【猿美Web再録】午前二時、熱帯植物園にて。

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

1.金では買えない君のこと

 金を渡す――いや、渡すという表現は正しくないかも知れない。
 正確には八田美咲と会ったとき、帰り際に金を置いていくようになった。それは大体、毎回十五万円ほどだ。茶封筒に入れるときもあれば、剥き出しの万札をテーブルに置き去りにすることもある。
 憎んだり憎まれたりしていた時期もあったが、気付けば二人はまたいびつな関係を繰り返していた。伏見は、求め合うというのはこういうことなのかと己へ対して悔しさを滲ませながら、それでも八田に月何度か会い続ける。
 中学時代、二人はセックスをしたことがあったが、いまとなってみるとそれはもう過去だった。過去に、されてしまった。
 伏見は八田と会ったあと、いつも燻る思いを引きずりながら帰る。この古びたアパートに来なければ済むことだと、頭で理解しつつも通ってしまうのは業なのかも知れない。
「なあ、何でお前いつも帰るとき金置いてくの」
 夜更けのなか、隣に座った八田が新作ゲームに夢中になりながら何気なく聞いた。それは、そっと言葉を胸に差し込むような無邪気のなかの残酷さだ。八田の視線がゲーム機に向いていることを確認したあと、伏見は少し早口になるのを悟られないように「いつも美咲に負担かけてるから」と言うと、八田が声を上げて笑った。
「いらねーって。負担っつっても夜中いきなり来るぐらいだろ、俺、お前に中学んときの借りだらけだし。しかもいつも、十万以上あんじゃねーかよ」
「馬鹿みたいな給料もらってんだから、遊びだと思ってもらっとけよ」
 金を渡す理由が欲しいのだとばかりに、伏見は焦りを隠しながら矢継ぎ早に言葉を吐いた。八田は、ふーん、と言いながら器用に親指を動かして、序盤ステージの中ボスを撃破した。アパートの部屋に、やたら壮大なファンファーレが鳴り響く。一息ついたのか、セーブポイントまで移動して無事にセーブしてから電源を落とすと、伏見の方に身体を向けて「あのな、」と叱るように言った。
「屁理屈捏ねられても、いらねえって言ってんだろ。猿比古、こーゆーのやめろ」
「こういうのって、これも?」
 そう言いながら、隣に密着して座っていたのをいいことに八田の耳朶を噛んだ。何度も甘噛みし、耳孔にやわらかな舌を捩じ込ませると八田が顔を赤くして飛び退く。良い意味でも悪い意味でも、ガキ、と思った。しかし、そんなところに惹かれているということを認めざるを得ない。驚いたのか、赤面した上に涙を浮かべながら八田が口をパクパク開けつつ何を言えば適切なのかを探していた。
「……だっ、だからこんなんじゃなくて、全部、金持って帰れよ」
「もう金ぐらいしか、美咲にやれるものが無いから」
 それに――と言葉を続けた。
「俺は裏切り者なんだろ、なら、簡単に家に上げるんじゃねえよ。ほら、受け取れって」
 財布から万札を引き抜くと、八田の両腕とゲーム機のあいだに放り投げた。いらねえって、と八田が抗議の声を上げる。
 いらない、やる、いらない、やる、の押し問答を繰り返したが、結局は八田が折れて受け取ることになった。こういったとき、少し寂しそうな顔を見せると勝つことを伏見は知っている。 裏切り者というレッテルを自ら貼り、揃いの徴を焼き潰したことは事実なのに、今更こんなぬるま湯のようなじゃれあいが赦されるのかと伏見は徴の痕が疼くのを感じていた。
 こんな関係になりたくて、吠舞羅を抜けた訳じゃなかった。もっと、切迫した目線で見て欲しかった。それに、このパワーバランスは心地よすぎて何か大事なものを見失いそうになる。 伏見の複雑な内心を見透かすかのように、八田が口を開く。
「確かに裏切り者だといまでも思ってるけど……あーもう! 何でもいいから、バイト先で賄い飯もらったから一緒に食おうぜ」 こういった切り替えのスイッチが簡単に入るところも、変わってないな。と伏見は思った。いつだって直情的で、直感的で、そして恐ろしいほどの無垢さを振りまくのは、二人が別れたあの頃と同じだ。
「――野菜入ってたら、問答無用で捨てるからな」
「分かってるって。ったく、季節野菜が美味いのに勿体ねぇの、」
 八田がそう言ってゲーム機と金を置いて立ち上がると、小さな白い冷蔵庫を開ける。 部屋のなかに微かな冷気が漏れ出し、狭い1DKは少しひやりとした。 その後ろ姿を見ながら、伏見はいつが初めてだったろう――と考えていた。 気付けば、八田美咲の部屋に上がって帰るときに金を渡すようになっていた。だが八田は別にヒモ体質ではないのか、律儀に返そうと突っぱねるが毎回伏見に根負けして受け取ってしまう。受け取ったあとの金、それを使っているのか使っていないのかは知らなかった。 ただ、毎月の家賃を払うために度々単発の掛け持ちバイトをしているという情報は握っている――そのくらい調べるのは難なく済んだ。だから多分、伏見の渡した金は使われていないのだろう。それは憶測の域を出ないが、確信めいたものだ。
 使えばいいのに――という言葉が、何度もリフレインする。 もう、そんなものでしか関係を続けられないのだと思わせてしまえれば、どんなにいいだろう。無償なんて無い、金で八田美咲という男が買えたならばいいのに。

 その夜、テーブルに並んだのは居酒屋の賄いメニューらしく、生春巻きと豆腐ハンバーグ、それと採れたて直送の京野菜だから美味いと八田が楽しそうに喋っていたサラダだった。 伏見はそれを見るとげんなりしながらチッと舌打ちをして、「俺が食えるの、豆腐ハンバーグしかないじゃねえかよ」と悪態を吐き、サニーレタスやエビが半透明に透けている生春巻きと、京野菜サラダの皿をごそっと八田の前へ押しのけた。 そんなことは日常茶飯事なので、八田は特に気にもせず「野菜嫌い、直んねーのな」と笑った。 単純な笑顔を向けるな、と伏見は思う。例えば、憎み合っていたにも関わらずこんな風に簡単に家に上げてみたり、晩飯を二人で囲んだり、あまつさえ野菜が嫌いなことを忘れずにいてそれを笑うなんてことは止めてしまえばいいのに。 様々なことを考えながら、伏見は部屋をザッと見回し、若干小馬鹿にしたように口を開く。
「この部屋、四、五万の家賃なんだろこの感じだと」
「……るっせぇな、四万八千円に文句付けんなよ。駅とコンビニ近いからボロくても便利なんだって」
 八田が、サラダを口に運びながら合間に喋る。
「俺の渡した金、使えよ。なあ、美咲ぃ?」
「あれ、使ったら満足なのかよ。お前のなかの俺って、そんなものなの」
 本気で怒った様子ではないが、苦々しげな口調でそう言うと「――分かれよ」とボソッとつぶやいた。 そして、わざと雑な手つきで生春巻きに添えてあったチリソースをかけ、それに箸を突き立てた。ほんの少し、苛ついたような声音で「絶っ対に使わねえよ、」と言いながら、今度は茶碗に白飯をよそってかき込んだ。相変わらず、忙しい飯の食い方をするな、と思って伏見は笑う。 かぶりついた半透明の生春巻きの皮が破れて、パクチーや海老などの具が見えた。二口、三口でそれを食い終わると、じろりと伏見を睨んでから「金は預かってるだけで、何があっても使わねーからな」と言い切った。
 使えばいいのに、と思って伏見は半笑いをしながら豆腐ハンバーグを箸で崩して食べる。とろみのある葛餡がかかっており、ふんわりとやわらかい味がした。手放しに褒めるわけではないが、美味いな、と思いながらそれしか伏見の食えるものはないので口にする。 ふと、思いついたとでもいう感じで「じゃあ――」と言葉を発した。
「じゃあ、金の対価をくれよ、美咲」
 ねだるように言うと、八田が目を丸くして一瞬言われた意味が分からないといった顔をした。伏見はそれを見て、この表情は好きだな、と思う。釣り上がった猫目が丸くなるのは、どこか可愛いらしくて好きだ。
「――は? 対価?」
「そう。俺が月に最低三回は渡す、一回十五万に相応しい何か」
「じゅうごまん――」
 それは伏見が勝手にしていることだが、そんなことは忘れたかのように八田は神妙な顔をして色々と思案を巡らせ始めた。月に三回、十五万。合計で四十五万だと言うと、八田はしばらく固まって唸った。
「悪ぃけど、俺、頭悪いし何も持ってねーよ。なら、いま全額返すから」
「何言ってんだ、美咲ぃ――身体があるだろ、」
 慌てて金のしまってあるらしきキャビネットを開けようとした八田に対し、伏見がニタニタと笑みを浮かべながら頬杖をついて言う。
「え、」と言って八田がこぼれ落ちるのではないかと思うほど、目を見開いた。それは怯えのなかに、ひっそりと期待が息衝いている目線だ。中学時代、セックスの事後に見せた目線に少し似ているな、と伏見は思った。すべて合意だったが、八田は毎回幼い子供のように何か見えないものに怯えた。――それが、二人の別れに対してだったと気づいた頃には、二人はもう別々の道を歩んでいた。
「嘘に決まってんだろ、美咲のガキで童貞くさい身体なんかいらねぇよ、」
「んだよ! 一瞬、本気にしたじゃねえか! ちっくしょ、死ねクソ猿!」
 一瞬本気にしたと言ったのはどういった意味だろう、と聞いても美咲は離れないだろうか――と伏見は考える。きっと美咲は何でもねぇ、って背中を向けるに違いないけど。と思うと、どうしようもなく虚しくなった。すべて、自分から仕掛けて、裏切り者として生きようと決めたはずなのに、たまにこうして昔の関係に戻りたくなるのはなぜなのだろう。それから二人は無言で飯を平らげ、皿をシンクに運んだ。無言でいるのが心地よいときと、悪いときがある――いまは、後者だ。 シンクの片隅を見ると、コップに三輪ほど白い花が挿してあった。八田が花を買っている姿を見たことはないので、伏見は思ったまま「美咲、あれ何」と口に出した。女とは無縁な上、居酒屋バイトの同僚が花を持ってくるとは考えにくい。
「あー、これな。草薙さんが店用に買ったらしいんだけど、買いすぎたからってみんなに分けてくれたやつ。薔薇とも違うし、薔薇と比べるとこいつの方が丸っこいし、なんだろうな」 八田が首を傾げているので、伏見はコップに挿された白い花をタンマツで写してデータを照会させた。一瞬で、タンマツのディスプレイに、その花の様々な写真と和名や品種が浮かび上がる。 見やすいようにと、立体ディスプレイをひとつ出して「これ、」と言って説明をする。
「どうやら検索結果によるとラナンキュラス、みたいだな。もう秋だからとっくに時期過ぎてるけど、あの人のことだからきっと上手いこと交渉したんだろ――多分、ビクトリア・ストレイン」
「え……花のストレインってすげえな!」
「違ぇよ、品種名だろ普通に考えて。何で花がストレインなんだ、」
 立体ディスプレイを閉じながら呆れていると、八田がそわそわしながらティッシュを箱から出して数枚折り、少し蛇口をひねると水に浸した。そして、アルミホイルが家の中にないのか、しばらく探してかろうじてあったサランラップを出すと、ラナンキュラスを一本手に取って一番下の切り口に濡れたティッシュを巻きつけ、その上から器用にサランラップで覆った。 それを見た伏見は、やけに慣れた手順だしこいつ花屋でバイトでもしたことあるのかな、と思って八田と花屋という不似合いさに少し笑った。 「ほら、」と言いながら、八田が伏見に水を浸した白いラナンキュラスを差し出す。 「三本あるから、一本やるよ。折角もらったんだし、萎れないで長持ちするといいんだけどな」 要らないと言う必要性も感じなかったので、伏見はそのままラナンキュラスを受け取った。白い花弁が真ん丸く重なっており、花を飾る趣味はないけれどきれいだな、と素直に感じた。 萎れないで長持ちするといいんだけど――という八田の言葉がやけに切なかったので、伏見は帰ったら切花を長持ちさせる方法を調べようと、何度も繰り返し思う。

 また来る、とも何とも言わずに無言で隊服のジャケットを羽織り、うつらうつら眠そうにしている八田の頬を撫でるように触れるとアパートの部屋を出た。八田の部屋は古いアパートの二階で、階段を下りるときにカツンカツンとブーツの踵が当たって、階段裏の鉄錆が落ちる。何だかこれは、誰かに知られたら誤解を受けそうだな、と階段の手摺りをつかみながら伏見は思った。そして、まあ誤解じゃないけれど――と、あらためて自分が八田へ向けている感情のベクトルを再認識する。月に何度か男の部屋に上がり、その男へ金を落とす。 八田は別段、伏見に養われたいなどというつもりは毛頭ないので当然のように拒否されるが、その場合はポストへ金を投函することにしていた。 止めろと何回言われたことだろうと伏見は思い、そのときのことを思い出して少し高揚する。 「何の意味があるんだよ、」と聞かれたことがあった。 「意味は――多分、ない」そう言ったとき、伏見の顔は苦渋に満ちていて、八田はそれを前にして黙り込んでしまった。あれ以来、渡す金の意味を聞かれることはほとんどと言っていいほど、なくなった。
 八田や吠舞羅の連中が口に出す、絆というものが伏見は少し苦手だ。 生ぬるい絆なんていうものではなく、もっと自己中心的で強固で、いかなるものにも屈しないほどの感情は――一体、何と呼べばいいのだろう。 ほとんどのものは金で繋げるのだと、伏見は馬鹿らしいと思いながらも知っている。金の切れ目が縁の切れ目、などという言葉に自嘲を浮かべながらアパートを振り返り、スプリングの硬いベッドで横になる八田美咲の姿を想像した。 そして、潰さないようにそっと握った一本のラナンキュラスを持ち直し、自室のある寮へ足を向けた。

 翌日、仕事が終わると花屋へ行って、花の栄養剤を買った。切花用なんていうものもあるんだなと感心しつつ、花瓶などないので八田と同じようにコップに水を注ぎ、その中に買ってきた栄養剤を垂らす。 鮮やかな黄緑色のリキッドが水に溶けて色が薄まり、やがて色が見えなくなった。 自分のこの鮮烈なまでの感情も、こんな風にいつか薄まって見えなくなるほど溶けるものだろうか――と、伏見はそれをぼんやり見ながら思う。

2.センチュリープラント

 夜勤明けの飲み会帰り、怠い身体を引き摺るようにしながら、伏見は八田のアパートへ向かった。タクシーがつかまらなかったので、仕方なく電車に揺られて下車してからアパートまで少し歩く。こんなとき、駅から近くて助かったと思う。 八田もその日は夜勤なのか、インターフォンを押しても誰も出てこなかったので、伏見はドアに凭れかかりながらズルズルと座り込んだ。秋の朝はアパートの廊下さえも冷やしており、ひんやりとしてどこか心地よい。 ジッと階段を見つめながら、八田が帰ってくるのを待つ。 三十分、いや一時間は待っただろうか。カンカンカンッと軽快に跳ねるような足音が階段から響いてきた先を見ていると、八田が秋にも関わらずいつものハーフパンツ姿で駆け上がって来た。伏見がドアの前で潰れているのを視認すると、少し驚いた顔をしながら走り寄った。
「何でそんなとこ座り込んでるんだよ。っつーか、ドア開けらんねーんだけど」
「……飲みすぎで頭痛いんだから、大声上げんな。頭に響く、」
 潰れている伏見が珍しいのか呆れたのか、八田が「お前、まだ十九だろ」と言った。
「美咲だって、同い年のくせに」
「俺は七月で二十歳になったから飲めるんだよ! サルより歳上ってことを、思い知れ!」
「ハッ、たかが誕生日が数ヶ月ちがうだけで歳上面してんじゃねえよ。まあ、単に流し込むのとアルコールを分解出来る体質は別だけどな」
 そう言いながらも、散々飲まされた身体は伏見の言うことを聞かず、ぐったりと冷たい廊下に横たわった。溶けるような、そんな感覚を享受しながら伏見はゆっくり目を閉じる。 そんな伏見を見ながら、八田が屈み込んで「ここで寝ながらグダグダ言ってんのか、中に入るかしろっての」と、呆れ返った。 いま起きる、と言いながら廊下の床に手をついて、ゆらりと立ち上がる。飲みすぎて緩やかに回転している視界が自分らしくないな、と伏見は少しおかしく感じる。
「吐く? 吐かねえ?」
 気遣われるのは、少し苦手だ。こんな醜態を晒すためにここに来たわけではないのに、と思いながら「そこまでじゃない」と短く答えた。
(――本当に、ここまでハマるつもりじゃなかったのに)
 吐き気はないものの、飲み会のメンバーが注文したものがことごとく伏見の食べられないものばかりだったので、仕方なく酒ばかり飲んでいたのが後を引いているのか、どうにもふらつく。 ピッチが遅いことに誰も気付かず、伏見は酒に強く飲んでいるのだと勘違いされて次々と注がれた。安い酒っていうのは不味いのか。と、以前、HOMRAで草薙の高そうなブランデーをこっそり八田と一緒に飲んだときのことを思い出していた。かなり昔、中学の記憶だが、寧ろ蜂蜜色をしたあの酒は美味かった。
 靴を脱いで、数日ぶりに八田の部屋に上がり込む――。 ゆっくり回る視界のなか、部屋の突き当たりを目指し、窓際に置いてあるベッドに突っ伏す。 ああ、この部屋は全部美咲の匂いがするな。と当たり前のことを考えながら、丸めてあったブランケットに鼻をうずめてスンと嗅ぐ。ブランケットはやわらかく、アイボリーの色合いが落ち着く。 いつだって、八田美咲という男は陽溜りに似た匂いがする。その陽溜りに、翳があることに気づいたのはいつからだったろう。教室でも吠舞羅のなかにいても、誰かが家族の話題を出すとフェードアウトするように一歩下がって黙り込んでいた。中学の頃、八田の顔や身体に生傷が絶えないのは父親のせいで、再婚相手の新しい母親はそれを笑いながら見ていると聞いたとき、伏見は激しい憎悪が沸き立った。そんな伏見を横目にしながら「別に慣れてるし、」とつぶやいたあと、いまはいない実の母親の話をしながら潤ませた目が脳裏に焼き付いて、もう何年も離れないでいる。 中学を卒業してこのアパートに引っ越したとき、八田は殴られた痕を残しながらも晴れ晴れとした顔で「これで自由になれたから――」と言った。あの言葉の後に続くのは、一体なんだったのだろうと伏見は分からないままだ。 今日もバイト先で賄いをもらってきたのか、冷蔵庫に色々と食料を詰め込みながら、八田が呆れ半分に「大丈夫かよ」とブランケットを抱いている伏見に声を掛ける。それに甘えるようにして、伏見が声を返す。
「美咲、何でもいいから水分、」
「……お前なあ、加減して飲めよ。つか、青の王とかその周りってそんな飲ませ方すんのな。何か、意外っつーか、」
「あー、これは前に所属してた情報課の飲み会。うちは室長が変に生真面目だから、飲み会とか呼ばれてもアルコール類は回ってこねえよ。情報課に対しては、面倒だけど一応まだ付き合いもあるし」 冷蔵庫へ詰め込み終わったのか、水をたたえたコップを持った八田が「何か疲れてんな、」と言った。 「夜勤と日勤通しで、連勤四徹やってるからじゃねの。四徹明けの飲みとか、馬鹿みてえ。まあ、有能とか色々持ち上げられても結局は働かざる者食うべからず、だしな」 ほら、水。と渡されたコップの表面には水滴がびっしりと浮いている。徐々にエアコンの利き始めた部屋は涼しくなってきた。 この熱が、伝わったらいいのに――。と思いながらひたひたと満ちた水を受け取り、飲み干してからコップを返す。 「仮眠取るなら、ジャケット脱いで掛けておけよ。それ、皺んなったら困るんだろ」 おとなしく言われたとおりに伏見がジャケットを脱いで渡すと、八田が受け取ってハンガーをフックに掛けた。ジャケットを渡したとき、少しだけ胸が痛んだ。だが、裏切ったことを悔いてはいないと思いながら横になる。
「サル、そっち少し詰めろよ」
「……チッ、セミダブルだから狭いんだよ。美咲、お前いい加減諦めて、俺のためにダブルベッド買うか床で寝ろ」
「なっ、んで自分の家なのに俺が床で寝るんだっての! 第一、セミダブルにしたのだって……! 何でもねぇよ、」
 八田が大声で反論しながら、ベッドに寝転がっている伏見を無理矢理窓際に追いやる。伏見はブランケットを持ったまま、渋々狭いベッドの隅へ移動した。 落ちるか落ないかのギリギリなラインに、八田が寝る。ブランケットも枕も伏見が占領しているので、どこか落ち着かないと思いながら、背中合わせの鼓動を互いに感じていた。 男二人には狭い、このセミダブルベッドは、いつまで自分の存在を赦してくれるのだろう。と伏見は思う。八田が転がり落ちないように、寝返りを打つのがやっとという姿勢のまま、カーテンとカーテンの合わせ目から見える外をぼんやり眺める。外は、何ひとつ変わらない世界が広がっている。 伏見と八田にとってすべてが変革してしまったというのに、それを無視するかのように、世界は穏やかな秋の日差しで照らされている――。

 夕方、伏見は意識がはっきりとするにつれて醜態を晒したことを恥じて、目を閉じたまま横になっていた。いつの間にか寝返りを打ったのか、二人は向かい合わせになって寝ている。 美咲の匂い、何も変わってないな――と思いながら、様々な記憶がよみがえるのを止められずにいた。学校の廊下ですれ違うときにさり気なく手の甲を触れ合わせたこと、制服のシャツの下にキスマークと噛み跡を付けたこと、放課後に必死に八田が伏見のノートを写していたこと、何もかもが懐かしい過去だ。 そんなことを思い出しているうちに八田が起きたのか、隣でもそもそと動く気配がした。目を瞑っていると、起きた八田が伏見の目の縁に触れて、「こいつ、睫毛なっげぇの」と言ってひとり笑った。 楽しそうに笑いつつ、音を立てないように八田がベッドから下りる。 少し時間をおいて伏見が目を開けると、八田が居酒屋バイトの制服を洗濯機に放り込んでスイッチを押したところだった。美咲、と呼ぶと、ハッと伏見の方を向いた。
「悪ぃ、起こしたかも」
「あー、どうせ今日は連勤明けだから何時に起きても平気だし。飯、食べるならハーゲンダッツのラムレーズンがいい」
「はあ? なに贅沢言ってんだよ、」
「だから、ダッツのラムレーズンしか食わない。支払いが気になるなら、タンマツがジャケットのなかに入ってるから持って行けよ」
 それを聞いて、八田が盛大な溜め息をついた。伏見が変なところで強情なのは、誰よりもよく知っているからだ。
「……お前、何も変わってねぇのな。行ってくればいいんだろ、アイス代くらいいらねーって」 八田が自分の財布を探す物音がして、ジャケットを着込むと「じゃ、行ってくるから」と言って玄関まで少し早足で歩み、靴を履いた。ドアが開閉されると、そこの部屋には伏見ひとりが残される。 やっぱり何年経っても好きだな。と思いながら、ベッドの上に丸まってブランケットのかたまりをそっと抱く。しんと静まり返った部屋は、どこか寂しく、そしてうつくしい思い出だらけだ。
 中学の授業で見た、胎児の連続写真のように丸くなる――思い出という名の羊水に浸かるのは心地よい。あの頃は、二人きりで生きてきた。それが、世界のすべてとはじまりとおわりだった。 胎児というものは発生して、形作られ、そして胎内で育ち、生まれ落ちる。生まれ落ちないで、このままこの部屋で暮らせたら楽だな、などと若干、伏見らしからぬ想像をする。
 そんな体勢で、うとうとしているうちに八田が階段を駆け上がってくる音がした。駅とアパートのあいだにコンビニがあるので、便利だと話していたのを思い出す。
 鍵を差し込み、ドアノブが回される。思い切りドアが開けられて、八田が帰った。 いつものニットキャップを被って行かなかったのか、はたまたスケボーで飛ばし過ぎたのか、髪の毛があちこちにぴょこっと跳ねていた。 「ただいま、」と言われれば、「おかえり、」と返すしかないだろうに、さも当たり前のようにそう言ってくる八田美咲という男は、どこか切なさを隠しきれないでいる。 待たせて悪ぃ。と言いながら八田がジャケットを脱いでハンガーに掛け、伏見のジャケットの横に吊り下げた。
「ラムレーズン無かったから、クッキー&クリームとグリーンティーにしたけど、サルはどっち食う」
「クッキー&クリーム一択だろ。グリーンティーフレーバーとかは、何だか室長連想して仕事思い出すからいい」
 伏見が苦い顔でそう言うと、八田が声を上げて笑った。 ほら、と言いながら丸まっている伏見目掛けて、コンビ二のビニール袋を軽く放り投げる。それを上手く片手でキャッチして中身を確認すると伏見はベッドから起き上がり、口許に笑みを浮かべた。 「なあ、美咲がアイス食べさせて、」ベッドの縁に座り、足を怠そうな素振りで振り子のようにさせながら、わざと甘えた声音で言ってみせる。 八田が呆れたという顔をしながら伏見を見て、しょーがねぇな、と言った。しょうがないんだ、と伏見は内心応える。この気持ちは、どうしようもない――。 「病人か、手前は」 そう言いつつも八田が隣に座ってアイスの蓋を開け、白いプラスチックのスプーンで掬う。伏見が出した舌の上へそれが載せられる。 何よりも赤い舌の上で、白いアイスクリームがドロドロに溶けてゆく。それはどこか禁忌を含んでおり、八田が緊張した視線を向けるのを、伏見は上目遣いでジッと見ていた。 三口ほど食べてから、八田に問いかける。 「何、考えてんだよ」 「や、懐かしいなって。お前、中学んときに熱出して、家に家族誰もいないからって言って俺にアイス買ってこいって言ったことあっただろ。だから、」 そこまで言ったあと、八田が声を詰まらせるのを伏見は見ていた。 だから、なんだ。と伏見は追求したくなる。それは糾弾に酷似している。
 思い出して、重ねて、それで今更懐かしいとでもいうのか。一度裏切られたくせに――。そんな声が伏見の脳髄、それも中心で叫んでいた。 「……何でもねーから、疲れんだろうし眠いなら寝てろって、」 途切れた言葉を掻き消すようにして八田がブランケットを掛けようとしたが、伏見は不満げに「アイス、」と言った。 「まだ半分以上残ってんだろ、食わせろよ」
 少し挑発的に出される言葉は八田にぶつかって室内に拡散され、そしてただの音となって消える。アイスクリームのカップを持つ左手、スプーンを持つ右手、それらがふさがっているのをいいことに、伏見が両手首をとらえる。エアコン直下で冷え切った伏見の手はつめたかった。
「――何、」
「美咲の手で、俺に食わせてって言ったの聞いただろ」
 だから何だ、と言いたそうに不審げな顔で八田が伏見の顔を見る。二人分の視線がかち合って、そこに絶対的な上下関係が発生する。それは決して逃れられないものであり、二人の過去から現在へつながる負荷だ。 食わせて、と伏見が再度強請ったとき、それは起きた。 「あ、こぼした」と、八田の発したどこか間の抜けた一言で、硬直していた姿勢が溶ける。呆気ないまでにその場を支配していた圧力は掻き消えた。 口に出して事後確認するまでもなく、アイスクリームは八田の手から太腿に垂れ、重力のまま床へと伝い落ちていった。 そんな様を見ながら、伏見が「何してんだよ、」と形だけの文句を言い、ベッドから一旦下りて八田の脚のあいだにうずくまる。数秒後、ハーフパンツの布地が、ざらっと音を立てながら伏見に舐められた。まるで、こうなることが分かっていたかのような事の運びに、八田は緊張を隠せずに息を呑みながら伏見の頭を見つめる。 ざらりという微かな音が、密閉された室内に響く。 八田のひしひしとした緊張が届くのが楽しくなったのか、伏見がわざと太腿の付け根に近い場所を舐めた。思い出せばいいのに、かつて美咲がこうしていたことを――、と執念の渦のなかで祈るように思った。それは決してストレートに届かないゆがんだものだが、少しでも八田美咲という男の精神的深部に到達出来たならば、と願い止まない。 触って欲しい? と、ボソッとした言い方で聞くと、返って来たのは無言だった。無言は狡い、と伏見は苦渋を浮かべる。 八田がみずから落ちてくるのを、伏見はじっと待っている。以前はほぼ二人同時に落ちた――。落下して、感情の自殺体のようなものがじくじくと残った。感情が腐り落ちてしまう、という恐怖から逃れるために二人は踏み切ったと言うのに。結局、それぞれの居場所が決定的な糜爛要素を取り除いた。爛れることなく、その感情と意思はふたたび小さな芽となり埋め込まれる。まるで、自爆機能付きのマイクロチップだ――と伏見は常々思う。いつ芽吹くか分からないものが、体内にあるのは不安でしかない。 伏見が上を向くと、うつむいていた八田が視線を逸らした。まるで、見ていたことが罪だとでも言わんばかりの仕草がおかしくて、伏見は八田を揶揄いたくなる。
「美咲、こっちにもアイス付いてる」
 まともに伏見を見ることもなく真っ先にティッシュへ手を伸ばした八田の腕を手に取る。そのまま伏見は立ち上がって八田の身体を反転させてベッドに押し倒した。完全に反転するでもなく、横倒しのような姿勢になってしまったが、露骨な警戒心がピリピリと伝わってきて伏見は高揚する。獲物を狩るには、こうでなくては――と思わせてくれる相手、それがいまの八田美咲だ。 手頸、痛ぇ。と小さな抵抗の声がする。思わずじっと見ると、動物が威嚇しているような目つきで八田が伏見を見た。離すものかと思っていれば、それを見透かすようにして、「逃げねーから、」と言われので掴んだ手頸を解放して、八田の片手と手を握り合わせる。 押し倒した八田に覆いかぶさりながら、片手をシーツの上へ固定する。さっきまで食べていたアイスの、バニラっぽいフレーバーがいやらしい雰囲気を作り出す。 ハーフパンツの布地を舐めていた舌が、ざらり、と八田の頬を這った。 何度も、いままで八田の精神に出来た傷を抉るようにして舐める。 美咲の頬、美咲の肌の感触、美咲の頸筋、美咲の目玉――そうカウントしながら、次々と食み、齧り、舐める。一応、伏見は手加減をしたのだが、頸筋に噛み付いたときはさすがに痛かったのか、八田が顔をしかめた。 きれいな二つあるうちのひとつ、右側の目玉を舐めたときはさすがに抵抗されので、大人しく口唇にキスをした。これで八田は大抵のことから乖離されて静かになるからだ。伏見の思ったとおり、ただ一回のキスで声を出せなくなった八田が、何かに堪えるようにして目を閉じた。舌が絡まるというよりは、伏見が一方的に八田の舌を探り、そしてその喘ぎ声を聞くという状態がしばらく続く。 は、と息継ぎをしたいのか、漏れる声がやけにエロいんだよ。と伏見は思いながら八田の舌を追う。 八田の身体が、小さく震えるのが伝わる。こんなこと、セックスをしていた頃には当たり前だったというのに、可哀想なほどに人肌というものに触れてこなかったこの数年のブランクが、伏見という存在を八田の皮膚に刻む。キスをしながら、少し口唇を離した際に「怖ぇよ、」と八田が怯えた声でつぶやく。それは何が怖いのだろう、と伏見は思いめぐらせる。この行為が怖いのか、それとも過去を思い出して怖いのか、はたまたまた離れるのが怖いのか――。きっと、どれも当てはまるに違いない。
 唾液が混じり合う――それは交換されるものではなく、口腔内を犯される八田のなかが二人分の唾液で汚されるという意味だ。他人の唾液なんてごめんだと伏見は思っていたが、それは八田限定で解除される。何もかもを取り込みたい、甘ったるい唾液も、きれいに揃った歯も、赤い舌も何もかも、自分のものにしてしまいたい。 これは狂気だろうか、狂気ならもうそれでいい。――伏見はそんなことを思いながら、口の端をつり上げて笑う。 横倒しになった八田に合わせて、身体を覆い被せながらキスを繰り返した。 やっと少し慣れたのか、怖ず怖ずと絡めかえされる舌がこれ以上なく熱かった。二人して息が上がり、意識が上昇するのが分かる。意識の上昇は、水分の蒸留にどこか似ていた。感情という名の水分は一度気化され、そしてそれが冷却することにより、再び水分となりすべての不純物が取り除かれた状態になる――そうだ、これは感情の蒸留なのだと伏見は痛切に思う。 口唇を離した八田が、恨みがましそうに声を出す。
「お前――何でこんなこと出来んの、」
「美咲ぃ、相変わらず言葉足らずなの直せよ。こんな、って何。何が出来て、何が出来ないのかその口で言ってみせろよ、なあ」
 伏見が喉の奥で引き攣った笑いを上げて、「ほんっと、単純馬鹿」とかすれた声で言う。 そして、横倒しになったままの八田をポンポンと軽く叩きながら、「泊まるから、」と親しげな声音を出した。この声は苦手だ、と八田が思うのも知らずに、伏見は言葉を続ける。 「通しで連勤だった代わりに、今日も含めて二連休出来たし……っていうか、もぎ取ったから泊まってく、」 「なっ、んで、裏切り者のお前を泊めてやらなきゃいけねーんだよ! 寮があるんだろ? 帰れよ!」 八田が飛び起きながら大声を出すと、伏見がさも不機嫌そうに「こっちはこっちで、同僚の顔見ながら暮らす生活に疲れてんだって、」と溜め息を吐きながら言った。
「知らねーよ、勝手に吠舞羅出てってセプター4入ったんだろ」
「勝手……ねえ、」
「お前が出て行って、俺がどんな気持ちだったか知らないくせに、」
 変わってないなこいつも俺も、と思いながら、伏見が立ち上がってジャケットのなかから数枚の紙幣を出し、それを八田の上へ降らせる。バラバラと、万札が散った。 また金で誤魔化される――八田が警戒したところに、伏見が呆れた声を出して言った。
「じゃあ、美咲は俺の気持ちを知ってるの」
「え……、」
 言葉は、八田の中枢を的確に射抜く。 伏見は対八田美咲において、ほとんどの場合が勝てる勝負しかしない。ゲームで言えば、チート状態でしか戦わないと言ったことが多いが、この場合もそうだった。仕上げに、少しの哀しさを見せればパーフェクトだ。
「美咲こそ、俺がどうして吠舞羅を抜けてお前を裏切ったのか、セプター4に入った経緯も何も知らないくせに」
 ――沈黙が、痛いほど刺さった。 だが、これでいい。と伏見は分かっている。これで、更に八田は伏見を見つめることになる。その視界を独占したいと思い始めてから、こんなにも日が経ってしまった――だが、執念は消えることなく陽炎のようにゆらめいている。 八田がうろうろと言葉を探すのを見ながら、伏見が先に口を開く。
「嘘、美咲――ごめん。俺はお前が見たままの裏切り者だ」

「泊まってくって、服どーすんだよ。中学んときの服で良ければ、取ってあるけど……」
 ベッドから起き上がって下りた八田が、伏見と向かい合いながら悔しそうに言う。
「身長ほぼ変わってないから、それで充分。オフ日なのに、隊服で出歩くのもどうかと思うしな」
 そしてシャワーを借りたいと言うと、八田がキャビネットを引っ掻き回して、以前伏見と一緒にいた頃に買った客用のタオルを出した。フカフカのタオルの真ん中を手で押すと、ふたたび膨らむほど弾力のあるものだ。それは、どこか八田のようで伏見は面白かった。しかも、律儀に中学時代に泊まったときの服がとってあるとなればなおさらだ。結局のこと、何があろうとも二人は離れられないでいる。
「美咲、一緒に入る?」と聞くと、八田が顔を赤らめて「馬鹿じゃねえの!」と言った。これだから、意識している童貞を揶揄うのは楽しい、と伏見は内心楽しげに笑う。
 脱衣所で隊服を脱ぎ、皺にならないように伸ばしながらハンガーに掛ける。シャワーを借りると言っただけなのでバスタブに湯は張ってなかったが、浴室に入るとそこは一面八田美咲の纏っている匂いに満ちていた。中学のころから変わっていない懐かしいシャンプー、ベビーパウダーに似たやわらかく甘ったるい香りがする。それに当てられて、伏見は酔ってもいないのに視界が回るのを感じた。いくら童貞だからとはいえ、二十歳の男がベビーパウダーの香りがするシャンプーを使うのはどうなんだと、伏見は思う。それは、ほんの少しの、やましさを秘めていた。 八田の匂いにまみれつつ、一通りシャワーを浴びて髪と身体を洗い、浴室から出ると少しホッとする。 ドライヤーで髪を乾かしてしまったら、身体についた甘くやわらかな匂いが消えてしまいそうで、どこか心許ない気がしたので軽くタオルドライするだけで済ませた。 脱衣所のドアを開けると、八田がゲームをやっているのが視界に入る。 「上がった、」と言って声をかけると、八田がぎょっとした感じで伏見を見た。そして、ゲーム機を置くと立ち上がって伏見を指差す。
「ちょ、っと、服、上もちゃんと着ろって!」
「あ? 何でまだシャツ着てないだけで、美咲が顔赤くするんだよ。別にいいだろ、このくらい」
 反論すると、八田があーとか、うーとか呻りながら、とにかく! と言った。
「とにかく、そんな格好でフラフラされると落ち着かねぇって分かれよ! ほら、手に持ってる服着ろ!」
「落ち着かないって、俺がお前にこんなことするからだろ? 美咲ぃ、」
 立ち上がった八田を壁際に追い詰めて、手をついた。両腕のあいだに挟まれた八田は、目を大きく見開きながら自分の置かれた状況を把握して、しばらくした後に真正面から伏見を見た。 軽くタオルドライしただけだったので、伏見の中途半端に伸びた髪の先から水が滴り落ちる。ひた、と一粒の水滴が八田の足元に落下した。伏見は両腕のあいだに八田を追い詰めながらも、表情を見せないように下を向いていた。 「何だよ、」と八田が不審がりながらも口をきく。 数秒固まってから、伏見が下を向いたまま「美咲、」と呼んだ。
「美咲、お前、中学んときに俺と何度もセックスしたの、覚えてる」
 お願いだから、覚えてると答えて。当たり前だろって、笑って。かつて俺に見せたあの笑い方で、馬鹿だな覚えてるに決まってんだろって頭はたいて。
 ――そうじゃないと、もういい加減おかしくなる。 伏見がこわばった声で聞くと、八田が溜め息を吐いた。
「……忘れた。お前に裏切られたから、俺は全部忘れたよ、猿比古」
 両腕のあいだにおいて、こんなに緊張していまにも犯されるんじゃないかと怯えたような身体を持っておきながら、全部忘れたとか言えるお前を殺せたら――いっそ楽なのに。と伏見は血を吐くように思う。
「何で美咲はそんなに残酷になれるの、」
「――猿比古が、先に裏切るから、だから」
「だから俺に対して酷いことしても、言っても、何もかもチャラに出来ると思ってるって? ほんっと、都合良すぎて反吐が出る」
 今までに対しての激情をぶつけるかのように一気に出すと、八田がグスグスと涙声と洟声で「だって……」と言う。
「サル……が、離れた……の、が、先だったし……お前が、」
「あーもう、ガキみたいに泣いてんじゃねえよ。ほら、こっち向けってば」
 そう言いながら、ぐずる八田との顔の高さを合わせると伏見がおもむろにキスをした。何度だって、八田美咲と繰り返すキスはどこか甘苦い。 八田は、また誤魔化されるのかと言った顔付きをしながらキスを享受していた。そして伏見は、それを見ながらこれで正解なんだ、と思う。 散々揶揄ったので、もういいかと思いながら伏見がシャツを着る。八田は少し震えながら、それでも頑として忘れたと言い張る態度をとっていた。なあ、と声を掛けられて、伏見は八田を見る。
「お前、付き合ってる奴とかいんの?」
 余りにも唐突な問いかけに、まじまじと八田の様子を観察した。僅かに照れたような顔を見せながら、だから……付き合ってる奴、と八田が繰り返す。
「美咲は、俺に恋人がいたほうが都合いいの、」
「おい、何で質問に質問で返すんだよ」
 珍しく八田が矛盾を指摘したので、伏見は少し楽しくなる。
「――いまは、いないと思う。全部俺が壊したから、」
(だから、お前のこともお前の信用も、何もかもなくしただろ)
「じゃあどうして、俺にこんなことするか教えろよ」
「好きな人が、相手にしてくれないからじゃねーの。自分でも分かりたくないけど、」
「何だ、好きな奴はいるのか、」
 そう言うと、急激に落ち込んだ様子になった八田を見て、伏見は可愛らしいと思うのを止められなくなる。目の前の、成人した男が自分よりも数ヶ月とは言え歳上だと伏見は考えたくない。 落ち込んだ八田が思ったよりも面白かったので、伏見は更に言葉を続ける。
「まあ、俺なんかは相手にされてないっぽいけど、それでもたまにキレるところが、逆に可愛いって言う、」
「……あ! ツンドラの女だろ、ってあの女、キレんのか?」
「美咲……お前、淡島副長に裂かれるぞ。何で俺があのダンベルで暇つぶししてる人に惚れるのか、逆に教えて欲しいくらいだな」
 誰だか分っかんねえ、と言って八田が眉根をひそめる。その仕草があまりにも子供っぽく拗ねたようだったので、伏見はおかしく思えて、喉を鳴らして嗤う。 多分、分からないくらいが幸せだ。きっと、馴れ合いは二人には、もう似合わないのにこんな無駄口をききながらじゃれあっているのは、なぜだろうと思う。 嗤われたのが癪に障るのか、八田がじろりと白目のきれいな三白眼で伏見を見る。その目線は、八田の健康さに似合わないどこかしら卑屈を含んだものだ。八田と伏見が惹かれあう理由は、二人の暗部が近いものだからということをいまだ共に認めないでいる。

 そういえば――、と八田が話題を変える。
「サルは腹減らねぇの、」
「俺は減ってないけど、美咲は?」
「んー、まだ。っつーかさ、さっきお前が風呂に入ってるあいだ、ニュースで見た『リュウゼツラン』とかいうの見に行きたい」
 聞きなれない単語が、八田の口からこぼれたので伏見は理解するのに何度か脳内でそれを組み立てなおす。そして、どこかに記憶と合致したのか、ああ、と言ってから口を開いた。
 リュウゼツラン――龍舌蘭、か。
「あれだろ、百年に一度しか咲かないとかいうセンチュリープラント」
「そそ、それそれ。すごいよなー、百年に一度って!」
 何が美咲の琴線に触れたのか訳が分からない、といったように伏見が頭を振る。ただ、先日器用に脱脂綿代わりにティッシュでラナンキュラスを包んだように、花屋でバイトの経験でもあるのかも知れないと思った。それならば、八田美咲と花、という組み合わせが別段おかしいものでもない――ような気もした。
「だけど、植物園がこんな時間にやってんのかよ。もう夜の十時近くだろ、」
 明日まで待てよ。と伏見が言おうとしたとき、八田が人差し指を伏見につきつけてやたら大きな声で言った。
「サル、聞いて驚け。そのリュウゼツランとか言うのが咲いた記念に、植物園が深夜二時まで開いてるって! とっとと行こーぜ!」
「はあ? 何で、たかがちょっと珍しい植物が咲いただけで、深夜営業する必要性があるのか理解に苦しむ……」
「だって、百年に一度なんだろ? それってすっげぇことなんじゃねーの? 俺がその花だったら、猿比古と同じ時期に咲きたいし、枯れたいって思うからやっぱりすげえよな」
 どうしてこの男は、言葉の爆弾を落とすのだろうか。伏見は八田の単純なはしゃぎっぷりを見ながら、少し動揺していた。それはつまり、伏見と一緒に生きて死にたいと言っているに間違いない言葉だ。
 そして、ペシッと八田の頭を軽くはたくと「童貞が天然で誘ってんじゃねえよ」と言った。
「で、どこか分かってんだろうな、」
「えーっと、新宿熱帯花鳥園」
 伏見がタンマツを出して、軽く指を滑らせる。
 新宿熱帯花鳥園、と入れるとオフィシャルページが早速第一候補に出た。
「それなら、駅から歩ける距離っぽいな、いま検索かけたら徒歩十分だと――」
 全部を伏見が言い切るか言い切らないかのうちに、八田が自分の用意を始めた。その様子を見ながら、「美咲が買って来たクッキー&クリーム美味かったから、アイス代」と言って万札を更に何枚かテーブルに置く。
 それを八田がまとめると、慌てて伏見に突っ返しながら「なんで二百八十円のアイスが、万札に化けるんだか訳分かんねえ」と言う。
「美咲代だから、取っておけって」
 ひらひらと手を振りながら言うのだが、八田は冗談じゃないとでも言いたげに伏見に押し返す。
「んだよ、その『美咲代』って! 売り物じゃねえよ!」
 八田のセリフが、やけに痛々しく伏見に突き刺さる。売っていたら簡単に手に入るのに。と思わざるを得ない――。

  
3.瑠璃紺色の鳥が飛ぶ夜

 急ぎながらジャケットを着込むと、二人して電車に乗り込んだ。 伏見は中学時代の服を着て、八田の隣で電車に揺られる自分という久々のシチュエーションが少しおかしく思えて、美咲のやつよくこんな服取っておいたな、と嗤った。 多分、思い出――なのだろう。そうだ、八田は伏見とセックスをしていた頃のことを忘れたと言っていた。すべてが記憶の彼方に追いやられ、いまの八田美咲という男は伏見の知っている少年から成長してしまった姿だ。少しのことで意識するほど覚えているくせに、忘れたと言い張る八田のことが伏見は好きだ。――この上なく、好きだ。 二人して渋谷や新宿へ行った中学時代が懐かしくなったのか、八田がギュッと伏見のジャケットの裾を握る。その仕草のなかにある子供っぽさは、ベビーパウダーの匂いのシャンプーに相応しいものだ。 新宿駅に着くまでのあいだ結局座れなかったので立ちっぱなしだったが、八田はずっと伏見のジャケットの裾を握っていたし、伏見は握られた裾とその手をじっと見つめるように観察していた。
 駅に着いてから、中央東口を出て新宿三丁目方面へ歩く。
 夜十時を過ぎていても、居酒屋やキャバクラの客引きが本領発揮といった感じで威勢良く声をかけている。伏見と八田は、そんな客引きやサラリーマンの波のあいだを縫うようにして、ただひたすらに歩いた。伏見が先導して歩き、その後を慌てて八田が小走りに追う。
 ひとしきりごった返した人混みを抜けると、抜けるような紺藍の空と、満月がビル郡のあいだに浮いているのが見えた。
 ――満月の下、二人はただ歩く。
 憎み憎まれていた関係になる前の、元の関係におさまったかのように、秋の夜の空気を吸い込みながらただひたすら花鳥園目指した。
 公式サイトには新宿駅から徒歩十分弱、と書かれていたが、正確には徒歩十五分歩いたところにそれは出現した。
 都心の真ん中に、こんなにも鬱蒼と茂った森のようなものがあるのかと、伏見も八田も少し驚いたように前方を見て、目を見張らせた。
 キラキラと、銀色に輝く不可思議なドーム状の巨大建築物――。 よく目を凝らすと銀色というのは少し違っており、ドームを形成している分厚いガラスが周りのビルの銀色を映し出しているようだった。周囲を反射しているので、内部はよく見えない。 最初、目に入ったときは、あまりにも異質という言葉がしっくりくるほど周囲に違和感を放っていたので、二人はそれが目的の熱帯花鳥園だとは分からなかった。突如都心に出現した巨大なUFOと言ったほうが、八田は納得したかも知れない。 正門があるらしいので、やや早足になりながらそこを目指した。正門まであと二〇〇メートル、という看板を横目に歩く。少し行くと、少し広い公園めいた場所に出た。小奇麗に整えられているそこは、すべての入口だ。 右側に管理棟が建っており、正面は駅の改札に似たゲートが何機かある。入場者は全員、それにタンマツをかざして苑内に入場するシステムだ。新宿御苑と呼ばれるそこは、ただ広いだけではなく日本庭園やイギリス風景式庭園など、様々な様式を取り入れている。 熱帯花鳥園も、十数年ほど前までは普通の熱帯植物園だったが、気付けば長期の改装を経ていまの形となっていた。また、事前にタンマツで熱帯花鳥園のマップを見たところ、鳥類だけではなく、無数の蝶々を放しているゾーンもあるらしい。そういえば、生きた宝石と称される青いモルフォ蝶などは熱帯地生息だったな、と伏見は記憶を探った。
 暗い苑内はすでに人は退けており、熱帯花鳥園のみが銀色にてらてらとした光を周囲に放っている。

 花鳥園の入口は、深夜まで開いているにも関わらずひっそりと静まり返っていた。 左右に開く自動ドアのマットをギュと踏んで、なかへ入る。 ドアが開いた瞬間、少し蒸し暑くべたっとした空気が全身に浴びせられる。 入ったところのエントランス左手に、入館の発券機が設置されており、その脇にパンフレットが重ねて置いてあるのが目に入った。
 八田が「取ってくる、」と言って発券機へ向かって駆けて行った。
 その後ろ姿を眺めていると、「リュウゼツラン……見に来られたんですか?」と声を掛けられた。振り返ると、ベージュの作業着を着た初老の男性が立っていた。白髪混じりのその男性は、多分ここの係員なのだろう。
「あー、まあ。ニュースで見たとかで、連れて行けと騒がれたんで」
 伏見が警戒しつつも、面倒くさそうに答える。八田はチケットを発券し終えたのか、エントランス奥に展示してある蝶々の標本や、蛾の標本、ヤシの種子などに目を取られているようだった。 係員らしき男が、溜め息を吐きながら「来てくれてありがとう、」と言いながら、侘しそうな顔をした。
「折角、深夜も展示しているというのに、今日も昨日も一昨日も誰も来なかったんですよ」
 情けなさそうに頭を掻きながら、笑って見せる姿はどこか悲しげでどうしようもなくなる。
「……はあ、」
 それ以外に何を言えと言うんだと、伏見はやや呆れ気味に答えた。 何か? この男は慰めの言葉が欲しいのか、と思いながら若干の苛立ちを隠せずに舌打ちをする。そんな伏見に構わず、係員はマイペースに話を続ける。
「四十五年、ここで世話をしてやっと咲いたというのに、誰も見に来ないとは何の皮肉ですかねえ」
「そんなことないと思いますけど。――アンタ、見物客という見返り欲しさに世話してきたんすか? それとも、いつ咲くか分からないその花が咲くのを見たくて、四十何年か世話してきたんですか? 俺にはアンタの事情とかよく分かりませんけど、百年に一度のものなら生きてるうちに見れただけでも、幸せだと思うんですけど」
 そこまで一気に言い切ってから、伏見は自分らしくないと思った。
 すごいねえ、と係員が少しうらやましそうに言う。
「君は、百年に一度の花が開くのを見知っているかのような口ぶりだね、」
「百年と言わず、一生かけてる花があるので」
「若い人は幸せそうでいいね、私の歳になるともう――」
「チッ。俺には不幸せで不毛な関係しか残されてませんよ、じゃあ」
 美咲、ほら行くぞ。と言いながら入場券を八田から受け取ってゲートを潜る。 別に幸せじゃねえよ、と思いながら、伏見は係員へ自分が言った言葉を反芻していた。そうだ、見返りなんていらない、何もいらない。ただ、八田美咲という存在が一度手に入り、そして手からこぼれ落ちただけ――それだけだ。

 旧式の発券機から出されたチケットには、今日の日付と『新宿熱帯花鳥園』と印字されている。 入った瞬間に感じた、少しべたっとした空気は連絡通路を先へ進むに連れて軽減されていった。寧ろ、若干高い湿度とやや暖かめに保たれた室温が心地よくなってきたくらいだ。 ところどころに掛かっている案内と音声ガイダンスに導かれながら先へ進むと、一番最初の小さな銀色のドーム内部へ辿りつく。そこは、ダイオウヤシやユスラヤシなどと根元に白いプレートが刺さっている、人工熱帯林になっていた。 ぐねぐねと曲がりくねった舗装された細い道が、林のあいだに走っている。背の高いヤシ科の植物が、二人を見下ろしていた。余りにも天井に向かって伸びているので、見上げると頸が痛くなる。 くねる道に沿って足を進めると、薄ら汗ばんでくる。だが、異界めいたこの熱帯を模した空間において、その汗は過度ではなく心地のよいものだ。
「誰もいねぇのな、」と言った八田の声が、微妙にドームの内側に反響する。 見回してみた限り、誰もいない。エントランスで出会った係員が言っていたように、深夜営業にも関わらず誰も来ないのだろう。伏見は、あの冴えない係員が必死に植物の剪定や世話をするところを想像する。その想像はいつの間にか八田に切り替わる。花や枝を不器用に剪定する八田は、きっと可愛らしいに違いない。 そんな妄想をぶち壊すようにして、八田が「何か、美味そうな匂いしねえ?」と鼻を鳴らしながら聞いた。そう言えば、今日はアイスクリームしか食べてないなと思い、八田に倣ってかすかに鼻を鳴らす。南国の匂いがあるとしたら、こんな匂いだろう――というようなものが、先方からふんわりと漂ってきている。熟れた果実と、水と、太陽で構成されたような、それはナチュラルに甘ったるいものだ。人工とはいえ、熱帯林のなかを歩いていると、ひとつ先のエリアから聞こえてくる水音がスコールでも降っているのかと錯覚させる。
 亜熱帯林コーナーを抜け、細い通路を歩いていくと先を歩いていた八田が驚きの声を上げた。
 ――その先には、天国めいた景色が広がっていた。
 ガラスの壁面の内側にびっしりと這う蔦と深みを出した苔、齧りつきたくなるような果実を実らせた樹々、噎せ返るほどの甘い匂いを発している鮮やかな花々、そしてその中央にある噴水を囲うようにして、少し錆びれた白いベンチが二組、その脇には天使の像が対になって立っている。 そこは花鳥園のなかでも、すべて凝縮したようなところだった。
 外から見たときは、小さなドームと大きなドームがつながっていたが、一番大きなドームがこのエリアを包んでいるといったところらしい。 新宿区のど真ん中に、誰がこんな楽園を作ったというのだろう――と二人は一言も発せなくなり、ただただ気圧されていた。 噴水から水が吹き出し、流れてゆく音がサアサアとしている。視線を周りの樹々に移すと、高い鳴き声とともに派手な色彩の小鳥が空中を舞った。よく見ると、あちこちの樹の枝に鳥がとまっている。
 極楽鳥の名前で知られている風鳥や、目に痛いほどの色合いをしている大柄なインコ、斜め向かいにある止まり木の上にはインド孔雀と白孔雀が揃って並んでいる。白く古びたベンチの影で何かが動いたと思えば、真っ青なカンムリバトが悠々と歩いていた。 カンムリバトとは、よく付けた名前だと感心するほどだ。全身が瑠璃紺色に包まれており、王冠を被ったかのように頭頂部に立った羽、鳩特有の真っ赤な目、飛ばない鳥なのだろうかと思わせるほど堂々とコンクリートの床に爪音を鳴らして歩いている。 それは二人の方を向いたかと思えば、また真っ直ぐ前を向いてカツカツと爪を鳴らして歩き、何か餌でも落ちているのか、はたまた習性や癖なのか、度々立ち止まっては首を伸ばして床をつついている。 しばらく、そのうつくしい鳩に見とれていた二人だったが、八田が「あの鳥、」と口を開いた。
「あいつ、猿比古みてえ。きれいだな。な、サル!」
「は、何だよそれ。俺はあんなじゃねえよ、」
 居心地が悪くなるようなことを言われてしまい、思わず伏見が目線を逸らす。どうにも、ストレートに褒められるのは慣れない。それに気付かないのか、八田が反駁を加えた。
「いや、ほんとにお前みたいだって。いつも着てるヒラヒラした青服っぽいっつーか、」
「お前なぁ、それは色だけじゃねえかよ」
 そう言われて八田が数秒黙った後、これは内緒にしておくつもりだったんだけど、と前置きして神妙な顔つきで話し始めた。
「学園島で、お前が二色使ってたとき、ああやっぱり裏切られたんだなーって思ったと同時にきれいだとも思った……これは悔しいけど。信じたくねーけど。だから青っていう色は……あ、これは色だけの話しな! その、嫌いな色じゃねえよ――」
 だけどあのときの傷、傷痕になってんの笑えるよな! と無理に笑いながら八田が袖をめくって肩を見せようとしたが、ジャケットを着ているので無理だった。
「美咲、その傷痕見せて」
「あ? 何でそんなもん見てーんだよ」
 そう言いながらも、八田が「しょうがねえな、」と言って、ベンチに座りながらカーキのジャケットを脱ぐ。その下に着ていた七分袖の黒いラグランスリーブシャツの襟を思い切り引っ張り、内側から肩を出そうとする。やや撫で肩なので、襟ぐりのなかから右肩が容易に覗いた。 そこには、引き攣れたような刺し傷の痕が残っている。 伏見は思わず笑みが漏れるのを抑えきれなかった。 傷付けばいいと、前々から思っていた――。肌の上に揃いの吠舞羅の徴が出来たように、いや、それ以上の強い執念でもってその健康的な皮膚にゆがみを加えたかった。だから、伏見は自分の投げたナイフで出来た目の前の傷痕がいとおしくてたまらなくなった。 そっと、引き攣れた傷痕に舌を這わせる。それを見た八田が逃れようと身じろぎをすると、座っているベンチから白い塗料がパラパラと剥がれ落ちた。その音は、二人の鼓膜にやけに明瞭に届いた。
 慌てて肩をしまった八田を、伏見が引き寄せる。ベンチのそばでは、カンムリバトが爪音を立てながら変わらずに歩いており、噴水はサアサアと流れていた。何もかもが予定調和の世界のようだ。
 引き寄せた腕のなかで、八田はギュッと目を瞑って僅かな震えを隠しもせずにいた。初めて抱いたときより、面倒なことになってるな――と、伏見は内心苦々しげに吐き捨てた。だが、これはこれで面白いかも知れないと切り替える。数年離れていたあいだ、誰とも性的な接触をしてこなかったであろう身体を、再び拓くのは伏見でしかありえないのだ。八田美咲が誰にも見せたことのない顔と、聞かせたことのない声を、伏見猿比古は知っている――。
 まるで中学時代まで遡ったかのような甘ったるい声音で「美咲、」と呼ぶ。その声に弱いであろう八田のことを思いながら、もう一度、じれったいかのように名前を繰り返し呼んだ。 うつむいていた八田が「んだよ、」と緊張した声で返す。まだ震えは止まらないままだった。
「――俺が、怖いか」
「何で俺がサルなんかこわ……、」
 威勢良く吠えた口唇を塞ぐと、八田の双眸が一瞬で泣きそうなほどに潤んだ。やんわりと下唇を食むと、与えられた刺激から逃れようとしているのか強く押し戻された。伏見は、八田が一瞬で陥落すると思っていたので、抵抗を意外だと感じながらもそれすらも愉しくなっている自分を隠せずにいる。 軽くキスをされただけで抵抗する手に力が入りづらくなっている八田を嗤いながら、伏見は無慈悲にもその手を捻った。痛い、と言われるのも聞かずに、そのまま再び触れ合うだけのキスを繰り返す。
「……っふ、ぁ、」
 抵抗する力がほとんど無くなった頃合を見て、伏見がそっと八田の手を離す。自由にされた八田の手が、伸びた黒髪のつく肩に爪を立てた。伏見のジャケットに爪を立てながら僅かに喘ぐ八田の目の奥には、欲というものがほんのり色づいている。湿った舌で、待ち受けるように少し開いた口唇を舐める。何度も舐めると八田が怯えるように震えたが、伏見を押し返すような真似はしなかった。 目を合わせ、何度も軽いキスを繰り返してから伏見が舌を入れたときだった――。
『――午前二時になりました――』
 それだけの不親切なアナウンスが数度流れ、二人の上で照明が瞬いたかと思うと、数瞬おいてすべてが塗りつぶされるように暗転した。 一分もしないうちに何が起こったのかほぼ二人同時に理解して、タンマツのバックライトを点けて周りを見渡す。やがて、ぼんやりとだが周りの街明かりが差し込んでくるので花鳥園が見えてくるようになったことに安堵する。
「おい、クソ猿。手前が盛ってるから、閉じ込められたじゃねえかよ」
「ハッ、あのくらいで喘いでる情けない奴のせいだろ? ああ、お前相変わらず童貞だったっけ、なあ、美咲ぃ」
 わざと挑発するように言いながら、怒気を孕んだ空気を纏わせた八田をベンチの上へ押し倒す。 いきなり押し倒されたので驚いたのか、八田の身体がこわばった。そんな緊張を隠すように、普段の口答えをする。
「口数減らねえなあ、手前も……は、ぁ……、ちくしょ、何でこんなときにキスしてんだよ、」
「何って、そんな気分の続きなんじゃねえの。丁度暗くなったし、適温だし、美咲は可愛いし」
「誰が可愛いんだよ! 殴られてえのか、」
 それを聞いて、もう殴れないくせに――、と伏見が嗤う。 そして、ラグランスリーブシャツの裾をめくるようにして手を差し込んだ。直に脇腹の肌に触れられた八田が、驚いたような声を上げる。
「……ちょ、っと、止めろって!」
「美咲はこれ止めたらどうするんだよ。また俺のこと、何も無かったように扱うんだろ?」
 それは、余りにも重い問い掛けだった。その問いに対してすぐ切り返すことが出来ないのか、八田が口ごもっているのをいいことに伏見は脇腹の皮膚を引っ掻いて、子供のような体格の身体の反応をじっと見ていた。
「ああ、安心しろよ。ここのセキュリティはすべてオート管理らしいから、一度照明が落とされればもう係員は回ってこない。つまり、朝になって誰かが開館させない限り二人きりだってことになるな、」
「全部分かってやったくせに、」
 恨みがましそうに言う八田の額にキスをしながら、「美咲だろ、言い始めたの」と伏見が馬鹿にした。
「ここに植わってるリュウゼツランが見たいって言いだしたの、美咲だってことを思い出せよ。ちなみに、あの地味に咲いてるのがそれだろうな、」
 目が慣れてきたとはいえ、薄暗いなかでぼんやり見えるのは確かに背は高いが派手ではない樹だ。八田が目をパチパチさせながら、何度もそれを見て「思ったより地味……だな、」と若干残念そうに言った。それが無性におかしくて、伏見は八田の服に手を突っ込みながら声を噛み殺して嗤った。
「でも、あれ百年に一度しか咲かないんだろ?」
「まあ、そうは言っても日本にある奴は四十年とか五十年周期で咲くのが多いらしいけどな。……って、おい、何がっかりした顔してんだよ、馬鹿みたいに単純だな」
 あからさまに残念そうな顔をした八田のシャツのなかへ滑り込ませた手を、徐々に上へ持ってゆく。それに気付かない様子で、八田が口を開いた。
「俺、百年生きて一瞬しか咲けないなんて悲しすぎるから、あれにだけはなりたくねぇ」
「美咲はそうだろうな、」
 伏見の言い方が若干引っかかったのか、八田が「何だよ、その言い方。お前はどうなんだって、」と言った。 花になりたいだなんて――思ったことはない。ただ、こう思ったことはある。
「俺? 俺は――自分が咲かないでいいから、その花の養分になりたいかも知れないな、」
「うっわ、根暗過ぎて引く! お前、そのキモい自己満足やめろよ」
「恋愛も家族関係も、所詮は自己満足の塊だろ?」

 土の上に静かに横たわって養分となり、ドロドロと溶かされ根っこから吸い上げられる。
 そうして八田美咲という名前の花が満開に咲くのを見たいと思うのはいけないことなのだろうか。
 きっと燃え盛るような、真っ赤な花が咲くんだろう。
 俺はその光景を、悲しいほどに知っている――。

「なあ、何でお前いまさら俺のところにしょっちゅう来たり、意味の分かんねー金くれるの」
「いわゆる贖罪、みたいなそんなどーでもいい感情と理由のせいじゃねえの。そろそろいい加減、黙れよ美咲」
 そう言いながら、伏見がシャツのなかへ入れた手で八田の胸をそっとさする。そして、僅かに隆起した乳首に爪を食い込ませるようにして摘んだ。いきなり与えられた刺激に、思わず八田が「ひっ、」と短い声を上げる。
「サル……なに、すんだよ、」 それに答えずに、伏見は手を動かし続けた。摘まみ、爪を立て、指の腹で捏ね回すと呆気ないほどに、八田は落ちてゆく――。それに至るまでの計算を、すべて知っているかのような顔で伏見は笑んだ。
「何って、童貞だけどこれだけは知ってるくせに」
 中学時代、二人のあいだにあったことを思い起こさせるように、キスをしながら嫌というほど乳首を弄る。八田は半泣きになりながら、「止めろ、」と言う。それが伏見を駆り立てる言葉だとも知らずに、何度も止めろと口に出した。
「本当に厭だって言うなら、止めてやるよ」
「……い、い、」
「さっさと言えよ、厭なんだろ?」
 煽るように言うと、とうとう八田が嗚咽を漏らし始めた。 泣けるだけましだ、と伏見は思う。伏見は、もう涙も出ない、泣くことすら無くなってしまった。そんなものはとっくに枯れ果ててしまった、と思っては我ながら虚しいなと自嘲する。 厭だ、と言い切れないでいる八田を見ながら、伏見がめくり上げたシャツから覗く乳首に噛み付く。
「ひ、ぁ、」と短い叫びにも似た喘ぎ声を、八田が上げた。 ぷくっと勃った乳首が、子供っぽい身体とはアンバランスで伏見は興奮する。何年ぶりに、この身体に触れるのだろうかと考えながら、徐々に八田を落としてゆく。自慰では得られない他人の皮膚は温かく、そして切ない。 身体も、精神も、何もかもが二人でひとつだった頃――八田と伏見は無知で、無力で、そして幸せだった。そんなことを思い出しながら、八田を陥落させてゆく。 唾液で乳首を濡らし、ぬめらせる。それは暗い花鳥園のなかで、薄らとしか見えなかったがそれでも伏見を昂ぶらせた。全神経を八田美咲という存在に集中させて、伏見は手探りでその輪郭をなぞってゆく。口唇に指を滑らせ、その普段生意気そうに尖らせた唇が、いまはだらしなく開いて喘いでいることを確認した。
「美咲、」
 壊れやすいものを扱うかのように、そっとその名前を呼んでみる。 呼ばれた八田は、ビクッとしながらもかすれた声で「……なんだよ、」と答えた。
「美咲は、厭?」
「や、じゃない、」
 まるで教師か何かに叱られるのを恐れるような舌足らずな言い方で、八田が怖ず怖ずと言う。 それを聞いた伏見が、八田の口唇をなぞっていた指を、そのなかへと入れた。指を差し込まれた八田は少し驚いたようだったが、意味を理解したのかそっと口を開け、伏見を待ち受ける。 中切歯、即切歯、犬歯、第一小臼歯――と数えながら、中央の歯からサイドへ指を沿わせながら伏見が指を動かした。ただ歯の表面を撫でられているだけなのに、何でこんなに、と思いながら八田は目を瞑るにも瞑れないでいる様子だった。 八田は少し犬歯が鋭く尖っている。歯列は整っているので八重歯ではない。伏見は八田とキスをしていた頃、これに触れるのが好きだった。小さくて凶暴な犬のようで、似合っていると思っていたからだ。 そして、それは変わらずに健在だったので伏見はどこかしらホッとしながら、八田の歯に指を這わせた。 ほんのわずか、開けられた上下の歯を割って正面から人差し指を侵入させる。それに対して、八田が「う、」と言って反射的に吐き出そうとするものの、伏見が八田をベンチへ押し倒しているので身動きがとれないでいた。 伏見が八田の舌を押し、そのざらりとした感触を確かめる。八田は口を閉じることも出来ずに、そのまま伏見の指が唾液まみれになってゆくのを薄暗闇のなか感じていた。 散々、八田の舌を指で弄んだあと、伏見が上顎をくすぐるようにして撫でる。その顔はとても満足げで、至福といった表情をしていた。 差し込まれていた指を、八田がそっと口唇を閉じて吸う。その意外な行動に伏見は若干驚いた様子を見せたものの、八田のしたいようにさせたまま、頭の位置を下げて乳首を噛んだ。やわやわと食んだり、噛むのを繰り返すと、八田が口を開けて喘ぐ。その様子は中学時代のものと相似しており、伏見は懐かしさにとらわれながらもその行為を止めようとしなかった。
 思い出してくれよ、と伏見は切に願う。
 記憶とかじゃなくて、実際にこの肌に刻んだ事実をよみがえらせて、そしてお前もこの気持ちを味わえばいいのに。 人差し指を八田の口に突っ込んだまま伏見が、目の前の平たい胸と乳首を舐め回す。以前、八田に「男の胸なんて弄って楽しいのかよ、」と聞かれたことがあったが、伏見は心底楽しいと思っている。それにより落ちていく八田の様子、上ずる声、かすかに漏れる喘ぎ、楽しいなんていう一言では表せないくらいの感情を抱いてしょうがない。 胸元に噛み付き、吸い上げて赤い痕を残す。キスマークなんて、いまは付けてもしょうがないと分かっていつつも、伏見はそれを止められずにいた。
 中学時代、二人には暗黙の了解があった――。
 セックスをした後や最中に、胸元にキスマークを付ける。そして、それが消えてしまう前に再びセックスをする。
 せいぜい三日間、思い切り残ったところで一週間程度のもの。 なんのことはない、それの繰り返しだ。だが、それはそのときの二人にとって必要な行為だった。互いに、無かったことにされるのではないかという思いで以って、痛いほどのキスマークを残す。下校時に、「美咲、見せて」と言うと八田が恥ずかしそうにループタイを緩めてシャツの下にあるそれを確認させてから、いつもの翳を隠した顔で笑っていた。ただ、それだけ――。 そんなことを、こいつはもう覚えていないんだろうなと思いながら、キツく噛んで吸う。赤紫の痕が健康的な肌にあるのは、やたらいやらしい。 この数年間、きっとこの身体は誰のことも受け入れずに寂しく過ごしてきたのだろうと思うたび、伏見は優越感が駆け上がるのを感じていた。それは伏見に対して誠実だとか、そう言った意味合いではないのだろう。ただ、八田が自分から手を伸ばして欲しがるのが下手なのは、よく知っている。落ちてしまえば貪欲なまでになるのに、それまでに時間がかかる。 胸元にキスマークを残していたのを中断して、出来るだけやわらかな声音を出して聞いてみる。
「なあ、美咲。お前、俺以外とやった? 誰かにセックスさせた、」
 その言葉に八田が何を言っているんだと言うように、キョトンとしながら首を横に振った。
「……誰ともしてねぇ。お前と以外する訳ねーだろ、」
 やっぱり、と伏見は確信する。刷り込み、インプリンティングだとでもいうように、八田にとってセックスというものは伏見が相手の場合のみ、する行為になっているらしい。 好都合もいいところだと思い、笑みがこぼれる。 べったりとした空気の暑さからか、はたまた感情の表れからか、伏見は額に汗が浮くのを感じた。それを手の甲で拭って、キスマークの浮かんだ肌をなぞる。くすぐったいのか、八田が身を捩って逃げようとしたのを押さえ込む。 時間が経ったのである程度ならば、夜目がきくようになった。赤紫色が、八田の胸元に散っているのさえ確認出来る。 それを見た伏見が興奮したように、八田のハーフパンツの生地の上から性器を撫でた。八田が硬直しながらも、小さく喘ぐ。
「――まだ、厭?」と、伏見が確認した。
「だから、いやじゃないって……は、あっ、」
 これ、処理したいんだろ。と言いながら、伏見が撫でる指に力を込める。 伏見の言葉を聞いて、八田が必死そうに何度か頷く。それを焦らすようにして「じゃあ分かるよなあ、美咲ぃ」と、粘ついた声を掛ける。その声は、熱帯温室内に似合わないようで、同じような湿度を持っている。 甘ったるい果実の匂い、鳥類の羽ばたく音、噴水の水が流れる音――何もかもが、暗闇に隠されて現実味が無いが確実に息衝いているものだ。 言われたことの意味を理解したのか、八田がしばらく眉を寄せていたかと思うと「分かったよ、」と答えた。 以前、何度も繰り返した。繰り返すたび、不安は増していった。いくら身体を重ねようと、体液を交換しようとも、拭えないそれは現実となって降り注いだ。 そんな過去を嘲笑うようにして、伏見は八田に軽くキスをするとベルトを外して服を下げ、穿いていた下着をずらした。 緩くしか勃起していない性器は、どこか間抜けで情けない。普段澄ました顔をしている伏見に、そんな器官はどこか不似合いにも感じられた。萎えかかっている性器を下着から引きずり出すと同時に、押し倒されていた八田が肘をついて上半身を起こした。 伏見が、まだ勃っていない性器を、起き上がった八田の口許に近づける。
「美咲が勃たせて、」
 そう言われた八田が、一層、眉根を寄せながら性器を両手に取って、キスするかのようにそっと口唇を付けた。 数年前、二人がセックスを日常的にしていた頃の八田は、淫蕩とも言える顔で性器を口に含んでいたのを思い出す。あれは、少年でありながら娼婦のような顔だった――と、伏見は記憶している。 長いあいだ、伏見の不在により性的な行為をしてこなかったからか、八田は戸惑ったように伏見の性器に対して軽いキスを繰り返すだけだったが、やがて慣れてきたのか、持ち上げると先端の鈴口に恐る恐るといった感じで舌先を入れた。伏見は即物的な快感よりも、八田美咲という男が自分に奉仕しているということに快楽を覚える。薄暗いなか、下半身の位置で僅かに揺れ動く赤茶色い髪が、たまらなくいとおしくなってしまう。八田が差し出された性器を遠慮がちに舐めているあいだ、伏見は八田の癖っ毛をクシャクシャと掻き混ぜるようにしていじっていた。 この男が、こんなことをしているだなんて、誰も知らないでいい――。伏見は切実にそう思う。出来ることならば、どこかへ閉じ込めて一緒に暮らせたらいいのにと何度思ったことだろう。そんな考えを見透かしたのか、それとも髪をいじられるのが嫌だったのか、八田が「何だよ、」と言った。
「美咲が、健気な雛鳥みてえだなって思っただけ」
「は? ひな? 鳥じゃねーよ。これ、続けていいの、悪いの、」
 どう答えようかと伏見が逡巡していると、八田が思い切ったのか、ぱくっと先端を咥えた。 その行動に伏見が若干驚いていると、性器を咥えたままで上手く喋れない八田がにかっと笑いながら「らまーひほ、」と言った。どうやら驚いている伏見を見て、「ざまーみろ、」と言いたいらしい。 八田が性器の先端を咥え、舌先でチロチロ舐め回す。 そんな様子を見つつ伏見は八田の髪をくるくると指に絡めて、ああ、美咲の舐め方だ。と、記憶を呼び起こしながら痛いほど思う。
 もう過去になってしまった、遠い日を思い出す――。 二人が出会った日、一緒に授業をサボって遊び歩いた日、初めてセックスをした日、吠舞羅に入った日、そして――別れた日。何もかもが、いまは懐かしい過去で、もう二度とたどれない時間だ。 鈴口を集中的に舐められるにつれて、徐々にそれは硬度を増していく。八田が大きくはない口いっぱいに頬張っているので、体積を増す性器は含むのが若干辛そうに見えた。伏見が上から見下ろすと、目を伏せがちにして必死に奉仕する姿が見える。何もかも伏見が一から教えたときのまま変わらず、この数年間を本当にひとりで過ごしてきたのだと思うと胸の奥が熱くなった。 八田の口腔内へ、性器の先端から先走りがじわじわと滲み出る。それにより顔を顰めた八田を見て、伏見は庇護欲というものに駆られる。その原因が自分であるという矛盾を差し置いて、そのエゴに近い欲をぶつけたくなるのだ。
「もう少し口開いて、」
 出来るだけやさしく、なおかつ丁寧な声で命令する。そう、これは命令だ。 それを聞いた八田が、「ん、」と言って軽く頷くと更に口を開ける。そして、先端だけ咥えていたのを、少しずつずらして全部飲み込んでしまうのではないかと思うほど、ずるりと滑らせながら口のなかへ入れた。 少し上下の歯に当たるのと、ザラザラしながらもやわらかく熱を持った舌、そして食道の感触により、伏見の記憶はフラッシュバックを繰り返す。館内の照明は消えているというのに、チカチカと目の前が赤く明滅してやたら明るく見えた。過去と現在が、伏見の身体に混在していた。 根元まで飲み込んだものの、さすがに苦しいのか八田が上目遣いで伏見の様子を伺う。 久しぶりに八田との行為に及んでいるので、なるべく丁重に扱おうと思っていた伏見だが、気付けば赤茶色の髪を掴んで前後に動かしてイラマチオをさせていた。その欲情を誘う上目遣いがいけないんだと、伏見は内心言い訳をする。AVもまともに見られない童貞のくせに、どうしてここまで出来るのか伏見は少し不思議に思いながら、そんな美咲が好きなんだけど、と口に出さずに付け加える。 苦しそうに、そして切なく必死そうな顔をしながら、八田がイラマチオをさせられる。 頭を引くとき、少し口唇がめくれる。口のなか、やわらかい粘膜が伏見の性器を包み込む。伏見が恍惚とした表情を浮かべながら、ゆっくり掴んだ頭を前後に動かす。――それら一連の動作は、八田に対して何度も繰り返された。 気がつくと性器を握る手がひとつになっていたかと思えば、八田がもう片方の手を自分の下半身へ伸ばそうとしているのが目に入った。 ――八田美咲は、性的なものに極めて弱い。 やさしく与えられるものも、強引なものでも、伏見がセックスと関連付けて差し出すものは快楽として受け取るようにインプリンティングされているからだ。そんな八田の様子を見ながら、伏見は再度「やっぱり雛みてぇ、」とつぶやいた。 ハーフパンツの生地の上から自分の性器を触っている八田が、ゆるゆると腰を動かす。その姿を俯瞰しながら、伏見は思わず嗤った。
「淫乱もいいとこだな、美咲ぃ」
 わざと聞こえるように言うと、八田が慌てて自分のシャツの裾を引っ張りながら下半身を隠した。
「もう遅ぇんだよ……は、童貞っぽ過ぎて笑える、」
 そう言いながら、八田の口腔内へ突き立てた性器を、更に奥へと進める。喉の閉塞感から八田が噎せてそれを吐き出そうとするものの、その姿にサディスティックな感情を動かされた伏見は止めようとしなかった。 八田が、余りにも苦しいのか涙をこぼしながら抵抗したので、何度か深く突き入れた後に少し引きながら舌の感触を楽しむ。ざらついた舌は、擦れるだけで気持ちがいい。 口腔内に包まれた性器は、やがて射精感が近づく。
「口の外に出すから離せ、って」
 伏見が口外に射精しようとしたところ、八田が性器を持って頷いた。そのまま頷くということは、口のなかに出せということだろうかと伏見は少し考えた結果、射精感も競り上がってきていたので口内射精することにした。強く掴んだ八田の頭を、小刻みに動かす。
「っく、ぁ……美咲、」
 名前を呼ぶのと、射精するのはほぼ同時だった。 ホワイトアウトに似た感覚の欠落のあと、一気に快感が押し寄せる。多幸感に包まれるのは、きっとこの非日常的な環境のせいでもあるのだろう。 一度射精しても、まだ一定の硬度を保っている性器を持て余しながら八田を見遣ると、両手で口を押さえていた。そう言えば、いつもフェラチオの場合は口外射精だったので、精液を口内へ出されたことはなかったはずだ――と思い当たり、声を掛ける。
「馬鹿、吐けよ、」
 伏見がそう言っても八田は口に含んだ精液を吐こうとせず、かと言って飲み込むのも躊躇しているのか、じっと固まって顰めっ面をしていた。 何度か伏見が「吐け、」と言ったのだが、無言で首を横に振った後、上を向いて精液を飲み下した。
「まっず……! 初めてやってみたけど、何だか口んなか張り付いてる、」
「美味い訳ねーだろ」
 精液を飲んで不味い不味いと騒ぐ八田を見ながら、伏見が呆れ返る。そんなに言うのならば、最初から飲まなければいいのにと思いつつも、初めてされたことに少しだけ嬉しさを感じる。
「で、」と言いながら、上半身を起こしていた八田を、再び押し倒してハーフパンツを剥ぎ取った。
「美咲はフェラしてるあいだ、自分で弄るほど欲求不満なの、」
「し、仕方ねーだろ! だって、お前が気持ち良さそーな顔してっから」
 押し倒された姿勢のまま、シャツの裾を伸ばしながら八田が反論にならない反論をする。そんな姿を見ながら、伏見が八田の下半身に手を伸ばした。頑なにシャツを引っ張っていた手を払い除け、既に勃ち上がっている性器に手を触れる。 触れた瞬間、八田がビクッと反応したが構わずにそっと性器を握り込んだ。 伏見と離れてから他人に触れられたことのないそれは、余りにも刺激を欲していたのか、与えられる刺激という期待に先端から先走りをダラダラと垂れ流していた。手のなかで、ぴくりぴくりと細かく動いているのが感じられる。 先走りにまみれた手は、指のあいだに糸を引いていて、伏見が手を開くとそれが街灯に当たって銀色に光った。 八田は恥ずかしいのか、赤面しながら固まっていた。
「するのか、しないのか、どっちなんだよ」
 やや苛ついたように伏見が聞く。 下唇を噛んで、何かに堪えるようにしていた八田が、おどおどと口を開いた。
「猿比古と……、する。っていうかしたい、」
「裏切り者とセックスしたいだなんて、ほんっと昔から欲に忠実だよな、」
 わざと虐めるような口調で伏見が言ったものの、八田は「お前が裏切ったのは、ちゃんと覚えてるから……」と言って三白眼を見開きながら涙目になる。 ちょっと揶揄ってみただけだとか、そんな言葉は慰めにしかならないと伏見も知っているので、特に何も言わずにそのまま先走りでぬめる手を上下に動かした。 扱かれるたび、ぬちっと音が響く。ぬるぬると滑る手から、淫猥な音が繰り返し聞こえた。 涙目になっていたものの、与えられる快感が勝るのか、八田が短く浅い呼吸で小さく喘いだ。 伏見がまだ硬い自分の性器を、八田の性器と合わせると両手で扱く。同じ器官と言えども、二人のそれは僅かだが体温の差があった。普段の体温が高い八田の方かと思いきや、伏見の方が体感温度は高かった。 性器を合わせて握ると、接触している部分が互いに溶けるかと思うほど熱く感じる。二人分の先走りが、伏見の手のひらをべたべたと汚した。
「キスさせて、」
 二本同時に扱いているので、さすがに伏見も息が上がりつつ、八田にねだる。八田はビクビクしながらも、伏見の両側の二の腕をつかんで「ん、」と言って待ち受けた。 差し出された口唇を遠慮なく食む。普段、少し尖らせているそれは、どこか拗ねた子供じみていて可愛い。そんなことを考えながら、やんわりとした八田の口唇を味わう。
「最後までしたいけど、ここじゃ無理だな」
 伏見が口唇を離してそう言うと、八田が喘ぎ声のあいだ、あからさまに残念そうな声を出した。
「何、期待してたんだよ」
 そう言って淡白な言い方で冷やかすと、暗闇のなかで羞恥心が薄れているのか、八田が「猿比古と、セックスしたかったから」と単刀直入に言った。
「っは、ぁ……どーしても、ダメな、のかよ、」
 八田が喘ぎつつも珍しく話題を引っ張っていじけるのを見ながら、伏見は手を止めずにゆっくりストロークを長くして扱いた。 そして八田の耳元に口を寄せると、「ここ出たら、ホテルでも行くか」と声を低くして聞く。
「そう言えば、中学のときは実家ばかりで美咲と行ったことないだろ。だからこの後、行くか誘ってるんだけど」
「男同士でも、入れんのかよ?」
 戸惑いつつも興味は隠せないのか、八田が話題に食いつく。
「入れるんじゃねえの、適当に新宿駅近く探せばあると思うし。それにいま、ゴム持ってないしな」
「ちょっ、と手……、はぁ、あっ、そこすげえ、」
 八田がすげえと言ったところと裏筋を刺激しながら、伏見はこの熱帯花鳥園のニュースを流したマスコミに感謝する。そして、偶然それを見ていた目の前の男にも――。
「美咲、どこがいいのか教えて」
「ん、ぅ……あ、さるひこ、いま触ってんのいい……!」
 透明な先走りでぐちゃぐちゃになった性器と手が、二人に快感を打ち寄せる。 いいと言われた、性器のくびれた箇所を中心に少し強めに伏見が扱く。八田は最早自分が何を言っているのか理解していないのか、甘えたような言い方でいいだとか、いきそうだとか、上ずった声で叫んでいた。
「さるひこの、触り方……すっげ、好き、」
 無自覚なそのセリフに、伏見は一瞬で達するかと思った。 舌足らずな物言いで、「すっげ、好き、」と扱かれながら喘ぐ男は、伏見の身体しか知らないでいる。だが、これで良かったんだ、と伏見は何度も思う。思春期という時期を愛情不足で育った八田は、愛情とセックスを混同し、そしていまもなおその違いが分からないのだろう。そして、不足していたものを真っ先に与えた伏見猿比古に落ちてしまった。 セックスなんて誰とでも出来るのに、かわいそうな美咲。と思いながらも、伏見はそれを与えるのは自分だけで十分だと考えている。 そろそろ二人とも限界かなと感じると、「美咲、いける?」と聞いた。
「悪ぃ、サル……ちょっと、もう無理かも、先、いきそ」
 そう言った数秒後、八田が自分の腹の上に吐精した。後を追うようにして、伏見が達して精液を吐き出す。 ベンチに仰向けになって喘ぐ八田の腹へ、伏見は精液を最後まで搾り出すようにして吐ききった。 二人の精液を腹の上に点々と飛び散らせた八田が、「ははっ、混ざってやがんの」と情けなさそうに笑う。

 手についた精液を洗い流しに、花鳥コーナーの先にあるトイレに向かった。まだ明け方になりかけの四時頃だったので薄暗く、あちこちに点いているフットライトの存在が有難かった。 腹に付いたから早く洗いたいと言って、八田は一足先に行っていた。 真っ直ぐ歩き、二〇メートルほど行った細い通路を左へ曲がる。清潔な青白いタイルが敷き詰められたトイレに入ったものの、八田の姿がないことを少し不思議に思いながら、洗面台に立って伏見も体液でべたついた手を洗い流した。 冷たい水が、熱帯花鳥園のなかにいた伏見の手を冷やす。 そう言えば美咲は飲んでたな――と思い出しながら、手についた精液を舐めてみようとしたものの、それは既に洗い流されており何の味もしなかった。ただ、数十分前まで八田の性器をなぞっていた指があるだけだ。
 トイレから出て、八田を探そうと少し回り道をする。
 しばらく歩いていると、蓮の花が水面に浮いている通路を抜けた右脇に、四角い温室らしき部屋があるのを見つけた。そこはドーム状の花鳥コーナーと違ってガラス壁が薄いものの、ぼんやりと透けて見える向こう側には花の植わっているプランターが棚のようになっていることしか分からない。――しかし、そのプランターの段のなかに八田の姿らしきものを見つけた。入口らしきドアには、『スパングル』と書かれたプレートが下がっている。 スパングルとはスパンコールのことだろうか、と思いながらドアの前に立つと、なかから「サルも入ってこいよ、」と楽しげな八田の声がした。 言われたとおり、ドアを開けるとそれは二重になっており、厳重に閉められたもう一枚のドアを開く。 そこには、あらゆる種類の白い蝶が舞っていた。
 伏見は別段、昆虫の種類に明るくはないが、視認出来るだけでも数え切れないほどの蝶々がいるのにこいつらは共存しているのか――と感嘆した。
 四角い部屋の中心で、八田がくるくると回りながら白い蝶の群れと戯れている。
 少し恐怖を感じるほど、圧倒的なまでの数の羽、羽、羽だった。目が回る、と伏見が感じていると、それを見て楽しそうに「虫、苦手なのかよ、」と聞いた。
 八田が部屋の真ん中に立ち止まり、手を差し伸べるとその指先に純白の蝶がとまった。
 ハタハタと開閉する一対の白い羽は朝焼けを受けて青っぽく光っており、伏見はこの部屋に『スパングル』というプレートが下げられていた意味を理解する。青白く光るそれらは、無数の生きているスパンコールみたいだと。
 そして、八田を見てタンマツのカメラを起動させるまでもなく、脳内でシャッターをバシャリと落とした。 このうつくしい瞬間を忘れないように――。 朝焼けのなか、旋回するように舞い上がっては循環する蝶々の群れ、その中央に立つ八田美咲という名を持つ男がいる。 笑いながら蝶を追う美咲、鼻先にとまった蝶を見て目を丸くする美咲、舞っている蝶の群れを恐れもせずに追い回す子供のような仕草――。ああ、きれいだ、としか感じられないほどの視覚的暴力のなか、伏見は入口間際に立ってひたすら脳内シャッターを切り続けた。 伏見の手により喘いでいたのが別人だとでも言わんばかりの無垢な姿で、至極楽しそうに八田が回った。
「猿比古、」と息を切らしながら伏見を呼ぶ。
「一緒に来られて、すげえ嬉しかった! やっぱり俺、お前といると楽しい、」
 そんな無邪気な声で裏切り者の名前を呼んだり、簡単にこころを赦してしまわないで。
 笑顔を向けられて苦しくなりながら、「美咲、」と、いとおしい三文字を舌に乗せて運んだ。
「美咲、俺も」
 互いの存在が無償だなんて、そんな関係にはもう戻れない。敵対してしまった二人は、何者にも許されないのだ。だから、今日も帰り際に伏見は八田に万札の詰まった封筒を渡すのだろう。それが日々のルーティンだというように、純粋な存在に対して俗世にまみれた金を渡してはバランスをコントロールする。
 蛹から上手く羽化出来なかったのか、伏見の足元に羽のねじれた蝶の死骸が落ちていた。 この思いの深さを思い知ればいいのに――と思いながら、伏見はその蝶の死骸を踵で踏み潰し、花鳥コーナーのあるガラスドームに乱反射した光が当たる八田美咲の姿を、飽きもせずに延々と目で追い続けた。

たとえば青白いその目に映る

 伏見猿比古は女遊びが激しい。一回遊ぶと捨てて、次へ乗り換える。それはデートだけでも、セックスだけでも、両方の場合も含んでいる。昨日、今日、明日――伏見の話す女たちは見事に毎回違う相手だ。高校生、主婦、コンビニ店員など、女の職業も様々で伏見がどうやって声を掛けているのか(もしくは掛けられているのか)分からなかったが、それが人形遊びだということは知っている。 伏見の隣というポジションにいる自分の身にもなればいいのに、と八田美咲は放課後の追試が終わったあと、自分の机に突っ伏しながら痛いほど思った。
 つい一ヶ月ほど前から、伏見の女遊びは始まった。
 ――それは、伏見が八田に告白をした次の日からだ。 オレンジと赤茶色の中間色の毛先を摘まんで陽の光に透かしながら、八田はあの日もこうして放課後の教室で、窓辺の一番後ろの座りながら自分と猿比古の髪の色を比べてたなあ、と思い出していた。それは小さな頃からの癖で、普段から窓辺の最後列にいるのをいいことにしながら、自分の髪色を見るのが好きだった。陽に透けて見えるその色は飴のようでいて、溶けそうなとろける蜂蜜を凝固させた色にも見える。それに比べて、中学一年の去年から絡むようになった伏見の髪色は真っ黒い。落ち着いたマットな質感と、ストレートな髪質が彼にとてもよく似合っていると、八田はいつも思っている。その髪に、じゃれるようにして触れるのが好きだ。そして、そのお返しとでも言わんばかりに伏見がクシャクシャッと八田の髪を掻き混ぜるのも、大好きだった。
 一見真面目のかたまりに見える眼鏡姿の彼が、保健室にでも行くのかと言うように、至って普通に授業をサボるのを八田は知っている――。周りの人間は、伏見の大人しめな見た目を見て油断しているのか、はたまたサボっていることに気付いていないのか、特に何も口に出さない。 皆、馬鹿だなあ。と八田は誰もいない教室で帰り支度をしながら思う。あーゆー何考えてるか分かんねえ眼鏡が一番危ねえんだろ、と自分に言い聞かせるようにしながら、タンマツをいじってメールを飛ばす。
『いまどこ、迎え行きたいんだけど』
『自分の部屋』
『オッケ、遊び行くから片付けておけよ! あ、追試結局落ちるかもしんねえ』
『美咲、いいの』
 その短いメールのやり取りが八田の頭の隅に引っかかったが、特に何も気にせずに返信をしないまま伏見の自宅へと向かった。そして、伏見が珍しく女と一緒に過ごしていないということに、若干の安堵を覚える。 九月上旬になったものの、まだまだ残暑の熱風が吹いている。暑い、と思いながら自分の髪色に似た色で沈みゆく太陽を見送り、足取りを早めると伏見宅へ急ぐ。 途中でコンビニに寄って弁当を二つ、それとコーラを買った。伏見の偏食を考えて、なるべく野菜の少ないものを選ぶ。二人で弁当を食べると、必ずと言っていいほど八田のところへ野菜が放り込まれるからだ。なので、最初から無い方がいいだろうと思った。 伏見の両親は揃って旅行中だと昨日から言っていたので、遠慮なくインターフォンを押す。なかなか出ないことに少し苛ついて、何度か繰り返し押した。少し経ってから単調な声音で「ああ、美咲?」と問いかける声に対して「他に誰が来るんだよ、」と返す。インターフォン越しに、少し疲れた様子で伏見が溜め息を吐くのが分かった。こいつも疲れてんのか――と、八田にも伝わるほどの疲弊を滲ませたため息で、一瞬、来たのが間違いだったかなと思わせた。それほど、ひどいものだった。 内側からロックが外される音がして、顔を半分覗かせた伏見が微妙な声を吐き出した。
「美咲、何で来たんだよ」
「んだよ、来るなって? 本当は俺に来て欲しかったくせに、何言ってんだっての、」
 八田は冗談のつもりだったが、そう言われて目を伏せながら言葉を閉ざした伏見を見て、失敗したなと思う。
「と、にかく! 今日の追試ヤバかったから、お前に数学教えてもらおうと思って――。あ、泊まるけどいいよな、」
 勢いよく言い切られて、少し呆れた顔をした伏見が「親、いないから勝手にあがれよ」と諦めて言った。 靴を玄関に脱ぎ散らかしながらキッチンへ移動して、「飯、食ってねえんだろ?」と聞くと「あー、今日は年上の人に昼飯奢ってもらった」と返って来たので、八田はげんなりしながらも「晩飯は?」と聞きなおす。 冷蔵庫を開けながら二人分のジンジャーエールを用意していた伏見が「晩飯はまだ、」と抑揚のない声で答えた。
「コンビニ弁当、新しいの出てたから買ってきたんだけど、サルも食うだろ」
「――野菜は、」
「お前が苦手なの、とっくに知ってるからデミグラスハンバーグ弁当にしといた。これなら野菜ほとんど入ってねーし、きっと食えんだろ」
 ジンジャーエールを入れ終えたグラスを二つ持ちながら、伏見が「どうして――」と言ってキッチンに立ち尽くした。
「どうしてお前はそうなんだよ、美咲」
「あ? 何が。サル、レンジ借りるからなー、」
 レンジのなかへ弁当を二つ押し込み、スイッチを押した。 カウントダウンされるデジタルに浮かび上がった秒数が、どんどん減っていくに連れて二人のあいだに沈黙が広がる。 それに耐え兼ねて八田が「そういやさ、」と言いかけた瞬間に、ピーッ、とカウントがゼロになって音が鳴った。 伏見の部屋は二階にあるので、エアコンの冷気が漏れ出しているその部屋へ向かう。弁当は少々温めすぎたのか、容器の底が熱くなっていることに少し焦りつつ、八田は伏見の真面目そうな見た目通りの部屋にとおされる。 ドアを開けた手が、少し一ヶ月前よりも痩せぎすになったかな、と思う。 部屋の中央に置かれたテーブルに弁当を載せ、伏見がグラスを軽い音を立てながら置く。テーブルを挟み、二人は向かい合わせに座った。 グラスのなかで、炭酸が発泡している。小さく弾ける音を聞きながら、八田はスクールバッグからゲーム機を取り出すと「ここまで進んだんだけど、先に行けねえの。お前ここらのクエスト得意だろ、」と言って伏見に押し付ける。 そして「いただきます、」と言いながらジンジャーエールに手を伸ばした。炭酸が弾け、それが鼻に抜ける。一瞬にして、この味により八田の思考は一ヶ月前、同じように二人で過ごしていたときを思い出す。あの日も、この部屋で同じように炭酸を飲んでいた。 伏見は押し付けられたゲーム機を手にとったまま固まっており、八田が気付くまでしばらくうつむいた姿勢でいた。 室内はゲーム機から流れるワールドマップBGMと、すっかり深まった夜のしんとした空気が対流している。
「どうしたんだよ、猿比古」
「――美咲ぃ、お前は厭じゃないの」
「はあ? 誰が、誰のことを」
「美咲が俺のことを厭じゃねえの、って聞いてるんだけど」
「何か、今更すぎんだけど。第一、嫌いなら弁当買ってまで来てねーよ」
 それは、本当だ――。本当だが、実は伏見のことに関して引け目を感じている八田は、彼にどういった態度を取っていいのかいまだ分からずにいる。 八田は一ヶ月前に伏見からこの部屋で『好きだ、』と言われたことがある。好きだというのは、友人というものを超えて恋愛対象として見ていることを意味しているのは、珍しく切羽詰った伏見の様子からも分かった。
『美咲が、好きなんだけど』
 そう言われて、八田はどうしていいのか分からなくなった。
 八田美咲は誰とも付き合った経験もなく、恋愛も性的なものも何もかもが抜け落ちている状態だったので、本当のことをいえば伏見が少し――ほんの少し、怖かった。多分、いま思えば普段気怠げな彼の本気というものを垣間見たのが怖かったのだろう。 その場は慌てて八田が謝って友人同士に戻ったものの、その翌日から伏見は女遊びを始めた。完全に当て付けのようなものだと感じてはいたが口を挟める立場でも無かったので、八田は友人として少々の苦言を呈するに留めた。
「今日は――」
「午後からサボってどこ行ってたんだっての、」
「歳上の人、大学生とラブホだけど何で美咲が怒るわけ、」
「誰も怒ってねーだろ、呆れてはいるけど。お前なあ……俺相手には喋ってもいいけど、他の奴らにそれ話すなよ」
 そこまで言ってから、一気にキツい炭酸を飲み干した八田が切り出しにくそうに、「あ、俺も、その……好きな人出来た」と言った。 伏見の表情が強ばるのが、伝播してくる空気で分かる。 八田はそれを正面から見続けることが出来ず、うつむいた姿勢で「何か、ごめん」と呟いた。
「――お前は、」
「何だよ」
「そこで謝る意味を分かってないくせに。なあ、分かってないんだろ美咲ぃ。お前は、俺のことを厭じゃないと言いながらもそうやって逃げ口探してるのを自覚しろよ」
 そもそも、美咲みたいな生涯童貞決定してる奴が女作っても逃げられるくせに。と伏見がわずかに顔を歪ませる。 様々な意味合いでの嘲笑と憫笑を浮かべながら、怠そうにゲームを操作して画面に目を落とす。
「あー、なんでダークネス使ってるんだよ。俺、アサシンかガンナーの方が扱い慣れてるんだけど、あとお前基本的な装備おかしすぎ」
 そう言いながらも伏見が着々とキャラクターを操る。
 最近また眼鏡を新調したと話していた伏見が、少し目を眇めながら眼鏡のあいだから裸眼で八田を見た。その視線は裸眼なので、どうしても普段よりキツくなる。自嘲しているような、皮肉った笑みが伏見の口に溢れる。 そして、八田はいつからこんなに猿比古のことが分からなくなったのだろう――と思った。 好きだと言われるのは嬉しいことなのだと、八田は自分に言い聞かせる。だが、他人から恋愛対象として見られたことが無かったので、どうしても少し怯え混じりになってしまう。 手持ち無沙汰になったので、八田は黙々と弁当を食べた。伏見は弁当が冷めるのも構わずに、八田から渡されたゲームをプレイしていた。敵相手にコンボを決める音が何回か響いたので、きっと順調なのだろう。
「どんな女なの、」
 弁当を置きっぱなしにしたまま、伏見がゲーム画面をポーズしていきなり口を開いたので八田は少しビクッと固まった。
 もう一度、伏見が同じ質問を投げかける。
「――黒髪で地味な眼鏡」
 端的にそう答えると、伏見が馬鹿にしたように嗤った。
「ハッ、お前とお似合いのような黒髪処女なんじゃねえの」
「しょっ……、な、んだよ!」
 処女という言葉に過剰反応して、八田が顔を赤らめた。
「別に、揶揄っただけ。身長は、」
「えっと、残念ながら俺より高いんだけど、結構きれいな顔してる」
 八田が照れたようにそう言うと、伏見が嫌悪を丸出しにしながら「お前がチビなだけだ、美咲ぃ。あと女の顔のことなんて、聞いてねぇよ」と吐き出した。 そう言われた八田が、「悪ぃ、」と大人しく謝ったが、でも、と言葉をつなげる。
「でも、本当に整った顔してっから、」
「あーはいはい、聞いた俺が馬鹿だったな。何か虚しくなるから、これ以上聞くの止めた」
 伏見が、手をひらひら振ってしばらくゲームに没頭する。弁当は八田が折角買ってきたというのに、どんどん冷めていった。「食わねえの」と聞けば、適当な返事ばかりが返ってくる。 風呂を借りたい、と言うと、やっとゲーム画面から顔を上げて「階段下りて、廊下の突き当たり。服はこれでも着てろ、」と言って伏見の服が渡された。

 八田が風呂を上がり、伏見の部屋に帰ると遅い晩飯といったところか、やっとコンビニ弁当を食っているところだった。
 思わず、「美味いよな、それ」と言うと、ハンバーグを食いながら「まあまあ美味い、」という微妙な答えが返ってくる。
 気まずい空気が流れるなか、弁当片手にした伏見が「装備整えといたから、後はパーティー次第で楽に進めんだろ」と言ってゲーム機を八田に返した。
「あと、そろそろ寝るからお前がベッド使えよ」
 もう一人はどうするのかと聞くと、床に客用の布団を敷くと伏見が言う。 八田が、自分が布団で寝ると言い張り、それに対抗するようにして伏見が自分だと言い張った。
「もう面倒くさいから、二人とも床で寝れば公平なんじゃねえ?」 そう提案すると、「ちょうど、客用布団なら二組ある」と伏見が思い当たるのか、しばらくして隣の部屋から布団を引っ張ってきた。 ただ、終始伏見の顔が強ばっていたのが、八田の気がかりだった。 二人で隣り合って布団に潜り込む。九月といえども、エアコンの空調は欠かせない。
「電気、消すぞ」
 伏見がそう言って、部屋の照明を落とす。 外からの明かりが入ってくるかと思いきや、部屋のカーテンは遮光用だったのか室内は真っ暗になったなかエアコンの稼動音が響くのみになった。 スリープにしてあるタブレットを充電しているのか、赤い点が見える。 部屋が真っ暗なのをいいことに、八田が隣に寝ている伏見の布団へ滑り込むように移動して髪を揺らすと、へへっと笑ってみせた。
「何だよ、美咲、お前食われたいの」
「どうしてそうなるんだよ、一緒に寝たいだけだろ」
「一緒に寝るって、こういうことされても平気なわけ、」
 そう言いながら、伏見が正面から八田を抱き竦める。布団のなかで八田が硬直したが、伏見はそれを無視するかのようにして頸筋を軽く噛んだ。
「なあ、お前こーゆーこと女にもするの、」
 頸筋を噛まれて、若干息を上がらせながら八田が聞いた。
「――気になんのかよ」
「気になるっつーか、何かこういったことに慣れてねえし、その、ごめん」
 そう謝られると、伏見が嗤って「ほんっと、生涯童貞間違いなしだな」と言った。
「謝るなら、襲ってもいいとか可愛いこと言えよ」
 誰が言うんだよ、と笑い合うこれは、お前を傷つけているのだろうか――と思いながら、そうとしか言えない八田はただ笑っていた。サラサラとした中途半端に伸びた黒髪が、八田に当たる。
「そんなことは言わねぇけど、俺、お前となら何でも出来そうな気がして、一緒にいて落ち着くし楽しいのは本当だから。だから、何があっても友達やめたくない」
「やめるとか、やめないとか、今更過ぎんだろ。なあ、美咲ぃ」
 切なく苦しそうな声でそう言われたものの、やめないなら何になりてーの。とは聞きづらく、八田は固まったままだった。そっと、伏見が八田の顔の輪郭をなぞる。 こいつの手、すべすべして気持ちいいな――、などと緊張も解れてきた頃、ここ一ヶ月の心配が少し崩れたからか、八田は一気に眠りに落ちていった。

 翌日はダラダラと起きながら、ファーストフード店の朝メニューを食べに行く。 朝メニューのマフィンから玉子がはみ出てずり落ちそうになりつつも、何とか押し戻して器用に大口を開けて食う。向かいで伏見がおかしそうにそれを眺めて、相変わらずクラッシュアイスだらけの水っぽいコーラを啜っていた。 何もかもが毎日の繰り返し過ぎて、有難みを忘れそうになってしまう。 二人並びながらバス停まで行き、バスに揺られて通学する。いつもの曲を、二人で並んでイヤフォンを分け合いながら聞く――こんなにも、世界は変わらずにうつくしく回り巡っている。 そのまま怠そうな伏見を横にして半ば一方的に喋りながら、二人はバスを降りて学校まで歩いた。 蝉が、うるさいほど鳴いている。――死に向かって、鳴いている。
 それは、二時限が終わったときに起きた。
「八田くん、ちょっと付き合ってくれる?」
 多分、同じクラス、という程度の女子が話しかけてきた。女子ということもそうだが、普段クラスメイトと話す機会自体ないので八田は驚き、照れながら困惑する。 前に座っていた伏見が、思い切りチッと舌打ちをするのが聞こえた。 八田はなぜ自分が呼ばれたのか分からずに、「……は? 俺?」などと言っていると、伏見が思い切り椅子を鳴らして立ち上がった。
「美咲、三限からサボろう」
 立ち上がるなり、伏見は八田の腕を強引に掴んだ。思わず八田も訳が分からないながらも、気迫に押されつられて立つ。腕を、伏見が思い切り掴んで離さなかった。
「痛ぇって、サル! おい、話聞けって、いきなり何してんだよ!」
 喚く八田の身長に伏見が顔を合わせたかと思うと、何も言わずにそのままキスをした。押し付けられた口唇が案外やわらかかったなとか、そんな程度の感想を抱く間もなく、伏見が八田の手を更に引っ張りながら「こいつ、俺のなんで」と女子生徒に言い放つ。 明日から学校来られねーよ、と思いながら、八田はさっきされたキスの感触を反芻する。
 ――さっきされたキスは、悪くないものだった。 ファーストキスというものは、奪う/奪われるという表現が正しいのかもしれない。と、八田は思った。 学校から出るときも、バス停に向かうときも、伏見は苛々して舌打ちを繰り返した。
「あの女なのか、」
 バス待ちのあいだ、伏見らしからぬ唐突な物言いに八田は少し頭が痛くなる。
「違ぇよ、そもそも誰だか知らねーし」
「何ごまかしてんだよ、美咲ぃ、黒髪の眼鏡掛けた地味な女じゃねえか、」
 話しかけられたことで緊張しすぎてよく見ていなかったが、そうだったかもしれない、と八田は記憶を探る。 だが、昨日伏見に話した相手とは、まったく違っていた。
「だから、違う奴だって言ってんだろ!」
「お前なあ、こっちの気持ち知ってるくせに童貞が生意気なんだよ、」
「サルだって! 俺に告白しておきながら、女と遊んでるじゃねーか! つか、そもそも俺に告白する奴なんて、お前くらいしかいねえからな!」
 息を切らせながら、一気に言ってしまうと少しすっきりしたのか、八田が一息吐く。
 眼鏡の奥で、珍しく伏見が目を見開いていた。
「別に、俺は……」
「告白してきたくせに、女作って遊んでるってお前が話してた」
 少し僻むように涙目になって言うと、伏見が「嘘に決まってんだろ」と言ってうつむいた。この角度は、悪くない――いや、寧ろ、好きかもしれないと八田は内心頷きながら思う。
「それに美咲だって、好きな奴が出来たとか昨日言ってた、」
 伏見が拗ねたような物言いで、八田に突っかかる。
「猿比古、よく聞け」
「――何だよ、改まって気持ち悪ぃ」
「あのなあ、俺の知ってる黒髪地味眼鏡って言ったらお前のことだろ、普段鋭いんだから悟れよ!」
 八田が少し呆れながら、そしてその影でとても焦りながら早口で言う。 突然告白された伏見は意味が分からないのか、数瞬絶句していた。その無言になったあいだを埋めるように、必死に蝉が鳴いていた。
「お前、俺のこと好きなの、」
「んー、特別な友達程度には。あ、でもさっきみたいにいきなりキスするのとかは減点、」
 大げさに八田が指を突きつけると、点数制かよ何だそれ、と言って伏見が笑ったので八田はホッとする。
「じゃあ、いきなりじゃないなら良いわけ」
「多分、な。……あ、バス来た」
「うちにまだ両親帰ってないけど、今日も来る?」
 この展開でその誘い方は狡いと思いながらも、八田は「じゃあ、行く」と言って顔を赤らめて頷いた。 帰りのバスは、一番後ろの長いシートの右端に座り、そっと片手をつないだ。やっぱり、こいつの手ってすべすべしてるなと昨日頬に触れられたのを思い出しながら、八田は日光に当てられてうたた寝をした。

 昨日と同じ道のりを行き、伏見の家に上がり込む。 玄関でドアを閉じると、二人きりになったという実感がわいて気持ちが張り詰める。靴を脱ぎ、二階の伏見の部屋に近づくにつれて動悸が激しくなるのを感じていた。
「適当に座れよ、」
 そう言われたので昨夜とまったく同じ場所に膝を抱えて座ると、伏見が八田の横に腰を下ろした。思わず身構えると、「本当に食うかよ、」と揶揄うように言われたので、少し安心する。 それなら良かった、とやや大げさに笑おうとしたところを不意打ちで口唇を塞がれたので、八田は何が起こったのか分からないと言ったように目を丸くした。 普段見ているはずなのに、これ以上ない至近距離で目にする伏見の肌は生白く少し不健康気味なものだ。そして大人しい見た目のくせに、こういったことに慣れているらしいのが若干癪に障った。 伏見が、八田の口唇を食む。いままでされたことのない経験に、八田は目が回るのを感じていた。
「少し口開けて、」
 口唇を離した伏見にそう言われたので、八田は怖ず怖ずと口を開いた。 十一センチ差のある八田に合わせてキスをしようと、ふたたび伏見が顔を斜めにする。 口で口を塞がれることに対する少しの息苦しさに、思わず伏見の制服のシャツにつかまった。 わずかに開けた上下の歯のあいだへ、滑り込んできた伏見の舌がぬめっていた。八田は舌が触れ合うということが、別段気持ち悪くないものだと初めて知って驚く。 最初、口で呼吸をしようとしたものの、上手く出来ずに少し顔を顰めた。それでも絡まる舌が心地よいと思って、半ばされるがままに舌を絡め取られる。 何もかもが初めての体験なので、どれが正解でどれが不正解か分からない――と、八田は少し困ったように思った。 必死に酸素を取り込みながら、八田は伏見のシャツにしがみつく。それは繰り返されるキスにより少しずつ違和感が失われていったが、何度繰り返しても上達しないものだった。
「っは、さるひこ……やっぱり、好きみてえ」
 上ずった声で言うと、伏見が返事をする代わりに八田をその場に押し倒した。 それでも、頭を打たないように注意を払いながらそっと押し倒されたので、八田は特に恐怖心を持つことなくただ伏見の行動を見守っていた。 仰向けになった八田の上に、伏見が動物が捕食をするようにして覆い被さる。 何だよ、結局食われるんじゃねーか。と八田が内心笑う。 伏見が八田の制服のループタイ、それとベストとシャツのボタンのすべてを外す。そっと肌の上を滑る手の感触が、ひんやりとしたのがやたら記憶に焼き付いた。 やたら几帳面に整えられた爪が、八田の乳首を掠る。 思わず「ひ、」と声を上げると、伏見が獣のような笑みを浮かべた。ああ、やっぱりこいつのするどんな表情、全部見てやりたいな――、と八田は思う。 伏見はそのまま八田の乳首に爪を立て、しばらく捏ね回して、少しぷっくりと勃ったところへ噛み付いた。
「は、あ、」
「美咲、名前だけじゃなくて女みてえ」
 そう言って、伏見が更に乳首を噛む。八田は息を荒げながら、もうどうされてもいいな、などと考えていた。例えば、伏見が犯したければ犯せばいいと思ったし、この場で殺したいのならば殺されてやると思った。何もかもを共有出来るのならば、その代わりに代償を払ってやろうと決意を固めた。 一緒に落ちてくれるのならば、何を求められても構わない――。
「ん、……さるひこ、」
 こんな風に切実に、誰かの名前を呼んだことなんてないと思いながら、八田は喘ぐあいだに伏見の名前を繰り返した。
「美咲、どこまで我慢できるか教えて、」
 突然降った伏見の問いかけに、それがセックスを暗喩しているのだということは、鈍い八田でもさすがに気付いた。
「――お前がしたいこと、全部、」
 そう答えると、伏見が少し驚いたような顔をしたので、八田はやっと先制を取った気持ちになった。
「全部って、結構ひどいことするかも」
「別に、大丈夫だから」
「痛いって泣き喚かれても、止められないと思う」
「だからお前が、猿比古が俺にしたいことしろよ」
 じゃあ、今日はこれだけにする。と小さく伏見が言った。 八田は何をされるのか、少し縮こまりながら伏見の行動を見守って待っていた。 すると、左胸元――鎖骨の下の部分から、胸にかけてを噛まれた。そして、何度か噛んだかと思うと、皮膚を吸い上げられる。少し痛みを感じたが、もっとセックスに近い何か、もしくはそのような行為をされるのだと思っていたので、少し意外に感じていた。 それを何度か繰り返すと、伏見が満足げに顔を離した。
「……何だよ、いまの」
「何って、キスマークだろ」
 当然のようにそう答えられて、八田はキスマークというものを付けるには今のようにするのか、と少し感心する。 確かに自分の左胸を見ると、赤紫色の痕が点々と散っていた。一体、これをどうしたらいいのだろうかと戸惑っていると、伏見が口を開く。
「しばらくのあいだ、これを消さないようにさせてくれれば満足する」
「――しばらく、ってどのくらい」
「美咲が俺とセックスしたいと思えるまで、だけど。いちいち怯えられるのもアレだし、お前のペースに合わせてやるよ」
 伏見がそう言って、八田の髪をグシャッと掻き回した。 そして、八田が「これ、何日くらいで消えんだよ」と聞くと、「三日から一週間くらいじゃねえの、」と答えられた。 こうしてこの日を境に、二人のあいだに暗黙の了解がひとつ出来上がった。
 ――キスマークを、消さないこと。
 それが二人に出来た、新しい関係と誓約だった。

 結局、猿比古と最後までやったの一ヶ月後だったな――と、八田は熱帯温室のなかで白い蝶にまみれながら、懐かしむかのように思い出す。 数年ぶりに肌に残されたキスマークを見ながら、そんなことがあったのはもう遠い昔に感じていた。 伏見とは相性が良かったのか、はたまた伏見に男との経験があったのか、身体は痛んだものの何日も引きずる痛みではなかったので八田はすぐに伏見とのセックスというものを学習した。 たまたま新宿熱帯花鳥園というところで、百年に一度花咲くというリュウゼツランが咲いたというニュースを見たものの、こんな夜中に閉じ込められることになるとは思わなかったと思い、伏見に対するあまりの懐かしさと年月の流れの早さに少し笑った。 何だかんだといがみ合った時期もあったが、元の関係に落ち着いてしまったいまが正しいのか、それとも間違っているのか八田には分からない。 分からないが、恐ろしいほど居心地が良かった――。 中学のときと同じで、伏見は無理に八田にセックスを持ちかけることはせず、ただ傍にいた。それはあまりにも自然で、フッと隣を見ればそこにいるという程度の存在感だった。 だからこそ、酸素みたいなんだ――と伏見猿比古という存在を思う。 いつも傍にいた。気付けば絡んでいた。言動がウザいと思うときもあったが、それが別段、厭だと感じることはなかった。
 白い蝶の渦に飲み込まれるような錯覚に陥りながら、八田はくるくる回りながら蝶の群れを追っていた。 温室内では、舞い上がるようにして白い蝶が対流している。あまりの数に圧倒されつつも、初めて見る光景に八田は興奮しながらそれを追い続けた。 しばらく経って、元の花鳥コーナー戻らなかったからか伏見のやって来る足音が聞こえた。それは八田のいる蝶にまみれた温室の前で、ぴたりと止まった。
「サルも入ってこいよ、」と笑いながら言ってみると、二重に閉まっていたドアが開いて伏見が顔を覗かせる。 十九歳になって見た目は変わったものの、空気は変わらないなと八田はおかしく思った。少し偏執的な青白い目と、切実そうに八田を呼ぶ声は何も変わっていない。
 蝶の群れのなかに立ち止まり、そっと手を伸ばす。
 その指先にとまった蝶の羽は青白く光っており、どこか伏見の目の色に似ていた。朝焼けに照らされたそれは、ただひたすらにうつくしい。
「猿比古、」と息を切らす合間に名前を呼ぶ。
 そして、少し言葉を考えながら精一杯の感謝と愛情を込める。
「一緒に来られて、すげえ嬉しかった! やっぱり俺、お前といると楽しい、」
 そう言った瞬間、なぜ伏見の顔が泣きそうに歪んだのか八田には分からなかったが、それでもいいと思っていた。全部を理解しないまでもいいのだと。
 若干苦しそうにしながら、伏見が「美咲、」と呼んだ。
 その呼び方は中学のころと変わらないもので、八田の好きな声の出し方だ。
 痛切混じりの声を出す伏見の前まで歩くと、泣きそうな顔をしているのが分かる。
「美咲、俺も」と何もかもを搾り出すかのように言った伏見を正面から見ながら八田は、ああ、やっぱりこいつのこと好きだな――と繰り返し思う。
 例えば、百年に一度咲く恋かも知れない。
 または、百年に一度散る恋かも知れない。
 だが二度と逃れられないそれに出会ってしまったのだという事実を受け入れながら、二人はそっとナイフで刺されるような、ゆるやかな痛みを感じながら熱帯温室の湿度と、それに近い感情を張り付かせていた。
                            
《終》

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