【猿礼】 水槽/最終兵器室長

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

水槽
 暗闇で目をあけると、背中がみえた。何度か瞬く。眼前にあるそれは上司のものであり、滅多に寝ている姿をみせないくせにいまは規則正しく肩がうごいている。しずかな寝息がきこえてくると、このひともやはり睡眠というものをとらないといけないのかというごく当たり前のことをおもった。ふたりとも下着姿で寝ているので、そっと肩口に触れてみるとさらさらとした皮膚の感触が指先に当たった。寝息が途切れないことを確認してから、肩から二の腕に触れる。普段サーベルを持つ手をささえているそれは滑らかかつしなやかな筋肉に覆われている。うつくしいひとなのだといつもおもっているし、このひとが俺の王なのだという事実が降り注いでくる。セックスをしたあと、なし崩しにブランケットにくるまってふたりして寝てしまったが、時間はまだ深夜三時を回ったくらいだ。部屋に置いてある空気清浄機が生々しいにおいをかき消して、ここはいまクリーンな空間になっている。この部屋は寮という特性と人付き合いの悪さからいってあまりひとが来ないはずだったのに、このひとと付き合いはじめてから私物以外のものが増えてきてしまった。茶を淹れるポット、急須、マグカップではおかしいというので湯呑み茶碗、真っ白いミルクパズル、浴衣など数えたらきりがない。それでも自分のものではない生活用品が増えてゆくのは、すこし、そうほんのすこし面白かったのだ。自分の領域を侵蝕されてゆくような感覚と、それが心地よいと感じてしまう自分がいる。カーテンがすこし開いているので、そこから射す街灯の明かりが隣で寝ている上司の髪を照らしている。紺藍色をしたそれはあまり癖がなく、艶々と光ってきれいなものだ。うつくしいひとなのだと、おもっている。到底手の届かないひとなのだと、そう悩んでいたのが遠い日のようだ。「俺を見捨てないでくださいよ、」とおもわず弱気な本音が転がり落ちてしまったが、それでも目の前で寝ている上司の肩は規則正しく上下しているし、すうすうというしずかな寝息は途絶えない、のだろうと油断していたら暗闇のなかでこちら側に寝返りを打って「絶対に見捨てませんよ、伏見くん」というのがきこえた。「は? あんたいつから起きてたんですか?」そう驚いてみせると、「そうですね、きみが起きたときくらいでしょうか」という。それはつまり、ほぼ最初からだ。それなら起きてるっていってくださいよ、といっても、なぜでしょうかなどと反駁される。俺があんたに触っていたときはすでに起きていたのだろう。「きみはまだ自分が捨てられるなどとおもっているのですか、」といいながら寝そべった姿勢のまま、こちらの髪を梳いてくる。「……なんか都合悪いんすか、」と返すと、手が顔の前におりてきてキュッと鼻をつままれた。すぐ離すのだろうとおもっていたのだが、数秒経っても手は鼻をつまんだままでじきに苦しくなってきた。は、とおおきく息を吸おうとくちを開けたところで覆いかぶさってきて口唇を合わせられた。呼吸する瞬間だったので、とっさのことにうまく息ができない。「ん、う、」とキスされたまま呻いても肩を押しても退く気はないらしい。舌を差し入れられたので、それを口内に招いて舌同士を絡め合った。表層がひんやりとしているようなひとの口腔内は熱くたぎっており、舌自体も分厚い男のそれだということがしれる。余裕のない(もちろん目の前のひとは余裕綽々といった様子だが)キスを繰り返しながら、俺たちは互いの身体に触れる。後頭部に手を当てて、深く舌を差し込む。溶け合ってしまいたい、と一方的に願いながら舌先を噛んだ。唾液を啜りながら舌先を食んでいると、徐々にそういった雰囲気になってゆく。そういった、とはつまりセックスを介する空気だ。後頭部をおさえていた手は、肩を抱き、そして二の腕に触れる。切羽詰まってゆく自分を俯瞰しながら、俺は場の空気に飲まれる。「は、」とどちらともなく荒い呼吸をした。体温、湿度、音、震える鼓膜、それらがぐちゃぐちゃに混ざり合っていまの俺たちを構築してゆく。上になり下になり、ふたりとも寝たままの姿勢で何度もキスをする。繰り返す。なにひとつ欠けてはならないといいたげに、夜は濃密だ。幾重にも重なった夜を越えて、互いを恋人なのだとそれぞれ自分にいいきかせている。そうしなければいけないほど、恋人という名前の関係性に自信がないのだ。頸の後ろに腕を回されて、キスという行為から逃げられないように固定される。そうだ、捕まえていてくれと俺は願う。あんたの手のなかで生きて、あんたの手のなかで死ねるなら最高だ。酸欠になりそうなほど、ふたりして口唇を擦り合わせつづけていたが、その合間に「死ぬ、」と俺が漏らすとあっけなく解放された。俺はそれに安堵し、落胆する。やはりあんたは殺してくれないのか。
 仰向けに転がりながらなにげなく、「あんた、水槽みたいですよね」というと訝しげな顔をしながら「水槽、ですか」と隣で復誦された。同じように仰向けになってしばらく宙空をみつめながら「そう、でしょうか」といっていたが、数拍して「それはきみを飼っている、という点においてですね」と合点がいったようにいった。
「私がそうだというのならば、きみはいったい何なのでしょう」
「さあ、縁日の金魚あたりじゃないすか、たぶん」
「伏見くん、なにも水槽で飼うのは魚類ばかりではないですよ。ペットショップなどではハムスターやウサギなども入っています」
 そこまでいってから、ふふっと楽しそうにほほえんで「私のなかは居心地がいいですか、」と顔を覗き込んできいてきた。この上司は言葉の核めいたものをつきつけてくるのがうまい。頷くこともできず、かといって否定することもできずにジッと顔をみつめていると「居心地がいいのですね」とひとりごちて納得した。「私という透明なガラスのなかで、きみが生をまっとうする。なるほど、ひどく面白い」といってから俺の腕を絡め取るように抱きしめた。いつのまにか雨が降り始めており、雨粒がガラス窓をたたいている。ぱたぱた、という軽い音が室内に響く。春先の温度はすこし肌寒く、それでいて半裸で隣り合っている俺たちの皮膚は適温をしめしている。部屋の外からは、雨音以外なにもきこえない。体感だがたぶんまだ朝早いのだろう。一日がはじまってゆく、その隣では俺の腕を抱いたひとが目を閉じている。そしてそのままくちを開いたかとおもうと、「ちいさな動物だとしたらきみは何になるのかかんがえていたのですが、やはりきみはきみですね。どこかしら不機嫌そうで、不遜で、そしてかわいらしい私の伏見くん」といって、こちらをみながら目を瞬かせた。「あー、やっぱり金魚じゃなくて、雛なんだとおもいますけど」「雛、ですか」「インプリンティング、刷り込みですよ。まあ、だいたいそれで分かったでしょう。その、あんまりいわせないでください」「おや、照れているのですね」「……照れてませんけど、追求するのやめませんか」そこまでやり取りをしてから、「追求されると困るのですか、」といって、ふふっと楽しそうに笑った。こういった瞬間に飼われているのだと自覚してしまう、そうだ、俺はこのひとに飼われている。透明なガラスに四方をかこまれながら、あくまでも自由を奪わないというていで存在をゆるされているのだ。手を伸ばしてこちらの髪を撫でながら、「かわいいですね、」と何度も繰り返される。その言葉でさえ、愛玩動物にかけるものにきこえてくる。飼育されている、庇護の下にいる、そんな事実が矮小な自分を自覚させてゆく。それを見透かしたように、「私が内面に飼うのはきみだけですよ」という。そんな慰めのひとことに安堵し、そして俺は懺悔をするかのように隣にいるひとに対して自分だけであればいいと祈った。そんなことを繰り返しつつじゃれ合い、そのままセックスにもつれ込んだ。早朝からなので俺が抱いているひとは声を上げまいとしていたし、それにすぐ気付いたのでことさらひどいセックスをした。声を上げてすべて暴露されてしまえと願う俺は狭量なのだろうか、あんたが俺の下半身を貪り食っているというその事実だけで満足できたらいいのに。セックスという行為はとても単純で、なおかつむなしさを内包している。そのむなしさに反抗するかのように、宗像礼司という男を、上司を、恋人であるというひとを抱く。見捨てないでくれ、と俺はいつまでもおもっているのだろう。あんたの何番目の男でもいいし、寧ろ恋人なんていう枠組みをつくらないほうがよかったのかもしれない。ふと伏見仁希が、あの忌々しい父親だという男が自由研究の課題にたいしておこなったことをおもいだした。おもえば、あれも水槽だった。俺は水槽にとらわれているのかもしれない、目の前のひとのもっているそれは広大で透き通っていて、曇りのないガラスでできているのだろう。そんなことをかんがえながら、必死に腰を動かす。それに連動してかすかな声が漏れきこえる。食らってくれ、見捨てないでくれ、宗像礼司という存在のなかに還りたい。無理だとしても、漠然とした不安のなかに放り込まれた俺はそう願う。――透明な水槽のなかで飼われている俺は、もうあんたのなかにいるというのに。

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最終兵器室長
 なんで痛覚なんてあるんですかね、といいながらズズッとコーラを啜った。五月の陽気ともなればコーラのなかのクラッシュアイスは溶けるスピードが早まっており、口内に含んだそれは水割りのような味になっている。薄まったコーラなんて不味いものの代表格だ。目の前でものめずらしそうにクリームチーズダブルテリヤキバーガーを食べていたひとが、どうしたのかと訝しげにこちらをみつめる。「だから、なんで痛覚なんて面倒なものがあるのかとおもっただけですけど」と繰り返していってやる。「どこか痛いのですか、伏見くん」「くちのなか、口内炎出来たんですよ」そうこたえると納得したのか、ああ、といってやわらかく微笑んだ。嘘に決まってんだろ、といってやりたくなるけれど休日を擦り合わせてふたりで飯を食いに来たのだからせめて言葉遣いはおさえようとおもった。休日に、上司と部下で、ファストフード店で昼飯、などという仲睦まじい以外のなんだという逃れようのないシチュエーションのなかに放り込まれている。べつに昼飯なら青雲寮で摂ってもよかったのだが、廊下で鉢合わせた際に、近くにできたこの店にきてみたいといわれたのでこうして飯を食っている。そう、それは単なる前述の部分だ。ちなみにクリームチーズダブルテリヤキバーガーというものは、バンズ、クリームチーズ、レタス、テリヤキパテ二枚、バンズという構成でできている重量級バーガーだ。もっと薄っぺらい普通のメニューもあったのだが、いかにもな感じの分厚いやつが食べてみたかったのだという。ひとくちふたくち頬張っては、美味そうに咀嚼する。店のなかはエアコンが利いており、適度に冷えているので心地よい。テーブルやカウンターなどは木目調のデザインでゆったりした造りになっており、駅前にやたらある店舗とはすこし違うのだと主張している気がした。チリホットドッグをくちに詰め込みながら、片手でコーラとクラッシュアイスを混ぜる。ストローでぐるぐると混ぜられた紙コップのなかは、すっかり味の薄まったただの炭酸になってしまっている。ひどい顔をしながらひどいコーラを飲んでいるのがおかしいのだろう、こちらをみながら楽しそうにしているのが伝わってくる。「楽しいんですかあ?」とわざときくと、「もちろん楽しいですよ、きみとのデートですから」とこたえられる。俺はわかっていながらきくし、このひとだってそうなのだろう。なにもかもが予定調和で平和な昼下りだ。退屈でつまらないくらいの日常。
「痛覚なんてなければよかった、」とつぶやくようにいうと、たとえば、とくちを開かれたのでそれをみつめていると、もう一度噛み砕くようにゆっくり「たとえば、ですよ」という。「痛覚というものがなかったら、この世に氾濫する危険なものがわからないでしょう。指に針を刺しても気付かない、熱湯をかぶってもわからない、骨を折ってもどこが折れたのか判断できない。あっという間に死んでしまう。だから、きみに痛覚があるというのは私にとってよろこばしいことのひとつです」そこまでいってから、両手で持ったクリームチーズダブルテリヤキバーガーを食べる。決して大口を開けているわけではないのに、あっという間になくなってゆくそれは一体どこへ消えているのだろう。そして付け加えるように「私と話しているいまも、ひどく痛むのでしょうか?」とこちらを覗き込むような仕草をしながらいった。テーブル越しだというのに見透かされそうな視線が突き刺さる。「口内炎、早く治るといいですね」といわれたので、「そー、っすね」としかこたえられないのが悔しい。
「痛くてたまらないんで、あんたの手握ってもいいですか」とごまかしながらいうと、顔をほころばせつつ「私も痛いんです」と返される。「くちですか」ときくと、「いえ、そうではなくてなぜか胸が痛むんです、」といいながらハンバーガーを置いて両手で左胸をおさえ、 ゆっくりと目を伏せた。あんたは自分の顔だからみえなかっただろうけれど左胸をおさえたとき、その瞬間、俺を見据えた目線の強さをしっているだろうか。それは近接武器であり、ある種の兵器だ。間違いなく俺を射抜いて殺してしまう、あんたはこの世界の最終兵器だ。

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