【猿礼】箱庭-ミニチュアガーデン-

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

 上に乗るの結構すきなんです、とのんびりとした口調でいわれたとき、俺は一瞬意味が分からなかった。一拍おいて、「ああ、あんた騎乗位好きですよね」というとゆっくりと頷かれた。どうしてかをきいてみると、べつに受け身が主体の体位だからというわけではなく、下から突き上げられるのがいいといわれたのでこのひとはどこまで淫乱なのだろうとおもった。「下から突かれていると伏見くんの一生懸命な顔がみえるので、そこもすきですね」という。どうせ犯されてる感を楽しむなら、後背位の方がいいんじゃないかとおもったが、それでも騎乗位がいいらしい。そんなことを俺たちがはなしているのは、いわゆる事後という時間だった。ちなみに、ついさっきまでしていたのは正常位だ。腰を振りながら、なんでこのひと泣いてもグシャッてならねーんだよとおもっていた。セックスというものはもっとグズグズでグシャグシャになるもんなんじゃねえの、というのが俺のもっているかんがえなので、いつもこのひとが余裕綽々といった様子で抱かれているのがすこし気に食わない。いや、喘ぎ声は出すし、泣きそうにもなる。でも、全部を捨てきれていないのだ。俺はもっと感情をぶつけ合うみっともない行為がしたい。いままでこんなことをおもったことはなく、しかもこの食えない上司相手にそんなことを言い出せずにいた。あんたのみっともないところ全部みせてください、だなんて告白みたいなものいえるわけがない。
 時刻はまだ夜中二時で、窓から外を見下ろすと真っ暗いなかに車のライトが連なって光っているのがみえる。俺たちはシティホテルのスイートに泊まっている。いくらでもつかえるような給料があるので、本当はもっとグレードの高い部屋を選んでもよかったのだが、なんとなくそこまでするのは厭味っすねと俺がいったからダブルのスイートになった。部屋は黒を基調にまとめてあり、デザイナーズ家具らしきもので揃えてあった。俺はデザインや建築などは分からないが、それでも趣向を凝らしていることだけは素直に理解出来た。「ミネラルウォーターかスポドリでものみますか、」とききながら、そっとベッドから降りて冷蔵庫を開けた。そこにはアルコール類とミネラルウォーターとスポーツドリンクがきれいに等間隔をもって並んでいる。「夕飯のときに飲み残したワインがあったので、私はそれにします」といいながら室長もベッドを降りた。スプリングは鳴ることもなくただやんわりと身体を滑らせ、その長身を床に立たせた。ルームサービスで頼んだ飯は不味いものではなかったし、ワインは美味い部類にはいったのでふたりとも機嫌を良くしながらその後はセックスをしていたのだ。飲み過ぎると勃たないなどというが、俺は飲み過ぎることはないし、室長はいくら飲んでも萎えることはなかった。これは男の性というものなのかもしれないとふたりで苦笑をしながら、「あんたあれだけ飲んだのに勃つとか、おかしくないですかあ」と俺が揶揄ったこともあった。俺たちふたりは、公然のような秘密のようなそんな関係を楽しんでいた。入隊から短時間でナンバー3になったということは枕でもしているのではないかと悪し様にいわれたことがあるが、俺からしてみればまあ室長と寝てるのは本当だしそれでお気に入りになっているという理由も少なからずあるんだろうなとおもっていたから反論したことはない。ただ、侮蔑するように上から下までじろりとみるとそういった相手は大抵黙って消える。まあ、面倒なことを起こしたくないのでこのひとにそういったことがあったとはいったことはない。
 下着一枚の姿で椅子のすわりながらミネラルウォーターを飲んでいると、向かい側の席でグラスにワインを注ぐのがみえた。とぷとぷっ、と軽やかな音を立てながらグラスは四分の三ほど赤ワインで満たされる。ルームサービスを持ってきた客室係が、ワインの原産国などをいっていたがそんなことはすでに記憶から抜けている。ただ、グラスを持つ手がとてもうつくしい。端整だとでもいえばいいのだろうか、それは男らしい筋張った手と指と手頸だが、それでもしなやかさがわかるものだ。張り付いた皮膚は白く、まるで透き通っているようだった。宗像礼司という男は完璧な人間の象徴でもあるのではないかとおもえるほど、見事にどこも欠けた部分がない。男として地位もちからもある――そんなひとが、歳下の部下である俺に抱かれている。それはある意味、禁忌なのかもしれない。
「あんた、セプター4があと数ヶ月で解体するの、その後とかどーするんですか」
「そうですね……兄の負担を減らしたいので実家に帰るかもしれません。とはいえ、あの家で私は少々異質ですので素直にもどっていいのか迷いますが」
「あー、一人暮らしとかするんだとおもってました、」
「おや、そうしたら伏見くんが遊びに来てくれますか? ふむ、それならばそれも視野に入れましょう」
 そういいながら、グラスをゆらゆらと揺らしている。セプター4が解体されて無くなれば、自然とこのひととの縁も切れるのかもしれない、などとすこし感傷的になる。上司と部下でなければセックスをするような関係にはならなかっただろう、だから、別れるというのならばきれいに別れられればいい。
 ミネラルウォーターを飲んで一息つきながら、「俺、今日まだ満足してないんで、あんたがやりたいっていうなら騎乗位でしますけど」というと、楽しそうな顔つきになりながら「もう一回しましょうか、伏見くん」と返された。結局のところ、俺たちの関係はセックスで出来ている。仕事、セックス、それらのようなものたち。このひとは、俺が纏っていた半透明のヴェールめいたものを両手で破いてくれた男だ。どこへいても燻っていた俺に、存在することの意味と場所をくれたひと。ワインを飲み干すのをみたあと、俺たちはベッドへ戻った。
「で、今度はどうされたいんですか、」
 まるで誘導するかのようにそうきいてやる。ふたりとも下着一枚の姿のままで、室温計は二十一度を指している。爽やかな空気の流れる五月、それもゴールデンウィーク中だというのに俺たちはホテルにこもってセックスばかりしている。今夜はこのホテルに来て二夜目だ。せっかくのゴールデンウィークですし四日間、連泊しましょうといわれてついてきたものの、特にやることもなく俺たちはひりつくような感情を胸にかかえこみながら身体を交わしている。これが最後の関係かもしれないとおもいながら、俺たちはセックスをする。セフレなんて、片方が飽きたといったら終わりだろう、そうだろう。そんなことをかんがえながら、俺は至って平静を装う。本当はおもいきり抱きたいとおもっている。掻き抱いて、あんたがいなきゃ駄目なんだといって、俺のことを忘れないでくださいと縋るような声で叫べたらいいのかもしれない。だけれども、それは俺に似合わないし、そんなことが出来るわけがない。それはセフレの立場に許されることじゃないからだ。
「伏見くんと、お馬さんごっこがしたいです」
「……はあ? あんた、時々あたまのネジ飛びますよね」
「ですから、馬に乗るように上に、」
「単に騎乗位っていえばいいでしょう、てっきりSMみたいに馬にされんのかとおもいましたよ。で、自分で慣らすのと俺がやるのどっちがいいんですかあ」
 そういうと、自分で慣らすといわれたのでローションのはいっているプラスチックボトルを渡す。女のように勝手に濡れない身体にどうしてお互いここまで執着するのか分からないが、それでも俺たちはもう約千二百日はこういった関係をつづけている。三年以上、四年未満――それが俺たちの糜爛した日々だった。夜の公園でしたことも、室長室でしたことも、寮の俺の部屋でしたこともある。それなのに、俺たちはまだ足りないとでもいうかのように狂った。そうだ、これは狂っているといえばいいのか。俺もあんたも色情狂のように、ただ腰を揺すって快感を拾い上げる。
 キュッと音を立ててローションのボトルのキャップを開けて、てのひらに垂らすのがみえた。俺は下着を脱いでベッドに仰向けに寝そべりながらそれをみている。てのひらに垂らしたローションを両手に広げ、全裸になると俺の身体を跨いで膝立ちになって腕を伸ばす。きれいに均整の取れた腕は、すこしおぼつかないながらも自分の肛門に触れられたのかクチュクチュと音を立てながら、手を動かしているのが分かる。このひとの自分の欲に忠実なところはとてもいいとおもう。次第に慣れてきたのか、徐々に指を沈めるのがみえる。単なる排泄器官がこんなに快感を打ち寄せるだなんて、一体このひとはいつからしったのだろう。
「自分ですんの、きもちいいんすか」
「ふし、み、くんの指のほうが、きもちい、いです」
「あんた、本当にやるのすきですよね。正直、動物みてえとか最初の頃おもってましたー」
 そんなことをいっても、指を沈めて自分で快感を探っている最中のこのひとにはどんな言葉もとどかない。厭味だろうが、好意だろうが、なんであろうがセックスの下準備という行為に遮られてしまう。自分の指では体勢的になかなか届かないのがもどかしいのか、焦れるような難しい表情をしながら「伏見くん、」と呼んだ。呼ばれた意味なんて分かっているのに、わざと「なんですかあ、」と語尾を伸ばしてきく。普段は怜悧な目が、おおきく瞬いて「ふしみく、ん」と切なげに俺の名前を発音する。駄目なんだ。その呼び方は駄目なんだ。だってあんたの声が、たかがセックスに於いての声だと分かっているのに、まるで恋でもされているように脳裏にこびりついて剥がれなくなってしまう。
「俺、まだ勃ってないんでちょっと待って下さい」といいながら、自分の性器に片手を添えて根本から扱く。そうしていると、筋肉に覆われた太腿にひたひたとあたっておかしな気分になる。つめたく冷えた太腿は、べつにやわらかな女のものではない。それでも俺はこのひとに興奮するし、またこのひとも俺とのセックスに何もいわないでいる。当たってますね、といいながら楽しそうに笑われてしまった。あんたより若いし興奮してますから、といえば「じゃあ、もっとわたし、に、発情してください」と切れ切れにいわれる。発情とか、使う言葉も本当に動物みたいで笑える。だがしかし、俺はそれでも人間のなかに隠されている動物めいた直感でこのひとの傍にいることを選んだ。
 仰向けになったまま、性器に這わせた手を何往復もさせて自分のものを扱く。膝立ちになって俺の身体に跨った室長は、荒い息を吐きながら俺を見下ろしていた。いいことをおもいついたとばかりに、俺は自分の性器と室長のそれを二本合わせて扱いた。腰はギリギリまで落とされていたので、なんとかそれは成功した。「ひ、っ」と突然の刺激に引き攣るような声を上げられる。「これ駄目ですかぁ、」と気怠げにきけば、「だ、め、じゃない、です」と言葉が返ってくる。ローションはつけていない部位だというのに、二人分の先走りがだくだくと溢れてそこはぬめっていた。「グッチャグチャですね、俺のもあんたのも」とすこしふざけていうと、すみません止めないでください、とちいさな声でいわれた。このひとはいつだってセックスの際は被虐的になる。
 俺のものになすり付けるようにして、腰をゆるゆると動かすのがみえた。このひとのなにが、ここまでセックスという行為に走らせるのだろうかとおもえるほど、俺には意味がわからない。こんなものはただの性行為だ、それ以外ではない。だが、このひとが今更他の男とやっているのを想像するのはすこしつらい。べつに俺のものではないのに、独占欲というものが出てしまったのは確かな誤算だ。多分、俺は明言されていないもののセフレであろう立場であるだろうし、それ以上は望んではいけないのだ。ただ、ただ、このひとの身体に快感を与える相手であればいいのだろう。二本一緒に性器を扱いていたのがズルッと滑って、手から離れた。そしてそのタイミングで蕩けたような顔をした室長が「いれて、ください」といった。尻たぶを手で開き、自分で慣らされていた肛門に性器の先端を当てるとそこはローションと先走りでグチュッと音を立てた。「挿れますよ、さっきもしたんだからあんたならこれ以上ほぐさなくっても平気ですよね」といって、先端を半ば無理に押し込んだ。「う、ぁっ、」と低い声が漏れて、俺の上で身体が跳ねた。何度も、何度も、何度もこうやって俺たちはセックスという行為をしてきた。これが罪だというのならば、俺はそんなことをいうやつを殺してどこまでも落ちてやる。俺にはその覚悟が出来ている。
「ふし、みくん、きついです」
「今日一度してるんだから、これくらい大丈夫でしょう。あんただって、これ突っ込まれるのが好きなくせに」
 そういって、下からおもいきり深く突き上げた。最低限の照明しかついていない部屋のなか、薄っすらと身体の線が浮かび上がる。それはたしかに俺と同じ性別の身体を持っていて、寧ろ俺よりもつよい男のものだ。身体の上で、もうひとつの身体が背中を反らせながら跳ねる。「あ、あ、あっ、ふしみくん、」と俺の名前を何度も呼ぶ。このひとはセックスの最中に、すきだとかあいしてるだとか甘ったるい言葉を吐いたことはない。ひたすら喘ぐか、そこにいる相手を確認するかのように名前を呼ぶかのどちらかだ。べつに、甘い言葉を吐いてほしい訳ではない。それでもこのひとのなかに俺はいるのかということを確かめたくなる。
 何度も名前を呼ばれるので、奥へと性器を捩じ込む。そうしながら俺の腰の上で勃っている性器まで手を伸ばし、何度か根元から扱いた。下からみてもわかるくらい、欲情に蕩けた顔をしながら「あ、ぁっ、そこ、いいで、す」と呻くようにいう。ふしみくん、と何度呼ばれただろうか。そのたび、うるさいとおもいながらも俺はその言葉に反応する。呼ばれれば呼ばれるたび、俺は自分の下半身が反応していることに気付くのだ。発情してくださいと煽られて、本当にそうするとか俺も大概動物だなと自嘲しながら腰を擦り合わせた。俺たちはもう下半身に脳が直結しているのではないかとおもえるほど、単純に欲情して互いの身体を貪りあった。こうするのが好きだとおもっていたし、実際にこうするのが好きなのだろう、だから与えてやるのだ。俺にたくさんのものを与えてくれたひとに、俺が返せるのは身体くらいしかない。
「どーですかあ、俺の上で乗馬でもしてる気分なんでしょうあんた」
 気怠げにきいてみると、それどころではないのか「はっ、ぁ、」と息を吐いて喘ぐばかりだった。騎乗位が受け身主体の体位だというのは、本当なのだろうかとおもえるほどこのひとは俺の上で乱れている。筋肉のついた太腿を露わにしながら膝立ちになり、もう俺の形をおぼえてしまったのではないかというくらいに内壁をうねらせて性器を飲み込んでいる。女の身体ではないのに、俺の性器は確実にそこへ飲み込まれているのだ。排泄器官だということをふたりして忘れてはいないのだが、それでも男同士でのセックスには肛門を使うしかない。俺たちふたりにとって、そこは受け入れるための、そして挿し入れるための器官だった。ローションと先走りでベタベタになりながら、俺は自分の性器がどこまではいっているのか手を伸ばして指先でそれに触れた。間違いなく、性器は根本までぎっちりと埋め込まれており、これはさすがに苦しいだろうとおもえるほどだったがそれでも止めてくださいとはいわれなかった。寧ろ逆だ、俺はもっともっととねだられて肉襞のなかへ埋め込んだ性器ごと身体を揺すってやる。
「もっと、してくだ、さい。ふしみく、ん、の限界まで」
 そういいながら俺の性器を締め上げるこのひとは、インキュバスというよりはサキュバスに近いのではないのだろうかとおもった。ゲームなどでよくみるサキュバスのエロい衣装が似合う百八十五センチもどうかとおもうが、俺の妄想のなかではそんなことになっている。顔はきれいだし、女装でもしたら案外見映えのするものになるのかもしれない。そんなことをかんがえていると、「よそ見、しないでください」といわれた。
 してませんよ、といいつつ奥まで性器を捩じ込む。男同士のセックスというものはこのひとに教わったものだし、このひとで童貞を切ったのだ。だから特別におもいいれがあるとかではないのだけれど、それでもこのひとが引退して実家におさまるというのならばもう会えなくなるのだろうかとかんがえてしまう。
 会ってどうするんだとおもわなくもない。男ふたりでデートコースでも歩くのだろうか。それともまたいつものようにホテルに直行して、身体を重ね合うのだろうか。くだらない。先のことなんてかんがえすぎても、なにもいいことなんてない。少なくとも、俺はそうおもいながら生きている。
「どうしたんですか、」ときかれたので「べつに、どーもしてないです」といいながら、下から突き上げると悲鳴じみた声を上げられた。俺はこのひとの喘ぎ声が嫌いではない。低い喘ぎ声は、ひどく腰にくる。一般のAV女優などの可愛らしいといわれる高い声よりも、このひとの低く響く喘ぎ声のほうが俺はこのましいとおもっている。このひとで童貞切ってるし俺もやっぱりホモかよ、とおもいながらおもわず笑ってしまうと一瞬不思議そうな顔をされた。
 膝立ちになって腰を振ることに疲れたのか、ぺたんと俺の腰の上に座り込みながら「もう、無理です。乗馬ごっこ、は、終わりにしましょう」という。あんたが無理なら俺も無理ですよといいながら片手で根本から扱いてやり、俺はゆるゆると腰を動かしながら締め上げられる感覚を楽しんでいた。
「う、」と低く呻くような声を上げながら、俺の上に乗っているこのひとは射精にみちびかれようとしている。目蓋を閉じて、身体をブルッと震わせながら「伏見くん、いきそう、です」と告げる。べつに勝手に俺の腹の上に出せばいいでしょう、とかおもいながらもその律儀さが嫌いではない。次の瞬間、俺は腹に生温かな精液をぶちまけられるのが分かった。もったりとした白濁したそれが、腹の上から脇腹にツツーッと垂れる。今日一度、すでに嗅いだことのある匂いがした。腰の上でくったりとしている身体をベッドに横たえて、その際にズルッと性器を引き抜く。
「すみません、先にいってしまいました」というのをききながら、「いーですよ、そんなの」といって全裸のまま、ぺたぺたとバスルームへ移動する。腹にぶちまけられた精液を拭うだけならティッシュでもよかったのだが、自分の性欲処理もしたかった。決して本人の前ではいってやらない声音で「室長、」とつぶやきながら、俺は自分の性器を扱いてバスルームで吐精する。

「伏見くんと一緒に暮らしたら、毎日がとてもたのしそうですね」
「はあ、それはどーも。セックスの相性いいですしね、俺たち。でもあんたと暮らす予定なんかないじゃないですか」
 深夜三時半になった頃、俺たちはグシャグシャになったシーツの上で羽毛の薄い掛け布団をかぶりながら、ふかふかの枕にあたまを並べて会話をしていた。このひとの会話は唐突でどこが軸なのか時々分からない。が、それなりに筋はとおっているらしい。
「セプター4が解体されたらどうするのか、きみがきいたでしょう。それからずっと考えていたんです」
「俺と暮らしたら楽しそうだってことを、ですかあ?」
 そうですよとでもいわんばかりに、二度ほど軽く頷いて「そうおもいませんか、」といった。
 考えたこともなかった。朝も、昼も、夜も、同じ家のなかのパーソナルな空間にこのひとがいるということを。きっとそれは寮での生活とはまた違ったものに違いない。ふたりのための家具、ふたりのための部屋、ふたりのためのキッチン、ベッド、リネン、バスルーム、洗面所、玄関、その他もろもろの数えきれないものたち。
 夜はまだ更けている。しんとした五月の夜のひややかな空気が、俺たちふたりをつつんでいる。ベッドサイドにあるデジタル時計をみつていると、それはもう四時近くを指している。
「――暮らしましょうか、伏見くんと私のふたりきりで」
「それ、俺である必要ありますか」
「伏見くんとでなければ、私はこんなはなしはしませんよ。きみと私のふたりきりの家庭をつくりましょう」
 そういいながら、眠れないこどもにするように額にかかった髪を掻き分けてそっとおだやかなキスをされた。それは慈愛に満ち満ちている。青く深い海のようなひとだとおもった。それゆえに、底の知れないひとだとおもったこともあるが、そんなところがここちよく感じるようになるとはおもわなかった。
「了解しましたあ、」
 俺がそれだけいって背中を向けながら掛け布団に包まると、「きみがそういってくれて、私はしあわせものです」と背中から抱きつかれた。まだなにもはじまっていないというのに、このひとはこれだけでしあわせだといえるほど俺が好きなのか。俺は、このひとのことをちゃんと好きなのだろうか。そんなことをもそもそとかんがえていると、「ふたりでしあわせになりましょうね、たとえ私か伏見くんが将来死んでも、それでも好きでいましょう」といわれた。
「……そーっすね、あんたのこと嫌いじゃないんで死んでも覚えてるんじゃないですか」
 箱庭のような楽しいものばかりを詰め込んだそんな家庭がつくれたらうれしいです、といわれて俺はいままでの最悪な自分の家庭を思い出しながらそんなものがありえるのかと半信半疑になりながらも「箱庭、」とつぶいた。
 そうですよ伏見くん、楽しいものや嬉しいものやしあわせなことばかりを詰め込んだ夢のような、私たちふたりきりの家庭です――。
 そんなふわふわしたわたあめみたいな場所に俺はいてもいいのだろうか、不釣り合いではないのだろうか、もしくはそれは夢に終わらないのだろうか、などというさまざまな不安要素と期待をふくらませながら俺とこのひとは同棲することをこの五月の夜に決めたのだった。

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