【猿礼】群青恋愛

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

 月に二度くらい、非番の日を合わせてはホテルを予約してそこで過ごす。ただ、それだけの相手としてしか互いを見ていないはずだった。
 歳上のそのひととは、一緒にいることに慣れてきた。くだらない馴れ合いは苦手だったのに、するりとこころの隙間に入り込んできて、気付けばきれいに咲いた大輪の牡丹のような存在感でそこにいる。
 スイートルームに置かれたキングサイズのベッドに二人で潜り込み、激しく掻き抱いた昨夜のセックスの気だるさを抱えながら、そのシーツとブランケットのあいだに埋もれる。
 散々泣かせたので、無防備に眠っている目の縁はまだ皮膚が赤くなっているのが見えた。
 バスローブもパジャマも、どちらもクシャクシャに縒れてしまったので、二人とも下着一枚といった姿だった。直に肌に触れるシーツとブランケットが、サラサラとしてひんやりと心地よい。
 出会った当初は、警戒心しか抱かなかった――。
 それがじわじわと氷解してしまったのを感じ、これは飼いならされているのだろうか、と思ったこともあったがそんな微細なことはどうでもいい。いま、この瞬間の流動する感情と体温というものを把握していればいい。
 いつだったか「王は疲れないのですよ、」などと言っていたが、こうして隣で熟睡しているのを見るとそんなものは気を遣った言葉ゆえだったのか、と苦笑いしか浮かばない。
 多分、信用されているのだろうな、とは思っている。
 多分、それなりに好かれているのだろうな、ということも分かっている。
 だがそれは大人二人分の駄算と計算で出来ている、というところがマイナス点だろうか。
 大人というものになれば少しは自由なのだと、どこかで信じていた。その考え自体が幼いのだといまは痛感しているが、それでも抑圧されて育った身としては何からも楽になりたかった。
 少なくとも、このひとは人でなしではないし、キチガイでもない。――そして、普通のひとでもない。
 伏せられた目蓋と、目の縁にそってびっしりと長い睫毛が並んでいるのをじっと見つめる。
 そこらの女と較べるまでもなく、その造作が整っているのは一目見て分かるほどのうつくしさだ。このひとはどこまでもきれいで、悔しいけれど見ているだけで溜息が出る。そんなことを言えば、飄々とした体を見せながらも何か鋭いことを言ってくるのだろうけれど――。
 まだ陽が上がっていないのか、暗い部屋のなかでじっと見ていると、「どうかしましたか、」と声を掛けられた。
「別に、何でも」
 何でもなくなんてない、あんたの顔見てるとどうしてか泣きたくなるんです――なんてことは言えなかった。大人というものは、攻撃的な存在なのだと思い込んでいた。歳上のひとというのは、怖いものなのだと信じ込んでいた。だから、こんな風にやさしい声で話しかけられると困惑してしまう。
 そんなことをグダグダと考え込んでいるのを見透かしているくせに、そうですか、と一言で済ませた。
「伏見くんが何でもないと言うなら、そうなんでしょうね」
 ブランケットにくるまりながら、胸が痛くなるほど響く声で「大丈夫ですよ、」と言われる。
 あんたに俺の何が分かるんだとか、分かった振りしないで下さいとか、反応出来ればいいものの言葉に詰まってしまって、結局下唇を噛んで口を噤んだ。
 ――大丈夫なんかじゃないです、と言うのが精一杯だった。
 じっとうつむいていると、手を伸ばされて頬を撫でられた。それはひどくやさしい触れ方で、胸が苦しくなるほどのものだ。何度か、頬の上を滑るように手が往復する。そんな触れ方は記憶のどこにもなくて、誰からもされたことが無くて、そしてやはり泣きたくなってくる。
 今、何時ですか? と聞かれたので時刻を告げると、「まだ暗いですよね、」と分かりきったことを返された。
「それがどーしたんです、」
「早朝の海、見たいと思いませんか?」
 別にこのクソ早い時間に海なんて行きたくねぇよ、と思いながら無言でいると、嬉々として「海行きましょう、」と言いながらサイドボードに置いてあったタンマツに手を伸ばした。
 どうやら、この陽も上がっていない時間に本当に海へ行こうと誘っているらしい。
 ブランケットのあいだから、紺色めいた髪がのぞいている。
 時刻表を確認していたのか、のそりと起き上がると散々昨日いたぶったというのに、きれいにハンドプレスしていた私服に着替え始めた。
「室長、俺もですかァ?」
「いくら私でも、いつもひとりでは寂しいですので。それとも、伏見くんは行きたくありませんか」
 大人というのはもっと感情を隠すものなのだと思っていたが、そうでもないらしいというのをこのひとと接して知った。本心がどこにあるかは、いつも分からないままだが。
「チッ――行きますよ、行けばいいんでしょう」と返事をすると、喜びを隠そうともしない笑みを浮かべられた。
 いつだって、この笑顔がどことなく苦手だ。全面的にこちらを信用しているかは分からないが、それでも信じられるということはいつしか苦手になっていた。信じるということは、期待が混じり合っているから、好きではない。
 

 結局、ホテルを出てから徒歩でターミナル駅まで行き、そこから電車に乗った。
 このひと、電車の乗り方とか知らないって言うんじゃねぇだろうな、などと思っていたものの普通にタンマツをタッチパネルに押し付けたので少し驚いた。
 そう言えば、下町生まれだとか言ってたけど本当かよ。と内心笑いながら、その長身の後ろ姿を見遣った。
 早朝もいいところな時間なので、電車の本数自体は少なかったのだが、運良く滑り込んできたそれに乗ることに成功した。
 普通は間をあけて座ると思うのだが、シートの真隣りに座られる。車両内に誰もいないことを確認してから、こっち向いて下さいよ、と言って軽くキスを交わす。きっと、このひとにとっては何でもないたわむれのひとつだ。だから、このくらいは許されてもいいはずなのだと自分に言い聞かせながら、その口唇を味わった。
 快速に乗れたので、自分のタンマツで確認してみても目的地に着くのは三十分後くらいだった。
 休日の朝の快速は誰もいなく、しんと静まり返っている。タタタン、タタン、と車両が揺れる音だけが響いていた。
 誰もいない。誰もこのひとが王だなんてしらない。この箱のなかの空間が、急にいとおしいものに変わる。
 調子に乗って二回、キスをしたところで他の乗客が乗り込んできた。パッと口唇を離して、素知らぬ顔をする。こんなとき、少し悲しい。そういうのは語弊だと重々承知していながらその言葉を使おう。寂しい、という言葉を使うのは嫌いなので、悲しいと言い換える自分の弱さを思い知る。
「きみのキスは、丁寧で好きです」
「――は?」
 折角ひとが何もなかったという顔をして座っているというのに、このひとは何を言い出すのかと思った。
 ですから、と再度口に出されそうになったので、「いや、聞こえてたんでいーです」と言ってその言葉を閉ざした。
 それから三十分ほど、無言で過ごした。
 ふたりして、タンマツをいじるでもなく話すでもなく、ただ隣り合っている箇所から伝い合う体温を感じながら黙って座っていた。どうにも食えない上司だが、苦手意識というものは少なからず薄れるものらしい。
 腿の上に手を置いていると、それに手を重ねられた。まったくもって、このひとは秩序というものを持ちながらも常識というものは持ち合わせていないらしい。
 やめてくださいと言うのも気が引けたので、そのままにしておく。手と手が重なった部分から、更に体温が伝導する。
 厭になる――。こんな風に誰かを忘れるためにひとを利用するのも、利用されるのも本当に厭になる。
 電車を降り際に、「手、ちゃんと繋ぎませんか」と言われたのでそれに反応するように、さりげなく手を繋いだ。これでいいんでしょう、あんたの恋人の代わりになるには、つかず離れずの関係で言うことを聞いていれば。
 都心から少し離れただけだというのに、その駅はやたら鄙びていた。
 真夏の早朝なので、他に歩いているひとはいない。看板が立っているが、右手に折れると水族館があって、左手に折れるとちいさな島があるらしい。ちいさなとは言っても、遠目に見て十分な大きさだが。
 手を引かれ、右にも左にも行かず、駅前の道を直進して間近に見える海辺へ進む。
 誰かと来たことがあるのだろうなと思わせるようなその歩みが、ほんの少しだけ憎い。だが、そんなことを口に出せるほど、こどもでもない。中途半端な年齢の自分が憎い。
 道路を渡り、砂浜へと歩く。陽が昇ったばかりの海は、水平線がきれいに見えている。
 浜辺で犬の散歩をしている老人とすれ違ったが、それ以降は誰も通らなかった。
「どうです、伏見くん。きれいでしょう?」
「――あー、まあ、それなりに。っつーか、そんなドヤ顔で言わないで下さい」
 そう言うと、あからさまに残念そうな顔でうつむかれる、一体このひとは何歳なんだと詰りたくなる。勿論、本気で詰るのではなくじゃれ合うようなそれなのだが。
「そうやって、俺を誰かの代わりにして楽しいんですか」
 つい口をついて出てしまった刺のある言葉だが、言ってからしまったと思った。
 こちらを見て、何度かパチパチと瞬きをするのが見える。これはどう繕っても無駄になるのだろう、結局のこと、俺は何も学んでないのかもしれない。
 何を言えばいいのか、どうすればごまかせるのかと考えていたが、そのあいだにも波打ち際に白い泡が線のように打ち寄せていた。ザザッ、と波が引いたと同時に、繋いでいた手を振りほどかれた。
 あ、怒らせたかな。と思いながら、それでもわざと聞こえるように舌打ちをする。
「きみは、私と誰かを較べることに罪悪感を抱いているのでしょう」
「それはあんたの方なんじゃないんですか、」
 吐き出すようにそう言うと、さもおかしそうに「ふっ、」と吹き出すように口に手の甲を当てて笑われた。
「私が誰とここへ来たのか、知りたいのなら教えましょうか?」
「別に聞きたくないです、自意識過剰なのやめてください」
「おや、」
 その答えは意外だというように、少し目を見開いてこちらを見る。
 それは見るからに作った動作で、少しばかり苛つく。
 こんなときは、自分がひどく幼いこどもになったかのような気がして気分が悪い。嗜められているような、そんな目線で見ないで欲しいのに、目の前のこのひとはそんな目でこちらを見る。
 自意識過剰なのは自分だと、そんなことはとっくに気付いている。だけど、このひとのせいにしないとやっていられない。
「もう散々付き合ったんで帰ります、」
「どうにも伏見くんは若いですね、」
「あんたみたいにジジイ趣味じゃないんで、」
 踵を返して来た道を戻ろうとすると、後ろから同じように砂を踏む足音が聞こえた。
 着いてこないでください、と言いながら振り向くと勢いよく肘が当たったのかよろめく姿が見える。砂浜という足場が悪いこともあってか、真後ろに立っていた彼は呆気なく砂の上に腰をついてこちらを上目遣いで見た。
 そのとき、ザザッ――、と少し高めの波が押し寄せて、運悪くそのまま海水に浸かることになった。
 それでも彼はこちらを責めることもなく、ただ、「濡れてしまいました、」と言いながら苦笑を浮かべるだけだ。
 もっと上司らしく叱責すればいいのに、と思いながら渋々手を貸して立ち上がらせる。穿いていたパンツは勿論、シャツの裾の辺りまで海水で色が変わっている。
 真夏だしそのまま海水浴でもすればいーんじゃないですか、とでも言おうとしたが、それは口には出さなかった。
「王様なんだから、その力とかでパパッと乾かしたりすればいいでしょう、」
「生憎ながら私は乾燥機ではありませんよ」
 海水で張り付いた服が気持ち悪いのか、少し顔を歪めながら付着した砂を払っていた。
「靴は、」
「……靴、ですか?」
「服が濡れてるんなら、どうせ靴も水浸しなんじゃないんですか。乾くまでどっか近くの店で――」
 そう言うと、「それなら、あそこに丁度いいところがありますよ」と言って駅近くを指し示された。
 その指の先を見ると小洒落たビジネスホテルのような外観の建物があったが、遠目に見てもその窓がペンキで一切閉じられているのは、どう考えてもラブホテルだと分かった。
 昨日泊まっていたようなお高いホテルが好みなんじゃないのかこのひと、と思いながら、「靴、乾かすだけにしてくださいよ。俺、もう疲れたんで」と釘を刺してから、そのラブホへ向かった。
 海水が靴の中に入っているのだろう、歩くたびにビシャッと音が響く。砂浜を抜けてアスファルトを歩くと、その上に黒く水分の含まれた足跡がついて、そこから陽炎がゆらゆらと揺らめいた。
 ラブホの前に着いてから、さりげなく配置された看板に書かれている利用時間を横目に見ながら入る。夕方までいれば乾くだろうと踏みながら、エントランスに入った。
 陽が昇り始めた外に較べて、ラブホ内はしんと静まり返っていて少し不気味なほどだ。
 いくつか部屋の内装が映されたパネルを見ながら適当な部屋を選ぶ、自販機のようにパネルの下部から鍵が落ちてきた。
 空調は少し寒いほど設定されており、肌が粟立つのを感じる。
 フロントには誰もおらず、ただ呼び鈴のみが置いてあった。これなら男同士でも部屋まで入れるな、と思いながらエレベーターに乗り込んでパネルに指定されていた階を押す。
 ラブホが珍しい訳でもないだろうが、辺りを見回しながら後ろを着いてくる様子が少しおかしかった。
 目当ての部屋に着いてから、「クリーニングに出したいのですが、フロントに頼んでくれますか」と言って次々と服を脱がれた。クリーニングなんてやってんのかよ、と思いながらもフロントに電話を掛けると、海で濡れた客はよく来るらしくサービスにて承っていると言われたので、きれいに脱ぎ畳まれた私服を一式預けることにした。
 薄暗い照明の下、下着のみの姿でキングサイズのベッドに腰掛ける。横に座るのはどうにも気まずかったので、スツールを引き寄せてそこに座りながら「海水まみれなら、シャワー浴びて来てくださァい」と言うと、「着替えはこれでいいのでしょうか、」といいながらテーブルの上にあった浴衣を羽織った。
 もう何でもいいから、早く乾いたまともな服を着てくれと思いながらさっさと浴室に行けと願う。
 浴衣を軽く羽織ったままの背中を押すようにして、なんとか浴室に押し込めるとホッとした。
 正直、精神的によくない――。疲れたんで、と言い訳をしながら何もしないつもりであったというのに、白い肌と均整の取れた身体を見るだけで自分が昂ぶるのが分かる。
 何度も抱いたことのある、肌に馴染んだ身体だ。
 普段余裕ぶっている顔が、悦楽というものに歪むのは見ていてひどく嗜虐心をくすぐられるし、何よりも楽しい。
 先に誘ったのはどっちだったか、などというのはない。自然と会話が多くなり、そしてプライベートのことにはなるべく触れないようにし、それから気付けば傷を舐め合うようなセックスをするようになった。
 苦手意識があったのは確かだし、いまも得意ではない。だが、嫌いだとも言い切れない。得意ではないと、嫌い、という言葉はイコールで結ばれるべきではない言葉だからだ。
 執務室で絡む視線とか、廊下ですれ違うときにそっと触れる手とか、あるいは深夜の庁舎で交わり合うようなことが切り離せないまま、もう何年もこうしている。
 そんなことを考えながら冷えたミネラルウォーターを飲んでいると、浴室のパーテーションが開く音がして、しばらくして浴衣を着た姿で出て来た。
 百八十五センチの長身にはサイズが合わないのか、少し裾が短いので踝がはっきりと見える。
 それは着た本人が一番分かっているのだろう、「丈があいませんでした、」と言いながらまたベッドの縁に座った。
 ベッドはスプリングが軋むこともなく、その長身を受け止める。
「おかしな自販機もあるんですね、」
 そう言ってちらりと見ているのは、部屋の隅にあるいわゆるアダルトグッズが詰め込まれている自販機だ。
 もしかしてアダグに興味があるのか、と思いながら「それ、使いたいんですか?」と揶揄ってみる。この意味が分からない訳でもあるまいと思ったからだ。
 その言葉を受けて、まるで菓子を差し出されたかのようににこやかに微笑みながら「興味はありますよ、」と言われたので、思わず頭を抱えた。
 二十四歳、今年で二十五歳になるのか――そんな歳の潔癖そうな、うつくしい上司が、楽しそうに笑みを浮かべながら己を責めてくれと言っているのに等しいことを口走っている。これで頭を抱えないで、どうしろというんだと思いながらジッと見つめる。
「……駄目、でしょうか?」
 いや、それが駄目なんじゃなくて、こっちの理性が駄目になるんだと思いながら冷静さを取り戻す。
「勝手に選んでいーですよね、」
「分からないので、きみにお任せしますよ」
 お任せしますよ、か。と思った。この淫乱極まりない上司は、何を使われてもいいと言っているらしい。それなら好きなものを選ばせてもらおうと、自販機の前にしゃがみこんで商品を選ぶ。そのあいだも、背後からは期待しているのかパタパタとスリッパで床を叩く音が聞こえていた。老成しているのかと思いきや、たまにこどもっぽいところを見せるのでそのギャップから離れられないのかもしれない、と考える。
 ゴムはここに置いてあるからローションとバイブ買うか、と思いながらアダグの自販機を開けてそれらを手に取る。少し虐めるつもりで、標準よりもやや太めのバイブを選んだ。それは黒いシリコン製で、見た目からして卑猥な雰囲気を醸し出している。
 それらをベッドの上に放り投げる。興味があると言っていたとおり、少し不思議そうにバイブに触れている様子が見えた。
「しつちょー、あんたこれからそれブチ込まれるの分かってますかァ?」
 シャツを脱ぎ、ジーンズからベルトを引き抜くとベッドに上がる。いつの間にかベッドの真ん中で、くの字になっている浴衣姿がやけにいやらしく目に映る。
「このようなものを使った経験がないので、きみが教えてくださ――」
 何か言おうとしていたのかもしれないが、その言葉を途中で遮るようにキスをして安物の帯を手荒にほどいた。
 このひとは、いけない――。
 嗜虐心というものを、ひどく煽ってくる。
 すべてを崩してしまいたくなる気持ちを押し殺しながら、それでも噛み付くようなキスを繰り返す。それに対し、何も言わずにただ口をうっすら開けて、舌を挿し入れられるのを待たれていた。望まれるままに舌を挿し入れる。
 このひとは、大人というものを教えてくれる。
 大人といった生き物がどういったもので、どういった行動をして、セックスに対しての礼儀的なそういった諸々のすべて。そんなものを一から教えてくれたひとだ。
 やさしく啄むようなキスも、荒く噛み付くようなキスも、何もかもをこのひとから教わった。
 知りたいことを、全部丁寧に説明してくれる。大人というものはもっと支配的で、傲慢なものだと思っていた頃から、意識が随分と変わったと自分でも思う。ただ、このひとは少々我儘ではあるが。
「は、」とキスの間に吐息を漏らしながら、首に腕を絡めてくる。
 いつも思うのだが、潔癖でお綺麗な顔をしているくせに、ひどくセックスというものに溺れるひとだ。まるでそれしかないとでもいうように、身体を貪られることを好む。たまに浴衣の帯で縛ってみたり、目隠しをしたりしても、何も嫌がらない。寧ろ、それを楽しんでいるかのような表情を見せる。
 浴衣の前を開けると、乳首がツンと尖っているのが分かった。
「ほんっと好きですよね、」と厭味のつもりで言っても、「ええ、」と返される。
「きみの触れ方も、君のセックスも丁寧なので好きですよ」
 そんな余裕が悔しくて、尖った乳首を舐め上げてから齧る。
 すぐに唾液まみれになったそれは、暗めの照明のなかでヌラヌラとテカった。
 元から全身が弱いのか、それとも以前に誰かがいたのかなんてもうしらないが、このひとはあらゆるところが性感帯のような身体を持っている。上下の歯を立てて齧ると、引き攣るような声を上げた。
 少なくともあの職場には、このひとがこんな様になることをしっている人間はいないのだろう。それは、限りない優越感を寄せる。
「ひっ、あ、ぁっ……」
 切なげな喘ぎ声を上げながら、身体を戦慄かせる。その細かい震えが伝わるたび、支配欲というものが満たされるのを感じる。
 散々、乳首を舐め回し齧ってから口を離した。
 さっき買ったローションのボトルを開けて、たっぷりと手のひらに垂らすとそのまま太腿に触れた。ヌルヌルとぬめるそれが気持ちいいのか、押し倒された状態で脚を開きながら睫毛を震わせて何度かおおきく瞬いた。
 しっかりと筋肉のついた太腿は、ローション越しでも鍛えているのが分かる程度だ。その脚の付け根まで手を進ませると、思わず息を呑むのが伝わった。
「さっさとこれ、触って欲しいんでしょう?」
 揶揄うように言ったのに、素直に何度か首を縦に振られる。
「上司命令でもしたらどーですかァ、」
「――さ、わってください、伏見くん」
 そんなのはあんたの命令口調じゃねえだろ、と思いながらも、その言葉に単純にも満足して既に張り詰めて勃っている性器を握り込む。
 そこはもう、ローションなのか先走りなのか分からないほど、ぬめった粘液で濡れている。鈴口から溢れ出してくる体液を掬い取り、先端部分を攻めるようにして弄り倒す。
 片手で扱くたび、にちゃっと音が響いた。狭く暗い部屋に、それはやたら淫猥な雰囲気を押し寄せる。
 上下に手を動かし扱くと、ふるふると身体を震わせながら、それでもその手の感触にすべての感覚を委ねようとしているのが分かる。このひと、どこまで淫乱なんだよと思いながら、その様子を呆れたように眺める。
 冷たかったローションが、低いといえど体温によって温まる。
 低い体温が、実にこのひとらしいと思う。冷たくはない、でも熱くもない。最低限の温度。
 皮膚を擦り合わせていると切なくなるほどのそれは、このひとが生きているという証だ。
 どうかしたのかと、見上げる目が言っていた。何でもないです、と返事をする代わりに目を下に向けながら、性器に指をまとわりつかせた。括れている部分に引っ掛けるようにして扱くと気持ちいいのだろう、声がおおきくなる。
 こんな単純な行動で、このひとが手に入るだなんて思ってはいないし、自分が数年前に失った恋を忘れようとも思わない。ただ、一緒に溺れてもいいだろうか――とは思う。ひとりで悦楽に沈むなんて狡いじゃないかとその感度に嫉妬しながら、下着の中で勃っている自分の性器を感じる。
 目の前のひとの喘ぐ声によって、鼓膜が震える。
 厚さ約〇.一ミリ程度のそれが無ければ、音は音として認識されない。ただの空気の波だ。音が空気を伝い、押し寄せ、鼓膜に当たって耳小骨に伝える役目のあるもの。薄くスライスしたならば、三層に分かれるそれが自己再生する器官だと知ったのは中学の授業だった。いままで、鼓膜というものは破れてしまったならば、何かしら難しい生活を送るのだと思っていた。
 音が音として認識されない、空気の波というものになってしまった経験はないが、声がお互い通じなくなった経験ならばある。セックスというものをしていても、何度キスをしても、恋というものは極限まで感情以外のもので薄められてしまい、それは恋愛として互いに認めることが難しくなってしまった。そこにあったのは、多分執着なのだろう。だが、自分から執着を抜いたら何が残る――と考えたとき、手を差し伸べるように身体を投げ出したのは、このひとだった。癒着もしない、恋もしない、そこに残るのは何も無い、そんな乾燥した関係の中に救いを求めたのは、いけないことなのだろうか。
 まだ、あの失った恋を忘れてはいないし、故意に忘れようとも思っていない。一人の少年と過ごした濃厚な夏の匂い、秋のかなしさ、冬の中の温かさ、春の儚さをいまだに覚えているからだ。
 ただ、少しのあいだだけこのひとに甘えてもいいだろうか――と思う。歳上の男という存在と、ともに寄りかかるような軒下で雨をしのぐようなそんな関係に陥っても、許されるのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えながら、それでも手を動かし続ける。
 ローションと粘液で手と性器が滑り合い、摩擦というものが少なくなる。
 そういえばバイブ買ったなと頭の隅で思い出しながら、尻まで伝い落ちたローションを掬いながらコンドームを被せた中指を挿し入れた。
「ふし、みくん、指が」
「いつも突っ込んでるじゃないですか、それに今回誘ったのあんたでしょう、」
 こういった時のやり取りが、すべて手の上で転がされているものだということを歯痒く思いながら、それでも精一杯揶揄ってみせる。最初からこのひとの思うがままにされていることに、身体を重ねるたび、いつしか気付いた。
「あ、」と一際大きな声を上げられたので、中指が前立腺に当たったことが鮮明に感じられた。
 普段の声質とまったく違うそれは、やけにいやらしい。艶っぽいというか、男を欲情させることを知っているかのような声だ。浅く短く繰り返される呼吸も、断続的に上げられる喘ぎ声も、何もかもがいつも己を律している男のものだとは思えないほどのもの。
 肘をついて身体をベッドに沈ませて上半身を少し起こし、いいように扱われている自分の身体を見下ろしながら喘ぐ。
 それは単純な構造の動物みたいに見えて、何だかおかしな光景だ。
 前立腺を中指が擦るたび、その身体をびくりと跳ねさせる。それを眺めながら、笑う自分に気付いた。楽しいとも何ともつきがたい笑みが漏れる。
 余りにも快感を貪っているさまが見て取れるので、早々に指を引き抜くと涙目のままこちらを見つめられた。
 黒いシリコン製のバイブを手に取り、指に被せていたコンドームをバイブに着ける。さして慣らしていないが、このひとの身体ならこのくらいは飲み込むだろうと思いながら、「さっさと脚、開いてください、」と言って両手でひかがみを押し上げた。
 ローションまみれでグシャグシャになっているのを見て、多分大丈夫だなと確認してからゆっくりと挿し入れた。
 少し太めのものを選んだので挿入されている感覚がまざまざと分かるのか、こちらを見ながら恐る恐るといった感じの表情で何度も瞬いた。
「は、ぁ、あっ……伏見くん、きもち、ひッ……あ、ああっ、」
 最初は余裕だったようだが、スイッチを入れてから悲鳴じみた声を上げる。
 挿し込みながらスイッチをオンにしたせいか、丁度、前立腺に当たった部分が振動しているのだろう。吸い付くようにしてバイブが飲み込まれているのを見ながら、「しつちょー、何突っ込まれても気持ちいいんでしょ?」と聞くと、目の縁を赤く染めながら何度も頷くのが見える。
 しばらく攻めていると、悲鳴じみた、というよりは悲鳴そのものを上げながら、そのまま仰向けの姿勢で吐精した。両手で枕にしがみつく姿を見ながら、めずらしく早いんじゃねぇの、と思う。精液を腹の上に撒き散らしながら達した身体を手のひらで軽く叩いて、「さっさと起きてくださーい、まだこれ使って遊びたいんで」と起こす。スイッチを入れたり切ったりしながら焦らす。
 バイブを挿入したまま、「それ入れっぱなしで起き上がって座ってください、」と言うと、身体を火照らせながらもなんとかぺたんと座り込んだ。その姿勢では更に奥まで届くんじゃないかと余計なことを思ったが、別に構わない。
「で、あんたの大好きなこれ、しゃぶって」
 ベッドの上に膝立ちになり、ジーンズのファスナーと下着を下げて性器を露出する。
 先走りが溢れて、下着の当たっていた部分が少し汚れたが、そのくらいはいいだろうと思いながらその目の前で少し自分の性器を扱いた。
 バイブのスイッチは入ったままで、尻の中に突っ込まれていてもヴヴヴヴヴッ――という振動音が漏れ聞こえている。
 快感に身を捩りながら、なんとか咥えようと身体を前傾させる姿はそそるものだ。
 はァッ、と口で呼吸をしながら両手で性器を掴んでからそっと舌を沿える。生温かい温度が伝わってきて、こんな聖人ぶったひとがフェラをしているという光景に、毎回興奮する。
 ぺたっと尻をついて座っているからバイブが奥まで当たるだろうに、それを分かっているのかいないのか、馬鹿正直に腰を落としたままチロチロと舌先で性器をなぞる姿はいいものだ。
 舌先で舐めていたかと思うと、パクッと一気に咥えられた。いつも余裕ぶっているが、さすがにこんなときは何もかもが無理なのか咥えた性器を喉の奥まで押し込むと、上目遣いの涙目でこちらを見てきた。
 更に奥まで挿入すると、苦しいのか噎せえずく。
 別に、大丈夫ですかなんて聞かないことにしている、そんなこと自分の身体のリミットくらいこのひとならば知っていることだからだ。
 だから、好き勝手に使わせてもらう。
 ――そうだ、身体を使わせてもらう、というのがこの関係に一番正しい言葉なのかもしれない。お互い、持っているものを使い合う。その相性が良かったのは、手のうちにあるカードの引きが良かったようなものだろう。
 まだ大丈夫そうだな、と踏んだので、グッと口内の奥まで押し込めて食道にずるりと性器が飲み込まれる感触を味わう。それは、いかにも生物の体内といった感じで気持ちいいと気持ち悪いの中間くらいの感覚だ。それなのに、腰の辺りからぞわっと快感が押し寄せるのは不思議でしょうがない。
 頭を前後させているのは分かるが、もっと強い感覚が欲しくてそのきれいな髪を掴んで乱雑に頭を動かした。「……ぐッ、ぅ、」と喉の奥が鳴るような声がして、苦しがっているのが分かる。それでも、こんなことは毎回繰り返されていることだしと思いながら、尚もその頭を前後に無理矢理動かし続けた。
 このひとは、ひどくされるほどよろこぶ男だ――。
 物のように、人形のように、扱われれば扱われるほど嬉しいというひと。
 食道の奥を突くように性器を捩じ込むと、散々痴態を見ていたからかすぐさま射精感が高まるのが分かった。もういーです、と言いながら、その唾液と先走りまみれになった顔から性器を引き抜く。
 口から出すとき、軽いリップ音がしたのでこのひとはまだ余裕があるのかと、半ば呆れながら見ると、目線がトロトロに蕩けているのが分かった。
「掛けていいですかとか、聞きませんけど、」と言いながら、いまだにバイブを尻で飲み込んで視線がブレているひとの目の前に性器を出し、自分で射精するまで扱いた。
 いいですよとも、いやですとも言われなかったので、いつもどおりでいいのだろうと判断して、その顔の中心に向けて精液をブチ撒ける。
 紺色に近い髪は、白濁で汚されてそれがポタっと垂れていった。
 何滴も垂れるそれは、頬と鼻先に乗り、そこから重力に沿って落ちてゆき口唇に伝った。
 バイブはまだ体内に突っ込まれたままで、相変わらず無機質なヴヴッという音を発しながら、目の前に座っている男を攻め立てていた。
「抜い、てください」
 普段高潔である男が、まるで懇願するかのように声を発した。
「面白いんでいやでーす、それ、電池切れるまで突っ込んでたらどうですかァ?」
 

 散々泣かせ、声を上げさせてからようやくバイブを抜いた。ローションをたっぷりつけたせいか、それなりにすんなり入ったなと思いながら、ダストボックスにそれを投げる。きれいな放物線を描いて、ガタッとおおきな音を立ててからバイブは捨てられた。
 まだ身体が疼くのか、すぐ横で枕を抱え、それに向かってうつ伏せになりながら荒い息を立てている。
 なにごとかを言ったのが聞こえたので、「は?」と聞き返すと、今度は横向きになって背中を見せながら言葉を発した。
「こうして、私を誰かの代わりにして楽しかったですか、」
 ――それは、砂浜でこのひとに言ったことを、そっくりそのまま返されたのだと気付いて下唇を噛んだ。
 別に、誰かの代わりにしたりしているだなんて、いつ言ったんだと思いながら背骨にそって指を這わせた。
 そっと指を這わせ、そのきれいに浮き出した背骨をなぞりながら、「ねぇ、」と呼びかける。
「室長、あんたは本当に好きな相手にこんなこと、やらせたり出来るんですか。ま、正直言うと俺は出来ませんけど。遊び相手だからこそ出来ることってあるし、あんたもそれでいいんじゃねぇの、」
 そう言うと、背中を向けたままの姿勢で手を伸ばされて、手首を握られた。
 このひと、なに考えてるか分かんねぇから困るし苦手なんだよ、と思いながらそれでも手を振り払わずにいると、「私は出来ますよ、」と言われる。
 一瞬、何を言われたのか分からずにそのまま固まっていると、二度、同じことを断言された。
「ですから、私は本当に好きなひととしか、こんなことはしませんし出来ません」
「……ちょ、っと、言ってる意味マジで分かんねぇ。手ェ、離してくださいよ、」
「きみは私のことが嫌いですか、」
「苦手です、」
 苛つきながら即答でそう言うと、「嫌い、ではないのですね」とつぶやいてから、ふふっと楽しげに笑った。
 少し強めに握られた手から最低限のひんやりとした体温が伝わってきて、それは徐々に身体を蝕んでゆくようなのにどこか気持ちいい。
「伏見くんのこと、私は好きですよ」
「私は――って、それ俺に対する当て付けですか、」
 どうしてこの体温が気持ちいいのだろうかと思いながら、その手を振り払えないままじっとしていた。
 このひとの声は、いま鼓膜に届いている。
 きちんと音の波動となり、鼓膜を震わせ、骨に伝えて認識させている。
「気持ちを埋めようとして、身体から入る恋というものも、ありではないですか?」
 このひとは、身分的に組織的にではなく、人間的に自分を手に入れようとしているのか――と思いながら、何だか毒気を抜かれてしまって続くように、ふっと笑ってしまった。
「そんなに言うなら、とりあえず三年契約からでいいですかァ、」
 どうもこのひとのそばにいると、調子が狂うなと思いながら、そんな戯言を口走ってみせると楽しそうな笑顔のままこちらを向いた。
 それは見たこともないほどしあわせそうな表情で、このひとはこんな顔もするのか――、と思いながら何かを言いたそうに少し開いた口にそっと口唇を重ね合わせた。
 ひんやりとした口唇は、目を閉じた目蓋の裏側にきれいな群青色の海を見せていた。

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