【猿礼】冷たい身体に傷跡を

Hasmi/ 2月 28, 2018/ 小説

 書類にサインを頼みに行ったとき、指を伸ばされてシャツのなかにそっと差し込まれる。そこにあるのは――裏切りの証だ。
 目の前にいる上司――宗像礼司は、この傷跡に触れるのが好きらしい。
 以前、人の傷口に触れるだなんてとてもいい趣味ですね、と厭味たっぷりに言ってみせても、そうですかのひとことで終わってしまって別に気を悪くはしたことはない。
 そんな上司は、また今日も磨き上げられたマホガニーのデスクで、ジグソーパズルに興じていた。チッと舌打ちをして、「仕事してくださァい、」と言うと、「仕事なら、もう今日の分は片付けましたよ」と言ってにこやかな表情を浮かべる。
 鏡面のようになったデスクに、ジグソーパズルの枠と真っ白いピースを並べている暇があるなら次の仕事こなしてください、と思っているこちらの表情を見透かして少し笑ったようだった。
 どうもこのひとの笑い方が、あまり好きではない。
 何かを含んでいるとか、そういった場合もあるが、二人でいるときに見せてくるそれは単純に寂しそうだから苦手だ。という一言で片付く。
 その似つかわしくない笑みを見せられると、上司とか部下とかそういった立場を捨てて、このひとを泣かせたのはいつだったかなと思わず記憶を探ってしまう。
「ともかく、今日の分を片付けたと言っても、まだこれにサインもらってないです」
 そう言って、デスクの上に身を乗り出して書類の束を叩きつける。
 すると、まるで予定調和の行動だとでも言わんばかりに、骨格のきれいな細い指が伸ばされた。そして、毎回されるように物欲しげな顔でシャツの下にある徴の痕に触れてくる。
 初めて触れられたときには激しい警戒心があったが、それも次第に薄れていった。何でこんなものに敢えて触れたがるのかわからなかったが、対したことではないのだろうと思って聞かずにいる。
 最初は引っ掻くように、そして次は指の先で撫でるように傷跡にそっと触れる。
 それは、いつも同じような所作でもって繰り返された。
 手を戻そうとしたところを捕まえて、これはいつもの遊びなのだと思いながら問い掛ける。
「――誘ってるんですか、」
「ええ、伏見くんに不都合なようならやめますが」
 そう言いながらも、穏やかな笑みを浮かべて目線はこちらの傷跡へ向けている。
 どうにも食えないこの上司が、何を考えているかなんて知りたくないし、そもそも興味なんてない。それなのに、このひとは相変わらず包み隠した感情を押し付けてくる。それは、やわらかな布に包んだナイフのようなものだ。ひどく鋭利なナイフを隠し持ったひとなのだと、いつも会うたびに思い出す。
 そんなことを考えているあいだも、手を振りほどいてから何度か擽るように傷跡へ指を滑らされた。
 指がそっとふれると、傷跡の皮膚がいびつに引き攣れているのを否応なしに自覚させられる。平面を撫でていた指が、突然波打った皮膚に触れるからだ。若干ケロイド状になったそれは、数年前に指で引っ掻いたとおりの線が感情の亡霊のように走っている。
「サイン、するのでしょう?」
 いきなり言われたので、思考を分断されながらもそれが書類に対するものだと分かった。
 さっさとして下さい、と小言を言いながら資料の重要な点をザッと読み上げて署名をもらう。いつ見ても、その字は少しだけ右肩上がりだ。しかし、それは微細なことで全体は整っている――そんなことを思いながら手元を見つめていると、「そろそろ飽きませんか、」と呟くような声音で聞かれた。
 多分、それはこの関係についてなのだろう。ぐだぐだと傷の舐め合いよろしく、セフレにすらならない身体だけの上司と部下。もう二年以上も、つまらないほど乾いた関係をつづけている現状だ。
「室長、飽きるって何にですか――」
「伏見くん、君はまだ若いからか嘘が下手ですね。本当に言葉の意味が分からないくらい、もう私には興味すら無くなってしまいましたか。それとも、八田くんを抱くのとは勝手が違いすぎて手を出す気も失せたかと、」
 本当に八田くんのことが好きだったんですね、とのんびり話すのが厭わしくて、その隊服の襟をつかもうと手を伸ばしたはいいが、それは空を切って呆気なく捕えられた。
 端整な手に捕られた手は、少し引かれただけでもバランスを崩す。
 マホガニーのデスクの上に空いている片手をつき、内心舌打ちを繰り返しつつ、片手の解放を望みながら「離してください、」となるべく平坦かつ冷たい声で言う。
 俺はあんたに興味がないので離してください、という思いを込めた短縮系の言葉だ。
 そんな言葉を汲み取ろうとしないのか敢えて無視しているのか、つかまえた手を更に引き寄せると、そっと口に含むのが分かった。しっとりとした口腔内に入れられた指先、そのまま舌先で舐められて軽く甘噛みされると、ぞわりと全身の肌が粟立つ。
 何度もやんわり食まれると、その口腔内の粘膜のやわらかさや温かさに単純な欲求が身体に湧く。
 このひとといると、全身の細胞がざわめくのが分かる。
 認めたくないが、多分俺たちはどこか根底部分が似ているのだろう。
 頭のなかが情報処理に追いつかず、波のようにさざめくのが聞こえるような気がした。そのさざめきは、小さな頃から馴染んだもののように思える。思い出したくもない幼少期から今日まで、常に脳内に鳴り響きつづいている音のようなものだ。
 指と指の股をねっとりと舐められながら、それを掴んでいる手の冷たさに悲しくなる。このひとに初めて触れた日から、その体温は変わっていない。末端だけかと思いきや、どこもかしこもひんやりとしている男だ――その身体は、いつだってひえびえとしている。
 私はきっとこころが冷えているんです、とセックスの後に遊び半分教えられたことがあったが、その口調はとても寂しげで到底笑えなかった。
「――言いたいことは分かったんで、今夜行きますから」
 そう言って、食まれた手を振りほどくので精一杯だった。あまり、このひとと長く接触しているとその寂しさやかなしさも伝播してきてしまいそうで、ひどく恐ろしくなる。
「察しのいい子は好きです、」という言葉を背後に受けながら、書類の束を掴んで執務室を後にした。

 零時を回ってから、ひたひたと寮の廊下を歩いてあのひとの部屋を訪ねる。
 こんな時間だが、別に誰に見られても構わない。
 仕事の話をしに室長に会いにいくんで。そう答えれば、誰もが訝しむこともなく勤務時間外に熱心だと取られるだけだ。そういった意味合いでも、防音の利いている個室というのは都合がいいなと思った。プライバシーが守られているのか、守られていないのか分からない寮生活のなかで、あのひととの関係はいつバレるとも知れぬ秘密だった。
 あらかじめ渡されている鍵を挿し込み、ドアノブを回す。
 ドアを開けたところ、風呂上りなのか少し濡れた髪のまま和室で寛いでいる姿が見えた。
「遅かったですね、」と言う声が少なからず艶っぽいのは、多分酒が入っているのだろう。スリッパを脱いで上がり、どこに座ろうかと畳の上をうろうろと歩く。
 畳の上には日本酒の瓶が、三本ほど空き瓶になって転がっていた。
「明日もあるのに、飲みすぎじゃないですか」
「困りましたね、これくらい酔ってないと、君とセックスする良い言い訳が見つからないので」
「酒に頼る大人は苦手なんですけど、」
 そこまで言ってみせると、少し考えてから「君が私を苦手なのは、知っていますよ」と冗談とも本気とも付かない声で言われた。
「伏見くん、それに触れてもいいですか」
 その言葉が何を指しているのかなんて、聞かないでも分かる。
 隣に座り、「別に、どうぞ」と言うときれいな骨格の手が伸びてきて、するりとシャツのなかに入り込んだ。
 つつっ、と肌の上を滑るようになぞる指先が、やがて傷跡に触れる。
 皮膚の盛り上がりとへこんでいる部分が波打っている、徴を焼き潰したときに指を引いた線がそこには残っているという身体的事実。
 そんなところを、何度も何度も指先で撫でられる。
 やめてください触れないでください、と言えれば良かったのにその言葉は吐かれることなく霧散する。
 感情が溶け出したような目線で、傷跡をじっと見つめながら繰り返し皮膚をなぞられてから何分が経過したのだろうか。
 深々と諦念を吐き出すような溜息が聞こえた。
 諦念と執着に彩られたそれは、ひどくかなしい音だ。
 どうしたんですか、と聞こうとした瞬間、先に口を開かれた。
「私とセックス、してくれませんか」
 それは脈絡が無いようで、裏に隠されている。ちぐはぐなようで、整合性があるものだ。
「――じゃあ、まずあんたがその気にさせてくださいよ、」
 その為に部屋に呼んだというのに、今更何を言うのだと思ったが言葉には出来なかった。別に、上下関係があるからだという訳ではない。言葉は噤んだ方がいい時もある。
 その気にさせるとはどうすればいいのかを考えた結果なのだろう、ジーンズのファスナーを歯で噛んで下ろされた。このひとは、こういった俗っぽい仕草をどこで覚えたのだろうかと思いながら少し呆れる。やわらかな舌で、上下に舐められた。下着の布地の上から性器を舐めるものだから、唾液で濡れた布地がぺったりと張り付く感触がする。
 上目遣いでこちらを見ながら、舌を押し付けるようにして舐め回す。萎えていた性器が、緩やかに硬度を増し始める。それを尚も舐める歳上の男を見ながら、何だかオオカミと獣姦するみたいだな、などと思っていた。まあ、オオカミがどういった交尾をするかなんて知らないけれど。ただ、この動物じみた行為と、普段の姿の不釣合いさが思い起こさせるのは、雪原の獣だ。群れという組織を守る、圧倒的にうつくしい獣。神格化されるほどの、獣。
 下着をずらして性器を直に出してやると、それを待っていたかのように口を開けて咥えた。
 口を開けて頬張る瞬間、白くてきれいな歯が見える。ピアノの白鍵みたいなそれは、少しの歪みもない。
 以前男との経験を聞いたことがあったが、「こんなこと、初めてしました」と言いながらも丁寧なフェラをしてくれた。ただ、その後に「普段されていることをするというのは、こんなにも難しいのですね」と言っていたので、誰かと会っているであろうことは知っていたし隠そうともされなかった。一回、プレゼントに何がいいかと聞かれたことがある。女性ですか、と聞けば男性ですと答えられた。
 フェラはいままでしたことがない/逆に普段フェラをさせるような人間がいる/それは男なのだろう/この偏屈なひとがプレゼントなどを選ぶ相手――それを点々と繋げていけば簡単に対象は絞れたし、別に俺相手に隠そうという気もないのだろうと察した。
 きれいな白い肌の頬が、性器を頬張って歪に膨らむのを見るのは、いつ見てもややグロテスクだと思う。人間の器官というものはそれだけでグロテスクだが、生身のそれだけと、他人というものを介在させ隔てたものは違う。どうにも見ていて興奮するというよりは、ひどいことをしているような気分になる。そして、そんな考えとは裏腹に男というものは刺激を与えられれば大体勃つ。その単純さは、簡素なおもちゃのようでときどき苦しい。
 招き入れられた口腔内は、ぬるい温度に保たれている。それは架空の胎内であるかのような、そんな陳腐な空想が渦巻くほどのものだ。適温、湿度、蠢く粘膜――。ひどく懐かしいようで、記憶にないそれを与える男が脚のあいだに蹲っている。
 咥える際に、薄い口唇が引き攣れるようにめくれるのが、いつ見ても不道徳な印象を受ける。そうだ、不道徳という言葉はこのひとに相応しい言い方なのかも知れない。いつも一分の隙もないような着こなしと、底の読めない表情を張り付かせているひとが、歳下の部下の性器を咥えているというシチュエーションにはそんな古びた言葉が似合うのだろう。
 口に咥えられていた性器は、徐々に喉の奥を犯していく。苦しいのか若干噎せているが、それでも吐き出そうとしない。食道までも汚されていいのだろうかと思いながら、それでも毎回するように遠慮なく張り詰めた性器を突き立てる。内臓も、どこもかしこも、体液で汚れてしまえばいい。
「その気になって、もらえましたか、」
 やっと口腔内から性器を吐き出すと、そう問われた。
 それに頷くと、にこやかな笑みを返される。こんなときにも、このひとの笑みはいつもと変わらずにうつくしいものだ。
 和装の部屋着を、半ば無理に剥ぐようにして脱がせる。
 普段着に着物を着ているものだから、何だか時代がスリップしたようなおかしな感覚になるときがあるが、それでもいい加減慣れたので胸元に手を差し込んでから次いで帯を落す。緩く締められた帯は、簡単にするりとほどけて畳の上に曲線を描く。
 下着も脱がせて肌蹴た着物だけの姿にしてから、ローションどこですか、と聞いて枕元の抽斗だと言われたので畳を踏んで、布団を一足で跨いでから取りに行く。期待しているような視線を感じながら、ローションを取って戻る。
 ゆっくり頭を打たないように押し倒してからボトルのキャップを外し、とろみの強いそれを手のひらに出す。ひんやりとした感触のまま、碌に手で温めもせずに性器を握り込んだ。
 低い声で、「う、」と言うのが聞こえた。
 本当にこのひとはセックスというものに弱いなと思いながら、少し強めに握って上下に扱く。この春になってから畳を張り替えたのか、い草の仄かな青々しい匂いが部屋に漂っている。普段はそんな生活感などほとんど無いくせに、セックスだけは普通にしたがるような歳上の男。好きだとか嫌いだとか、そんな単純な区分けよりも、ただ少し食えなくて苦手なひと。そして、身体の相性は悪くない存在だ。
 部屋に響くくらい、ローションがぐちゃぐちゃと粘着質な音を立てる。それは勿論、わざとやっていることだ。
 形のいい膝を立てながら横たわり、だらしなく喘ぎ声を上げる姿が目の前にある。
 既に、ローションなのか先走りなのか分からないほどの液体にまみれ、思考が蕩けかけているような視線をしていた。禁欲的なのかと思いきや、一皮剥けばこうして非常に貪欲だ。このひとはギャップというものの塊で出来ているのかも知れない。
 喘ぎ声を聞きながら、ローションをもう少し手のひらに出して肛門に塗りたくる。ぬるぬると滑るそれを指で掬いながら、少しずつ指を侵入させる。
 顔を見ると、何だか困ったと言ったような表情のまま、こちらを向いているのが見えた。
 いつもこの瞬間が何だか気まずくて、毎回片手は指を入れながらもう片手は扱いて時間が過ぎるのを待っている。
 ただ、気まずいのはほんの短い時間で、この淫乱めいたひとは指を入れられただけですぐに発情する。繰り返し何度もセックスをして、前立腺を掠られる瞬間を身体が覚えてしまっているからだろう。
「も、っと入れても、平気ですから」
 おかしなセンテンスで息継ぎのような呼吸をしながら、そんなことを言う。
 それはもっと深く入れても平気なのか、指を増やして平気なのか、どちらともつかない。
 少し迷った末に指を増やし、前立腺を押すようにして刺激する。
 強い刺激に思わず上擦った喘ぎ声が上げられた。このひとの喘ぎ声は、どこか嗜虐心をそそるものだ。それは、とてもいい。
 散々慣らした後に、指を引き抜く。そうすると、これからのことを考えて目の前の男は震える。それは恐怖によるものではなく、快楽を貪ることを考えて期待に震えているのだろう。
 腰を押さえると、膝の裏、ひかがみを捕らえて体勢を整えてから徐々に挿入する。ローションを塗りたくられて、下半身はベタベタとしている。
 覆いかぶさりながら途中まで挿入すると、一際大きな喘ぎを上げて、身体を戦慄かせた。
「つづけても大丈夫ですか、」
「だい、じょうぶです」
 そう言われたので、別段遠慮なく突き立てる。
 そうだ、このひとは大人だ。歳上の、少しわがままなところのある、それでいて天然な男。その人間像が、計算尽くであるのかどうかなんて、知らない。ただ、俺はこのひとを犯せばいい。それを望まれて、こうしてこの部屋にいる。恋愛感情なんていうものは、ここには介在しない。ただ、あるのは都合のいい部下という立場だ。
「っは、あっ、」
 短い喘ぎ声が断続的に聞こえる。
 少し歪んだ顔が、それでもきれいで少し厭になる。このひとはいつだって、端麗というに相応しい。それは不可侵で、きっとこれから何年経っても変わらないのだろう。
「伏見くん、きつ、いです……っく、はぁっ」
「これくらい、いつも突っ込まれてるじゃないですか」
 根元まで押し込むと、さすがに苦しいのか眉根を顰めた。
 性器を扱いてやりながら、抉るように腰を動かす。扱きながら挿入していると、自ら腰を揺すっているのが伝わってきた。淫乱もいいところですね、と皮肉をいってやろうかと思ったが、余りにも意識が蕩けた顔をしているのでやめておいた。
 しばらく抽送していると、手を伸ばされて鎖骨の下に触れられた。
「触らせて、ください、」
「……どうぞ」
 挿入とともに身体を揺すられているので、少し手が震えながら傷跡に触れる。
 引き攣れたこれのどこが楽しいのか分からないが、勝手にさせておく。
 抽送を繰り返していると、少し上体を起こして傷跡の上に舌を這わせられた。傷を癒すような、そんな似つかわしくない触れ方だ。
 あんたはいま、誰とセックスしてるのか思い知らせた方がいいみたいですね。と言いたくなるほど、それは俺以外の誰かを見ている行為で、別にかなしくはならないが、いい加減面白くない。
 少しいらついたので、抱き寄せて肩を強く噛み、深く突き入れる。
 このひとはマゾヒストなのかと思うほど、噛まれるのに弱い。
「ふしみくん、」
 小刻みに揺れる声で名前を呼ぶと、数拍後に身体を震わせて射精するのが分かった。
 一気に脱力する身体に、何度か激しく打ち付けるようにして射精感が高まったので、ずるりと性器を引き抜いてくったりと寝そべっている腹の上に吐精した。
 腹の上には点々と白濁が散って、何かの模様のようにさえ見えた。
 ティッシュの箱を持ってきて、がさっと何枚か束にして掴んで渡す。自分の下半身も拭きながら、後で風呂に入らないと駄目だななどと思っていた。
 仰向けの姿勢から、起き上がると「君はいつもやさしいですね、」などと言われる。どこがやさしいというのかなんて分からないが、「はァ、」と適当な返事をしておいた。
 
 気崩れた和服を正しながら、残っていた酒を呑む姿を隣に座って眺めていた。
 さっきまであんなにもセックスに溺れていたというのに、このひとの切り替えはなんなのだろう。
 隣で足を崩して座っていると、「それは、特別なものなのでしょう」と言われた。
 それ、というものが傷跡になっている徴を指していることは簡単に分かった。
「……そんなことないですよ、」
「八田くんを見かけたとき、同じ場所にあったので特別なものなのかと思っていました」
「あー、それは過去、ですから」
 過去だと、少し嘘を吐いた。
 まだ美咲に執着しているのだと、自分でも感じているがそれを他人に指摘されるのは、何だか居心地が悪すぎる。
「彼が――周防がそれを君や八田くんに残したというのが、私はうらやましいのですよ」
 だって、それは消えないのでしょう。と言っている目が、痛々しいほど真剣だった。
 このひとは、いつだって周防尊を見ている。
 かつて抱いていた周防尊という男を脳裏に描きながら、やり場のない身体を持て余して俺に犯される。何とも倒錯した趣味だと思ったが、幾らなんでも無遠慮過ぎてそれを口に出したことはない。
「室長、飲みすぎじゃないですか」
 そう言うと、横にもたれ掛かられた。
 いつも冷えている身体が、酒のせいなのかほんのりと温かい。
「酔いたいんです、」
 苦しそうに吐かれた言葉が、春の夜に消えていった。
 もう一度、酔いたいんです伏見くん、と言いながら少しうとうととしているひとの髪を撫でる。
 王である前に、ひとりのひとなのだと思い知らされながら、その青黒く艶やかな髪を延々と梳いていた。

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