【イザシズ】肩甲骨と天使

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

 折原臨也は喫煙者ではなかったが、その日のオフィスのデスクには煙草が一箱あった。
 それを見て、帰り間際の矢霧波江は「灰皿なんて来客用しかないわよ、」と言ってコートを羽織ったが、別に灰皿なんて来客用でもティーカップでも良かったので、適当に返事を返す。要するに、臨也にとってそれだけのことなのだ。問題は、この煙草をいかに吸うか、だった。ぱたん、と静かにオフィスのドアが閉められて、一人になったのを実感する。
 ──パッケージを破る、百円ライターで火を点ける、咥える、燃焼し始めたのを確認して深く息を吸い込んで肺に煙を満ちさせる、そしてゆっくりと吐き出す。
 静かにくゆらせると煙草の先が真っ赤から灰色になってボロボロと落ち始めるのが見えたので、適当なティーカップの皿を手繰り寄せてそこへ灰を落とした。ありきたりの白い皿の上を煙草が、臨也の肺を侵す。たかが、こんな安っぽい煙草に何の意味があるのだと臨也は思う。
 だがそれに、急速なカタルシスに似た浄化的感情を覚えるのは隠せない。
 いつも平和島静雄に纏わり付いて消えないタールとニコチンの匂いが、オフィスのなかに充満する。静雄がいつも吸っている銘柄を近くのコンビニでワンカートン買い、吸ってみようと思ったのは酔狂に近かった。ただ戯れに、何かを欲していた──そこに煙草が目に入った。だから買ったのだろうと臨也は思ったが、静雄にべったりとついた匂いを嗅ぎたかったのも事実だった。何度か灰皿へ灰を落とし、吸い込むと自分の身体が静雄になったようで興奮する。誰の匂いも混じっていない、静雄の身体の匂いだ。
 それを感じながら、臨也は思いついたかのように自分の携帯へ手を伸ばすと電話帳に入っている目当ての名前を選び出し、しばし躊躇していたが逡巡の末、発信キーをプッシュした。
 「もしもし、シズちゃん? あはは、切らないでよ。君の弟くんに関する情報持ってるからさあ、今から俺の事務所まで来てくれる? 何回か来たことあるからわかるよね。あ、もちろんタクシー代は俺持ちでいいから。じゃあ、そーゆーことで。」
 そこまで言うと再びキーを押して一方的に通話を切り、左手に持っていた煙草を揉み消した。
 
 静雄はきっかり二十分後に、臨也のオフォスへ現れた。肩で息をつき、どこか痩せたのかな、などと臨也が思うような風貌で珍しくも大人しくエントランスの認証キーを押して、オフィスの前で二度目の認証キーを押して虹彩認証をくぐって来た。
 やあ、と言いながら出迎えた臨也の襟首を引っ掴み、「幽について言え、場合によっては殺す殺す殺す殺す」と迫力を以ってして静雄は言い放った。勿論、そんなものはブラフであったので、その手を離させてから「何それ。そんなこと言われても知らないんだけど。それよりシズちゃんさあ、タクシー代幾ら?」などとしらを切ってみせた。臨也は口が上手い。静雄などが太刀打ちできないほど、その話題のすり替えは巧妙であった。
 「タクシー代なんていらねえよ。」
 吐き捨てる静雄を見ながら、デスクの上にあった煙草を一箱持って、「吸う?」などとしれっと聞くと、「おう、」と返された。静雄の思考回路はまったくもって単純だ、一つのことを与えれば、一つのことは忘れてしまう。
 煙草に火を点け、吸い込み、そして一息に吐き出す。紫煙がくゆり、そして消える。
 一連のそんな動作が、こんなにもうつくしい男がいるだろうかと臨也は思う。静雄の育ちなどは詳しく知らなかったが、無骨に見えても洗練されているのは弟の影響か。
 ふうっと吐き出された煙草の煙が、部屋中へ霧散してゆく。臨也は、自分が吸った場合と静雄が吸った場合では、まったく匂いの感じ方が違うことを不思議に思いながら、「美味い?」と聞いた。答えは聞かないでも分かっている──それは静雄が毎日吸っている銘柄だからだ。
 「いつもと変わんねえ。あ? なんだ、手前まで煙草吸うようになったのか。」
 分かってないね、シズちゃんは。俺が好んで肺を汚染させることなんてあることがないと、どこかで分かっているのに知らない振りをするのは賢いのか愚かなのか、俺には判断することが出来ない。多分、お互いの領域に入いらんとしている暗黙の了解のうちのひとつなのだろう。
 静雄が何度か深く煙草を吸い込み、煙を吐き出す。それは、すぅっと一筋のラインになっており、火葬場の煙が煙突の上から昇り立つのに、そして焼け落ちる煙草の先端は遺灰に似ている。
 その煙草を吸う立ち姿はさまになっているし、その写真を撮りたいと思った。室内が少し暑かったのか、珍しくベストを脱いで椅子の背にかけてあるのが目に入る。
 ちょうど臨也は静雄の背中が見える場所にいたので、均整の取れたその身体つきとしなやかな筋肉が薄っすら付いているのがシャツ越しに見え、微かに欲情を覚えたが、それよりも綺麗に整った肩甲骨に目を奪われた。そこにあったのは、一対の肩甲骨であり、成人男性にしてはかなり骨ばっている方だったので余計目立ったのだ。肩甲骨が、翼の名残だと言ったのは何の台詞だったのだろうか──臨也はふと、そんなことを考えたが余りにも平和島静雄という人物と、その肩甲骨というパーツの不釣合いな整い具合に口の端を上げてにやりと笑った。
 静雄は、矢霧波江がブックスタンドに置いていった雑誌の巻頭カラー特集、『羽島幽平特集』なるものをじっくりと熟読しているところで、その顔は表しがたい喜びと切なさの相混じったものだった。それはもう丁寧に、一ページ一ページを慈しむように読んでいるので臨也としては少々面白くなく、いつもの椅子に座って背中を反らせてみたりしていた。反らせる度に、背凭れが軋んでキイキイと音を立てる。
 「ねえ、面白い? それ。」
 「別に面白いってもんじゃねーだろ。自分の弟の記事見ても。」
 「あ、そう。ならいいんだ、」
 煙草片手に雑誌を丹念に読んでいたが、どうやら読み終わったのか、ブックスタンドへ戻すと吸っていた煙草を揉み消した。普段、粗暴な静雄がそれはもう丁寧に雑誌を置いたもので、臨也は嫉妬の業火を燃やしかけては鎮めようと努力した。
 (シズちゃんの嘘吐き。嘘吐き、さっさと死ねばいいのに。自分の弟しか可愛がらないような執着してみせているくせに何をいうんだか。)
 静雄が背を向けて雑誌を片付けたりしていたので、臨也は携帯のカメラモードでその背中を撮影した。ピーッ、というピントを合わせる音に続け、パシャッ、と軽い音がしたので振り向かれた。
 「何撮ってんだよ、手前は性懲りも無くまた仕事か何かか?」
 「んー、これは趣味? シズちゃんの背中が綺麗だったから。」
 ──それは本当だ。
 静雄の背中にある、一対の肩甲骨は背を丸めたときに特に形がよく見えて綺麗だった。静雄は臨也の前に於いて、その整った骨格の比類なきうつくしさを見せる。それは絶対的なもので、いつもどこか神懸かっており、臨也はうつくしい静雄を憎んで止まない。
 せめて静雄が醜かったのならば、臨也はここまで執着というものを見出さなかっただろう。
 その少し狭い額が、鋭角を描かない眉が、中心に通った鼻梁が、煙草を咥えるのがとても淫靡に見える薄い口唇がうつくしくなかったなら──こんなにまで恋情に似た感情を突き動かされなかったというのに、いつだって静雄は池袋で決して真っ当とは言えない仕事をしながらも、綺麗な顔を崩さない。
 平和島静雄という男は、汚泥のなかにいながらにして潔癖で高潔であるべき存在だ──そんなことを考えてしばし目を瞑り、目蓋の上から親指をぐっと押さえると眩暈がして、目蓋の裏に気持ちの悪いシアンとマゼンタの色をしたブロックが大量に見えては消えていった。何度か頭を振り、そして上げると目の前に静雄が立っていた。生憎、サングラス越しの視線が反射して見えなかったので、彼が何を思いながらどんな表情で見ているか、臨也には分からなかった。
 静雄が最後の煙草を揉み消したので、臨也は反らしていた身体を、がくん、と前に倒して静雄の手首を掴んだ。
 「ねえ、シズちゃん。さっさと死んでよ、それで俺も死ぬから。」
 かなり伸びた臨也の前髪が、彼の顔を見ようとした視界を塞いだ。
 どんな顔してるの。
 どんな気持ちで俺の声聞くの。
 どんな気になったら死んでくれるの。
 臨也の思考がグルグルと回りだし、迷走を始めてしばらく経つと「野郎と心中かよ、ノミ蟲が。」と声がした。迷走した思考の出口には、平和島静雄という男が立っていて、その表情は少し困ったような苦虫を噛み潰した顔をしている。
 臨也は神を信じていない。しかし、だからこそ神話や伝承にも精通している。知らないからこそ、調べるといった姿勢は幼い頃から変わらず今に至っていた。
 「あのさー、キリスト教に、『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』っていう予言書があるんだけど、そのイザヤ書っていうのが旧約聖書の二十三番目なんだって。俺がいま二十三歳なのにも、何か意味とかあるのかなあ、ほら、神の御使いとか何とか。」
 「……とうとう狂ったか。手前が神の使いだとかいうなら、俺は天使にでもなれるな。」
 「あ、シズちゃんの肩甲骨は羽みたいに綺麗だからいいんじゃない。羽をもがれた痕みたいで。俺が神の御使い、シズちゃんは天使かー。まあ、妥当かな。」
 そんな戯言を聞きながら静雄は頭が痛くなっていたが、当の臨也はそんなことを知らぬと言った風体でアルコールでも入ったかのように笑いながら話し続けていた。実際、何らかの成分が空気中に霧散していたのに違いないと静雄は思っていた。そのくらい、臨也は流暢に喋って止まない。
 「大体、天使だの御使いだのといったものは何らかの宗教に属しているから与えられる地位であって、俺とシズちゃんみたいに特定の宗教に入っていない人間にとっては何の意味も価値もないんだよね。勿体無いことに。」
 ──でもさ、と臨也が手首を掴んで離さないまま呟いた。
 「シズちゃんの骨、本当に羽の痕跡みたいに見えるよ。いつだってその気になれば折原臨也という人間──俺を殺せる天使、いい身分だと思うんだけどねえ。なかなか無いよ、新宿の情報屋を殺せる身分は。」
 その声音が余りにも真に迫っているので、思わずゾッとした。
 なんだ、殺す殺す言いながらも自殺願望か心中願望でもあるのか? と静雄が口に出しかけた瞬間、臨也が掴んでいた手首を思い切り引き倒した。当然のようにバランスを崩した静雄を笑顔で迎えながら、抱きとめて口唇を重ねた。
 静雄の口唇は薄いので酷薄な印象を植え付けるが、それは臨也の方が上だった。酷薄というよりも、やさしさの裏側に隠した残酷な顔立ちに見える。
 普段は伸長差が十数センチあるので、こうでもしないとキスが出来ないといったことに臨也は若干のもどかしさを隠せないでいるが、そんなことはすぐに崩せるといった自信が満ち溢れている。
 戸惑っている静雄をよそに、臨也は口唇を割って舌を入れ、生温かいそれを絡み合わせる。肉であるという、ただそれだけの感触を頼りに僅かな快楽を与えられる静雄は、それに堕ちるのがここ数ヶ月で早くなった。臨也とキスをするということに慣れたのか、最初の頃にしていた抵抗はほとんどされなく、寧ろ臨也が口付けた時点で肩に爪を立てるように躾けられた身体は火照るばかりだ。
 ぐちゃり、と舌を絡めるたびに粘着質な音がして、二人の間に流れている温度を上げる。
 撫でるように触れ合う二枚の舌が、さっきまで静雄が吸っていた煙草のニコチンとタールの味を伝えてくることによって、臨也はよりいっそう興奮して息を吐く自分に気付いた。
 「シズちゃんの煙草は好きだけど、やっぱり嫌い。」
 「んだよ、それ……俺だって、好きでこんなこ、と、はァッ、」
 二人分の吐息が混じり合ったオフィス内は唾液が絡まる音がして、臨也の肩は、ぐっと掴まれて爪が立てられた。夕暮れ時の真っ赤な陽がブラインドを開けた窓から入ってきて、静雄のサングラスを透かして見せた。その中にあったのは、情欲とともに恋情に似た感情を点した両眼があり、それはどこか安堵を漣のようにそっと押し寄せた。
 そっとサングラスに片手をかけ、外すと肉欲に潤みきった瞳がそこにはあり、涙を堪えるのをひた隠すようにして臨也を見つめていた。静雄の長い睫毛の先には涙の粒が小さく付いている。
 その涙の粒を拭って、「最後までしようかと思ったけど、やーめた。」と言うと、拍子抜けしたような子供が不意におもちゃを取り上げられたような顔でキッと臨也を見つめ返した。身体を離し、反転させてさっきまでしていたように椅子に反り返って座ると、「その煙草、カートンで買ったから残りあげるよ。おみやげにして。」と言った。
 無言になって黙りこくる静雄を放置し、臨也がデスクの下から煙草をカートンで引き出すと投げて寄越したので仕方なくキャッチする彼がいた。
 「やっぱり吸わないからあげる。捨てるにも勿体無いしね、シズちゃんなら吸うでしょ。」
 吸うよね。
 吸うって言って。
 そして、その煙草を口に咥えて吸う度に俺を思い出してくれればいいのに、と臨也は切に願う。
 「今度、最後までしてあげるからおとなしく帰ってよ。あ、弟くんの載ってた雑誌いる?」
 そこで幽に関して頷いたら負けてしまう気がして、静雄は上手く頷けなかった。
 池袋の自宅に帰ってからも煙草は静雄の肺をニコチンとタールで侵したし、煮詰めたタールのようにべったりとくっついて臨也の存在を誇示し続けた。ワンカートン空けるまで、静雄は毎日臨也のことを思い出した上、意識を無理矢理こじ開けられる感触が咽喉を肺を口腔内を侵略していた。
 ふと気付くと、臨也から添付ファイル有りのメールが携帯に届いていたので開けてみる。静雄の背中の肩甲骨が浮き出ている写メが添付されていた。そして、『綺麗だから、あげる。』と短く添えられていた。
 「何なんだよ、これ。訳分かんねーんだよ、こんな写メ撮りやがって。──畜生、次、会ったら殺す。ぜってー殺す。」
 静雄の伝達意識に芽生えている感情と、臨也の伝達意識に芽生えている感情は違っていたが、互いを必要としているということに於いて、それは恋愛感情にとてもよく似ていて、そして相反するようなものだった。
 ──肩甲骨は、翼をもがれた痕跡に恐ろしいほど酷似している。

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