【猿美】ここにいない

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

 美咲は目が綺麗だな、と言われたことを今でも度々思い出す。
 いや、何度も、何度でも、度々なんていうものではなくほぼ毎日に等しいかも知れない。
 あれは猿比古が吠舞羅にいた頃だ。
 今のように冬空が寒かったのを今でも美咲は肌に、口唇に、脇腹に、鎖骨の下に貼り付けている。
 尊に共に拾われた身であるからか二人は常に一緒に扱われることが少し不快で、そしてどこか誇らしかった。吠舞羅のメンバーであるという証、それが胸に刻み込まれているのは同級生を探してもおらず、当然のように二人は二人だけの時間を共有した。
 二月も半ばになった日だった、卒業式も控えており、二人は押し付けられた実行委員として不本意ながらも居残りをしていた。生徒会からの指示書と、各クラスから集めた領収書をもととして職員室へ行った帰り、もう夕暮れの時間が早くなったと体感する。
「美咲、」と呼ばれ、振り向くと鍵をチャリチャリ鳴らしている猿比古が「なあ美咲、」と近寄って耳元で囁いた。
「遊んでくれよ、」
 それは誘惑の言葉だ。単なる中学生の遊びのつもりなのかもしれないが、美咲には真意が測りかねた。
「どうせろくでもねぇことなんだろ、」
「さぁ? まあ、お前次第ってとこかな」
 斯くして二人は荷物を取りに教室へ戻りながら、互いの出方を牽制しあっていた。いや、牽制していたのは美咲だけで猿比古はそれを眺めていた。剣呑な言い方だった、と美咲はあとになって思う。
 二人がひたひたと歩く。リノリウムの床は冷たく、二月の寒さを映し出している。
 理科準備室、と書いてあるドアの前を通った時、猿比古がいきなりそれを開けて美咲の襟首を捕まえた。抵抗の言葉を口にするよりも先に、ドアはピシッと音を立てて閉められる。
 思い切り襟首を掴まれた後、力任せに奥に置いてあるデスクに押し付けられる。それでも美咲はひるむことなく、約十センチ高い身長の猿比古を見上げた。
「んだよ、猿、」
「いや、目が綺麗だなと思って」
 お前は俺の目が綺麗だったら準備室に連れ込むのかよ、などと美咲が思っていると、猿比古の顔が近づいてきた。思わず目を瞑る。
 最近、二人はセックスを覚えたての学生宜しく人気がないとキスを繰り返した。理由は特にない――と美咲は思っている。相手が好きだとか、嫌いだとか、厭わしいだとか、愛しているだとか、そんなものには括られないで、二人は二人きりだった。
 相手がいれば、それで充足する。
 そんな理想的な関係なんて無意味に等しいんだけど――と美咲は思う。
 無意味に等しいのはこのキスも同じなんだと思い知る。きっと猿比古は、誰にでも求められればそれこそ美咲よりも女を取るのだろう。美咲、他の男、他の女、もう選択肢がありすぎて嫌気が差す。
「美咲、いい子だから口開けて」
 この優しい言い方は嫌いだ、と思う。
 狡いのだ、この男は。そんな物言いをされたならば、素直に口を開けるしかない。
 普段人を舐めているような態度と口の聞き方をしているくせに、時折人が変わったように美咲を丁寧に扱う。
 必死に歯を食いしばっていると、「強情だなぁ、」と言いながらクスクス笑われる。
 だから、その言い方は嫌いだ、と何度でも伝えたくなった。優しい声音は嫌いだ、錯覚を起こしてしまうから。だから冷たくされたりする方がいい、そうやって猿比古に出会い、尊に拾われるまで美咲は生きてきた。
 いっそ、物のように扱われた方が楽なのを、目の前の男は知らないのかもしれない。いや、知っているのに忘れたフリをし続ける。そう言った男だ。
「美咲、何言いたそうな顔してんの、」
 デスクに押し付けられているので、当たった背中と腰が痛かった。
 ふと目を開けて周りを見ると、標本や剥製、人体模型が二人を見下ろしている。それは一種異様な場所だった。
 カラスの剥製が、目にとまった。ガラスの目玉をはめ込まれ、中身を抜かれた剥製だ。美咲は八田という苗字から、吠舞羅では通称八咫烏と名乗っている。剥製のカラスは、一体何を思いながら肉を抜かれてこの埃だらけの準備室にいるのだろう、と考え少し悲しくなる。
 それは猿比古に感じる感情に、少しだけ似ていた。何を考えているのか分からない、ただ、二人は離ようもない赤のクランズマンとして尊に出会ってから生き直した。血よりも濃い絆を美咲は誇りに思っている。
 ――胸に刻まれた証が、二人をつないでいるのは明白だ。
 猿比古の胸元のボタンを開けたシャツから、その証が見える。この瞬間が、この空間が永劫であればいいのに、と美咲は泣きそうになって制服のシャツで涙を拭った。
「十四にもなって泣くなよ、」
「……泣いて、ねえ」
 洟をすすりながら上を向き、猿比古と視線をかち合わせると「キス、してぇならさっさとしろ」と言った。
 そうだ、遊びならばこの程度付き合ってやろうと美咲は思った。たかがキスくらいで満足する相手なのだから――だから本気になってはいけない。
「美咲、いい子だからこっち見て」
 そう言われ、何があるのかと見開いた瞬間、左目の視界が塞がれた。何が起こったのかと冷静に把握すると、猿比古が美咲の左目を舐めていたのだった。
 片手で押さえ込まれ、動こうにも関節を掴まれているため動きようのない美咲の眼球を、それは楽しそうに舐めている。
 もちろん、眼球は性感帯でもなんでもないので舐める舌がざらりという度にシクシク痛み、美咲は左目からの涙がとめどなく流れるのを感じていた。その涙さえも舐め尽くすようにして、猿比古は満足気な顔をしている。
「てっめ、離せよ!」
 猿比古を押しやろうとしても、動きようがないのでどうにもならない。それを分かってなのか、美咲の眼球は猿比古の唾液まみれになっていた。
 左目の視界だけが、見えたり見えなかったりを繰り返す。チカチカと脳内が点滅して、この男にこれ以上関わるのは危険だと思い知らされる。
「痛いって分かれよ! 普通じゃねえだろ!」
 美咲が激しく抵抗すると、やっと寄せた顔を離した猿比古が「普通、ねぇ」と嗤った。それは明らかに馬鹿にしている笑みであり、美咲は癪に障ったがシクシクと痛む目を目蓋の上から擦ってなんとかなじませた。
「だから痛ぇだろうが!」
「キスしても良いって言ったから、」
 だからってテメェは目玉舐めるのかよ、と言いたいのを飲み込んで「変態、」と一言罵った。
「変態っていうほどでもないんじゃない、相変わらず大袈裟だな美咲は。眼球舐めたくらいで、泣いたり喚いたりするなよ」
「するだろ、テメェの常識で考えてんじゃねーよ」
 俺は、と猿比古が神妙な顔をして何かを言いかけたので、美咲は思わず唾を飲んだ。
「――俺は、美咲を手に入れたくてしょうがないんだ。お前が俺を見るだけじゃ物足りないから、だから視界を奪ってしまいたいほどなんだけど……とか言えば頭の悪い美咲にも通じるのかなぁ、」
 この視線だ、と美咲は感じる。いつも尊や出雲と話しているとき、背後からジッと見つめているじっとりしたこの目線。吠舞羅に入ってから、二人はすれ違い始めたのだと美咲は感じている。それが良い方向ならばまだしも、だ。
 いつか、出雲からこっそり貰った煙草を二人で吸いながらその合間にキスをしたことがある。それはニコチンとタールの味で、慣れない二人には不味いものとしか認識されなかったが、秘密を共有したということが重要だった。そんな関係だったはずなのに、と美咲は歯がゆさを感じる。
 ジリジリと、数日前に付けられた胸に残るキスマークが痛んだ気がした。もちろん、それはただの鬱血なので痛みなどは感じないのだが、それでも肌に残った。
「普通にしろよ、」
「何をって、言わなきゃ分かんないだろ、ちゃんと言えよ美咲」
「――だから、キス、するなら普通にしろって言ってんだよ」
 頬をふくらませ、子供が拗ねるようにしている美咲を見て、猿比古は満足気に笑っていた。そうだ、この時まで二人の思考と感情は共にあった。
「キスして欲しいの、」
「猿比古がしたがってるんだろ、お、俺は別にしなくっても良いって言うか……」
 じゃあさぁ、と笑みを浮かべたまま頸の角度を美咲に合わせて近づけながら、「美咲がしたいって言うまで何もしないから、このまま待ってる」そう言い、唇に触れるか触れないかの後数ミリのところで猿比古は動きを止めた。
「んだよ、それ」
「だからー、可愛い可愛い美咲ちゃんが俺にキスして欲しいっておねだりするまで、俺は一切動かないって意味」
 理科準備室はしんと静まり返っており、美咲はいつ外を見回りの用務員が来るかと気にしていたが、そんなことを吹き飛ばすように猿比古は視線を自分のみに欲しがったし、美咲はその罠にはまった。
 勝負はいつだって決まっていた、美咲は猿比古の視線に負けてしまう。
 力量を比べたことはないが、それ以外――例えば真摯な視線や、キスをする時のリードする側など、そんな単純なものに引っかかって美咲は敗北を認めざるを得ない。
「猿、早くしろ」
「美咲さあ、意味分かってる? 何をして欲しいか言えっていったんだよ、」
「するなら、さっさとキスしろ。……って言うか、キスしてもいいからしろ」
 語尾が消えるように小さくなってゆくのを楽しみながら、猿比古はその言葉を聞いていた。
 いいよ、と答えるのと同時に美咲が背伸びをして約十センチの差を埋めた。
 勝ち誇ったようにして、美咲が口を開く。
「っは! 先にしてやったからな、今日は俺の勝ちだな!」
 ただ口唇が触れ合うような、他愛もないそれは勝ち負けなどではなかったのだが、美咲は恥ずかしいのを精一杯こらえるかのように言ってみせた。
 その様子を目の当たりにして、珍しくも一瞬目を丸くした猿比古だったが、「こういうのじゃなくってさあ、」と言って美咲の口唇に指を這わせた。思わず美咲がびくりとすると、「その顔、好きだな」と淡々と答えた。
「俺は美咲と勃ちそうなキスがしたいって意味、分かる?」
「はあ? んなの、女とすれば――」
 言うか言わないかのあいだに、美咲はデスクに押し付けられ、上体を僅かに反らせながら猿比古に口唇を擦り合わされていた。ぬめる舌が上下の歯を割って侵入してきたのを受け、美咲はまじまじと目を見開いて猿比古を見た。
「馬鹿だな美咲、目を閉じろよ」
 言われるがままに目を閉じると更に感覚は鋭敏になり、美咲は呼吸をするのが困難なように短い息を繰り返した。そのうち美咲は喘いでいるのか、それとも呼吸を繰り返しているのか分からなくなり、その姿を見られるのが嫌でギュッと目を瞑った。いや、嫌だというよりは単に恥というものを感じるからだ。
「ふっ……はぁ……っく、さる、猿比、古、猿比古」
 背中に手を回し、必死にその名前を呼ぶ。
 その名前は、伏見猿比古。
 伏見猿比古という男は美咲を狂わせるたったひとりの存在だ。制服のシャツ越しに、背中に爪を立てる。シャツに皺が寄り、背中の肩甲骨をきれいに浮き出させた。シャツの下、皮膚の下、肉の下、そこにある骨。それは猿比古を構成しているパーツであり、うつくしいものだ。
 猿比古は薄ら笑いを浮かべたまま美咲の口腔内に舌を入れ、ぴちゃぴちゃと音を立てている。
 挿し入れられた舌は美咲のそれと絡まり合い、先程までしていたものとは違う、けれども猿比古側からしたら遊びの範疇にあるキスを何度も繰り返した。 
 舌なんて生肉の塊みたいだ、と美咲は思う。
 そして、ああ、この男も生きているのか――そう思っただけで、舐められた左目がまたシクシクと痛んで涙を流した。生きているということは、いつかは別れる日が来るということだ。美咲はそれを経験上知っている。
 そっと背伸びをして、胸と胸を密着させた。赤のクラン、そのクランズマンであるということの証。それが互いの皮膚の上に息づいている。美咲は自分のそれが猿比古にも伝わるよう、精一杯痩せぎすな胸を押し付けた。
 いつか別れる日が来たとしても、この理科準備室で二人がしたキスの甘い唾液の味、背中に立てた爪痕、それに糊の利いた猿比古の白いシャツ、そんな物たちが構成した時間は確実にあった。そう、これは揺ぎのない事実だ。
「畜生、馬鹿猿。勃ててるこれ、俺以外に処理させんじゃねーぞ、」
 美咲が猿比古のジッパーを下ろし、床に跪く。
 その様子を見て、ヘラっと「大丈夫、美咲だけだよ」そう言った。
 それから何年経っても、美咲はその言葉を思い出す。
『美咲だけだよ』
 猿比古は確かにそう囁いた。だからきっと無愛想に悪びれながらも戻ってくるはずなのだと、決別と海容と妥協の狭間において何度も、何度でも反芻しては身が千切れそうになる。
 今日も、今日も、今日も、猿比古は帰ってこない。そう思いながら吠舞羅のメンバーと過ごす時間がどんなに切ないか分かるか、お前が帰ってくる日をいつだって待っているのに――隣に猿比古が、いない。
 猿比古だけが、ここにいない。

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