【猿美】とろける日々

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

 いつだって、八田美咲という男は簡単だ。少しやさしい言葉をかければ靡くような、そんなところがある。いや、それは対伏見猿比古限定だということも付け加えなければならないが、ともかくそんな男だ。
 櫛名アンナが赤の王となってから、月日が経った。
 それは、伏見と八田が復縁してから月日が経った、とも言える。
 伏見は寮を出ようとしたものの、宗像の言葉によって週に二度は青雲寮で過ごすことを義務付けられた。そのときの伏見は、不機嫌さを隠そうともせずにチッと舌打ちをして「分かりましたァ、」と気怠げに言った。宗像はそれで納得したし、不都合はなかったので椿門の近くにマンションを買った。職場の付近に家を買うというのは些か引っかかったものの、高層タワーマンションの部屋を見た時の八田の反応がよかったので、そこに決めた。
 つくづく甘い――というのは、伏見自身も自覚していることだが、それがしあわせというものなのだから仕方ない。
 五十二階建て、最上階、それが新しい二人の生活の場だった。
 遮るものもなく、日当たりはもちろん良好だ。
 二十歳過ぎになる男二人が住むには広すぎるような気がしないでもないが、それでも伏見は収入に見合ったものを選んだ。そして、八田には主夫としての役割を与えた。毎日のようにかすり傷といえど、傷を作ってくるのが見てられなかったといえば早いのかもしれない。
 二人のあいだには、蜂蜜が流れるようなとろりとした時間が横たわっていた。それは甘く、ひたすらに甘く、あるいは毒にもなりえるものだ。
 新しいベッドやテーブルを新調した部屋のなかで、ソファの上に丸まりながら八田が「こえーよ、」と言った。
「なにが」と聞くと、「しあわせすぎてこえーっての、」と答えられる。
 伏見にはない感覚だったので、しあわせすぎて怖い、とは何だろうと考える。不幸で怖いというのは理解が及ぶが、しあわせならばなにも怖くないだろう、と。
 ソファの上に丸まり、クッションを抱きながら八田は「だから、この生活が夢オチだったらやだなとか、お前が俺のこと追い出したらやだなとかそんなの」と言う。
 何をいまさら怖がっているのだろう、と思いきや、そんなことかと伏見は鼻で笑った。
 二人を繋ぐのは、恋情と友情と吠舞羅の徴だ――徴の片方は焼き潰されているものの、そこにあったということが重要だった。かつて、揃いでそこに徴があった。同じ箇所にでたのは二人が初めてだった。そう、それだけで十分じゃないかと。忌々しいながらも、そう思った。
 キッチンに立ち、コーヒーを淹れていた伏見が二人分のマグカップを持って、八田の隣に座った。
 まだ熱いコーヒーを啜りながら、「そのときはそのときだろ、」と言い放つ。その言葉を聞いて、八田がビクッと身体を震わせた。きっと、伏見がセプター4へ行ってしまった日を思い出したのだろう。
 しあわせなんていうものは、いつか崩れ去るものだろう――というのが伏見の持論だった。だが、八田とならその期間を少しでも長くもちたいと思っている。確かに一度は離れもしたけれど、いまこうして隣にいられるのだから大した問題ではない。そうじゃねえのかよ、と思いながら伏見はチッと軽く舌打ちをした。
 この家の中には、修理したこたつもロフトもない。つまり、あの頃とはもう違うのだ。
「なあ、分かれよ美咲ぃ」
 思わずそう言うと、何が、とでも言いたげな八田が伏見の淹れたコーヒーのマグカップを持って、砂糖とポーションミルクを入れるとそっとくちをつけた。
 熱ぃ、と言いながら飲む姿はどこか愛玩動物じみていて、伏見は八田の髪を梳いた。
「随分伸びたな、髪」
「んー、お前が中学の頃の髪型がいいとか言ったから? だから少し伸ばしてみたんだけど、」
 ウザくねぇの? と聞くと、慣れた、と言葉が返ってくる。
 慣れですべてが解決したらいいのにな、と伏見は思う。この生活にも、関係性にも、セックスにも全部全部慣れて欲しい。
 同居していた頃は二段ベッドの下の部分で、二人して寝ることもあったが、いまはそれと違う。明確にセックスをしたいという念を持ってして、伏見は八田に触れる。もっと触れたい、奥まで触れたい、何もかもを知り尽くしたい――そう思いながら、怯えられない程度に髪を梳くと八田が目を閉じた。そしてそのまま、伏見の方へと凭れかかった。
「誘ってんのかよ、」
「ち、がっ……! お前の手が気持ちいから目ぇ閉じただけだろ!」
 慌てて目を開けて、パチパチと瞬く。そんな仕草がいとおしくて、八田の手を持ち上げるとそっと指先をくちに含んだ。伏見の手よりはおおきくないものの、それは確かに男の手だ。それを指先の関節ごとくちに含み、爪が口腔内に当たるのを感じ取る。
 何度も対峙してきた八田美咲という男は、中学時代と同じように髪を伸ばし、また隣に座っている。それは伏見にとってひどく誇らしいものだ。サーベルで斬りつけたこともある、殴りかかられたこともある、胸ぐらを掴まれたこともある――だが、それらはすべて過去の泡沫と消えてしまった。
 わざといやらしく舌を絡めながら指を舐めると、八田は赤面しながら俯いた。よせとか、やめろとか、言わないんだなと確認しつつ、それでも悪乗りするように舌を絡めて指先に歯を立てた。少し塩っぽい味がして、緊張して汗掻いてんのかこいつ、と思いながら俯いている八田をジッと見つめた。
 くすぐったさを残すように指先を食むと、八田の睫毛がふるふると震えているのが見える。いや、睫毛どころか手も小刻みに震えていた。いままで性的な接触がなかったわけではないが、ほぼないに等しい関係を築いてきたのでこんなことにも反応するのかと伏見は笑った。
 リップ音を立てて指を解放してから、「慣れてねぇの?」と聞く。答えは分かり切っているというのに、聞かなければならないような気がして、伏見は言葉を投げかけた。
 八田は赤面しながら、何度かブンブンと縦に頭を振った。慣れてないなんてものではなく、免疫がないと言った方が正しいのかもしれないと伏見は思う。
「いい加減、慣れろよこのくらい」
 そうは言ったものの、無理強いをしたら八田が逃げてしまうことくらい伏見には予想がついていたので、ポンッと頭を叩く程度におさえた。
 そんなことを思っていた矢先に、「……お前が慣れさせてくれねーの?」と八田の声がマンション内に響いた。日当たりはよく、今日も太陽は照っている。そんな真昼間、清潔に保たれた空間のなかで八田の発言が淫靡に聞こえる。
「また今度な、」
 そう言っておあずけをしたときの八田の顔は、泣きだしそうな悔しそうな表情をしていた。
 ――この顔は、悪くないと思った。
 週に五日はここで過ごす。蜂蜜のような、と言ったがそれは前言撤回してサッカリンのような、とでも言えばいいのだろうか。これは人工甘味料の味がする幸福な生活だ。ここでの生活は、甘味料を咽喉の奥へ流し込まれているような感覚に陥る。それが良いとか悪いとかではなく、なんとなくそんな感じがするだけだ。
 家を出るまで、キチガイのような父親と他人行儀な母親としか関わって来なかったからだろうか。自分にこんな生活は似合わないと思ってしまう。しあわせなはずなのに、素直に受け止められないといえば正しいのだろうか。
 八田との初めての同居時代は、感情の剥離の連続だった。パラパラと、古い感情が剥がれ落ちていった。
 太陽が西に傾く頃になっても、八田はソファの上でうたた寝をするようにクッションを抱きながら丸まって目を閉じていた。茶色とオレンジの中間色をした髪が光に透けて、それはひどくきれいだった。
 昼食分の食器を洗い終えた伏見が手を拭いて戻ってくると、薄っすら目を開けて「変な夢見た、」と八田が短く言った。
 どんな、と聞くと八田が一気に喋り出した。
「なんか起きたらお前がいなくて、でも猿比古って奴がいるのはしっかり覚えてて、それでお前のことを必死に探すんだけど見つからねーの。タンマツ繋いでも圏外で、でもタンマツ作ってくれたのは猿比古だってこともちゃんと分かってて、気付いたら暗いトンネルのなかみたいなところを延々と歩く夢」
 そこまで一気に捲し立てると、「怖かった、」と言って八田が自分の肩を抱いた。
 その姿があまりにも脆くて、伏見はエアコンで室内を暖めながら「夢だろ、」と言った。
「夢でもこえーんだよ、もうお前がいなくなるのは厭だ」
 いなくなんねぇよ、と言い聞かせるとソファで丸まっている八田の髪をくしゃくしゃっと掻き回した。触れたその手に少し安心したのか、八田は「ん、そーだな」と言ってふにゃっと笑った。
「もう、いなくなんねぇから安心しろ」
 ソファに手をついて起き上がった八田に、そっとキスをする。
 それはいまだにぎこちないが、少しずつ慣れてきたものだ。頬に触れる、口唇をあてる、微かに震えているそれのあいだに舌を挿し込む、逃げようとする顔を押さえながら舌を絡める。
 少し息が上がるのを感じながら、絡め取った舌をもてあそぶ。子供じゃねぇんだから、といつ揶揄っても八田は息を荒げる。水中に落されたみてえ、と思いながら必死に空気を求めながらキスをするさまを感じる。キス以上のことは怖いと言っていても、ここまでは平気なラインのようで、伏見にはそれが許されている。
 なぜ許すのだろう――、と伏見は何度も思う。
 裏切り、揃いの徴を焼き潰した男を、何でそうやって信用出来るのかと。
 多分、そう聞いたならば「サルだからだろ?」と純粋な答えが返ってくるに違いない。伏見猿比古だから許すし、何もかもを受け入れるというのか――それはおかしくないか、と伏見の頭のなかが混乱する。
 もっと憎まれないといけないというのに、なぜこんなことになっているのだろう。しあわせそうにマンションを買い、住み、そして睦み合う。憎まれて、その視線を独占してしまいたいと思っていた頃とはまったく違う。
「なーに変な顔してんだよ、お前きれいな顔してんだからさ、もっと普通に見ろって」
 口唇を離した八田が、そう言って伏見の頬をぺたぺたと触った。ソファの背中側から覆いかぶさるようにしていた伏見は、やっと自分が顰め面をしていたことに気付く。
「俺のこと、憎くねぇの」
 ついくちから出た言葉に、しまったと思ったが言葉になってしまったものは元に戻らない。
 じっと八田と目線を合わせていると、フッとそれを逸らされて「俺も歳とったし、」と年寄りみたいなことを言われた。歳をとったといっても、あの同居生活を解消してからまだ四年ほどだ。たかが四年だろ、と言えば「四年ってでけーし長いぞ、」と返される。
 とにかく、その四年のうちに伏見は許されたらしい。ということが分かった。
「まあ俺も、サルより大人にならなきゃ生きてけなかったし?」
 どこがだよ、と伏見が突っ込むと「お前の知らない俺っていうのも、色々あんだよ」と言われる。それよりも、と八田がくちを開いた。
「――今日の晩飯、何にする?」

 
 結局、その日の晩飯はハッシュドビーフになった、伏見が野菜が出来るだけ入っていないものとリクエストしたからだ。
 玉ネギとマッシュルームを端に寄せつつ、薄切りの牛肉とルーと米のみを食べる姿は何だか少しおかしいとは分かっていても、伏見はそうしていた。
「マッシュルームくらい食えよ、」と言われても、「不味い」と一言で切り捨てて、断固としてその姿勢を崩さない。八田は半ばあきらめて、途中からは口出しするのを止めたようだった。
 飯を食いながら、「なあ美咲、飯食い終わったらやりたいんだけど」と言うとスプーンがぴたりと止まった。
「美咲が厭なら手ぇ出さねえけど?」
「……その、厭だとか言うんじゃなくて、恥ずかしいっていうか、あの」
「一緒に暮らしてて、たまに風呂も同時に入ってるのに恥ずかしいも何もねぇだろ」
 それでも恥ずかしい、という八田の言葉を聞きながら、伏見は二人分の食器を片づけていた。料理を担当するのは八田、片付けは伏見というルールが出来ている。
 食器を洗い終え、八田の方を振り向くと椅子から降りてソファへ移動しているのが見えた。手を拭いて隣に座ると、あからさまに緊張しているのが分かった。
「そんなに怖ぇの、」
 伏見の問いかけに、八田が顔を横に振った。恥ずかしいとは言っても、怖くはないらしいことに、伏見は少し安堵する。
「じゃあ、怖くも恥ずかしくもないことだったらいいんだろ?」
 そう聞くと、八田が少し不思議そうな顔をしたまま頷いた。
 それから、八田の身体をソファに沈み込ませながらゆっくりと押し倒して軽いキスを繰り返す。頸筋に口付けると、少し苦しいのか呻く声が聞こえたが、気にせず伏見は頸筋を噛みしだきながらキスマークをつけた。
「う、ぁ」と、呻き声と喘ぎ声のあいだのような声が耳に入る。
 この寒い時期にハーフパンツを穿いているのをいいことに、その太腿に手を差し込んだ。
 八田がビクッとわずかに震えるのを見ながら、その手で服を捲って脚の付け根を露わにする、そしてそこへそっと口付けると付け根にもキスマークをつけた。
 何度も同じことを繰り返し、鬱血させる。
 厭だとは言われないことを確認しつつ、伏見はその健康的な色の肌に幾度も吸い付いた。
 赤紫の鬱血の痕が、点々と散るかのように皮膚の上に残る。いい色だ、と伏見は思う。淫靡なくせに、それを掻き消すほどのものがある八田美咲という存在を汚すようで、とてつもなくゾクゾクとした。
 キスマークをつけられているのは八田の方だというのに、伏見の肌は粟立ってとまらなかった。興奮していたとか、そんな簡単なものではない。やっとこの生活を手に入れたという充足感に満ちていて、これはまぎれもないしあわせなのだという多幸感に支配される。
 数年間の苦悩ののち、手に入れた幸福なのだという事実。
 皮膚を食みながら「美咲、美咲」と何度も呼ぶと、手で顔を覆っていた八田が「んだよ、猿比古」と言いながら息を荒げた。
 多分、ここで即物的で簡単な快感というものを与えるのは容易なことなのだろう。
 だがしかし、与えるわけにはいかない――もっと、もっと俺のことを欲しがってからにして。と伏見は願いながら、太腿を食んでいた口唇を離し、八田の口唇と自分のそれを擦り合わせながら願った。
 そう、願ったのだ。
 いつの日も、二人がこれ以上離れることがありませんように、と。
 その願いに呼応するように、八田が少し忌々しそうにくちに出した。
「畜生、好きだ――猿比古」
 俺もだよ、と言うのはあまりにも簡単過ぎた。そして、単純すぎた。だから、伏見は頷いただけで言葉を返さない。ただ、こころのなかというのか、胸の中心が灼けたように熱かった。このまま灼き殺されてもいいよ、と思いながら伏見は八田の口唇を塞ぎ、そのやわらかな癖っ毛のなかに手を差し込んで引き寄せた。

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