扱く。性器の先端からは先走りの透明な汁が溢れ出て、それが更に臨也の手の摩擦を少なくする潤滑油になる。静雄の息が荒くなるのも構わず、臨也は扱き続けた。ゆるやかに勃起した性器は今となっては痛いほどに張りつめており、手が上下に滑るたびにぐちゃぐちゃと淫猥な音を立てた。
 粘ついた水っぽい音を立てながら、静雄の性器は真っ赤に努張している。
 臨也が性器の先端、鈴口を責め立てるようにぐにぐにと親指を入れると、静雄が限界だとでも言いたげに呻いた。
「それ、もっと聞かせて」
「畜生、誰が……」
「誰って、シズちゃんが」
 臨也が悪びれもせずに言うと、静雄が俯いて表情を隠す。それを合図として、更に激しく責められると声が上がる。
「……ッく、は、ァ」
 俺、シズちゃんの喘ぎ声嫌いじゃないんだけどなあ、と臨也がのたまう。そんな言い方こそ、嫌いではないと静雄は思いながらその手から逃れようと必死に後ずさりして、ベッドのヘッドボードに背中をぶつけた。退路が断たれたのを知り、愕然としながらもその先の愉悦を想像する。
 もっと快楽を与えられるはずだった――。
 しばらくして、臨也の手が止まり静雄に投げかけるように話しかけられた。
「ねえ、俺、シズちゃんが嘘つきでも別にいいよ」
 その言い方に静雄は一瞬ビクッと身体をこわばらせてから目を開け、俯いていた視線を臨也に戻した。
「シズちゃんが嘘ついてたの、朝起きた瞬間に分かってたしね」
「――何だよ、」
 シズちゃんが嘘つきでも別にいいよ、というその言葉がひたすらに安堵をもたらすのはなぜだろうかと静雄は自問する。
 静雄がゆっくり顔を上げると、臨也が「そうだ、」と面白いことを思いつくように話しかけた。
「良いことを思いついたんだけどさあ、シズちゃんの目がまだ視えないって言い張るなら、俺の目を本当にあげようか」
 さも楽しそうに臨也が左目の上下に指を宛がい、大きく目を見開いた。
 臨也の目は元から白目の部分が青白く、とてもきれいなのが見てとれる。静雄はその目の迫力に負けるようにしながら、小さな声で「いらねえ」と答えた。
 だが、その声が聞こえなかったかのように見開き白目の上下が薄っすらと赤くなってきたところで、静雄がその目を開いている手を叩き落とした。
 叩き落とされた手を見ながら臨也が狂ったように嗤い、そして静雄の方を向いた。
「アッハハハハ、馬鹿じゃないの! 化け物如きに俺の目をくれてやる訳ないだろ、」
 余りにも見開きすぎた臨也の左目から、涙がこぼれた。
 それは痛みでも悲しみでもないのだが、左右の視界の調節が上手くいかないとたまになる現象だ。
 やがて涙は止まらなくなり、臨也が拭っても拭っても溢れ続けた。そしてそんなことには構わずといった様子で、嗤い声を上げながら話す。
「例えば、例えばの話だよ。もし俺がいま、自分の目を潰したら君は俺を殺せなくなるだろうね。一生涯を俺に捧げて、この数日間の立場を逆転させるようにしながら過ごす毎日、楽しそうじゃない?」
「手前の世話なんてしねえよ」
 臨也がさも楽しそうに頸を横に振った。
「厭でもさせるよ、俺を騙した代償にね」
「何度でも死ね、」
 そう言われて髪をぐしゃっと掻き混ぜられると、面白いものを見たとでも言わんばかりの顔をして臨也が静雄の首元に鼻先を埋めた。金髪がふわりと揺れて、臨也の黒髪と混じり合い、二人は動物のようにじゃれあう。
 
「俺、君の目の色が好きだよ。視えてても、視えてなくても、その白目と鳶色のコントラストが殺したいほど、好き」
 臨也がそう言いながら、噛み痕を残した鎖骨の上を癒すようにやわらかな舌で舐めた。
 そこへ滲んでいる血の色は、臨也の目の色をしている。
 
     ♂♀
     
「臨也、」と静雄が一言呼ぶ。
 閉ざされた目蓋の裏側に、臨也といた数日間を焼きつけようと静雄は誓う。
 池袋最強と言われる静雄にも寿命があるようにそれがいつか崩れるものだとしても、永遠というものがこの世にないことを知りながら誓うのだ。神でも何でもない、手を伸ばしたら触れられる距離にいる男に対して――何度でも、何度でも。ガラス片を飲み込むくらい痛く、吐いた言葉には血が滲むほどであったとしても静雄はこの数日間をいとおしんだ。
 それをじっと、アナナスはシンクから見ていた――この部屋であった鮮烈でありながら淡い恋色めいた数日間を繰り返すように、何度も何度もアナナスの匂いは記憶に焼きつく。

 最後の種明かし、と臨也が内心嗤う。
「俺? 俺は直接手を出していないよ。ただ、あの前日にセルティにジュースを渡したかな。シズちゃんはそれをセルティからだと思って飲んだはずだけど、それに手を加えたのは俺かも知れないね。まあ、そんなお話し――」

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