【猿美】きみのすこしぼくのすべて

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

 待ち合わせに遅れたので、若干いらつきながら電車のドアと手すりに凭れる。銀色のつめたい手すりと手のひらが接触する、その接触面から少し思考が冷静になったが、そんなものは僅かなあいだでしかない。流動するように移りゆく窓の外、動く景色を眺めながら何度か舌打ちを繰り返した。電車のなかは浮かれた学生の群れが、ひとつふたつ出来ている。うざいと思いながら、ドアの横に立って身を隠す。同級生だったりした場合、最近の付き合いの余波で何かと面倒なときもあるからだ。それならば、最初からかかわらないようにしておくのが最良だろう。
 この車両には学生と老人、親子連れなどが乗っている。まったくもって、いつもどおりの下校時に見る電車内だった。こうしてドアの横に立つのも、普段と何一つ変わらない習慣。時折、授業の合間に話しているような、世界が滅亡するようなことは願っても起こらない。二人で話した宇宙人もロボット帝国も、気象兵器も何もあらわれない日々。
 チッと舌打ちをするたび、余計にいらつきが募ったが、何とかそれを紛らわせるように手許のタンマツに目を落とした。気付けば、こちらを気遣うようなメールが何通か届いていた。
 その新着メールは、すべて八田美咲によって送られたものだ。
 現在時刻を指す、午後二時十五分の白い文字が浮いている。
 教師に下らない用事を押し付けられていたら、約束に十五分も遅刻するはめになった。二学期最後の登校を果たし、いつものファーストフード店の角の席で落ち合うはずだった。
 オレンジ色と茶色の中間色をした髪をぴょこぴょこと揺らしながら、コーラもいいんだけどオレンジジュースも捨てがたいし……などと、レジカウンターのメニューを前にしながら美咲がオーダーに迷う姿を見ているだけで楽しくなれる。少し頸を傾げ、いかにも困ったような仕草で何度かうーうーと呻りながら「やっぱ、コーラ!」とパッと咲くような笑顔で言うのだ。そんなことが、毎回毎回繰り返される。
 日常の反復というものは恐ろしいもので、繰り返されればそれが当たり前になってしまう。穏やかな日常の連続が、いつか壊れることを願いながらいまの生ぬるさも悪くないと思っていた。
 電車が、タタンタタン、と走るたびに音を鳴らす。繁華街に出るまでは、数駅乗って経由駅を通さなければ着かない。住んでいるのが都内でも、都心部に出るのに多少時間が掛かる。
 あと数駅で着くな、と思ったので美咲にメールを送信した。いつもならば、来るのが遅いとかコーラ飲み終わったとかいう返事が即届くはずなのに、今日に限ってその反応はなかった。タンマツは何も受信しないままだ。新作のバーガーを食って、テーブルに突っ伏している様が簡単に想像できた。美咲らしいなと思う。
 電車を降り、少し早足で階段を駆け下りる。最終的に、三十分近く待たせてしまったので何か奢ろうと考えながら改札を潜り抜けた。
 いつものファーストフード店、その角の席――。そう頭のなかで繰り返しながら、カウンターでLサイズコーラふたつと、ポテトを注文して美咲を探す。
 店内が比較的空いていたせいか、新人バイトのレジに当たってもたついたが、目当ての席に明るい髪色が見えるとホッとする。プラスチックのトレイを持ちながら歩み寄ると、どうやら新作の長ったらしい名前のハンバーガーを食べているところだった。普段の癖でくしゃっとねじった包装紙と、ポテトの空き容器がテーブルの上に置いてある。コーラはまだ中身が入っているらしい。紙コップの表面に水滴がびっしり浮いている。
 かぶりついたハンバーガーの反対側から、パテとレタスがはみ出そうになっているのが、おかしくて笑いそうになった。美咲はいつもそうしてこぼしそうになるのに、全くと言っていいほど学習しない。いまだって、ソースが手に付いている。
「美咲、おまたせ」
 そう言ってトレイをテーブルの上へ載せ、スクバを空いている椅子に置くと、きれいな三白眼がじろりとこちらを向いた。ポテト余分に買ったから食えよ、と言うと、いつもなら「サンキュ、」と返ってくるはずが無言でハンバーガーを食っている。特に気にもせず、大口を開けてかぶりついている美咲を向かいに座って眺めながら、この小さい身体なのによく食うな、などと思いながらコーラを啜った。
 少しして食い終わったのか口の端を拭うと、こちらを見ながら困ったような不信感を表すような、そんな微妙な表情をしてみせた。それは出会った頃に見せた表情に似ており、こちらが困惑しているとその間を誤魔化すようにしてはにかんだ。
 厭な、予感がした――。
 その予感はまもなくして現実になった。どう言えばいいのか分からないと言ったように、美咲が怖ず怖ずと口を開く。
「あの、さ……俺、お前と待ち合わせしてる?」
 一瞬、何を言われたのか意味が分からなかった。それはそうだろう、待ち合わせ場所に着いて、美咲がそこに座っているのに、お前と待ち合わせをしているのかと聞かれたときの得体の知れない感覚。多分、俺が遅れたので何か冗談を言っているのだと思いながら頷いてみせると、あからさまに不安げな顔をした。
「ここで飯食いながら、誰かずっと待ってるみたいなんだけど、」
 自分で言いながら段々怖くなってきたのか、両肩を竦めてそう言う姿は特に嘘を吐いているようには見えない。いや、元々美咲はバレるような嘘しか吐かない。こんなにうろたえている演技など、出来るはずがなかった。
「っつーか、お前誰?」
 ――決定的だった。
 待たせてしまった三十分、そのあいだに何かが起こったのだろう。
 きっと、昨今騒がれているストレインという存在によるものなのかも知れない。自分がどうなってしまったのか、不安げな顔をしながらこちらを見ている様子を見て、間違いないと確信する。
 美咲の姿をしているのに、美咲ではなくなってしまった少年が目の前にいる。いや、美咲ではないというのは語弊だろう。記憶を失ったか、それか別の何か。ともかく、これまでの八田美咲という少年はこの世界から消えてしまった。信じたくないが、それが事実らしい。
「自分の名前は分かるのか、」
 慌てながら聞くと、ブレザーの内ポケットから学生証を出して「八田、美咲……だと思う。さっき見つけた、これ俺だろ」と言った。当たり前だが落ち着かないのだろう、そわそわとしている様子が伝わってくる。
 学生証はスタンダードな臙脂色のカバーのもので、学籍番号と写真入りだ。ちなみにこれは学年別で色が違うものである。それが見えるように開き、証明写真の部分をこちらに向ける。無愛想な顔をして写っている美咲が、写真のなかからこちらを見ていた。
 その証明写真のなかの顔が、あまりにもいつもどおりで胸元に競り上がるものがある。
 きっと、いまの美咲は何も分からないに違いない。
 付き合い始めた俺たちの関係を説明したところで、拒否されてしまうかも知れないのだ。ひとまず、そこは伏せておこうと思いながら落ち着かせようと試みる。目の前のコーラを飲むように促すと、おとなしく言われた通りに啜り始めた。
 飲んでいるストローを軽く噛む癖、そんなものさえいつもと変わらないのに、八田美咲という存在が変わってしまったことを自分に言い聞かせる。
「美咲、俺の名前は?」
 駄目元で聞いたものの、その問いかけも虚しくじっと見ながら悲しそうな顔をされるだけだった。誰が悪い訳でもないと、分かっている。そもそも、何らかのストレインが原因なら病院とか警察とかに行くべきじゃないのか、と頭のどこかで自分自身が警告していた。
 申し訳なさそうな顔で、「悪ぃ、」と言われても責めることは出来ないだろう。そもそも、学校の用事などで遅れないで早く来るべきだったと思い、今更だが悔やむばかりだった。
 何度か溜め息を吐いたところで、心配しているのかこちらの顔を覗き込んでいるのが目に入る。しょうがない、と思いながら名乗ることにした。
「伏見――、伏見猿比古だから、覚えておけよ」
 そう言うと、美咲が大きな目を更に見開いてパチパチと瞬きすると、いかにも楽しそうに笑った。それはいつもと変わらない笑い方で、この状態に於いてこちらを混乱させるようなものだ。
「猿? サル? っは、変な名前だな」
 最初に会った頃、名乗った当初も確かこんなことを言われた気がする――、そう思いながら美咲は元に戻るのだろうかとふと不安になった。漠然とした得体の知れない感情が、頭蓋のなかを埋め尽くす。それはゼリー状でブヨブヨとしており、次第に増えては憂いというものに変化した。
「そう言えば、お前、俺の友達なんだよな?」
 軽く聞いたであろうそんな問いに、一気に心臓が冷えた。
 だって、俺たちは友達という期間を経てそれ以上の関係をいうものを手に入れて、いつも二人でいられれば幸せで誇らしいと思えるような、そんな間柄だったから。だから、友達以前の状態に戻ってしまったことをあらためて思い知らされ、動揺というものを隠しきれなかった。
 落ち着こうと思いながらコーラを飲む。そんな時に限ってストローにクラッシュアイスが詰まり、ズズッとみっともない音が立った。
 何も知らない美咲が、じっとこちらを見つめている。その視線はいつにもまして純粋なもので、余りにも残酷なものだった。
 お前は友達なのかと聞かれ、しばらく何も言えないでいると俯いてしまったので慌てて口を開いた。
「ただの友達、ってより親友」
 少しの本当と、少しの嘘――。多分、このくらいは許されるはずだ。
 美咲は何を思ったのか、そうかそうかとしきりに何度か頷いていた。
「そっか、俺の親友か、通りでいいやつっぽいよな!」
 安心したような笑みを浮かべて、美咲が俺を見た。どうやら、親友だと言ったのを信じてくれたらしい。
 だけど、なんでそんな簡単に信じるの。
 俺がどんなに汚らしい感情でお前を見ているか知らないくせに、そんな単純に笑わないで欲しい。
 しばらく、無言でポテトをつまみながらコーラを飲んだ。ポテトはぼそぼそになってしまっていたし、コーラは氷が溶けて薄まってしまっていた。互いの緊張が滲んだ味は、ひどく微妙なものだった。
 先に言葉を発したのは、俺だった。
「……俺の家、三日間なら両親出張してるけど来れば、」
 そのなかに、若干のやましさがなかったと言ったならば嘘になる。ただ、こいつの家族仲が良くないのは普段の態度から察せられたし、そんなところに帰ってぎこちない生活をするよりも一緒にいた方がいいと思ったのだ。
 美咲は数秒考え込んで、悩んだような顔つきでこちらを見て、やっと頸を縦に振った。
 行くあてが出来て安心したのか、とっくに不味くなったポテトを二三本まとめて掴み、口に放り込んだ。そんな仕草も何もかも、いつもの美咲と何も変わらないのが苦しい。

 すべて食べ終わってから店を出る頃には、夕暮れになっていた。
 特に大したことを喋っていた訳ではないが、思い出せるところまで思い出してみせようと、少し苦戦したせいで時間を食ってしまった。
 美咲によると、ハンバーガーにかぶりついていたところ、隣のテーブル席に座った女子高生らしき人物に話しかけられたらしい。向こうから話しかけられたので、その女と二言三言、会話をしたらしい。その辺りから、色々なことを忘れてしまったようだ、とのことだった。何もかもが、らしい、で話されるのがもどかしかったが、多分そいつがストレインだったのだろう。ただ、どんな会話をしたのかまでは覚えていない――もしくは記憶を持って行かれたと話していた。
 そこが重要だったのだが、無理に思い出させることも出来ない。ひどくもどかしい。
 歩きながら、普段の美咲はどんなやつだったかを聞きたがったので、渋々話してやった。どうやら自分のことも、あやふやな状態らしい。
「ちょくじょーてき、でキレやすくってすぐ泣くって、どんだけ単純なんだよ」
 俺が知っている限りの美咲について説明すると、少し恥ずかしそうに言って照れ笑いを浮かべた。
「もっとカッコ良くて、男らしくて、寡黙とかさー」
 頬を膨れさせながらそんな冗談めいたことを言うので、思わず笑ってしまう。そんな美咲がいたら是非とも見てみたいと言うと、「ここにいるだろ!」と強い口調で言われたので、思わず頭をはたく。
 でもさ、と言葉を続けて歩きながらこちらを向いた。
「そんな俺の親友やってるだなんて、伏見も珍しいもの好きだよなー」
 伏見、と呼ばれた――。
 いつもはサルだとか猿比古と呼んでいる美咲が、出会った頃のようにわずかに堅苦しく苗字で伏見と言う。それは少なからずショックをもたらして、俺を揺さぶった。
 いや、出会った頃もなにも、現在の状態としてはその言葉のままなのだから、それでいいのだろう。記憶をなくした美咲にとって、伏見猿比古という親友を名乗る男は、まだ壁のある他人に過ぎないのだから。
 だがそんな壁を崩すように、気付けば「猿比古でいい、」と言っていた。
 言うまでもないが、俺は自分の珍しい名前に多少のコンプレックスがある。
 美咲ほどあからさまではないが、名前というものが苦手だ。出来れば、伏見と呼んでくれと言うときもある。
 前述のとおり誰が相手でも名前で呼ばれるのは苦手だったが、それでも美咲の声で「猿比古、」と遠慮なく発せられる名前の音の並びだけは好きだった。特にそっと手を繋いだとき、触れるようなキスをしたとき、セックスの最中、甘えて信用しきった声で呼ぶのは誇りのようなものだ。
 猿比古でいい、と言ったのを聞いた美咲が明るい表情になり、ブンブンと勢いをつけて頷いた。記憶をなくしても、普段の癖や仕草などは何ひとつ変わっていない。それが余計に、こころを抉る。
「猿比古、ってパッと見は陰気な根暗眼鏡だけど話すとちげーな」
 ひとのことを、陰気な根暗眼鏡などと言いたいように言っているが、何よりも美咲が俺の名前をいつものように呼んだことが嬉しかった。
「どう違った?」
 さりげなく聞いてみたものの、心持ち声が弾んだかもしれないと思った。
「んー、内緒にしとく。本人に言うもんじゃねーだろ、」
 それは本人に言うのが恥ずかしいことなのか、と若干ニヤけながら問い詰めたくなったが、それを聞いて気まずくなっても困るので黙っておく。いまの美咲は、美咲であってそうではないことを忘れてはいけない。
 帰り道はいつもはバス通だが、徒歩で帰れないこともないので今日は歩くと決めた。片道四十分ほどかかるが、途中でコンビニが何軒かあるので、そこで晩飯を買おうと考えながら並んで歩いた。
 そこは時々歩く道だったが、いまの美咲にとっては初めて通るところなので、あちこちを物珍しそうに見ている。こんなところにでかいスーパーあるんだなとか、変な名前の歯医者見つけたとか、いままで一回はしている会話を繰り返すのはどこか不思議な感覚だ。
 記憶や思い出の共有、それがこんなにも大きなウエイトを占めているだなんて思わなかった。いつだって人間というものは失って気づくと言うが、それにしてもこれは唐突過ぎる。いや、不幸なことは何事も唐突にやってくるものだ。
「いつか消えちまう、のかな……」
 色々と考えごとをしていると、美咲がボソッと呟いた不吉な言葉が耳に入った。
 消える? 美咲が、消える――?
 思わず反射的に隣を見ると、難しいことを考えているような顔をしながら少し頸を傾げていた。苦手な科目の授業で当てられたときみたいに、その表情は悔しさと困惑のようなものを湛えている。
「なあ、猿比古。俺、このまま全部記憶消えてなくなったりしないよな、」
「しない、」
 強く断定するように言うと、美咲がビクッと肩を竦めたのでもう一度言い直す。
「俺がいるから、美咲の記憶のことは安心しろ」
 落ち着いた声でそう言うと、弱々しく「ん、」と言って曖昧な笑みを浮かべた。実際のところ、美咲はどうしていいのか分からなかったのだろう。
 抜け落ちた記憶、親友だと名乗る男、押しつぶされそうなほどの不安感、見知ったはずなのに知らない街――。
 それらがどれだけ心許ないか残念ながらすべては分からない、ただ、ひとりでいるよりはふたりでいた方がマシだろうと思ったのだ。
 手を繋ごうかと思ったが、少しの親密な接触でも怯えられてしまうかもしれないので、立ち止まってポンポンと頭を軽く叩くにとどめる。美咲は一瞬驚いたような顔をしたものの、「何だよ、」と言って照れながら、だけれども手を払うようなことはせず、耳を垂らした子犬のように大人しくしていた。
 そのまま、軽い接触なら大丈夫なのかと思い、髪を撫でる。
 明るい色の癖っ毛、それはとてもやわらかくしなやかだ。髪を撫でられるのが好きなのだろう、普段は目つきの悪い三白眼を伏せがちにしながら、じっとしている様子は見ているこちらも気分がいい。
 しばらくそうしていたが、あと十分ほど歩かないことには家に着かない。
「あと少しで家だから、」
 そう言って手を離すと、名残惜しそうな顔をした美咲がこちらを上目遣いで見た。
 つくづく思うのだが、その上目遣いは計算しているのかと思うほどいやらしい。身長低め、体重軽め、伸ばした髪、白目のきれいな三白眼、生意気そうな口――、それらすべてが揃った上で、何かをねだるように見られると男として困る。別に背が低い童顔だからといって女として見ている訳ではないが、格好良いか可愛らしいかの分類で言えば、可愛らしい方に分けられるのだから余計に参ってしまうというものだ。
 挙句、こちらを意識していないゆえの言動とは恐ろしいもので、「お前の手の感触、何だかいい」と言い放たれた。それを聞いて、先日美咲とセックスしてるときに触り方がいいって上擦った声で言われたな、などと思い出してしまう。そして、あのときの美咲はいまはいないのだと虚しくなった。
「美咲、晩飯に食いたいものあれば言えよ」
 ただしコンビニ食で、と付け加えると、緊張の解けた顔を向けて笑う。
 夕暮れ時は、コートを着ていても冷え込む時期になった。制服の上に着込んでいるのだが、それでも寒いものは寒い。紺色の空には月が浮いており、都内だというのに星が散っているのが見える。冬は空気の透明度が高くなるから好きだ、と思いながらそれを眺めつつ歩く。玻璃で出来たように尖った三日月、砕いた蛍石の欠片のような星が見えるのは珍しい。空気というか、時間も含めて純度の高くなるこの時期は歩いていて心地よい。
 そう言えば、美咲は夏生まれだからか正反対の季節の方が好きだったな、と思い当たる。
 案の定、横を見ると手を擦り合わせて少しでも暖まろうとしている姿が見えた。
「お、コンビニ見えた」
 寒そうにしながら美咲がコンビニの看板を見つけ、「もうちょっとで着くのか?」と聞いた。早く暖かい室内に入りたい、と言わんばかりだ。
 コンビニの入口に敷いてあるマットをギュッと踏むと、軽い音の入店メロディが流れる。いつ聞いても間抜けなメロディだよな、と思いながらバスケットを手にとった。両親が出張や旅行のとき、飯を勝手に食いたいとき、度々お世話になっている店だ。 
 ふたりで店内をぐるっと回りながらコーラの2Lペットボトルを手許のバスケットに放り込み、適当なスナック菓子を入れ、弁当の棚の前で悩む。
 こちらの個人的な情報はゼロに等しいので、野菜がゴロゴロ入った八宝菜が美味そうだとか言われたりしたが、難なく却下してオムライスとビーフカレーに決めた。オムライスもカレーも、当たり外れが少なさそうなメニューだと思ったので選んだだけだ。
 野菜食わないからそんなに痩せてんだろ、などと美咲が文句を言ったが食べられないものはしょうがない。しかし、何だかその台詞も出会った当初に聞いた覚えがあるなと思ってなつかしくなった。
 晩飯の時間に近いからか、店内は若干混雑している。公共料金の支払いなどで並んでいる主婦がいたので、そのため散々レジで待った。やっと順番がくると、無愛想な店員が「温めますか」と問い掛ける。どうせ家に着くまでに少し冷めてしまうだろうし自宅のレンジで温めなおすので遠慮した。
 美咲が後ろに並んでいたので不思議に思うと、レジ横の保温棚から缶コーヒーを一本買っていた。別に遠慮しないで、そのくらい払わせればよかったのにと苦笑いしながら眺める。しかし、ココアやカフェラテは飲むことがあったが、コーヒー、しかもブラックとは意外だった。
 もしかして味覚まで変わったのか、と不安になる。知っている美咲と知らない美咲――いままで築いてきたものが、呆気なく無くなるような感覚。
 そんなことを考えながらコンビニを出る、どこか暗澹たる気持ちになりながらビニール袋を提げて家に向かった。
 今回の当事者であるはず美咲が、どこか暢気な声で「サルー、」と後ろから呼ぶので振り返った。
 ひたっ、と温かいものが頬に当てられる。
 一瞬それが何か分からなかったものの、ニッと笑った顔が「お世話になるし、それお前にやる」と言った。さっきコンビニで買っていた、美咲に似合わないと思ったブラックの缶コーヒーだ。
 やめてくれ、と思う――。
 こんなことをされたら、何だかいつも構って欲しそうにじゃれついてくる美咲のようで、いたたまれなくなってしまう。いまのこいつはただの友達、良くて親友レベルなのだと自分に言い聞かせた。
 数日前、キスをしていた口唇に何も出来ない。勿論、それ以上の行為などはもっての外だろう。
 別に触れられなくても平気だと、そう思っていた時期もあった。だがしかし、それは過去形だ。潔癖に近い自分が、触れたいと思う人間が出来るとは思ってもみなかった。
「何、変な顔してんだよ」
「……してねえよ、」
 缶コーヒーを受け取り、その温かさを確かめる。少しぬるいそれは、確かにさっき美咲が買っていたものだった。
 どうして俺がブラックを飲むと知っているのか聞くと、「眼鏡ってのは、コーヒー飲んで深夜まで勉強すんだろ?」と、ものすごく単純で偏見に満ちた答えが返ってきて、どこか落胆しつつも暗いことばかりではないと思えた。

 何度か上がったことのある家の玄関で、美咲はまるで初めて来たときのように「お邪魔しまーす、」と恐る恐る言って靴を脱いだ。普段の行動は粗いものの、別段、礼儀というものをしらない訳ではないのでそういったことはちゃんと言う。勿論、靴も揃えて脱ぐ。
 何も変わっていないようで、すべてが変わってしまった美咲――。悔しいというか誇らしいというべきか、こうして美咲が記憶を失おうとも、俺の感情はなにひとつ揺るがないでいた。
「二階の右奥の部屋、」
 そう伝えると、両親は出張で誰もいないと言っておいたのに、極力足音を立てないようにそろそろと歩いて階段を上がっていった。
 そんな姿を見送ったあと、コンビニのビニール袋から、オムライスとビーフカレーを出して、レンジで温める。飲み物は――と冷蔵庫を探ったが、2Lコーラを買ったことを思い出した。
 温め終わった晩飯と、バカでかいコーラのペットボトルを持ちながら階段を昇る。ドアを開けると、部屋の真ん中、テーブルの前に突っ立った美咲がこちらを見ていた。
 床に散っているゲーム雑誌などを退けて、クッションを渡してそれに座るように促した。そして、コンビニ飯にプラスチックのスプーンを添えて、テーブルの上に置く。
「美咲、飯食え。好きな方、選んでいいから」
「あ……、えーと、オムライス」
 その答えを聞いて、好みがいかにも子供っぽいのは変わってないんだな、と安堵した。
 ビニールの包装を破り、蓋を開ける。少し温め過ぎたのか、ふわっと湯気が立ち上った。
 美咲がスプーンを手に取り、やたら形の整ったコンビニのオムライスの表面を、端の方からそっと崩した。黄色い楕円が、欠けてゆく。最低限の料理しかしたことがないので、どうやって作るのか皆目見当がつかない。コンビニ弁当の工場で、オートマティックにひたすら卵が焼けるのかな、などと思うと少しおかしかった。
 いつもの美咲なら遠慮なくビーフカレーにもスプーンを伸ばしてくるところだが、今日初めて出会ったにも等しい状態だからだろう、そんなことはしてこなかった。
 飲み物はコーラしかなかったので、「コーラしかないけど、」と断りながらグラスに注ぐ。炭酸の弾けるかすかな音がする。それはファーストフード店でも、この部屋でも、何度もふたりのあいだに流れた生活音のようなものだ。
「なあ、それ見てもいい」
 食い終わったので容器を片付けた頃、デスクの上にあるタブレットを見ながらそう言われた。タンマツの画面だと見づらいこともあるだろうと快諾し、「勝手に使えよ、」と言うと嬉しそうに手を伸ばした。
 ブン、と一瞬だけ低い起動音がして、それから静音に切り替わる。美咲がディスプレイをタッチする、画面が明るくなった。すると、いままでの表情を一気に曇らせ、じっとこちらを見つめた。
「なあ、」
 電源を入れたタブレットを抱えながら、怖ず怖ずと声を出す。
「お前――俺の、なに? 本当に友達?」
「だから、親友って説明しただろ」
「じゃあ、この写真は何だよ」
 ディスプレイには、ベッドの上で半裸でまどろむ美咲の姿が映っていた。それは、いまとなってはしあわせな時間の思い出だ。この部屋でセックスをしたあと、ウトウトとしていた美咲をタブレットの内臓カメラで撮って収めてあったもの。いまでも、このとき感じたシーツの冷ややかさ、癖っ毛を梳いたときの感触、身体の輪郭をなぞった体温の名残を思い出せるほど、うつくしく記憶に残る時間だった。
 そう言えば昨夜、ファイル整理をしようとしたままだったな、と思い当たる。特に隠しもしなかったので、さっき電源を入れた瞬間、その画面が立ち上がってしまったのだろう。
 言い訳をすることも出来たが、それは困難なように思えた。
 美咲は他人の機微に疎いのかと思いきや、知り合ってしまえば案外鋭いところが目立つ。
 これはもう、事実を告げるしかないと感じ、口を開いた。
「付き合ってた、」
「……誰と誰が、ってこれ見て聞くのもおかしーけどな」
 美咲の顔や美咲の声の反応から、侮蔑されるのだろうか――、と思った。少なくとも、そんな声音を発しそうな空気だったので少し怖くなる。やっと手に入れたのに、こぼれ落ちてしまうような感覚。
 ――だが、それをフッと和らげると「まあ、いいんじゃねーの!」と言って微笑んだ。
 そして、笑んだまま言葉を繋げる。
「だって、お前と付き合ってたのは俺じゃないんだろ? えーっと、俺は俺だけど、いまは忘れてる方の俺が良いんだよな? ちっくしょ、クソややこしーな、」
 余りにも純粋で、ひどく残酷だと思った。
 忘れてる方の俺――と、美咲は表現した。まるで最初から八田美咲という存在が二分していたかのような、そんな物言いが悲しい。
 そしてこれは半ば執念かもしれないが、例え美咲に記憶があってもなくても諦めてやらねえよ、と内心強く誓った。
 明白な嫌悪感などは示されなかったので、落ち着いて説明をすることにした。
 出会った頃の話、初対面での印象、他愛ない喧嘩をしたことや、付き合うことになった切欠。さすがに初めてセックスしたときのことは避けたが、テーブルを挟んで時々コーラを飲みながら遅くまで話した。別に何もかもを理解してもらおうという贅沢は望まなかったが、少し饒舌に話す俺が面白いのか、美咲は面倒そうな顔を見せずに聞いていた。
 テンポよく相槌を打たれるのでこちらも話すのが楽しくなってきたのと、いままで誰にも話したことがなかった、美咲と付き合っているという自慢を誰かに出来るのが嬉しく感じる。とは言え、美咲自身に話すという複雑なものになったが。
 やがて夜も更けてきたので、風呂に湯を張るのが面倒だからシャワーでいいかと聞き、浴室の場所を教えた。
 両親が仕事に行っている昼間遊びに来たことはあったものの、泊まりは今日が初めてだ。なので当然、美咲サイズの服などは置いていない。そもそも、友人が泊まりに来ること自体が初めてというものだから仕方ない。
 階下に降り、シャワーの音がしていることを確認して、脱衣所にバスタオルと着替えを置いた。少し大きいだろうが、そこは気にしないで欲しい。
 自室に戻り、美咲が眺めていたタブレットの画面に目を落とす。
 そのなかでは、相変わらずしあわせそうな顔をした美咲がまどろんでいる。布団にくるまって暢気な表情だな、と苦笑してしまった。
 それにしても、今日起こったことだというのに、何もかもがなつかしかった。この部屋で一緒に課題をやったのも、そのあと何度目かのセックスをしたことさえも遠い過去のようだ。もしこのまま美咲が戻らなかったら、俺たちはただの友達として付き合うことになるのか、と思って空恐ろしくなった。
 細かく震える手でタブレットを持っていると、背後のドアが開くとともに何とも楽天的な声がした。
「見ろよ猿比古! これ、お前のだから彼シャツっていうんだろ? あ、ジャージだから彼ジャージか。悔しいけどやっぱサイズ合わねーな、」
 そのテンションに若干唖然としながら振り返ると、部屋着であるジャージの裾と袖を捲らないまま、十センチほどを余らせてパタパタとはためかせている美咲がいた。
 しかし、さっきの話を聞いておきながら、「彼シャツ」と冗談を言ってはしゃげるのはすごいな、と単純に思う。どうやら俺は、安全な人間として認定されたようだった。
 溜め息を吐き、タブレットをデスクの上に置き直すと、子供のように引き摺っている裾と袖を折り返してやる。
 そのあいだはさすがにじっと立ち止まっており、裾を直してやっているとさっきと打って変わって遠慮がちな声で「あのさ、」と言った。
「よく分かんねーけど付き合ってたんだろ? 俺のこと、本気で好きだった、」
 なんだ、そんな簡単な質問か――と思って、口の端で笑ってしまった。
「美咲以外、本気になれる気がしないくらいには」
「……そっか、早く忘れてる方の俺と会えるといいな、」
 やけに寂しげなのが、印象に残った。多分、こいつはこいつでキャパシティオーバーしそうなほどなのだろう。記憶がなくなったと言われたり、男と付き合ってたと言われたら多分俺でも参ってしまうと思う。
 この日は、ベッドを美咲に譲って布団を床に敷いて寝た。
 フローリングに敷いた布団は硬かったが、それよりも美咲のあとに入った風呂がベビーパウダーのような馨りがしていたので、どうにも頭と鼻にまとわりついて離れなかった。ふわふわと漂っていたそれはまぎれもなく美咲のもので、女子でもないのにこれは何だと少し混乱しながら眠りについた。
 夜中に一度起きたものの、やはり美咲の生乾きの髪からはベビーパウダーの薄い馨りがしていて、基本的なところは変わっていないんだなと思って安心する。

『なお、明日から明後日にかけて関東地方は雪が降るでしょう――』 
 普段あまり天気予報などは気にしないが、美咲がチャンネルをザッピングしていた途中で偶然耳に入った。ここ数年はまともに雪も降らなかったから、たまにはいいなと夢うつつに思う。都内の交通機関は脆弱で、すぐに麻痺してしまうが、昨日で二学期を終えた身分としては悠長な考え方をしていた。特にいますぐ都心部へ出ることもないので、ほとんど関係ないようなものだ。
 ニュースは街頭インタビューに移ったのか、雪が降ると出社に困るというサラリーマンの声や、甲高い女子中学生のはしゃぐ声などが聞こえる。
 スタジオのなんとかさーん、今年はホワイトクリスマスになるんでしょうか、と男性キャスターが少し音割れしたマイクで言った。
 ――クリスマス、ねぇ。
 別に十二月二十四日前後に雪が降ろうとも、俺には特に関係ないなと思いながら布団から這い出る。温まっていた布団から出ると、空気が冷えていたので暖房をつけた。手足の末端がつめたくなっており、以前、美咲に「冷え性とかジジイみてえだな、」と笑われたことを思い出した。お前の子供体温といい勝負だろ、と言って機嫌を損ねたこともあった。
 ベッドの上を見ると、美咲が布団にくるまりながらチャンネルをいじり、じっとニュースを眺めているところだった。降雪予想が出ているからから、いつもより天気予報のコーナーは長く映し出されている。
 さっきキャスターに呼ばれたスタジオのなんとかさんというのは気象予報士だったらしく、「太平洋沿いの西から東にかけて、南岸低気圧が発達しており」などと、俺にはさっぱり分からないことを解説している。画面に目を移せば、その南岸低気圧とやらが何重にもなったぐねぐねとした楕円で描かれており、どうやらそれが寒気と暖気に挟まれて大雪が降る確率が高い、と書いてあった。
「猿比古、おはよ」
 おはよ、ってまだ深夜じゃねえかよと思っていると、ニュースを見ていた顔が、こちらを向いた。
「雪、降るかもしれねーって、」
「ああ、聞いてた」
 別段、元に戻ったのかなどと聞くことはしなかった。昨日と様子が変わらないということが明らかだったからだ。
 簡単なようで難解な単語を連発している天気予報は、まだ続いている。美咲は理解したいのに出来なさそうな、それが実に困ったといった顔をして、画面を眺めていた。
 雪がそんなに珍しいのかと思ったが、俺たちが十数年生きたなかで大雪なんてせいぜい三、四回だったかもしれない。別に然程興味がないので、いちいち数えたことはないが、まあそんなものだろう。
 パチッと画面が切り替わり、都内の現在の様子がスタジオに映し出される。それはいかにも冷えきった暗い曇天だ。こんな空なら寒いはずだ、と思いながら暖房の設定温度をわずかに上げた。
「これから、何年経っても俺このままなのかな」
「どんなだって、美咲は美咲だろ」
「――だけどよー」
 こんなに密な日々が続けば、俺はどんなにかしあわせだろうと思いながら、美咲の傍に寄って髪をクシャクシャっと掻き回す。
 美咲はされるがままになっている。
 電気を消して、美咲と同じ布団に潜り込む。
 脚がひんやりとしていて、つめたいと言われたが、それでも嫌がらせのようにはしゃぎながら脚をくっつけあったりした。
 あ、キスしたいな。とふと思う。
 それを読み取ったかのように、美咲が少し身構えた。
「別に、取って食ったりしねぇよ、童貞」
「……頬は、」
「あ? 何だよ、」
「頬を触るのはオーケー。あと、は、その時々のお前次第な!」
 余りにも緊張しながらいうものだから、少しおかしくて、へーとか言いながら、美咲の頬っぺたを引っ張ったりムニムニとつまんだ。
 暗い部屋のなかで、ニュースを見ているのはどこか面白い。それに加えて、美咲が変なことを言うものだから俺は調子に乗った。
 そう、だから、頬にそっとキスをした。
 美咲が硬直した後、慌てて両手をブンブンと振るのが夜目に見えて、「お前の言うとおりにしただけだろ、」と言うと、「う、」と固まってしまった。
「美咲が頬に触れるのはオーケーだって言うから、唇で触れただけ、」
 言葉も出ないでいる美咲がおかしくて、更に少し触れ合うようにして頬と頬をくっつける。
「俺はー、美咲が元に戻ろうが戻らなかろうが、お前がいいって言うの気づけよ。なあ、美咲ぃ?」
 それを言ったときの、俺の気持ちに気づいていたのだろうか。
 どんな八田美咲だと言えど、美咲であるということには変わりないと、伝わったのだろうか。
 しんと底冷えしている夜、俺たちは二人という別個の人間で、どうしようもないほど焦がれている側と焦がれられている側に分かれてしまっていた。
「猿比古は、俺が元に戻らなかったらどーすんだ?」
「――それでもずっと美咲の傍にいて、美咲が死にたいっていったら心中でもしよう」
「くっは、重いやつ! 死んでも心中とか言わねーよ、」
 そうだろうか、とはたと思った。
 いつも美咲は、フッと消えてしまいそうな雰囲気を纏っている。
「でも、二人で死んだら怖くねーのかな、」
「自分よりも、美咲が死ぬのが怖いから試さねぇよ、」
 変なやつだな、ほんと。という言葉を聞きながら、俺はうつらうつらと睡眠に沈んでいった。
 起きたら元に戻りますように――、そんな淡い期待と願いを込めながら、ふたたび目を閉じた。
 
 起きたら、美咲が美咲になりますように。

0