【イザシズ】新宿前線

Hasmi/ 3月 4, 2018/ 小説

「シズちゃん、俺達別れよう、」
 臨也の事務所に呼び出された午後二時。
 秘書の矢霧波江はおらず、着いたばかりの静雄に対して彼は紅茶を淹れながらそんなことを言いだした。それは唐突な物言いで、静雄は自分の耳が都合よく改変したのかとでも思ったぐらいだった。
「――あ?」
「だから、別れよう。俺達、もう駄目だよ」
 もう駄目だも何も、最初から俺達は腐敗/糜爛した関係だったしそんなことをいちいち言うような仲だったのかと思い、静雄は視界がぐらりと揺れるのを感じた。そして沸々と一番最初に奥底から湧いて来たのは怒りでも悲しみでもなく、ただの虚しさ――。この男に時間を裂いてしまった二十数年間の内の数年を悔いるという、何とも小さな感情だけだった。それは段々、化学変化でも起こした薬品のように違うものへと変わってゆく。
「別れるなんて言っても、手前と付き合ってたのかよ」
 わざと乱暴に吐き捨てるように言えば、目の前の彼――折原臨也はにたりと嗤って「ああ、そうだね」と言った。
 何が「ああ、そうだね」なんだ、静雄はそう言って首を絞めたくなるのを抑え、斜向かいにあるテーブルの上から煙草を探そうと手を動かした。じゃあさ、と声がする。
「もう、シズちゃんとセックスしない」
 臨也が半笑いになりながら、そう言い切った。
 使い捨て――ディスポーザブルのきれいな顔をしたダッチワイフの代わりだったとでも言うのか。この皮膚は切り開けば血が流れ、血管が通り、脂肪が覗き、骨も内臓もある手前の好きな“人間”の一人だったというのに。だが無駄だ、糾弾したところで臨也は静雄を人間と認めていない。愛しい愛しい人間達のなかにも、何のなかにも入れられない平和島静雄というただ一人の男はいま、惨めに打ち捨てられようとしていた。
「散々やっておいてよく言うよな、なあ臨也くん」
 じめっとした焦燥が身体に這う。
 いや、実際焦っていた。
 静雄はごく一方的に捨てられかけていたし、二人の関係性というものの極致を垣間見ていたからだ。
 目線が静雄らしくないほどブレている姿を見ながら、臨也は淹れ終わったティーポットを片付けに行った。いつだってこの男は自分が上位に立っているということを思い知らせてくる。ガラスとスポンジが擦れるキュキュッという音がして、泡立った洗剤が流される水音がした。
 嘘だろう、手前には俺が必要なはずだ。
 それは執着と言っても差し支えないほどの感情と惰性と長年の日々の重なりによって、出来上がっていたじゃないかと思い知らされる。
 洗い物を終えて向かいに戻って来た臨也を睥睨すると、その視線を勘違いしたのかそれとも思い通りなのか乾いた声がした。
「なに? ねえ、折角だし最後にセックスする、」
「ははっ、思い出セックスかよ。そんなの柄じゃねえな、俺も手前も」
 煙草を探そうとする静雄の手を嗜めるように取って引き寄せ、その端整な関節のしっかりした長い指をちろりと舐めると臨也が言った。
「柄じゃないことなんか、いつもしてたくせに。俺の肩に縋ってはしたなく発情した雌犬みたいに腰振ってさあ」
 黙れ、そんなことを始めたのは手前だろ。とでも言いたげに制すると、声を上げて臨也が嗤う。
「そうだね、始まりは上手くいかなかったし」
「あれは嫌々とか無理矢理、って言うんだろうが」
「アッハハハハ、それでも俺に抱かれてくれたじゃない。俺、君とセックスしてる期間も女の子と遊んでたけど、膣の柔らかく包み込むような感触よりシズちゃんに突っ込む方が異種姦みたいで興奮したよ。まあ入れちゃえば直腸も柔らかいしね、」
 臨也が遊んでいるのは知っていたし、それを容認する方向で二人はセックスをしながら休戦というものを楽しんでいた。
「俺さあ、君の事嫌いじゃなかったよ。今この瞬間も殺したいけど、それでも嫌いじゃなかった。」
「――俺は今でも手前が嫌いだ。こんな茶番も、セックスも、いつまでも女といる手前もな」
 そこまで静雄が一気に言って「あ、」と思った時にはもう遅かった。本音と建前が半分ずつ転がり落ちると、意外だと言うような臨也の目線が刺さった。
「素直じゃないよねえ」
「素直にしたら別れねえのかよ」
 ソファに沈んだ静雄の手を持ち上げて、テーブル越しの向かいへ立っている臨也を見遣る。
 これじゃあ別れたくないと駄々をこねているのと同じじゃないかと思ったが、気付けば静雄はそんなことを口にしていた。だが、臨也は口の端を片方だけ器用に吊り上げると「残念でした」と言った。
「飽きちゃったって言ってるの分からないかな、」
「分かるけどよ――そもそも、付き合ってもいないのに納得がいかねえ」
「ねえシズちゃん。俺達、いつも通りに戻ろう。きっとそれが自然で、不自然で、納得するはずだから」
 武骨な手を取り、臨也は静雄にフェラチオを強制はしたが決して自らはしたことがないのに、この時だけは丹念にその整った指をいやらしく舐めてきていた。
 午後二時の日差しは傾き、一時間の経過を指し示している。
 臨也はいつまで経っても始まらないセックスの合図のように指を舐めたし、その感触に性的なものを感じ取るよりも経年というものを泣きたくなるほど感じるのはなぜだろうと静雄は思う。
 殺し合いに纏わるナイフの閃きや、ポストや自販機やゴミ箱が空を舞うこと、それに流れる真っ赤な血液に無限に感じられる有限の時間。それを実感するのは折原臨也という一人の男がいたからだ。
 他に何も要らない、他に何も欲しくない。
 二人の間の小さな戦争というものがあればまた会えるのか、また欲し合う仲になれるのか。しばらく考え込んでいた静雄は、フッと微笑むようにして臨也を見ると一言を言った。
「いまから開戦状態に入ることにしてやるよ、」――と、何かを堪えているような声でたった一言だけ。
 息絶えるようにそう言うと、“化け物”には理解の出来ない何かが一筋、頬を伝った。

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