【黒研】イヴの心臓

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

「研磨さ、俺と付き合わない?」
 そう聞かれたのが一週間前で、そのときは何ともないように「いいよ、クロなら」と答えていた。
 おれに対してすごく嬉しそうな笑みを浮かべながら、屋上で二人して燦々とした太陽のもと、校門近くに咲く向日葵をながめていた。
 一週間経つあいだ、おれはひどく丁寧に扱われた。それは二人にしか分からない程度だったが、はたからみたらいつも通りだったのだろう。体調も精神面も気遣われ、おれは黒尾鉄朗という男のマメさに驚いていた。主将を務めているのだから、メンバーのケアはお手の物なのかもしれないが、それを超えたものを与えられたおれは驚嘆することしか出来なかった。
 告白の返事に、いいよ、と答えた次の瞬間にクロはおれの頭を撫でていた。急にキスをするでもなく、抱きしめるでもなく、単にそっといつもと変わらないような手つきで髪を梳いて頭を撫でてくれた。おれはそれに対して逆に少し申し訳ない気持ちになり、猫が毛を立てるかのような勢いで「もう……いい、」と言ってしまった。そのときのクロの表情は、困ったなとでも言わんばかりな顔をしており、「悪い、」と言って謝られた。
 謝らないでいいのに――。
 本音を言えば、おれはもっとクロに触れられたい。したいと言うならば、どんなことでもするだろう。おれはクロの言葉を借りれば音駒の“脳”だ。そして、クロは酸素であり血液であり、もっと踏み込んだことを言うと脳を動かすすべてであるのだろう。だから、おれはクロの考えていることは何となく分かるし、クロがしたいということは何一つ怖くない。
 何の変哲もないおれを見つけ出したのは、もちろんクロだったし、いつも遊ぶときに連れ回してくれた。そんな誰の信頼も集めている彼に、引け目を感じたことがないわけではない。ただ、なんでおれなのだろう――とは思っていた。
 初めてバレーに誘ってくれた日のことを思い出すわけではないが、あのとき、あの場所でおれは誘われなかったらクロとこうしていなかった。

 暑いな、と思っていた。
 窓際の席で一番前――前に座っていたクラスメイトの方が背が高かったので、替わってもらった席だった。
 でも、暑い日も寒い日も嫌いだけれど、こんなに直射日光が当たる席じゃなくてもよかったな、と思った。
 クロは何をしているのだろう、と呆然と暑いなか考える。古文はもう頭に入らなくて、ただ自動筆記のように黒板の字を写し取っている。暑い、暑い、厭になる。そして、こんなにも女々しくクロのことばかりを考えてしまう自分に嫌気が差す。
 一週間前、告白をされた日からも変わらず、クロは休み時間や下校時刻になるとこの教室へ来る。見た目が派手な方なので、女子がざわつくのが少し気に障った。
 このひと、おれのなんだよ。とでも言えればいいのに、と思いながらもおれは言わない。そんなおれを、クロは望んでいないだろうから至って平素通りに付き合う。
 あのひとはおれので、おれはあのひとので、そして日々酸素と血液は巡るのだ。脳の機能のために。
 そんなことを考えていると、三限目が終わった。今日は三限目までしかないので、午前中で家に帰れる。たまにはこっちからクロの教室行こうかな、と思いながらノートやテキストをスクバに詰めた。ロッカーにすべて詰めてもいいのだが、なんとなくそれは苦手でいつも持って帰っているのが習慣だ。クロが、重くねえ? と聞きながらいつも苦笑する。
 三年生の教室は四階だ。
 四階の真ん中の教室、と思い出しながら階段を上ると女子の声で「黒尾さん、返事くれませんか」と聞こえた。それは意を決するような声音で、直感的に厭なものだなと思ってしまった。クロは度々、女子に声を掛けられている。ああ、聞きたくないな、と思った。これは多分、クロに対する告白の返事を迫っているのだろう。おれのだからやめて、と願いながらクロの続きの声を待つ。
「ごめんね、俺、彼女とか欲しくない時期だから」
 そう言った言葉が聞こえてきて、ホッとした。そう、女の子には悪いけれどひたすら安堵したのだ。でも、と考える。彼女とか欲しくない時期だから、ってことはおれのことは何だと思っているのだろう。彼氏が欲しいなんていうことなのだろうか、などとしばらく考えていると、「研磨? 珍しいな、お前から来るの」と階段上から声を掛けられた。
「ひどい顔してるけど大丈夫か。保健室とか行くなら付き合うけど、」
「……多分、大丈夫だから」
 ひどい顔をしてるのはね、きっとクロのことを好きすぎて訳がわからないからなんだ。と思った。
「クロ、帰ろ」
 そう言うと、階段を駆け下りてきてスクバをひょいっと持ち上げてくれた。クロはノートもテキストもロッカーに詰め込んでいるので、いつも自分のスクバは軽いと言っているから、だから持ってくれたのだろう。そう、頭のなかで整理をしながら「ありがと、」と言うと「当然だろ、」と答えられた。
 当然なのかは分からないが、クロはいつもやさしい。それが、おれに対するものと他のひとに対するものと違うことに、最近気づいてしまった。
「あー、ほんとは自習あるけどサボろうかな。なあ研磨、どう思う」
「……クロは自習でなくていいの?」
「成績そこまで悪い訳じゃないから、サボってもそれなりの点とれるし」
「なにそれ、」
 大体の生徒が帰ってしまったのか、校舎内はガランとしている。そんな校舎は、蒸し暑い日でも少しひんやりしていて気持ちいい。エアコンが全体に利いているのか、廊下までも冷やされている。
 クロはどこを目指しているのか、バレー部の部室へ向かうでもなく、かといって下校するでもなく五階へと続く階段を上がった。おれは何も言わず、というか言えずにただその手を掴むのに必死になりながら、後をついて行った。
 クロが入った教室は、視聴覚室だった。
 遮光カーテンがひいてあり、室内は少し暗い。でも、この教室もエアコンが利いていて心地よい。
 鍵、内側から閉められるから。と言われて、それは鍵を掛けろという意味なのだと察して慌てて掛ける。
 クロがカーペット敷の床にスクバを置いてから椅子に座ったので、隣の席に座ると手を伸ばされた。
 ああ、この手がボールに触れるんだなと思うと、それに触れられることにも意味があるような気がして、おれは少し緊張した。
 大きな手がそっとおれの頬を撫で、そこから鼻筋に触れ、最後に口唇をなぞって離れた。なんとなくそれはいやらしい触れ方だったが、それでも意味のある触れ方を嫌うでもなく、おれはじっとそこにいた。
「教材用しかねぇけど、研磨なんか見る?」
 そんな気を遣った言葉がこぼれ落ちて、おれに当って砕けた。黒尾鉄朗という男の声は、ひどく気持ちいい。それを聞きながら、先日教室で見た映画を思い出しながら、あれは何という映画だったかなと思いだそうとした。
「タイトル……思い出せない、から、映画はいい」
「じゃあ、適当にDVD入れて見るな」
 そう言ってクロが選んだのは、似つかわしくない作品だった。
『さよなら子供たち』
 それは、おれも先日授業で見た作品で、戦時下における少年たちの生活の物語だった。てっきり、クロのことだからもう少し明るめのものを選ぶと思ったのだが、何を考えているのかそんな暗めのDVDが回転する。
「ルイ・マル監督の自伝的作品だって授業でやったけどさ、研磨、どう思った? この映画のラストシーン」
 ゾッとするような低く響く声で、そう問われておれは追い詰められた動物のようになる。 
「怖い……と、思った。あの、戦争が怖いとかじゃなくて、あのユダヤ人狩りに遭って最後に自分から席を立てる子、の、強さが怖いなって……」
「もし研磨だったら、立てるか? それか俺のことを告発出来たり、」
「……しないし、席を立てないと思う。おれは臆病だから」
 そう言うと、クロがふうん、と言いながらモニタの電源を落とした。
 てっきり最後まで見るのかと思っていたので、いきなりモニタの光が消えておれは少し驚いた。
 少しびくつきながらクロの手元を見ると、リモコンで電源を落としただけだった。この男はやさしいけれど危ない、とおれは目の奥が明滅するのを感じていた。それはやがて視界となり、明滅する視界のなかで唯一その艶のない黒髪がはっきりと見える。
 そんなことを見つめながらぼんやりしていると、そっと手のひらを重ねられた。ひんやりした室内のなかで、唯一体温同士が触れ合ったのでおれは少し怯える。
「なあ研磨、俺たち付き合ってる訳じゃねえの。お前、自分のこと臆病って言ったけど、そんなお前のこと思っただけで臆病になる俺のことを笑うか?」
「笑わないし、おれとクロは付き合ってる……んだと思う」
「じゃあ、最近目ェ合わせてくれないから、目ェしっかり見せて」
 この男は、おれが普段校舎で目を合わせないようにしていたことに気づいていたのか、と思いながら「いいよ、」と言った。クロが席を立って、おれの前に屈んで両サイドに垂れている髪をかき分ける。
 キス、でもされるのかな。と思って目を閉じようとすると、「目、閉じんなよ」と言われてそのままにする。
 べろり、と舐められた瞬間はなにが起こったのか少し分からなかった。ただ、右目の視界が塞がれて、左目だけがクリアだった。
「クロ、目痛い」
 おれがそう言ってボロボロと涙を流していると、「これで気持よかったらおかしいだろ、目ェ舐められて喘がれても困るし」と言いながら、また何度もそっと舐められた。
 目を舐められて喘がれても困るし、と言ったクロの言葉を反芻しながら、でもおれはクロにされることならなんでもいいなと思った。
 エアコンが利いてしんとした視聴覚室のなかで、おれはクロに髪をかき分けられて目に舌を這わせられていた。
「あ、何か目ェ舐めてたら勃った」
「……クロってどこか変だよね、」
「研磨は俺の恋人なんだから、そんな奴の一部分舐めてたら興奮するに決まってんだろ」
「それさ、」
 恥ずかしいんだけど、と言おうとしながらくちを開けようとした瞬間、口唇を擦り合わせられて言葉を封じられた。何度も口唇を擦り合わせられ、舌で舐められる。
「なに、」と言いながら、クロが口唇を離して舌なめずりをする。
 この男は単純におれのことを好きなだけだと気づいたのはついこのあいだだ。頭の回転も早い。それも、いい意味での回転の早さで、多分、いや間違いなくおれもこの男のことが好きなのだと頭蓋骨の奥底で理解した。
「研磨、もうちょっと触っていい?」
「ん、いいよ」
 そうやっていちいちおれに許可を取るのも、この男のマメさをあらわしていて好ましい。
 涼しくなった室内で、クロはおれのシャツの裾から手を差し込んで肋骨に触れていた。その手つきは本当にやわらかでやさしいもので、普段この男の外見からは察せないほどだった。派手な髪型と顔、そして身長に似合わず、この男はひどくやさしい。
 おれのことを、“背骨”で“脳”で“心臓”とまで言い切ってしまう幼馴染は、砂糖で出来ているかのように甘ったるい声音で「研磨、」と呼ぶ。
 肋骨の数を確認するかのように少し強めに皮膚を押しながら触れられる。
「……あの、さ、聖書のこと知ってる?」
「例えば、」
「アダムの肋骨から、イヴが作られた、って話のことなんだけど……おれはクロの肋骨から作られたのかもしれない、ね」
 そう、おれが“心臓”でもあるのならば、それを守っている肋骨という存在――。檻のような肋骨の隙間からナイフを刺し込むことは可能だろう、だけれどもそれは肋骨に阻まれる。おれが背骨で脳で心臓ならば、クロは血液で酸素で肋骨なのかも知れない。
 おれはひとりでは何も出来ないと自分で思っているし、それは事実なのだろう。しかし、チームメイトがいればいまのおれはバレーが出来る。それを教えてくれたのは、脳に刻んでくれたのは黒尾鉄朗だ。
「クロの身体は、おれの身体でもあると思う……それに、おれだって身体に触れられたら興奮するよ、」
 そう言いながら、少し屈んで立っていたクロの脚元にぺたりと座り込んで、「触り返してもいい?」と聞くと頷かれた。
 服の上から性器に触れるとそれは硬く熱くなっていたので、ベルトを外して下着ごとずり下ろした。外気にさらされた性器は萎えることもなく、クロは恥ずかしがる素振りを見せるでもなく、ただそこに立っておれの髪を撫でていた。先端からは透明な先走りが溢れていて、このままだと床のカーペット汚しちゃうなと思いながら、伝うそれをこぼさないように舌で受け止めた。
 少し塩っぽいような苦いような味がして、上目遣いでクロの方を見るとおれの髪をクシャッと掴んでいた。
「舐めて、みてもいい?」
 そう聞きながら、答えも待たずに目の前で反り返るように勃っている性器を両手で持ち、そっと横から舐めた。
 グロテスクな器官だとは思うものの、これがクロのものだと思うだけでおれはいとおしかった。
 張り出した部分をやさしく口唇で食みながら、舌で刺激を与えるとクロが呻いた。これでいいのかと思いながら、以前クロの部屋で見せられたAVの女優がしていたように先端を咥えた。鍵を掛けているとはいえ、校舎のなかでこれはいいのだろうかと思いながらも、おれたちはもう止められなかった。
 クロが少しでも気持ちいいならいい、と思いつつ咥えながら頭をゆるゆると動かして舌を這わせた。あまり奥まで飲み込むと息が出来ないと思ったので、全部はくちに含めなかったものの、初めてのフェラにしては上手くいったのだと思う。
「研磨、それすごくいい」
 わずかに上擦った声でそう言われて、初めておれはクロの身体に触れているのだという実感が湧いた。
 多分、この男の最終目的はおれを抱くことなのだろう。
 だけれども、こうしてくちで触れているだけでもおれはしあわせだった。ただ、時期が来たらおれの身体でいいのならば差し出そうと思っている。食まれるのも、噛まれるのも、犯されるのも、何もかも受け止めたい――この男がすることすべて、何もかも、それをこの身体に体験として刻めるのならばなんでもいい。
 しばらくそうしていると、「そろそろいくから、」と短く言われて髪を引かれた。いくから、くちを離せと言いたいのだろう。それを聞きながら手とくちで奉仕していると、「んっ、」と呻く声が聞こえて、次の瞬間には口腔内にドロッとした精液が満ちた。生臭いそれをどうしようか悩んでいると、「この時間なら誰もいないから、廊下出てくち濯いで来い」と言われた。
 飲み込むのも少し躊躇われたので、言うとおりに廊下へ出て水道水でくちを濯いだ。もったりとした精液独特の匂いがくちのなかからする経験は初めてで、おれは不味いなあと思いながらも、これでフェラ出来たってクロに言えるなと思っていた。

 校内の自販機で炭酸を買って飲みながら、廊下のベンチへ座った。
 家へ帰るよりも、ここでしばらく時間を潰した方が陽に焼けないからという単純さで、おれとクロは並んでジュースを飲んだ。
「クロはさ……おれの血液なの? 酸素なの?」
 廊下にひとがいないことを確認しつつ聞いてみると、平然と「血液で、酸素で、お前の恋人な」という答えが返ってきた。
「そ、の……恋人とかいうの恥ずかしいんだけど」
「じゃあなんだよ、彼氏? 遊び相手?」
「遊び相手、とかじゃない。でも、クロに恋人が出来たらおれはその人に譲るから、」
「出来ねえよ、研磨以外」
 このひとは、強くて脆い。
 一年先に生まれているから、当然一年先に卒業してしまう。
 そのときに、おれたちの関係がどうなるかなんて想像していないのだろうか。
 おれはそのときが怖くてしょうがない、クロのいない学校で上手く機能出来るのだろうかとばかり思ってしまって、マイナスな思考ばかりが頭を巡る。
「血液ってさ、循環するよね。脳だけじゃないと思う、全身を動かすために巡って巡って、そしてそのひとを生かしているんだと思う、けど……ごめん、よくわかんなくなった。……おれ、クロが卒業するのが怖い」
 傍から見てあまりにもひどい顔をしていたのか、クロが「大丈夫だからな、」と言っておれの頭をポンッと叩いた。
「研磨が卒業したら、一緒に暮らすのもいいかもな。俺、お前となら上手くやれると思う」
「……おれ、も、クロとなら二人で暮らせる気がする」
「なにより幼馴染だから周りも変に勘繰らないだろうし」
 男二人で生活するのはどんなものなのか、まったくイメージが出来ないが幼馴染だといえるのは強みだなと思う。うちの両親も深くは追求しないだろうし、クロのおばさんにもおじさんにも何度も会ったことがある。多分、大丈夫だという確信がどこかに生まれていた。
「で、そのうち海外で挙式する」
「挙式、って……おれとクロで?」
「俺と研磨以外にいまの会話に誰がいるんだよ、海外挙式とかも珍しくなくなったから、金貯めて行こう研磨」
 この男はなんて強いんだろう、と思った。
 将来のことなんて何も考えず、ただ目の前の生活でいっぱいいっぱいなおれに対し、指標を定めているクロは頼もしく見える。
 いまもこれからもずっと先も、クロは俺の血液であり続けるのだろう。
 おれが生きている限り、身体のなかを循環し、おれを生かしてくれる存在であろう黒尾鉄朗という男。その男と手を繋ぎ、もう片手でジュースを飲んだ。繋いだ手はおおきく、ボールとおれに触れてくれることに感謝しながら、そっと手に力を込めて握り返した。

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